Ⅰ.砂上の夢
♚
酷く長い夢を見た。気がする。内容はほとんど覚えていない。ただ、頭が割れるように痛い。
「うーん、参ったな……風邪かなぁ……」
やだなぁと呟いて、自室の風邪薬を探した。もし本当に風邪で、ほかのみんなに移しちゃったら悪いもんね。引き出しの奥に、薬を見つけて共有のキッチンに向かった。ふと、時計を見れば時間は朝の7時をまわっている。すこし、寝坊したけれど、学生のみんなとは違って、家で曲作りに励む俺にはあまり時間は関係ない。ただ、だらけるというのもそれは、あまりにも無神経に思えてきっちりとみんなが起きる時間に起きるようにしている。
そもそも、朝焼けや夕暮れが好きだから、好んで早起きしたりするのだけど。
キッチンについて、水切り籠の中のマグを手に取って水を入れた。
その時、ふと気が付いた。気がついてしまった。流しの状態が昨日の夜中のまま変わっていないと。昨夜、昂くんと話をしてから誰もキッチンを使っていない事になる。思えばリビングも人の気配が全くない。剣くんならまだしも、涼くんも昂くんも起きていないのだとすれば少し変だ。
漠然と嫌な予感がした。
マグと薬をその場に置くと、真っ先に三人の部屋をそれぞれ回る。最初は剣くん、次に涼くん。そして、昂くん。どんなに叩いてもピクリともしない3つの扉に、不安から焦燥、そして恐怖を覚えた。嫌な汗が背中を伝う。
ダメ元でドアノブを回してみれば、それは難なく開いた。昂くんの部屋だ。
「ご、ごめんね! 入るね!」
返事のない部屋に向かって叫んで、突入すれば以前見たままの整理された部屋。シンプルな部屋の奥に向かって足を進めて、奥にある寝室を覗けば、ベットの上で昂くんがすやすやと寝息を立てて寝ている。
「こ、昂くん? 朝だよー……?」
そっと近づいて様子を伺っても、このまま目を覚ましそうなぐらい自然に寝ているようにしか見えない。でも、昂くんは起きなかった。身体を揺すっても叩いても、一切起きる気配がない。
涼くんと、剣くんの部屋に向かっても一緒だった。
何かが起きている。そう、思うしかなかった。
とりあえず、望月さんに電話した。俺も半分パニックで、言葉が全然整理出来なくて、ちゃんと伝わったかどうか怪しかったけれど、望月さんは根気よく耳を傾けてくれた。これから向かうから大丈夫ですよ! 待っててくださいねと、逆に電話口で優しく慰められてしまった。
仕方なく昂くんの部屋で待つことにした。もしかしたら、待っている間に起きてくるかもしれない。そうでも思わないと俺は心配で死んでしまいそうだ。
ふと、昂くんの枕元に本が置いてあるのに気付いた。なんの本だろうと手を伸ばして開いてみれば、それはノートのようだった。ハードカバーの装丁で、表紙がとても凝った作りだったせいで一見すればそれはノートとは思えない。深い緑の表紙にツタ……だろうか、金色で植物の意匠が施されている。
「あれ、これって……」
悪いなと思いながらパラパラと眺めていれば、昂くんの字が途中から出てくる。誰かから書き途中の本を貰ったのかな?
つい、見慣れた文字を読んでしまった。
それは、昨夜聞いた“夢が記録された日記”だった。書かれた文字を追っていけば、教えてくれた不思議な世界がそこに記されている。思わず夢中になって読み進めてしまう。そして、書いてある最終ページについた。
それは、昨日聞いた話の続きで俺の知らないところだ。反乱からの逃走2日目の……昂くんの話を信じるなら、今見ている夢の内容だ。
それに、気付いたとき、じわりと白いページに文字が滲むのを見た。
「うわぁ!」
思わず手放して足元に本が落ちる。落ちた傍から文字は紡がれていた。その文字は、昂くんの文字だ。
「もしかして……今見ているの?その、昨日の続きを」
寝ている昂くんは目を覚まさない。
俺は、落ちたそのノートを手に取って、近くの椅子に座ると、次々に浮かぶその夢の続きを読み始めた。
♚
弦をひとつ爪弾けば、また別の国。俺の知らない言葉と文化。知らない気候に知らない匂い。地図や書物だけでは分からない事を、幽玄な音に乗せてマモルは教えてくれた。
終わる頃に、俺の従者がやってくる。手を休めたマモルが微笑んで言った。
「お仕事の時間だね」
「ああ、こればかりは仕方ない」
昼下がりの中庭でリョウとケンとマモルと俺の四人で、マモルの語る旅物語を聞くのが日課になっていた。初めは見知らぬ人間を宮殿に入れるのを大反対していた二人だが、いつの間にか軽口を叩ける程の仲になっている。これも、他人の毒気を抜くマモルの人柄だろう。
俺は、具合の悪くなった父の代わりに政治の真似事をするようになっていた。周りに搾取されるばかりであった貿易を立て直し、悪循環を生んでいた経済を作り直した。さらに無駄の多い政治構造を剪定して、ようやくこの国は前を向けるようになった。
病弱な父だけでは現状を変えることは出来なかったのだろう。動くこともままならなくなり、俺が国王代理としてこの国を中から変えていく事となった。
そして追い風のように埋蔵資源が発掘された。
燃料資源は、技術力の乏しい自国だけではただの宝の持ち腐れだ。燃料資源を有効に扱える国に売ったり、技術支援を要請したりと、これからもっと忙しくなる。
こうした、友人たちとの会話が、唯一の心が休まる時だ。
「次は最後の国、“雪の国”の話だけど、その前に俺の夢の話をしてあげる」
「夢の話?」
マモルが、席を立った俺にそう言った。将来のか? と聞けば、首を横に振って違うという。
「寝ている時に見る夢だよ」
「俺だって夢を見るけど、すぐに忘れちまうぜ? 夢って、そんなもんじゃないの?」
ケンが不思議そうに聞いてきた。
「うん。でも、最高にいい夢って忘れたくなくて、起きてすぐに記録をつけるようにしたんだ。毎日つけているんだよ」
そう言ってマモルは、腰に下げた鞄から一冊の本を取り出した。深い緑の表紙に、蔦の意匠が施されている、美しい装丁の本だ。
「毎日って事は、日記みたいだね。夢日記だ」
「いつも同じ夢を見ているって、事だろう。それは少し気になるな」
ケンとリョウが続く。二人はいつの間にか俺と同じように、マモルの話に夢中になっていた。
後ろで俺を呼びにきた従者が咳払いをし始めた。そろそろ行かないとまずいだろう。
「じゃあ、明日それを聴かせてくれ」
「うん! 平和な国で、みんな一緒に歌って踊っている夢なんだ。きっと楽しいよ」
「それは楽しみだ」
去り際に、マモルがその日記を愛おしそうに撫でているのが見えた。
だが、その約束は果たされなかった。
その日の夜、国王である父が死んだ。公式声明で病死と発表した。かねてより身体の様子が優れなかったから、仕方のない事だろう。しめやかに葬儀は行われた。
そして更なる問題が起きた。俺が未成年である限り、国王にはなれない。その代わり、父の弟であり、俺の叔父が国王を務めることになってたのだが、遺言によると次の国王は俺となっていた。
父の生前から国政を手伝っていたせいか、俺の王位継承に反対するものはいなかった。ただ、叔父を除いて。
悲しみや喜びよりも、危機感の方が強かった。叔父が何をするのか分からない。それは、幼い頃より一緒だったケンとリョウにも伝わったみたいで、俺は三人いつも一緒にいた。
マモルに申し訳なかったが、情勢が大きく変わろうとしていて、落ち着くまでしばらくは時間が取れないことも話した。マモルは笑って大丈夫だと言ってくれた。
そして、それから数日も経たないうちに反乱が起きてしまった。
俺が生きている限り、王は俺で叔父ではない。父の遺した国は渡さない。そう言って逃げた。それが、俺の最後の記憶だ。
長い夢を見た気がする。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音が聞こえた。寝ている背中が暖かい。俺は焚き火を背にして寝てしまったようだ。目の前の岩壁に俺が横になっている影が、揺れて映っている。
寝る前の記憶が怪しい。自分の命が狙われているというのに、何を呑気に寝ているのか。横になったまま、寝る前の記憶を掘り起こす。確か、一休みできる場所を見つけて、ようやく休めるとみんなでお茶を飲んだんだ。
ちょうどその時、岩壁に映った影が、大きく揺らいだ。誰かが火のそばで動いたらしい。起きているのは一人しかいない。四人もいて、たった一人しか見張りをしていない。
思い出せ、誰が最後にお茶を淹れた? 誰が、今起きているんだ?
深く記憶を掘り起こしたその先……マモルの無邪気な笑顔が最後の記憶だった。
やはり、あの時に感じた違和感は間違いではなかったんだ。
マモルの影が、俺にかかった。すぐ後ろにマモルがいる。諦めなのか、哀しさなのか、俺は動かなかった。いや、動けなかった。起きて振り向けば、信じていたマモルがナイフを振り上げてすぐそばにいるのではないかという事が、受け止めるには少し大きすぎる。
その時、俺の背後から影が遠のいていった。
不思議にも薪の爆ぜる音が、子供の泣き声のように聴こえる。
分からなかった。ここまで完璧に俺やみんなの心を掌握しておきながら、未だに俺を殺さない理由が。
理解できなかった。マモルの笑顔や話してくれる旅の出来事に、何一つ嘘は感じなかった事が。
「……どうして、殺さないんだ」
影が大きく揺れた。マモルは声も上げず、何も言わない。
「ここまで用意周到に事を進めておきながら、何故最後の仕事をしないんだ?」
ゆっくりと起き上がって振り向けば、椅子代わりの石に腰かけたマモルが、片手に俺が渡した小刀を持ちながら哀しそうに俺を見ていた。
「俺のお茶、全部飲まなかったんだね」
「質問に答えろ」
「一体、いつから気付いていたの?」
「俺の質問に答えろマモル!」
赤銅の瞳は揺れる事なく、平静に俺を見つめ続ける。
「お願い……教えて?」
いつもの中庭で聞いたような声音でマモルは言った。演技でもなんでもない、俺の知っているいつものマモル。いや、俺はこのマモルしか知らなかったのかもしれない。
「……その小刀は、父と俺しか知らない一家伝来の家宝だ」
父の死んだ日、父の従者にそれを渡された。そして俺にだけと、極一部の人しか知らない秘密とともに教えてくれた。
「そして……父の“殺害道具”だ」
その事実は、僅かな人たちと暗殺者しか知り得ない情報だ。マモルはあの小刀を渡した時、反応を示していた。この小刀を知っているのはこの四人では俺しか知らない。
単純に身を守るためにと渡した筈が、悲しい事に父を殺した犯人を浮き彫りにしてしまったらしい。
「俺はその小刀を渡すまで、マモルを完全に信じきっていた」
睨んだ所で、マモルはゆっくりと首を竦めただけだった。
「次はお前の番だ。情が湧いて殺せないなど、今更言っても許す事は出来ない」
マモルは黙ったまま、ずっとその手元を見ていた。こんな今際になってでも、その眼差しには慈しみを感じる。
違う。そう思わせるように、印象操作をされただけだと、自分に言い聞かせた。
マモルから目を逸らさずに、手持ちの武器を確認する。舐められているのか、ちゃんと剣は腰に差したままだった。いつでも抜けるように柄に手をやる。
「俺、こんなの初めてで本当に悩んでいるんだ」
両手で器用に小刀をくるくると回す。俺たちの目の前では、こっちが心配になるぐらい不器用だったのに、あれも演技だったようだ。
「何を言って」
「俺は存在してはいけない暗殺者なんだ。こうして、正体がバレてしまったら……死ぬしかない」
俺は嘘が下手くそだから。そう、マモルは呟いた。
静かな瞳が、炎のゆらめきに合わせて揺れた。俺はあの瞳を知っている。あの瞳を見たことがある。
「ゴメンね、コウくん」
あれは、諦めてしまった人の目だ。
酷く長い夢を見た。気がする。内容はほとんど覚えていない。ただ、頭が割れるように痛い。
「うーん、参ったな……風邪かなぁ……」
やだなぁと呟いて、自室の風邪薬を探した。もし本当に風邪で、ほかのみんなに移しちゃったら悪いもんね。引き出しの奥に、薬を見つけて共有のキッチンに向かった。ふと、時計を見れば時間は朝の7時をまわっている。すこし、寝坊したけれど、学生のみんなとは違って、家で曲作りに励む俺にはあまり時間は関係ない。ただ、だらけるというのもそれは、あまりにも無神経に思えてきっちりとみんなが起きる時間に起きるようにしている。
そもそも、朝焼けや夕暮れが好きだから、好んで早起きしたりするのだけど。
キッチンについて、水切り籠の中のマグを手に取って水を入れた。
その時、ふと気が付いた。気がついてしまった。流しの状態が昨日の夜中のまま変わっていないと。昨夜、昂くんと話をしてから誰もキッチンを使っていない事になる。思えばリビングも人の気配が全くない。剣くんならまだしも、涼くんも昂くんも起きていないのだとすれば少し変だ。
漠然と嫌な予感がした。
マグと薬をその場に置くと、真っ先に三人の部屋をそれぞれ回る。最初は剣くん、次に涼くん。そして、昂くん。どんなに叩いてもピクリともしない3つの扉に、不安から焦燥、そして恐怖を覚えた。嫌な汗が背中を伝う。
ダメ元でドアノブを回してみれば、それは難なく開いた。昂くんの部屋だ。
「ご、ごめんね! 入るね!」
返事のない部屋に向かって叫んで、突入すれば以前見たままの整理された部屋。シンプルな部屋の奥に向かって足を進めて、奥にある寝室を覗けば、ベットの上で昂くんがすやすやと寝息を立てて寝ている。
「こ、昂くん? 朝だよー……?」
そっと近づいて様子を伺っても、このまま目を覚ましそうなぐらい自然に寝ているようにしか見えない。でも、昂くんは起きなかった。身体を揺すっても叩いても、一切起きる気配がない。
涼くんと、剣くんの部屋に向かっても一緒だった。
何かが起きている。そう、思うしかなかった。
とりあえず、望月さんに電話した。俺も半分パニックで、言葉が全然整理出来なくて、ちゃんと伝わったかどうか怪しかったけれど、望月さんは根気よく耳を傾けてくれた。これから向かうから大丈夫ですよ! 待っててくださいねと、逆に電話口で優しく慰められてしまった。
仕方なく昂くんの部屋で待つことにした。もしかしたら、待っている間に起きてくるかもしれない。そうでも思わないと俺は心配で死んでしまいそうだ。
ふと、昂くんの枕元に本が置いてあるのに気付いた。なんの本だろうと手を伸ばして開いてみれば、それはノートのようだった。ハードカバーの装丁で、表紙がとても凝った作りだったせいで一見すればそれはノートとは思えない。深い緑の表紙にツタ……だろうか、金色で植物の意匠が施されている。
「あれ、これって……」
悪いなと思いながらパラパラと眺めていれば、昂くんの字が途中から出てくる。誰かから書き途中の本を貰ったのかな?
つい、見慣れた文字を読んでしまった。
それは、昨夜聞いた“夢が記録された日記”だった。書かれた文字を追っていけば、教えてくれた不思議な世界がそこに記されている。思わず夢中になって読み進めてしまう。そして、書いてある最終ページについた。
それは、昨日聞いた話の続きで俺の知らないところだ。反乱からの逃走2日目の……昂くんの話を信じるなら、今見ている夢の内容だ。
それに、気付いたとき、じわりと白いページに文字が滲むのを見た。
「うわぁ!」
思わず手放して足元に本が落ちる。落ちた傍から文字は紡がれていた。その文字は、昂くんの文字だ。
「もしかして……今見ているの?その、昨日の続きを」
寝ている昂くんは目を覚まさない。
俺は、落ちたそのノートを手に取って、近くの椅子に座ると、次々に浮かぶその夢の続きを読み始めた。
♚
弦をひとつ爪弾けば、また別の国。俺の知らない言葉と文化。知らない気候に知らない匂い。地図や書物だけでは分からない事を、幽玄な音に乗せてマモルは教えてくれた。
終わる頃に、俺の従者がやってくる。手を休めたマモルが微笑んで言った。
「お仕事の時間だね」
「ああ、こればかりは仕方ない」
昼下がりの中庭でリョウとケンとマモルと俺の四人で、マモルの語る旅物語を聞くのが日課になっていた。初めは見知らぬ人間を宮殿に入れるのを大反対していた二人だが、いつの間にか軽口を叩ける程の仲になっている。これも、他人の毒気を抜くマモルの人柄だろう。
俺は、具合の悪くなった父の代わりに政治の真似事をするようになっていた。周りに搾取されるばかりであった貿易を立て直し、悪循環を生んでいた経済を作り直した。さらに無駄の多い政治構造を剪定して、ようやくこの国は前を向けるようになった。
病弱な父だけでは現状を変えることは出来なかったのだろう。動くこともままならなくなり、俺が国王代理としてこの国を中から変えていく事となった。
そして追い風のように埋蔵資源が発掘された。
燃料資源は、技術力の乏しい自国だけではただの宝の持ち腐れだ。燃料資源を有効に扱える国に売ったり、技術支援を要請したりと、これからもっと忙しくなる。
こうした、友人たちとの会話が、唯一の心が休まる時だ。
「次は最後の国、“雪の国”の話だけど、その前に俺の夢の話をしてあげる」
「夢の話?」
マモルが、席を立った俺にそう言った。将来のか? と聞けば、首を横に振って違うという。
「寝ている時に見る夢だよ」
「俺だって夢を見るけど、すぐに忘れちまうぜ? 夢って、そんなもんじゃないの?」
ケンが不思議そうに聞いてきた。
「うん。でも、最高にいい夢って忘れたくなくて、起きてすぐに記録をつけるようにしたんだ。毎日つけているんだよ」
そう言ってマモルは、腰に下げた鞄から一冊の本を取り出した。深い緑の表紙に、蔦の意匠が施されている、美しい装丁の本だ。
「毎日って事は、日記みたいだね。夢日記だ」
「いつも同じ夢を見ているって、事だろう。それは少し気になるな」
ケンとリョウが続く。二人はいつの間にか俺と同じように、マモルの話に夢中になっていた。
後ろで俺を呼びにきた従者が咳払いをし始めた。そろそろ行かないとまずいだろう。
「じゃあ、明日それを聴かせてくれ」
「うん! 平和な国で、みんな一緒に歌って踊っている夢なんだ。きっと楽しいよ」
「それは楽しみだ」
去り際に、マモルがその日記を愛おしそうに撫でているのが見えた。
だが、その約束は果たされなかった。
その日の夜、国王である父が死んだ。公式声明で病死と発表した。かねてより身体の様子が優れなかったから、仕方のない事だろう。しめやかに葬儀は行われた。
そして更なる問題が起きた。俺が未成年である限り、国王にはなれない。その代わり、父の弟であり、俺の叔父が国王を務めることになってたのだが、遺言によると次の国王は俺となっていた。
父の生前から国政を手伝っていたせいか、俺の王位継承に反対するものはいなかった。ただ、叔父を除いて。
悲しみや喜びよりも、危機感の方が強かった。叔父が何をするのか分からない。それは、幼い頃より一緒だったケンとリョウにも伝わったみたいで、俺は三人いつも一緒にいた。
マモルに申し訳なかったが、情勢が大きく変わろうとしていて、落ち着くまでしばらくは時間が取れないことも話した。マモルは笑って大丈夫だと言ってくれた。
そして、それから数日も経たないうちに反乱が起きてしまった。
俺が生きている限り、王は俺で叔父ではない。父の遺した国は渡さない。そう言って逃げた。それが、俺の最後の記憶だ。
長い夢を見た気がする。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音が聞こえた。寝ている背中が暖かい。俺は焚き火を背にして寝てしまったようだ。目の前の岩壁に俺が横になっている影が、揺れて映っている。
寝る前の記憶が怪しい。自分の命が狙われているというのに、何を呑気に寝ているのか。横になったまま、寝る前の記憶を掘り起こす。確か、一休みできる場所を見つけて、ようやく休めるとみんなでお茶を飲んだんだ。
ちょうどその時、岩壁に映った影が、大きく揺らいだ。誰かが火のそばで動いたらしい。起きているのは一人しかいない。四人もいて、たった一人しか見張りをしていない。
思い出せ、誰が最後にお茶を淹れた? 誰が、今起きているんだ?
深く記憶を掘り起こしたその先……マモルの無邪気な笑顔が最後の記憶だった。
やはり、あの時に感じた違和感は間違いではなかったんだ。
マモルの影が、俺にかかった。すぐ後ろにマモルがいる。諦めなのか、哀しさなのか、俺は動かなかった。いや、動けなかった。起きて振り向けば、信じていたマモルがナイフを振り上げてすぐそばにいるのではないかという事が、受け止めるには少し大きすぎる。
その時、俺の背後から影が遠のいていった。
不思議にも薪の爆ぜる音が、子供の泣き声のように聴こえる。
分からなかった。ここまで完璧に俺やみんなの心を掌握しておきながら、未だに俺を殺さない理由が。
理解できなかった。マモルの笑顔や話してくれる旅の出来事に、何一つ嘘は感じなかった事が。
「……どうして、殺さないんだ」
影が大きく揺れた。マモルは声も上げず、何も言わない。
「ここまで用意周到に事を進めておきながら、何故最後の仕事をしないんだ?」
ゆっくりと起き上がって振り向けば、椅子代わりの石に腰かけたマモルが、片手に俺が渡した小刀を持ちながら哀しそうに俺を見ていた。
「俺のお茶、全部飲まなかったんだね」
「質問に答えろ」
「一体、いつから気付いていたの?」
「俺の質問に答えろマモル!」
赤銅の瞳は揺れる事なく、平静に俺を見つめ続ける。
「お願い……教えて?」
いつもの中庭で聞いたような声音でマモルは言った。演技でもなんでもない、俺の知っているいつものマモル。いや、俺はこのマモルしか知らなかったのかもしれない。
「……その小刀は、父と俺しか知らない一家伝来の家宝だ」
父の死んだ日、父の従者にそれを渡された。そして俺にだけと、極一部の人しか知らない秘密とともに教えてくれた。
「そして……父の“殺害道具”だ」
その事実は、僅かな人たちと暗殺者しか知り得ない情報だ。マモルはあの小刀を渡した時、反応を示していた。この小刀を知っているのはこの四人では俺しか知らない。
単純に身を守るためにと渡した筈が、悲しい事に父を殺した犯人を浮き彫りにしてしまったらしい。
「俺はその小刀を渡すまで、マモルを完全に信じきっていた」
睨んだ所で、マモルはゆっくりと首を竦めただけだった。
「次はお前の番だ。情が湧いて殺せないなど、今更言っても許す事は出来ない」
マモルは黙ったまま、ずっとその手元を見ていた。こんな今際になってでも、その眼差しには慈しみを感じる。
違う。そう思わせるように、印象操作をされただけだと、自分に言い聞かせた。
マモルから目を逸らさずに、手持ちの武器を確認する。舐められているのか、ちゃんと剣は腰に差したままだった。いつでも抜けるように柄に手をやる。
「俺、こんなの初めてで本当に悩んでいるんだ」
両手で器用に小刀をくるくると回す。俺たちの目の前では、こっちが心配になるぐらい不器用だったのに、あれも演技だったようだ。
「何を言って」
「俺は存在してはいけない暗殺者なんだ。こうして、正体がバレてしまったら……死ぬしかない」
俺は嘘が下手くそだから。そう、マモルは呟いた。
静かな瞳が、炎のゆらめきに合わせて揺れた。俺はあの瞳を知っている。あの瞳を見たことがある。
「ゴメンね、コウくん」
あれは、諦めてしまった人の目だ。