思い出のかけら
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秘めたる恋のゆくえ
馬車を降りたときにはすでに、デルカダール大劇場の入り口付近はひとりの若者による芝居を観るために来た人々で溢れかえっていた。
噂には聞いていたが、ものすごい人の数だ。まだ開演まで時間があるというのに。これだけの人を魅了するカミュなる青年は、いったいどんな役者なのだろう。
そんなことを考えながら、ホメロスは隣にいるビオラの手をとった。彼女は人の多さに圧倒されているらしく、どこか不安げにあたりを見回している。賑やかすぎる場所と人混みが苦手な妻は、少しでも目を離すとたちまち人の波に飲まれてしまいそうなところがある。なので、こうして年甲斐もなく手を繋いでおく必要があるのだった。だが、この手間のかかる感じもホメロスは意外と嫌いではなかった。妻の小さな手がちゃんと握り返してくるからだろうか。
入り口にいる係りの者にチケットを見せると、お待ちしておりました、とうやうやしく迎えられ、人の行列とは別の方向へと案内された。
ふたりに用意されていたのは、劇場の二階部分にあるボックス席だった。通常の観客席とは違って仕切られているため、高い場所から舞台全体を見下ろせる上にくつろぎやすいといった利点がある。
「わたし、こんなにいい席から観るの、初めてです……!」ビオラが珍しくはしゃいだ声をあげた。席の前にある手すりに手をついて、劇場のあちこちを見ている。
たかだかボックス席などではしゃぐとは、将軍の妻としてはふさわしくない行為なのかもしれないが、ホメロスは諌める気にはなれなかった。どうせ周りからはこの席の様子は見えないだろうし、なにより喜ぶ妻がかわいかったからである。「あまり身を乗り出すなよ。落ちるぞ」とだけ言った。
このような特等席は、ただ単に富裕層の観客が座るだけでなく、込みいった話をする場であるとか、逢引きの現場としても使用されている──だから劇場内であるにもかかわらずカーテンが用意されている──ことをホメロスは知っていたが、純粋に楽しんでいる妻の耳には入れなくてもいいだろうと判断した。
劇場を見渡すのに満足したのか、ビオラが隣の席に座った。
「それにしても……本当によかったのでしょうか」さっきとは打って変わってしゅんとしている。「カミュさんの舞台って、券がなかなか取れないんですよ。それをマルティナ様がやっとの思いで取られたのに、代わりにわたしが行くことになってしまって」
「気にすることはない。姫も、せっかく手に入れた券をただの紙きれにするのは忍びなかったから、私たちにくれたんだろう」
もともと今日のこの席は、カミュの大ファンだというマルティナが取ったものだった。その際にマルティナが王族として持つ「よしみ」は一切使われていない。彼女がカミュに対するファンとしての情熱と、ついでの運で勝ちとったものである。彼──マルティナは「推し」と呼んでいる──に関しては権力を行使せず、ひとりの人間として応援したい、というのが彼女の信条だった。ちなみに、臣下であるホメロスに対してはプライベートにおいても日々権力を振りかざしているが、それはまあ、そういう関係だから、で片付けられるのだろう。
そんなマルティナに急用が入ってしまい、残念だけどせっかくだからこっちはあなたたちが行ってきなさいよ、といって券を託され、現在に至る。
ホメロスは正直舞台にはあまり興味がなかったが、久しぶりに妻と出かけられるのはありがたく、マルティナに降りかかった急用にひそかに感謝した。
「……でも、マルティナ様、やっぱり残念だったろうなぁ……」ビオラがひとりごちるようにつぶやいた。マルティナの、楽しみにしていたことがふいになった無念さを想像しているようだ。
「それなら、彼女の分まで楽しめばいい。それに姫からはしっかり使いも頼まれているしな。あの方はおまえが思っているよりも相当たくましいぞ」本当は、図太いと言ってやりたかったが、我慢した。
ホメロスの言葉を聞いて、ビオラの顔に笑みが戻った。
開演を告げるベルの音が響き渡り、劇場内がゆっくりと暗くなっていく。それに合わせて、人々の話し声も消えていった。誰が見ているわけでもないのに、ビオラが姿勢を正した。それにつられて、ホメロスも一応背筋を伸ばした。
舞台の内容は、妹にかけられた呪いを解くために「勇者」を探してその相棒となる男の話だった。なぜ主役が勇者ではなく、勇者の相棒なのだろうと思ったのだが、すぐさまカミュの演技に魅せられ、物語に没頭していった。退屈ならカーテンを閉めてビオラと戯れていようと考えていたホメロスは、いい意味で裏切られた。
終演直後にもかかわらず、楽屋を訪ねてきた見知らぬ夫婦を、カミュは快く迎え入れた。
ホメロスがマルティナの代理で来た旨を伝えると、カミュは、そうでしたか、と屈託なく笑った。舞台の上とは違い、素の彼はまだ幼さの残るごく普通の青年のようだった。
「マルティナ様には長いこと応援してもらっていて」ホメロスから渡された色紙に自身のサインを書きながらカミュが言った。「宛名は『マルティナ様へ』で?」
「いや、『マルティナさん』がいいだろう。あの方は、君の前では普通の人間でありたいそうだから」
「あはは……なるほど」
カミュが宛名を書き足し、ホメロスに色紙を返した。
「あの……今日はすみません……。来たのがマルティナ様じゃなくて……」ビオラがホメロスの背後から顔を出して遠慮がちにカミュに話しかけた。人気の役者を前に緊張しているらしい。
「とんでもない! マルティナ様が来られなかったのはたしかに残念ですけど、オレはあなたに観ていただけて嬉しかったです」カミュが白い歯を見せながら答えた。こういうことをさらりと言えるところはさすが役者である。心なしか、ビオラの頬が赤くなった気がする。「どうでしたか、オレの舞台は」
「はい! とても素晴らしかったです!」ビオラが目を輝かせながら前に出た。「特に、勇者さんがぱふぱふ屋から出てきたときのカミュさんの『どうだった?』の表情がきらきらとしていて──」
「……ビオラ、そろそろ失礼しようか」ホメロスは努めて穏やかに言った。
劇場の入り口を出たところで、ホメロスは忘れ物に気づいた。
ビオラを先に馬車に向かわせて、自分は足早に楽屋のほうへ戻っていく。幸い、忘れ物は廊下に落ちていたので、人の手を煩わせる手間はなくなった。
そのときふと、楽屋から話し声が聞こえた。どうやらカミュの他にもうひとりいるらしい。それだけなら別に興味は持たなかったのだが、カミュの声が先ほどとは違うように感じた。今の相手には、単なる客人を相手にしているときにはない、特別な親密さが含まれている気がしたのだ。
悪いとは思いつつも好奇心には勝てず、ホメロスは少し開いたままの扉から中を窺った。
カミュが話しているのは、彼より歳下とおぼしき少年だった。やわらかい茶色の髪を肩の上まで伸ばしていて、背はカミュよりも少し高い。中性的な雰囲気をまとってはいたが、女性ではないのは明らかだった。
そして、ふたりはどちらからともなく顔を寄せ、唇を軽く重ね合わせた。控えめではあるが、どう見ても友人同士が挨拶にするキスではなかった。
彼らは愛し合っているのだ。同性同士の婚姻が認められていないこの世界で。
ホメロスは音を立てないようにその場を立ち去った。
帰りの馬車のなかでは沈黙が続き、馬車の揺れる音だけが響いていた。
ビオラは押し黙ったままの夫を不安そうにちらちらと見ていたが、やがて口を開いた。「ホメロス様、なにかあったんですか……?」
「……いや、なんでもない」と言ったものの、先ほどのふたりの姿を思い起こし、とてもひとりでは抱えきれないと思った。目撃したものには触れずに、疑問だけを口にした。「なあ、ビオラ。人は……たとえ結ばれることが困難であっても、心に決めた相手と一緒にいたいものだろうか」
いくらなんでも唐突すぎる話題に、ビオラを戸惑わせてしまいそうだったが、彼女のほうは特に気にならなかったらしく、「そうですね……」と考えこみ、しばらくして答えた。「わたしは、もし相手の負担になるなら、好きでも……いえ、好きだからこそ、身を引いちゃうかもしれません」
「……相手を想うがゆえに、別れる道もあると?」
「はい。遠くから相手の幸せを祈る、そういう愛もあると思うんです」彼女がさみしそうに目を伏せた。
ホメロスは再びカミュたちのことを考えた。彼らは一時の気の迷いでああいう関係を築いているようには見えなかった。間違いなく互いに本気だ。だとするならば、いずれ悲しい決断を迫られる日が来るかもしれない。
「……嫌だな」
「……え?」
「私はいてほしい。おまえに」
ホメロスはビオラの肩に手を回し、彼女の身体を引き寄せた。
ビオラは今度こそ戸惑っていたが、やがて安心したように夫の肩に頭を預けた。実はわたしもです、と小さな声で彼女が言った。
あの若いふたりは、これからどういう道を選んでいくのだろう。彼らがもがいた末に出した答えを、ホメロスはなんとなく見届けたい気がした。