コーヒーカップの底
Twitterくんに辟易した人物の末路
2023/03/02 22:14雑記
サイトを作ってから、”私”という個人を出す場を作る予定はなかった。適当に、書いた作文をジャンルごとに管理できる場所が欲しいという理由で開設したからだ。
私は普段、Googleのドキュメント機能を利用して文を書き散らしている。それは文字通り、書き"散らかっている"。もはや管理出来ないほど有様で、せめて書き終えたものだけでも、どこかに避難できないかと使い始めたのが、ほとんどROM専だったpixivだった。
pixivはジャンルごとにフォルダ分け出来ないのは不便だったが、タグというラベリングは出来たし、連載物というくくりをつければシリーズでまとめられたのが大変良かった。とりあえず、出来たものはpixivという箱に放り込んでいた。(pixivに載せるには不格好(文章量など様々な複合的要因)だと判断したものはぷらいべったーなど活用したが、長くなるので割愛する)
そんなpixivも、使いづらさや不信感が目立つようになり、ついに昨年本サイトをオープンした運びとなる。
色々と悩んだが、スマホからでも更新できるフォレストに腰を下ろすことにした。遥か昔の学生時代にもお世話になった、個人サイト作成サービスだが、令和の世になって里帰りすることになるとは思わなかった。
当時と違うのは、こうしてブロガーのようなまねごとをしているというところ。
基本的に私は長続きしない。ブログ黎明期の平成初期も多少手を出したが三日坊主で終わり、昨今はやっているソーシャルゲームも概ね三日も持たずに飽きてアンインストールしてしまう。
そんな飽き性な私が、10年以上も毎日継続して行ってきたことが米国発のソーシャルネットワークサービス、青い鳥ことTwitter。リアルもネットもコミュ障極まる私が、一時期は規制がかかるほど呟き、片時も離れることなく情報を追い続けるなどということをしていた。
まぁ、そんな異常性も10年も経てば落ち着きを取り戻し、一日に10程度の呟きをする程度には落ち着いていた。
しかし、莫大な情報が流れるTLは時間があれば眺めていた。これもTwitterで見かけた情報だが、ある意味での活字中毒だったんだろう。パッケージ裏の成分表や、看板広告の細かい文章。電光掲示板の流れる情報などを、逐一読むような人間だ。法則性のない煩雑で、ある意味でのカオスな文字が流れるTwitterというツールは、私のような活字中毒には丁度良かった。内容など正直いって、何でもよかった。陰謀論だろうが、意味を成さない叫びだろうが、ネットニュースの見出しでもAAだってよかった。
そんな活字中毒患者御用達のTwitterが、大きく変化していった。
フリートが登場し始めた頃合いからだろうか。
140字という限られた制約の枠を外れ、画像、文章、スタンプなどを駆使して、24時間で消える一枚の画像を流す機能が搭載された。
次に音声通話機能。使わない機能すぎて名前を忘れてしまった。これは通話というのか、虚空に向かってしゃべる言葉を盗み聞きするツールといえばいいのか……。
なにはともあれ、活字中毒患者にとってはあまりにも不要な機能だった。さらに言えば私は究極のコミュ障。他人に私という存在を認知されたくないタイプだ。他人の領域に、私という足跡が残るのが大変不快で仕方がなかった。
Twitterの向かう先に、私というユーザーは想定されていないというのが分かってしまったのだ。
ホーム機能も、私からしたら不要だった。
活字中毒のくせに、一人前にも見たい情報を選定していたのだ。まぁ、フォロワーの出す情報が読みたいからフォローしてるのであって、それ以外は興味がないというのが本音だ。Twitterにのめりこむ日々で、時間は有限だというのを痛く理解していたがために、無意識ながらにも興味関心の取捨選択をしていた訳だ。そんな心地の良いTLをホームという存在が突然やって来て散らかしてしまったものだから、心中穏やかではない。
ささやかな反抗として、Twitterアプリを更新しないという方策をとっていたのだ。
それが、後に悲劇を生み、このようになれないブログをしたためるはめになるのだ。
アプリを古いまま使用していた私は、ある日突然TLを読み込まなくなっていた。
冷静に考えれば、古いバージョンを使い続けていれば使えなくなるのは理解できる。ただそれは、なんのアナウンスもなく突然訪れたのだ。
10年以上使ってきて、こんなにも静かなTLは初めてだった。
新たにリストを作る気力もなく、必然的にTwitterから離れる事となった。10年にも続くツイ廃生活は、イーロン・マスクという為政者によって幕を閉じたのだ。
完全にTwitterから去ったという訳ではないが、それは置いて本題をサイトに戻そう。
『悠久少年』という我が城を得た訳だが、私は当初から更新頻度は低いと予想していた。
慣れない作業(サイト作成に至った出来事とは全く関係ない)や慣れない事をしたせいで、メンタル的に不安定になってしまったからだ。
他人の領域に足跡一つ残したくないほどのアルティメットコミュ障が複数人と共同して作業を行うと、メンタルは簡単に死んでしまうのだ。
あまりにも雑魚。なぜこの歳まで生き残れたのかが不思議なほどの脆弱っぷり。
とにかく、”私”という個を出すのが非常に苦手だったのだ。Twitter以外では。
そうTwitterがあるから、別に"私"を他で出す必要なんてなかった。
しかし、愚かな事にTwitterから追い出された今、私は"私"を見失いかけていた。
私の書く作文の中に私はいない。私は作文で私を表現することは無いし、これからもない。"私"という個はTwitter上に吐き出して初めて、私というキャラクターを認識できていたのだ。
私は自己顕示欲が皆無だと思っている。承認欲求もないし、ビュー数0でも全く気にしない。逆に感想を貰うと驚いて、見られていたのかと気づかされて恥ずかしくなり、該当作文を消したくなる衝動に駆られるような異常者だ。
私は他人に対する自己顕示欲も承認欲求も無いが、私は私の書いた感情を読まないと私ではいられない。言い換えると、『自分自身への承認欲求』だ。
私は不特定多数の誰かに向かって呟くのではなく、他でもない私のために呟いている。
だから、この文章もすべて私のために書いている。
Twitterに追い出された人間が、ここに日常を記録する。半分以上自分のためだが、生存記録として「ああ、今日も生きているんだな」と思ってくれたら幸いだ。
・『コーヒーカップの底』の方向性について。
ここをTwitterのように扱うことは考えてない。
月1~3回ペースで書ければいいなと思っている。
内容としては、読んだ本や見た映画の感想。旅先の思い出などを書ければと思う。
Twitterでやっていた事で、読書と映画視聴報告は10年続けてきた中でとても有意義だったので、ここでもしていきたい。
他は作文の裏話や、ちょっとした雑記も書ければ書きたい。
pixivとは違って、キャプションが無いので書くことがあれば、ここに。
多分あまりないので、期待はしないで欲しい。
ここまで書いてみて思ったのが、140字以上書けるというのは、存外気持ちいいということ。
正直に言おう。もし、他愛のない極個人的なこの文章を、ここまで読んだ人がいるなら、あなたも私と同じ重度の活字中毒だろう。
こんな文章は恥部でしかないので、読まないで欲しいが私はここでしか私を出せないし、私でしか承認欲求を満たせない愚かな人間なのだと、鼻で笑ってくれたらこれほどのことはない。
私は普段、Googleのドキュメント機能を利用して文を書き散らしている。それは文字通り、書き"散らかっている"。もはや管理出来ないほど有様で、せめて書き終えたものだけでも、どこかに避難できないかと使い始めたのが、ほとんどROM専だったpixivだった。
pixivはジャンルごとにフォルダ分け出来ないのは不便だったが、タグというラベリングは出来たし、連載物というくくりをつければシリーズでまとめられたのが大変良かった。とりあえず、出来たものはpixivという箱に放り込んでいた。(pixivに載せるには不格好(文章量など様々な複合的要因)だと判断したものはぷらいべったーなど活用したが、長くなるので割愛する)
そんなpixivも、使いづらさや不信感が目立つようになり、ついに昨年本サイトをオープンした運びとなる。
色々と悩んだが、スマホからでも更新できるフォレストに腰を下ろすことにした。遥か昔の学生時代にもお世話になった、個人サイト作成サービスだが、令和の世になって里帰りすることになるとは思わなかった。
当時と違うのは、こうしてブロガーのようなまねごとをしているというところ。
基本的に私は長続きしない。ブログ黎明期の平成初期も多少手を出したが三日坊主で終わり、昨今はやっているソーシャルゲームも概ね三日も持たずに飽きてアンインストールしてしまう。
そんな飽き性な私が、10年以上も毎日継続して行ってきたことが米国発のソーシャルネットワークサービス、青い鳥ことTwitter。リアルもネットもコミュ障極まる私が、一時期は規制がかかるほど呟き、片時も離れることなく情報を追い続けるなどということをしていた。
まぁ、そんな異常性も10年も経てば落ち着きを取り戻し、一日に10程度の呟きをする程度には落ち着いていた。
しかし、莫大な情報が流れるTLは時間があれば眺めていた。これもTwitterで見かけた情報だが、ある意味での活字中毒だったんだろう。パッケージ裏の成分表や、看板広告の細かい文章。電光掲示板の流れる情報などを、逐一読むような人間だ。法則性のない煩雑で、ある意味でのカオスな文字が流れるTwitterというツールは、私のような活字中毒には丁度良かった。内容など正直いって、何でもよかった。陰謀論だろうが、意味を成さない叫びだろうが、ネットニュースの見出しでもAAだってよかった。
そんな活字中毒患者御用達のTwitterが、大きく変化していった。
フリートが登場し始めた頃合いからだろうか。
140字という限られた制約の枠を外れ、画像、文章、スタンプなどを駆使して、24時間で消える一枚の画像を流す機能が搭載された。
次に音声通話機能。使わない機能すぎて名前を忘れてしまった。これは通話というのか、虚空に向かってしゃべる言葉を盗み聞きするツールといえばいいのか……。
なにはともあれ、活字中毒患者にとってはあまりにも不要な機能だった。さらに言えば私は究極のコミュ障。他人に私という存在を認知されたくないタイプだ。他人の領域に、私という足跡が残るのが大変不快で仕方がなかった。
Twitterの向かう先に、私というユーザーは想定されていないというのが分かってしまったのだ。
ホーム機能も、私からしたら不要だった。
活字中毒のくせに、一人前にも見たい情報を選定していたのだ。まぁ、フォロワーの出す情報が読みたいからフォローしてるのであって、それ以外は興味がないというのが本音だ。Twitterにのめりこむ日々で、時間は有限だというのを痛く理解していたがために、無意識ながらにも興味関心の取捨選択をしていた訳だ。そんな心地の良いTLをホームという存在が突然やって来て散らかしてしまったものだから、心中穏やかではない。
ささやかな反抗として、Twitterアプリを更新しないという方策をとっていたのだ。
それが、後に悲劇を生み、このようになれないブログをしたためるはめになるのだ。
アプリを古いまま使用していた私は、ある日突然TLを読み込まなくなっていた。
冷静に考えれば、古いバージョンを使い続けていれば使えなくなるのは理解できる。ただそれは、なんのアナウンスもなく突然訪れたのだ。
10年以上使ってきて、こんなにも静かなTLは初めてだった。
新たにリストを作る気力もなく、必然的にTwitterから離れる事となった。10年にも続くツイ廃生活は、イーロン・マスクという為政者によって幕を閉じたのだ。
完全にTwitterから去ったという訳ではないが、それは置いて本題をサイトに戻そう。
『悠久少年』という我が城を得た訳だが、私は当初から更新頻度は低いと予想していた。
慣れない作業(サイト作成に至った出来事とは全く関係ない)や慣れない事をしたせいで、メンタル的に不安定になってしまったからだ。
他人の領域に足跡一つ残したくないほどのアルティメットコミュ障が複数人と共同して作業を行うと、メンタルは簡単に死んでしまうのだ。
あまりにも雑魚。なぜこの歳まで生き残れたのかが不思議なほどの脆弱っぷり。
とにかく、”私”という個を出すのが非常に苦手だったのだ。Twitter以外では。
そうTwitterがあるから、別に"私"を他で出す必要なんてなかった。
しかし、愚かな事にTwitterから追い出された今、私は"私"を見失いかけていた。
私の書く作文の中に私はいない。私は作文で私を表現することは無いし、これからもない。"私"という個はTwitter上に吐き出して初めて、私というキャラクターを認識できていたのだ。
私は自己顕示欲が皆無だと思っている。承認欲求もないし、ビュー数0でも全く気にしない。逆に感想を貰うと驚いて、見られていたのかと気づかされて恥ずかしくなり、該当作文を消したくなる衝動に駆られるような異常者だ。
私は他人に対する自己顕示欲も承認欲求も無いが、私は私の書いた感情を読まないと私ではいられない。言い換えると、『自分自身への承認欲求』だ。
私は不特定多数の誰かに向かって呟くのではなく、他でもない私のために呟いている。
だから、この文章もすべて私のために書いている。
Twitterに追い出された人間が、ここに日常を記録する。半分以上自分のためだが、生存記録として「ああ、今日も生きているんだな」と思ってくれたら幸いだ。
・『コーヒーカップの底』の方向性について。
ここをTwitterのように扱うことは考えてない。
月1~3回ペースで書ければいいなと思っている。
内容としては、読んだ本や見た映画の感想。旅先の思い出などを書ければと思う。
Twitterでやっていた事で、読書と映画視聴報告は10年続けてきた中でとても有意義だったので、ここでもしていきたい。
他は作文の裏話や、ちょっとした雑記も書ければ書きたい。
pixivとは違って、キャプションが無いので書くことがあれば、ここに。
多分あまりないので、期待はしないで欲しい。
ここまで書いてみて思ったのが、140字以上書けるというのは、存外気持ちいいということ。
正直に言おう。もし、他愛のない極個人的なこの文章を、ここまで読んだ人がいるなら、あなたも私と同じ重度の活字中毒だろう。
こんな文章は恥部でしかないので、読まないで欲しいが私はここでしか私を出せないし、私でしか承認欲求を満たせない愚かな人間なのだと、鼻で笑ってくれたらこれほどのことはない。