◇短編
いつもの定時報告。本日の視界は晴れ。異生体からの襲撃は1週間ほど続いていない。戦術諜報部の予測部門からの襲撃予測もしばらくは“晴天”の予報だ。
敵性生命体も休眠期に入ったのだ。本日、予測部門から正式に通達が降りた。今日の定時報告で一番の大ニュースになる。
我々人類は長い戦いの歴史の中で、異生体の活動に一定のサイクルがあることを見出した。相変わらず出現元の特定は出来ていないが、休眠期を見つけ出せたのは非常に大きな成果だった。今では軍部でも休眠期に休みを取る人がいるくらいに、予測の精度は上がっている。予測すら出来ず、常に警戒態勢であった旧体制からは想像もつかないだろう。
この宙域を守護している本艦の中でも最高権力者である衛藤昂輝中将は、目を伏せながら静かに報告を聞いていた。
「今季は少し休眠期がズレたな」
「はい。予測部は昨年に起きた大規模な太陽フレアが影響していると推測しています。関係性は研究中ですが、過去のデータと比較しても可能性は高いと思われます」
「分かった。これより本艦隊の体制を平常から、緩和措置へと移行する。哨戒シフトの再編令を各部隊へ伝達してくれ」
「了解しました」
手元のタブレットを操作し、文案を読み込む。休眠期がずれ込んだ分、迎撃態勢期間が長かった。この知らせはみんな喜ぶだろう。脳裏に同期の喜ぶ顔が見える。
「少尉」
ふと呼ばれて顔を上げる。中将の鋭い瞳が長い前髪の隙間から覗いていた。中将は視線も鋭いし、表情も崩さない方だ。前に朱雀の人に聞いたが、青龍の旗下にいない人からは怖がられているらしい。
「ようやく訪れた休暇だ。貴官も休むと良い」
そう言う中将の口元が僅かに上がっているように見えて、胸の奥が弾んだ。この人は見た目で損しているタイプだ。こうして任務で言葉を交わすようになって、だいぶ印象が変わったように思う。
「はい。ありがとうございます」
「あと3日ほど私も留守にする。私が居ない間は全て桜庭中将が対応する。問題はないと思うが、緊急の様があれば2番の非常回線を使うように」
「了解しました……中将も休暇ですか?伺っても?」
今から思えば、大分浮き足立っていたのだろう。余計な質問だった。差し出がましいにもほどがある。この段階で叱られなかったのは、おそらく中将も浮足立っていたのかもしれない。
中将は少し悩むように視線を泳がせると、長い指先を足元へ向けた。
「……地上ですか?」
「ああ。地上へ行ったことは?」
「本官はありません」
自分は宇宙生まれ宇宙育ちだ。一定の年齢以上の人は地上出身者であることが多いが、今は殆どがここで生まれている。
「地上に興味は?」
「……無いと言えば嘘になります」
「自動車の運転許可は?」
「取得しています」
「ふむ……」
妙な雲行きをひしひしと感じる。中将の事は心の底から尊敬している。指示は的確で、判断も早く損失も少なく済む。本艦に配属されて中将の近くで勤務するようになってから、その感情は増々高まった。
近くになるにつれて気付いたこともある。
「貴官が嫌でなければ、一緒に降りてみないか?」
この方は時々とんでもなく突拍子の無い事を言い出すという事だ。
1
地上行きのターミナルで中将を待つ。約束した時間の20分前に中将は姿を現した。見慣れたかっちりとした青い軍服ではなくゆったりとしたシャツにグレーのスラックスといったラフな恰好に、やや長めの髪も後ろの方で緩くまとめられていて思わず目を見開いた。中将は逆で、本官の姿を見て眉をひそめた。
「少尉、まさか軍服で来たのか?」
「は。一応、中将の御伴として本官はここにおりますので」
「……せめて上着は脱いだ方がいい」
中将はそう言い残すと、ターミナル内のカウンターへと向かっていく。本官は少し悩み、上着を脱ぐことなくその背中を追った。
数時間後、その判断をすぐに後悔することになる。
地上はとても眩しかった。目の奥に光が刺さる。宇宙空間の方が太陽光は直接注ぐはずなのに、やけに眩しく光が肌に刺さるような感覚に陥る。乾いたコンクリートパネルに汗が落ちて、ようやく暑いのだと認識した。
「暑いだろう?丁度地上は夏季なんだ」
本官の隣で、中将が涼しい顔でそう言った。中将が薄着をしている理由に合点がいった。宇宙 では四季が無いから、気にしたことなんてない。思えば足元のざらつきも、空気の埃っぽさも感じたことのない感覚でぞわりと肌が泡立つ。
「少尉、首元ぐらい緩めた方が良い。初めての夏は堪えるだろう。今タクシーを呼んだから、少し休め」
近くでタイヤの鳴る音がした。いつの間にか車を呼んでくれたようで、黄色のボディが視界の端に映る。これ以上は迷惑を掛けられないと、思い切り上体を上げれば、脳の奥が揺れてその勢いのまま後ろに倒れてしまいそうになった。その背中を中将の手が支えた。
「無理はするな」
目の前の開いた後部座席へ押し込まれ、持ってきた荷物も中将の手によって手際よく詰め込まれ、気が付けばもう既に車は発車していた。車内は涼しく、見慣れない地上の景色を背後へ押しやりながらようやく一息つく。
「すみません……お手数をおかけして……すぐに慣れますので」
折角誘っていただいたのに地上に降りた直後にこの失態だ。恐る恐る中将の様子を伺えば、愉快そうに本官を見ていた。
「気にするな、初めて地上に来た者は皆慣れぬ環境に倒れそうになってしまうものが大半だ」
「……皆?」
「ああ、何度か宇宙生まれの部下を連れてきている。熱にやられるのは少尉が初めてという事はないから、気負うな」
色々と呆気に取られてしまい口が動かない。多分、中将は本官を気遣ってくれているのだろう。宇宙では見たことのない柔和な笑みを浮かべて、じぃとこちらを観察するように眺めている。
中将が自分の首元を指さした。
「せめて緩めたまえ。ここは宇宙じゃないのだから、気楽にすると良い」
少し悩んで、そっと車内から外へ視線を向けた。アスファルトの遠くが歪んで見える。まさか熱気で歪んでいるとは思いたくないが、背筋に嫌なものを感じ、そっと喉元のボタンを外した。
車はかなり進んだと思われる。軌道エレベーターのあるターミナル周辺は建造物が多く、宇宙と地上を繋ぐ出入り口だからかとても栄えていた。そこからバイパスを通り、人通りの無い道を抜けた。ターミナルほど高くないビル群が並び、コンクリート剥き出しの建物が連なる。地方都市というところだろう。栄えてはいるが、人通りは薄い。車はとあるホテルの前に止まった。
中将は車を降りるとホテルの方へ向かっていく。その背中を追った。
扉を抜けた瞬間、冷気が頬を撫でた。中は外見とは違いしっかりとした作りのようで天井は高く、真っ赤なカーペットに豪奢なランプが吊り下げられている。カウンターは顔が映るほど綺麗に磨かれていて、細かなところにも手入れが行き届いているようだった。
ロビーには人も多く、中には軍服を着ている人もいる。客層からもここは高所得者向けのホテルなのだろう。
「少尉」
「はい」
「君は俺の隣の部屋だ」
目の前に差し出されたルームキーを受け取る。部屋番から察するに14階らしい。
「ここからは明日まで自由行動にしよう。観光しても良いし、休んでも構わない。明日は貴官にお願いしたい事があるから、早めに休んだほうが良いかもしれないな。レストランは3階にあって営業時間は23時まで。併設のカフェは24時間営業らしいから、いつ行っても構わない。チェックアウトは10時からだが、明日は少し早めの9時頃にここに来てくれ」
マシンガントークとは言わないが、ルームキーを受け取ると同時に色々と言われた。言葉の意味を理解する前に脳内に叩き込む。職業軍人が身に沁みていて良かった。
「あ、あの、中将はどちらへ」
去りゆく背中に慌てて投げ込んだ言葉は、返されることは無かった。
2
初めての地上。寝起きは良くなかった。
やはり重力が慣れないのだろう。ずっと同じ圧力が身体にかかっていて、少しばかり空気が重たいようにも思う。宇宙では常に一定の重力が長時間かかることはあまりないからどうにも身体がついてきていない気がする。
地上に来て良かったこともある。ご飯が異常に美味いのだ。見た目も食欲をそそるし、香りも最高だ。パンはカチカチじゃないし、何かのパテも保存料の香りが全くしなかった。合成肉以外の本物の肉を食べたのだっていつぶりだろう!
朝食をお腹いっぱいに詰め込んで、荷物をまとめてからロビーへと向かう。予定時刻の10分前だというのに、中将は既にそこにいた。昨日と同様、ラフな格好だ。
「おはよう。朝ごはんはちゃんと食べたか?」
「はい、たくさん頂きました」
「ふふ、それは何より」
中将に微笑まれて、妙な気恥ずかしさを覚えた。宇宙では食べれない物を前に、子どもみたいにがっついてしまったことを見破られたのだろう。
「少尉に頼みたいことがある」
そう言えば昨夜もそのようなことを言っていた。何をと問う前に、目の前に丸いキーホルダーのようなものが差し出された。それが何かを理解した瞬間、中将が何故本官を連れてきたのか分かった気がした。
前後左右を確認しながら両手でしっかりとハンドルを握る。地上での運転は初めてだが、操作感は母艦の整備車両とほぼ同じだ。しかし交通法規は異なるから、教本を思い出しながらの運転になる。
助手席に乗っている人が人だから、絶対に事故は起こせない。運転をする以上のプレッシャーを感じながら、横に視線を向ける。中将はペーパードライバーである本官の運転に特に疑問も抱いていないようで、のんびりと窓から外を眺めていた。見慣れた軍服ならいざ知らず、ゆったりとした私服だとかなり印象が変わって見える。
「しかし、意外でした」
「免許を持っていないことがか?」
「い、いえ、すみません。そう言うつもりでは……その、中将は何でも出来るイメージがありましたので……」
「残念ながら、俺は出来ない事の方が多いよ」
そういう中将の声音はやや自嘲気味だった。自動車の運転のために部下を連れてきた事の負い目だろうかと思ったが、その言葉にはそれだけじゃない、なにかの含みがあるように思えてならなかった。
その後は細かな雑談を交えながら、車を走らせた。地方都市を抜けてひたすら郊外へ向けて車を進ませる。途中で昼飯を兼ねた休息を取り、再び中将の指示のもと車を走らせる。最初は多少あった車通りも気付けばほとんどなくなり、たまに対向車とすれ違うだけになった。
遂には舗装もなくなり、道路とも呼べないような山道を、がたがたと激しく車体を揺らしながら進んでいた。あまりの揺れに、艦隊戦を思い出す程だった。
山間部に突入した辺りから道なりに進んでくれとしか言われず、中将がどこへ向かっているのか分からなくなってしまった。横目で中将の様子を伺っても、ずっと窓から外を眺めているばかりで、表情は分からない。
ようやく木々が薄くなり、視界が開けた場所が出てきた。広場……とは言えないが、程よく平らな場所であり、正直狭い山道での退避場所だろうと思った。
「そこに停めてくれ」
中将の指示に従って退避場所の隅に車を停める。降りてようやくそこが駐車場だと気がついた。自然に還りつつある草むらの中に、駐車番号の書かれた看板を見つけたからだ。退避場所だと思っていたから、車は駐車枠を無視して停めている。
「あっ、すみません!横付けしてしまって」
「気にするな、どうせ誰も来ない」
中将はこちらを見ることもなく、駐車場の端へ向かっていった。気になることはたくさんあったが、慌ててその背中を追う。昨日からずっと中将の背中を追ってばかりだ。
中将は背丈近くある草をかき分けて進んでいく。草を踏むたびに独特な変な臭いがするし、頭の奥に響くような雑音も不快だ。木々のせいで辺りは薄暗いし、嫌な恐怖を感じる。
「少尉、足元に気をつけろ。ここから階段になる」
中将の指示通り、足元を見る。土と草に覆われていたが石造りの階段があるようで、それは下へ伸びている。石造りの階段は慣れない。一段一段高さが違い、進むたびに滑って転びそうになるが、それは軍人の意地でなんとか堪えた。
獣道が階段になってそう時間もかかっていないはずだ。急に視界が開けた。鬱蒼と茂って薄暗った藪に、陽の光が差してきたのだ。
昼時を超えているからか、その陽射しは強烈だった。視界が真っ白に染め上げられ、瞼を開くことすらままならない。手でそれを遮り、目を細めて前を向く。前を歩中将の背中越しにそれは見えた。
開けた広いエリアに成形された石が等間隔に並ぶ。宗教や地上の文化に馴染みがなくてもこればかりは知識として理解している。ここは墓苑だ。
胃の奥のほうが急に重たくなる。少し下れば石畳が現れた。墓苑の入口付近には小さな倉庫があり、あまり手入れがされていないようで半ば朽ちている。
中将は慣れた手つきで倉庫の中を覗き、箒とちりとりを取り出した。
「あの、手伝います」
「ならそこの手桶に水を汲んできてくれ。奥の方に井戸がある」
倉庫の隅に山積みにされていた手桶を取った。取り出したとき白い粉が大量に足元に落ちたが、気にしない事にした。正直宇宙生まれには、地上はあまりにも刺激が強い。
倉庫の裏手に周り、井戸を探す。いまいち井戸というのがピンと来なかったが、”水を汲む”という文脈で判断した。
倉庫の裏手にそれっぽい人工物があった。金属のパイプに弓なりの金具がついている。それを動かすのだろうという事は見た目から判断できる。後は簡単だ。手桶を用意して、取っ手を動かす。最初茶色の水が出てきて驚いたが、何度か繰り返すと良く知る透明の水になった。
手桶の中を綺麗な水で満たし、墓苑の方へ向かって辺りを見回す。ここにいる人間は本官らしかいない。墓苑の中央やや高台の方にその姿を認めた。
中将の方へ向かう最中で気付いたことがある。この墓苑は手入れが殆どされていない。雑草が生い茂り、墓前に置かれた祭具は風化して割れている。墓としての体裁を保てているものはまだいいが、墓石自体が欠けていたり、倒壊して隣区画を巻き添えに破壊しているところもあった。
本官は荒れ果てたそれらから目を逸らして口を閉じ、真っすぐ中将の方へ向かう。
中将は髪を後ろに束ね、腰を曲げながら区画内に生えている雑草を引き抜いてはちりとりのなかに放り投げている。中将の目的の場所は、他の場所より荒れていなかった。むしろ綺麗だとも思う。墓石は多少汚れているように見えたけど、どこも欠けていないし掘られている文字もしっかりと読める。思わず息を呑んだ。その名前は———
「本官は……この方を存じています」
中将は何も言わなかった。
3
35年前に起きた『彼ら』による外宇宙からの大侵攻。当時は惑星の大半が制圧され、人類の2/3が命を失ったとも言われるジェノサイドだった。それは『人類滅亡までの最後の年』とも呼ばれていた。
それが『奇跡の年』と呼ばれるようになったのは心獣と適合し、『彼ら』への対抗力を手に入れたからだ。適合者と呼ばれた人々は迫りくる敵を倒し、戦線を外気圏の先へと追いやることに成功した。
現在は惑星軌道上に前線基地を設け、敵の調査や迎撃。次世代の適合者の育成を行っている。
文章にすると酷くあっさりだが、この35年間で人類が滅亡するタイミングはいくつか存在した。そのたびに犠牲は増え、この惑星 は傷跡を広げては見て見ぬふりをして今に至る。
大原空大将。彼はこの長い戦いの殊勲者であり、一番最初の犠牲者だ。この方を筆頭に、多くの適合者が戦いで命を落としている。
軍学校では一番最初に当時の歴史を学ぶため、卒業生で彼らの名前を知らない人はいないだろう。
掃除を終え、一息つく。墓前には何もない。まさかかつての英雄の前に来るとは思っていなかったから、知っていれば何かを用意したのにと思わずにはいられない。
思えば不思議な事に、中将も何も持っていなかったように思う。旅行鞄は車の中に入れっぱなしだし、通信デバイスだけで基本的な荷物は何もない。
宗教の作法に疎いせいで、この後どうしたらいいのか分からない。手持無沙汰で立っていると、中将がぽつりと呟いた。
「正直な事を言えば、ここには誰もいないんだ」
中将はくるりと墓石に背を向けると、手前の丁度塵を掃いて綺麗にしたばかりの石段に腰を下ろした。
「首都に、慰霊碑があると伺っています」
戦線を外気圏へ押しやった年、壊滅状態であった地上の復興が開始された。その際に生存戦争で命を落とした兵士たちへの哀悼と、復興への祈りと覚悟を込めた慰霊碑が作成された。それは首都のターミナルに設置され、現在進行形で名前が追記され続けている。
本官の言葉を聞いた中将は微かに笑いながら「そうだな」と微笑んだ。
「当時、みんなで考えたんだ。空はどこにいるのだろうと。慰霊碑があるとはいえ、縁もゆかりもない首都は違和感がある。そこで、空の故郷からほど近いところにこっそりと墓を作ったんだ。ここは景色も良いから」
細められる視線の先へ釣られるように向けた。山がぱっくりと裂け、その間から薄花色が溢れている。日が落ちようとして、地平に陽が滲むほど本官の頭上は色濃い青に変化していた。
地上から見る宇宙 を初めて見た。なんて色鮮やかで、とても眩しいのだろうか。
石段に座りながら太陽が山肌を橙に染め上げていく様を眺めている。夜を目前にした地上はこれから暗くなっていくはずなのに、やけに明るく見えるのが奇妙だとなんとなく思う。
赤く染まる中に、墓石を前にぼうと立ち尽くす中将を遠くから眺めていた。一人きりにして欲しいと頼まれたから。だから遠くからそっと眺めている。
表情は陰で何も見えない。口元が動いているようにも見えない。何も考えていないようにも、深く考えこんているようにも見える。
本官の記憶によれば、大原大将の遺体は回収されていない筈だ。首都の慰霊碑にも、ここにも彼 の人はいない。中将は空っぽの墓石の前で何を思っているのか。本官には分からないことが多い。
影が伸びきる頃、中将が何かをポケットから取り出した。口元へ持っていきそれを引き抜く。口先に火が灯り、それが何なのか認識した。
まだ日は残っている。暗闇になる前に中将は戻ってきた。
「帰ろうか」
そう告げた中将からは、何の香りもしなかった。
帰りの車の中、車のヘッドライトが照らす明かりしかない道をひたすら進む。昼間ですらほとんど無かった車通りだ。夜になると本当に誰もいなくなってしまった。道路脇に街灯はあるのに、電気が通っていないのかそれに明かりが灯ることはない。僅かな星明りが白いセンターラインを示してくれる。さすがに星空は宇宙 から見るものとそう変わらない。すこし、闇が濃いかな。
助手席に座る中将を横目に見ると、来た時と同じように何も見えない窓の外を眺めていた。
「その、喫煙者だったのですね。シガータブを噛んでいる姿を見たことが無かったので、意外でした」
この時間をどうすればよかったのか分からなかった。失礼だったろうかと思った時には既に遅くて、中将はこちらを見つめていた。
「いや、どちらかと言えば好きじゃないかな」
「……なら何故……?」
墓前で口に咥えていたのは紙タバコじゃなかったのか?夕日には空中に吐き出された煙の影も見えていた。見間違えだろうか。
中将は再び窓の外へ視線を向ける。黒塗りのガラスに反射して映った中将の表情は穏やかで、どこか遠い記憶を漁っているようでもあった。
「……大昔の話だ」
そう前置きをして、一つ息を吸う。
「俺と空は心獣、青龍と適合した同期だった。同じ戦場で、同じ戦火を共に潜ってきた戦友だ。当時はほぼ毎日戦場で命を落とす仲間がいて、いつ襲われるとも分からない。休まる瞬間の無い日々だった。そんな中でも空は笑顔を絶やさなかった。いつも前を向き、皆を鼓舞していた。そんな彼を、俺は尊敬していた。
そんな彼の別の顔を見たことがあるんだ。まだ、地上に防衛線を敷いていた時だ。今日みたいな晴れた雲の無い夜。艦橋の一番上の先で、一人で佇んでいる姿を見た。今も、あの夜を忘れられない。眠れなかった俺は、空の下へ行った。そこで空がタバコを吸っていたんだ」
「大原大将は、喫煙者だったんですか?」
「いいや、違う。一緒にいた時間は長かったけれど、そんな姿は見たことがない。当時の俺も驚いて同じような事を聞いたんだ。そしたら遺品だと言われた。空に良くしてくれた隊員の一人の持ち物だと」
中将はポケットから箱を取り出した。箱はくたびれて潰れかかってる。宇宙 は火気厳禁だし、銘柄には詳しくないからどういうものなのかは分からない。見た限りパッケージデザインは古そうなものだった。
「一緒に弔いたいと空に言うと、快く一本分けてくれた。美味しいとは思わなかった。空も同じ気持ちだったようで、一口吸ってずっと手に持っているだけで、俺も大概一緒だった。黙って昇っていく煙と、夜空を眺めていたんだ。
いつもムードメーカーを務めてくれていた空の、もう一つの知らない一面。あの時間が俺は忘れられなくて……あのくすんだ香りを思い出したくて、地上に降りたときに火を点けるようになったんだ。……匂いとともに、あの日を思い出せるからな」
そして余韻を求めるかのように瞼を閉じた。それ以上本官は何も言えなくなってしまった。邪魔にならぬように息を殺し、車を飛ばした。
帰りは近場のモーテルに泊まり、日が昇ってから再び来た時と同じターミナルへと向かった。
地上と宇宙を繋ぐ軌道エレベーターのシャトルに乗り込む。ようやく重力から抜け出せると思うと心が軽くなる一方、不思議と名残惜しさもあった。宇宙育ちからすれば、資料で知ってはいても地上で触れるもの全てが刺激的だったから。
「楽しかったか?」
表情に出ていたようで、中将が聞いてくる。
「はい、とても」
「ふふ、それは無理矢理連れ出した甲斐がある」
そう言われて、半ば強引に連れてこられたのを思い出した。
「本当に良い経験でした。本官は、自分たちが守っているものの形を知れました」
「……そう言えば、貴官はいくつになる?」
「今年で19になります」
若造が身丈に似合わない台詞を吐いたと思われたと思ったが、それはきっと杞憂だ。
「若いな。まだこれから、地上に降りる機会はたくさんあるだろう。その時はこの惑星 の変化を楽しむと良い」
中将の目尻に皺が寄る。おそらく宇宙 に帰ったらあまり見れないものだろう。裏に様々な苦労が滲んだその表情は、どんな笑みよりも希望を見つめている。
宇宙生まれ宇宙育ちの本官には、故郷というものが分からないけれど、少なくともこの数日で見た景色が変わることの無いようにと、思う。
敵性生命体も休眠期に入ったのだ。本日、予測部門から正式に通達が降りた。今日の定時報告で一番の大ニュースになる。
我々人類は長い戦いの歴史の中で、異生体の活動に一定のサイクルがあることを見出した。相変わらず出現元の特定は出来ていないが、休眠期を見つけ出せたのは非常に大きな成果だった。今では軍部でも休眠期に休みを取る人がいるくらいに、予測の精度は上がっている。予測すら出来ず、常に警戒態勢であった旧体制からは想像もつかないだろう。
この宙域を守護している本艦の中でも最高権力者である衛藤昂輝中将は、目を伏せながら静かに報告を聞いていた。
「今季は少し休眠期がズレたな」
「はい。予測部は昨年に起きた大規模な太陽フレアが影響していると推測しています。関係性は研究中ですが、過去のデータと比較しても可能性は高いと思われます」
「分かった。これより本艦隊の体制を平常から、緩和措置へと移行する。哨戒シフトの再編令を各部隊へ伝達してくれ」
「了解しました」
手元のタブレットを操作し、文案を読み込む。休眠期がずれ込んだ分、迎撃態勢期間が長かった。この知らせはみんな喜ぶだろう。脳裏に同期の喜ぶ顔が見える。
「少尉」
ふと呼ばれて顔を上げる。中将の鋭い瞳が長い前髪の隙間から覗いていた。中将は視線も鋭いし、表情も崩さない方だ。前に朱雀の人に聞いたが、青龍の旗下にいない人からは怖がられているらしい。
「ようやく訪れた休暇だ。貴官も休むと良い」
そう言う中将の口元が僅かに上がっているように見えて、胸の奥が弾んだ。この人は見た目で損しているタイプだ。こうして任務で言葉を交わすようになって、だいぶ印象が変わったように思う。
「はい。ありがとうございます」
「あと3日ほど私も留守にする。私が居ない間は全て桜庭中将が対応する。問題はないと思うが、緊急の様があれば2番の非常回線を使うように」
「了解しました……中将も休暇ですか?伺っても?」
今から思えば、大分浮き足立っていたのだろう。余計な質問だった。差し出がましいにもほどがある。この段階で叱られなかったのは、おそらく中将も浮足立っていたのかもしれない。
中将は少し悩むように視線を泳がせると、長い指先を足元へ向けた。
「……地上ですか?」
「ああ。地上へ行ったことは?」
「本官はありません」
自分は宇宙生まれ宇宙育ちだ。一定の年齢以上の人は地上出身者であることが多いが、今は殆どがここで生まれている。
「地上に興味は?」
「……無いと言えば嘘になります」
「自動車の運転許可は?」
「取得しています」
「ふむ……」
妙な雲行きをひしひしと感じる。中将の事は心の底から尊敬している。指示は的確で、判断も早く損失も少なく済む。本艦に配属されて中将の近くで勤務するようになってから、その感情は増々高まった。
近くになるにつれて気付いたこともある。
「貴官が嫌でなければ、一緒に降りてみないか?」
この方は時々とんでもなく突拍子の無い事を言い出すという事だ。
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地上行きのターミナルで中将を待つ。約束した時間の20分前に中将は姿を現した。見慣れたかっちりとした青い軍服ではなくゆったりとしたシャツにグレーのスラックスといったラフな恰好に、やや長めの髪も後ろの方で緩くまとめられていて思わず目を見開いた。中将は逆で、本官の姿を見て眉をひそめた。
「少尉、まさか軍服で来たのか?」
「は。一応、中将の御伴として本官はここにおりますので」
「……せめて上着は脱いだ方がいい」
中将はそう言い残すと、ターミナル内のカウンターへと向かっていく。本官は少し悩み、上着を脱ぐことなくその背中を追った。
数時間後、その判断をすぐに後悔することになる。
地上はとても眩しかった。目の奥に光が刺さる。宇宙空間の方が太陽光は直接注ぐはずなのに、やけに眩しく光が肌に刺さるような感覚に陥る。乾いたコンクリートパネルに汗が落ちて、ようやく暑いのだと認識した。
「暑いだろう?丁度地上は夏季なんだ」
本官の隣で、中将が涼しい顔でそう言った。中将が薄着をしている理由に合点がいった。
「少尉、首元ぐらい緩めた方が良い。初めての夏は堪えるだろう。今タクシーを呼んだから、少し休め」
近くでタイヤの鳴る音がした。いつの間にか車を呼んでくれたようで、黄色のボディが視界の端に映る。これ以上は迷惑を掛けられないと、思い切り上体を上げれば、脳の奥が揺れてその勢いのまま後ろに倒れてしまいそうになった。その背中を中将の手が支えた。
「無理はするな」
目の前の開いた後部座席へ押し込まれ、持ってきた荷物も中将の手によって手際よく詰め込まれ、気が付けばもう既に車は発車していた。車内は涼しく、見慣れない地上の景色を背後へ押しやりながらようやく一息つく。
「すみません……お手数をおかけして……すぐに慣れますので」
折角誘っていただいたのに地上に降りた直後にこの失態だ。恐る恐る中将の様子を伺えば、愉快そうに本官を見ていた。
「気にするな、初めて地上に来た者は皆慣れぬ環境に倒れそうになってしまうものが大半だ」
「……皆?」
「ああ、何度か宇宙生まれの部下を連れてきている。熱にやられるのは少尉が初めてという事はないから、気負うな」
色々と呆気に取られてしまい口が動かない。多分、中将は本官を気遣ってくれているのだろう。宇宙では見たことのない柔和な笑みを浮かべて、じぃとこちらを観察するように眺めている。
中将が自分の首元を指さした。
「せめて緩めたまえ。ここは宇宙じゃないのだから、気楽にすると良い」
少し悩んで、そっと車内から外へ視線を向けた。アスファルトの遠くが歪んで見える。まさか熱気で歪んでいるとは思いたくないが、背筋に嫌なものを感じ、そっと喉元のボタンを外した。
車はかなり進んだと思われる。軌道エレベーターのあるターミナル周辺は建造物が多く、宇宙と地上を繋ぐ出入り口だからかとても栄えていた。そこからバイパスを通り、人通りの無い道を抜けた。ターミナルほど高くないビル群が並び、コンクリート剥き出しの建物が連なる。地方都市というところだろう。栄えてはいるが、人通りは薄い。車はとあるホテルの前に止まった。
中将は車を降りるとホテルの方へ向かっていく。その背中を追った。
扉を抜けた瞬間、冷気が頬を撫でた。中は外見とは違いしっかりとした作りのようで天井は高く、真っ赤なカーペットに豪奢なランプが吊り下げられている。カウンターは顔が映るほど綺麗に磨かれていて、細かなところにも手入れが行き届いているようだった。
ロビーには人も多く、中には軍服を着ている人もいる。客層からもここは高所得者向けのホテルなのだろう。
「少尉」
「はい」
「君は俺の隣の部屋だ」
目の前に差し出されたルームキーを受け取る。部屋番から察するに14階らしい。
「ここからは明日まで自由行動にしよう。観光しても良いし、休んでも構わない。明日は貴官にお願いしたい事があるから、早めに休んだほうが良いかもしれないな。レストランは3階にあって営業時間は23時まで。併設のカフェは24時間営業らしいから、いつ行っても構わない。チェックアウトは10時からだが、明日は少し早めの9時頃にここに来てくれ」
マシンガントークとは言わないが、ルームキーを受け取ると同時に色々と言われた。言葉の意味を理解する前に脳内に叩き込む。職業軍人が身に沁みていて良かった。
「あ、あの、中将はどちらへ」
去りゆく背中に慌てて投げ込んだ言葉は、返されることは無かった。
2
初めての地上。寝起きは良くなかった。
やはり重力が慣れないのだろう。ずっと同じ圧力が身体にかかっていて、少しばかり空気が重たいようにも思う。宇宙では常に一定の重力が長時間かかることはあまりないからどうにも身体がついてきていない気がする。
地上に来て良かったこともある。ご飯が異常に美味いのだ。見た目も食欲をそそるし、香りも最高だ。パンはカチカチじゃないし、何かのパテも保存料の香りが全くしなかった。合成肉以外の本物の肉を食べたのだっていつぶりだろう!
朝食をお腹いっぱいに詰め込んで、荷物をまとめてからロビーへと向かう。予定時刻の10分前だというのに、中将は既にそこにいた。昨日と同様、ラフな格好だ。
「おはよう。朝ごはんはちゃんと食べたか?」
「はい、たくさん頂きました」
「ふふ、それは何より」
中将に微笑まれて、妙な気恥ずかしさを覚えた。宇宙では食べれない物を前に、子どもみたいにがっついてしまったことを見破られたのだろう。
「少尉に頼みたいことがある」
そう言えば昨夜もそのようなことを言っていた。何をと問う前に、目の前に丸いキーホルダーのようなものが差し出された。それが何かを理解した瞬間、中将が何故本官を連れてきたのか分かった気がした。
前後左右を確認しながら両手でしっかりとハンドルを握る。地上での運転は初めてだが、操作感は母艦の整備車両とほぼ同じだ。しかし交通法規は異なるから、教本を思い出しながらの運転になる。
助手席に乗っている人が人だから、絶対に事故は起こせない。運転をする以上のプレッシャーを感じながら、横に視線を向ける。中将はペーパードライバーである本官の運転に特に疑問も抱いていないようで、のんびりと窓から外を眺めていた。見慣れた軍服ならいざ知らず、ゆったりとした私服だとかなり印象が変わって見える。
「しかし、意外でした」
「免許を持っていないことがか?」
「い、いえ、すみません。そう言うつもりでは……その、中将は何でも出来るイメージがありましたので……」
「残念ながら、俺は出来ない事の方が多いよ」
そういう中将の声音はやや自嘲気味だった。自動車の運転のために部下を連れてきた事の負い目だろうかと思ったが、その言葉にはそれだけじゃない、なにかの含みがあるように思えてならなかった。
その後は細かな雑談を交えながら、車を走らせた。地方都市を抜けてひたすら郊外へ向けて車を進ませる。途中で昼飯を兼ねた休息を取り、再び中将の指示のもと車を走らせる。最初は多少あった車通りも気付けばほとんどなくなり、たまに対向車とすれ違うだけになった。
遂には舗装もなくなり、道路とも呼べないような山道を、がたがたと激しく車体を揺らしながら進んでいた。あまりの揺れに、艦隊戦を思い出す程だった。
山間部に突入した辺りから道なりに進んでくれとしか言われず、中将がどこへ向かっているのか分からなくなってしまった。横目で中将の様子を伺っても、ずっと窓から外を眺めているばかりで、表情は分からない。
ようやく木々が薄くなり、視界が開けた場所が出てきた。広場……とは言えないが、程よく平らな場所であり、正直狭い山道での退避場所だろうと思った。
「そこに停めてくれ」
中将の指示に従って退避場所の隅に車を停める。降りてようやくそこが駐車場だと気がついた。自然に還りつつある草むらの中に、駐車番号の書かれた看板を見つけたからだ。退避場所だと思っていたから、車は駐車枠を無視して停めている。
「あっ、すみません!横付けしてしまって」
「気にするな、どうせ誰も来ない」
中将はこちらを見ることもなく、駐車場の端へ向かっていった。気になることはたくさんあったが、慌ててその背中を追う。昨日からずっと中将の背中を追ってばかりだ。
中将は背丈近くある草をかき分けて進んでいく。草を踏むたびに独特な変な臭いがするし、頭の奥に響くような雑音も不快だ。木々のせいで辺りは薄暗いし、嫌な恐怖を感じる。
「少尉、足元に気をつけろ。ここから階段になる」
中将の指示通り、足元を見る。土と草に覆われていたが石造りの階段があるようで、それは下へ伸びている。石造りの階段は慣れない。一段一段高さが違い、進むたびに滑って転びそうになるが、それは軍人の意地でなんとか堪えた。
獣道が階段になってそう時間もかかっていないはずだ。急に視界が開けた。鬱蒼と茂って薄暗った藪に、陽の光が差してきたのだ。
昼時を超えているからか、その陽射しは強烈だった。視界が真っ白に染め上げられ、瞼を開くことすらままならない。手でそれを遮り、目を細めて前を向く。前を歩中将の背中越しにそれは見えた。
開けた広いエリアに成形された石が等間隔に並ぶ。宗教や地上の文化に馴染みがなくてもこればかりは知識として理解している。ここは墓苑だ。
胃の奥のほうが急に重たくなる。少し下れば石畳が現れた。墓苑の入口付近には小さな倉庫があり、あまり手入れがされていないようで半ば朽ちている。
中将は慣れた手つきで倉庫の中を覗き、箒とちりとりを取り出した。
「あの、手伝います」
「ならそこの手桶に水を汲んできてくれ。奥の方に井戸がある」
倉庫の隅に山積みにされていた手桶を取った。取り出したとき白い粉が大量に足元に落ちたが、気にしない事にした。正直宇宙生まれには、地上はあまりにも刺激が強い。
倉庫の裏手に周り、井戸を探す。いまいち井戸というのがピンと来なかったが、”水を汲む”という文脈で判断した。
倉庫の裏手にそれっぽい人工物があった。金属のパイプに弓なりの金具がついている。それを動かすのだろうという事は見た目から判断できる。後は簡単だ。手桶を用意して、取っ手を動かす。最初茶色の水が出てきて驚いたが、何度か繰り返すと良く知る透明の水になった。
手桶の中を綺麗な水で満たし、墓苑の方へ向かって辺りを見回す。ここにいる人間は本官らしかいない。墓苑の中央やや高台の方にその姿を認めた。
中将の方へ向かう最中で気付いたことがある。この墓苑は手入れが殆どされていない。雑草が生い茂り、墓前に置かれた祭具は風化して割れている。墓としての体裁を保てているものはまだいいが、墓石自体が欠けていたり、倒壊して隣区画を巻き添えに破壊しているところもあった。
本官は荒れ果てたそれらから目を逸らして口を閉じ、真っすぐ中将の方へ向かう。
中将は髪を後ろに束ね、腰を曲げながら区画内に生えている雑草を引き抜いてはちりとりのなかに放り投げている。中将の目的の場所は、他の場所より荒れていなかった。むしろ綺麗だとも思う。墓石は多少汚れているように見えたけど、どこも欠けていないし掘られている文字もしっかりと読める。思わず息を呑んだ。その名前は———
「本官は……この方を存じています」
中将は何も言わなかった。
3
35年前に起きた『彼ら』による外宇宙からの大侵攻。当時は惑星の大半が制圧され、人類の2/3が命を失ったとも言われるジェノサイドだった。それは『人類滅亡までの最後の年』とも呼ばれていた。
それが『奇跡の年』と呼ばれるようになったのは心獣と適合し、『彼ら』への対抗力を手に入れたからだ。適合者と呼ばれた人々は迫りくる敵を倒し、戦線を外気圏の先へと追いやることに成功した。
現在は惑星軌道上に前線基地を設け、敵の調査や迎撃。次世代の適合者の育成を行っている。
文章にすると酷くあっさりだが、この35年間で人類が滅亡するタイミングはいくつか存在した。そのたびに犠牲は増え、この
大原空大将。彼はこの長い戦いの殊勲者であり、一番最初の犠牲者だ。この方を筆頭に、多くの適合者が戦いで命を落としている。
軍学校では一番最初に当時の歴史を学ぶため、卒業生で彼らの名前を知らない人はいないだろう。
掃除を終え、一息つく。墓前には何もない。まさかかつての英雄の前に来るとは思っていなかったから、知っていれば何かを用意したのにと思わずにはいられない。
思えば不思議な事に、中将も何も持っていなかったように思う。旅行鞄は車の中に入れっぱなしだし、通信デバイスだけで基本的な荷物は何もない。
宗教の作法に疎いせいで、この後どうしたらいいのか分からない。手持無沙汰で立っていると、中将がぽつりと呟いた。
「正直な事を言えば、ここには誰もいないんだ」
中将はくるりと墓石に背を向けると、手前の丁度塵を掃いて綺麗にしたばかりの石段に腰を下ろした。
「首都に、慰霊碑があると伺っています」
戦線を外気圏へ押しやった年、壊滅状態であった地上の復興が開始された。その際に生存戦争で命を落とした兵士たちへの哀悼と、復興への祈りと覚悟を込めた慰霊碑が作成された。それは首都のターミナルに設置され、現在進行形で名前が追記され続けている。
本官の言葉を聞いた中将は微かに笑いながら「そうだな」と微笑んだ。
「当時、みんなで考えたんだ。空はどこにいるのだろうと。慰霊碑があるとはいえ、縁もゆかりもない首都は違和感がある。そこで、空の故郷からほど近いところにこっそりと墓を作ったんだ。ここは景色も良いから」
細められる視線の先へ釣られるように向けた。山がぱっくりと裂け、その間から薄花色が溢れている。日が落ちようとして、地平に陽が滲むほど本官の頭上は色濃い青に変化していた。
地上から見る
石段に座りながら太陽が山肌を橙に染め上げていく様を眺めている。夜を目前にした地上はこれから暗くなっていくはずなのに、やけに明るく見えるのが奇妙だとなんとなく思う。
赤く染まる中に、墓石を前にぼうと立ち尽くす中将を遠くから眺めていた。一人きりにして欲しいと頼まれたから。だから遠くからそっと眺めている。
表情は陰で何も見えない。口元が動いているようにも見えない。何も考えていないようにも、深く考えこんているようにも見える。
本官の記憶によれば、大原大将の遺体は回収されていない筈だ。首都の慰霊碑にも、ここにも
影が伸びきる頃、中将が何かをポケットから取り出した。口元へ持っていきそれを引き抜く。口先に火が灯り、それが何なのか認識した。
まだ日は残っている。暗闇になる前に中将は戻ってきた。
「帰ろうか」
そう告げた中将からは、何の香りもしなかった。
帰りの車の中、車のヘッドライトが照らす明かりしかない道をひたすら進む。昼間ですらほとんど無かった車通りだ。夜になると本当に誰もいなくなってしまった。道路脇に街灯はあるのに、電気が通っていないのかそれに明かりが灯ることはない。僅かな星明りが白いセンターラインを示してくれる。さすがに星空は
助手席に座る中将を横目に見ると、来た時と同じように何も見えない窓の外を眺めていた。
「その、喫煙者だったのですね。シガータブを噛んでいる姿を見たことが無かったので、意外でした」
この時間をどうすればよかったのか分からなかった。失礼だったろうかと思った時には既に遅くて、中将はこちらを見つめていた。
「いや、どちらかと言えば好きじゃないかな」
「……なら何故……?」
墓前で口に咥えていたのは紙タバコじゃなかったのか?夕日には空中に吐き出された煙の影も見えていた。見間違えだろうか。
中将は再び窓の外へ視線を向ける。黒塗りのガラスに反射して映った中将の表情は穏やかで、どこか遠い記憶を漁っているようでもあった。
「……大昔の話だ」
そう前置きをして、一つ息を吸う。
「俺と空は心獣、青龍と適合した同期だった。同じ戦場で、同じ戦火を共に潜ってきた戦友だ。当時はほぼ毎日戦場で命を落とす仲間がいて、いつ襲われるとも分からない。休まる瞬間の無い日々だった。そんな中でも空は笑顔を絶やさなかった。いつも前を向き、皆を鼓舞していた。そんな彼を、俺は尊敬していた。
そんな彼の別の顔を見たことがあるんだ。まだ、地上に防衛線を敷いていた時だ。今日みたいな晴れた雲の無い夜。艦橋の一番上の先で、一人で佇んでいる姿を見た。今も、あの夜を忘れられない。眠れなかった俺は、空の下へ行った。そこで空がタバコを吸っていたんだ」
「大原大将は、喫煙者だったんですか?」
「いいや、違う。一緒にいた時間は長かったけれど、そんな姿は見たことがない。当時の俺も驚いて同じような事を聞いたんだ。そしたら遺品だと言われた。空に良くしてくれた隊員の一人の持ち物だと」
中将はポケットから箱を取り出した。箱はくたびれて潰れかかってる。
「一緒に弔いたいと空に言うと、快く一本分けてくれた。美味しいとは思わなかった。空も同じ気持ちだったようで、一口吸ってずっと手に持っているだけで、俺も大概一緒だった。黙って昇っていく煙と、夜空を眺めていたんだ。
いつもムードメーカーを務めてくれていた空の、もう一つの知らない一面。あの時間が俺は忘れられなくて……あのくすんだ香りを思い出したくて、地上に降りたときに火を点けるようになったんだ。……匂いとともに、あの日を思い出せるからな」
そして余韻を求めるかのように瞼を閉じた。それ以上本官は何も言えなくなってしまった。邪魔にならぬように息を殺し、車を飛ばした。
帰りは近場のモーテルに泊まり、日が昇ってから再び来た時と同じターミナルへと向かった。
地上と宇宙を繋ぐ軌道エレベーターのシャトルに乗り込む。ようやく重力から抜け出せると思うと心が軽くなる一方、不思議と名残惜しさもあった。宇宙育ちからすれば、資料で知ってはいても地上で触れるもの全てが刺激的だったから。
「楽しかったか?」
表情に出ていたようで、中将が聞いてくる。
「はい、とても」
「ふふ、それは無理矢理連れ出した甲斐がある」
そう言われて、半ば強引に連れてこられたのを思い出した。
「本当に良い経験でした。本官は、自分たちが守っているものの形を知れました」
「……そう言えば、貴官はいくつになる?」
「今年で19になります」
若造が身丈に似合わない台詞を吐いたと思われたと思ったが、それはきっと杞憂だ。
「若いな。まだこれから、地上に降りる機会はたくさんあるだろう。その時はこの
中将の目尻に皺が寄る。おそらく
宇宙生まれ宇宙育ちの本官には、故郷というものが分からないけれど、少なくともこの数日で見た景色が変わることの無いようにと、思う。
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