Ⅰ.砂上の夢

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今夜は月が嫌に明るい夜だった。
星々は月の明かりに負けて薄く見えづらい。今日明日には綺麗な円を描いた満月になるだろう。
砂漠の夜は、昼の灼熱とは打って変わって冷たく涼しい。冷たい風を頬に感じながら、今日も俺はバルコニーへと降り立った。裸足に、焼き物の冷たさが伝わる。
分厚い布のカーテンを抜ければ、一組のベットが置かれている。
そこで寝ている人は静かに目を開けた。こんばんはと、静かに声をかける。その人は何も発することなく、そっと微笑むと、横になったまま静かに目を伏せた。
ベッド脇の椅子に腰掛ければ、木の合わせ目がぎいと鳴る。
「君のことを話してほしい」
ふと、その人が声をかけてきた。
「俺のこと、ですか?」
「ああ、頼むよ」
少しの間悩んだけれど、話す事にした。俺はきっと、この人のお願いならなんでも言うことを聞くだろう。
さて、どこから話そうかと逡巡して、記憶にある全てを話す事にした。少しだけ長くなってしまうけれど、きっともう誰にも話す事はない。それに、この人にこそ、聞いてもらいたい。何故だか、そう思った。
夜の冷たい風が布を揺らして、それを合図に俺はゆっくりと口を開いた。


砂が吹きすさぶとある国に、一人の少年がいた。
少年は生まれながらにして貧乏だった。物心ついた時には自分が貧乏だという自覚もあったし、その日ご飯にありつけるかも分からない生活だった。
なんの取り柄もない少年は、乞食の見知らぬ爺さんの隣で路上に座り、目の前の欠けた壺に誰かが硬貨を投げ入れるのを待つ日々だ。
そんなある日のこと。いつものように、壺を抱えて街中を歩いていたら、目の前に何かが転がっていた。丁度小さな少年の手にも持てて、大体少年の腕ぐらいの長さの棒だ。どうやら鉄で出来ているらしく、それで壺を叩けば綺麗な良い音が鳴った。
今思い返せば何でもない、ただの折れて使い物にならなくなった火かき棒なんだろうけど、当時の少年からしてみれば小さな宝物だった。
その日はとても楽しかった。欠けた壺をその棒で叩いて、それに合わせて歌詞もない歌を歌う。言葉も知らない、文字も分からない。それでも、楽しかったのを覚えている。生きるので精一杯な街の人は、誰も薄汚れた子供の歌なんか聞く耳すら持たなかったが、それでも良かった。
今日も、一人で街の中に繰り出した。何も出来ないのだから、街の人に媚を売って硬貨を貰ってこいと母親に言われいつものように裸足で街を駆けた。欠けた壺を抱えて、いつもの場所に座り込む。そして壺を叩きながら声を上げた。言葉にならない言葉で、好きなようにリズムに乗せた。その時だ。
「いい歌だ」
目の前に小さな男の子が立っていた。少年よりも年下だろう。色白で綺麗な白い服を着ていて、こんなスラム街でとても珍しいなと思っていた。その子から何を言われたのかよく分からなかったけれど、自分に対して何かを言ったというのは分かった。
「なんという歌なんだ?」
学のない少年は、『歌』というのが何を示して言っているのか分からなかったが、母親は硬貨を貰ってこいと言っていたのを思い出してその子に向かって壺を差し出した。
男の子は少年の行動に首を傾げた。投げかけた言葉と行動が、噛み合ってないのだから当然だろう。
「明日もここにいるのか?」
「いるよ」
それは少年の中でも数少ない意味の分かる言葉だった。だから、すかさず答えた。
「それは良かった。明日もまた来る。今はあいにく手持ちがなくて……今度は何か持ってこよう」
そう言って、男の子は後から走ってやってきた大人に手を引かれて去っていった。少年はあんなに小さな子供なのに、俺よりも色んなことを知っていて凄いなぁなんて、呑気な事を考えていた。
そして、彼はその男の子を再び見ることは無かった。
少年はその日の夜、知らないおじさんに手を引かれながら砂漠の上を歩いていた。壺と棒は家に置いてきた。明日もまた街中で叩くものだと思っていたからだ。残念な事に二度と家に戻ることは無かった。
何も知らなかった少年は、後々に自分の親に二束三文で売られたという事実を知った。きっと、数日分の飲食代にはなった筈だ。
売られても仕方の無い生活だった。たとえあの時に事実を知ったところで、特に恨みもしなかっただろう。
ここまではよくある貧乏人の、哀れな子供の話だ。ここからが彼の人生で一番の幸運であり、そして最大の不運だろう。
少年は売人のおじさんに連れられて、オアシスを拠点とした隣国に住む人間に売られた。少年を買ったその人は、彼に学を与え、戦う術を叩き込み、ありとあらゆる処世術を教えこんだ。何も知らない空っぽの少年は、きっと何でも吸い込むスポンジみたいだったのだろう。その人は何でも教えてくれた。
少年を買ったその人は傭兵だった。
傭兵という職業につき、少年はその人について回って様々な国を渡り歩いた。その土地の言葉を覚え、文化を学び、そして戦場を駆け抜いた。
その土地の美しい言葉や音を知ったその日のうちに、戦いへと赴き戦火をくぐる。ボロボロになりながらも敵兵を殺して生き抜いて、汚れた両腕でその土地の名物だという食事を口にする。ちぐはぐとした、毎日だった。
そしていつの間にか、瞼を閉じて耳を塞ぎ、美しい物だけを追って見るようになる。現状は変えられないと、少年は早々に諦めていたんだ。きっとそれは、彼なりの不器用だが効果的な処世術。
そんな少年の瞳に、世界はどのように映ったのか。

辛いことも多かったけど、色んな国へ行けるのはとても楽しかった。砂と土しか知らなかった少年にとって、見るものが全て新鮮で、何かもが鮮烈だった。熱くて活気のある火の国、技術と科学の蒸気の国、製鉄と火薬の鉄火の国、長い歴史と文化と魔術の国、動物と共存し使役する獣の国、巨大な木の上に住み国益と国防を備えた森の国、海の上に浮かぶ巨大な船に住む海賊の国、広大な草原と乾燥した気候が特徴の遊牧の国、草も生えない荒野と墓守の灰が降る死の国、そして水と氷の寒い寒い雪の国。

自分がどういう存在で、どういう在り方を望まれているのかを理解出来る年頃になった時、その国……最後に来た雪の国の軍に入隊した。どちらかといえば、入隊“させられた”。少年は再び売られたのだ。
今度は良い値で売れたのだろう。配属先は特殊部隊だった。きっと彼はそのために、育てられた。その為に、世界を見て回った。
この頃になると養父はずいぶん歳を取り、戦場で銭を稼ぐには儲けよりもリスクの方が大きくなっていた。きっと俺は、老後の蓄えぐらいにはなっただろう。
その特殊部隊はなんでもやった。暗殺、潜入、工作なんだってやった。中でも少年……いや、青年は潜入に向いていた。上官曰く、彼は敵対心を削ぐ顔をしていると。自分の顔なんて考えたこともなかったが、ここでやっていくには都合が良かった。
青年は軍に入って初めて給料を貰った。壺を叩いてせびっていた頃からしたら、考えられない金額だ。特に欲しい物はなかったが、街中で売っていた見たことのない弦楽器を思わず買った。店主は楽器の名前を教えてくれたが、そんな事は彼にとって些細なことだった。
自宅に帰って楽器を抱えた。張られた弦を指先で弾けば、柔らかな音が小さな室内を反響してじわりと溶けていく。次々と弾けば様々な音が溢れて、空っぽの心の中に音が満ちていった。傭兵の養父と一緒に渡り歩いた国々の音が溢れ出す。気付けば言葉にならない歌を歌っていた。
あの時より、言葉も覚えて知識もついたというのに、結局歌うのは意味を成さない歌だった。それでも、楽しかった。
鉄の棒で壺を叩いていた頃と、音は何も変わっていない。音楽は何も変わらない。
時間が出来れば自室で弦を爪弾くのが日課となったある日、彼に指令が来た。潜入工作だ。
きっとこの任務が、青年の人生で最大の不幸だろう。青年は、十数年ぶりに生まれ育った国へ帰ってきた。

出された指令はこうだ。彼の生まれ育った砂の国で、王を殺し、継承者である息子も殺し、隣国の兵を招き入れ反乱を起こすという内容だった。彼の暗殺はすべで反乱軍の実行犯によるものとされ、青年はこの国に存在しないし、青年の属する“雪の国”も関わってはいない。そういう筋書きだ。
およそ十年ぶりに戻ってきた。彼の育ったこの国はだいぶ変わっていた。国力もなく民も国も飢えて死ぬだけだと思っていたここは、国民に笑顔が溢れる豊かな国に変わっていた。ただ富国というには、街中に落ちた貧困の影は未だ色濃く深い。豊かになったのはここ最近の出来事のようだ。
青年が少年だった頃、彼がいつも座り込んでいた街路は大きく変わって、様々な物資が流通する活気溢れる市場になっていた。そこで町中の人に話を聞けば、為政者が変わって大きく変化が起きたとの事だ。そして一番の変化は、自国領内で燃料資源が出たという。それを元手に各国と貿易をして栄え始めたのだと。国益は国民へ反映されて立派な市場が出来るほどに変化していた。
この数年でここまで豊かに変わったのなら、俺の両親は生きているかもしれない。青年はなんとなくそう思った。もう、顔もあまり思い出せない。わずかな記憶を辿って生家へ向かった。
結論だけ言えば、分からなかった。彼が住んでいた長屋……家とも呼べない代物だったが、そこには知らない家族が住んでいた。おそらく父と母と、子供が二人。幸せそうな良い家族だった。幸せにと願って、背を向けた。いずれこの街を戦火に陥れることになると分かっていながら……
いつも座り込んでいた場所を見つけるのには苦労した。なにせだいぶ変わっていて面影を探すのが一苦労だった。彼の隣でいつも座っていた乞食の爺さんはまだ生きていた。青年が隣に座ると、何か言いたそうに視線を向けてきたが、結局何も言わずに俯いた。
背負っていた楽器を抱えて、弦を弾く。そして言葉にならない歌を歌った。楽器や曲、音程は変わっても音楽は変わらない。懐かしいあの時のままだ。
「いい歌だ」
ふと声をかけられた。手を止めて見上げれば、頭からすっぽりと白いローブを纏った色白の青年が青灰の瞳で俺を見ていた。自然と見上げる形の俺は、その美しい金髪が陽の光に当たってきらきらと光って眩しかった。
「何という歌なんだ?」
「あ、あー……考えたことなかったや」
あまりにも人外離れしたその見目に釘付けになってしまい、反応が少し遅れた。その青年は虚を突かれたように驚いて、そして微笑んだ。
「いい歌なのに名前がないのか。少し、勿体ないな」
「えっと、名付けるとしたら……『名もなき歌』……かな? そのまんまだね、はは」
「いいんじゃないか」
青年は笑って言った。透けた太陽が酷く眩しくて、すっと目を細める。
その後は、他愛もない会話とした。どこから来たのか、何をしているのか、その楽器は何というものなのかとか、そんな感じの他愛もない会話。そして、次の問いかけに彼は心底驚いた。
「行くあてがないのなら、俺のところに来ないか?」
「え、ええ!?」
「もっと歌と、そして世界の話をしてほしい」
手を差し出された。白くて細くて、触れたら壊れてしまいそうな美しい手だった。恐る恐る、それに触れる。冷たかったが、思ったよりしっかりとしていて掴む力は強かった。
「俺の名前はコウキ。コウと呼んでくれ。あなたの名前は?」
「俺……俺は……マモル」
立ち上がってコウを見る。青灰の瞳は力強く光っていた。
「よろしく、マモル」
昔なくした宝物を見つけたような、そんな幼くも美しい笑顔だった。


珍しく長い話だった。普段は短いうたを歌うが、今夜は特別な夜で長々と一人の少年の人生を語った。
物語が終わってもその人は何も言わなかったが、薄く瞼を開けて天蓋を見た。瞳がゆっくりと動いて、ベットサイドの俺と目が合う。
「その物語の最後は、どうなるんだろうか?」
静かな部屋に、その人の声が響いた。
「……まだ、分かりません」
素直に答えれば、その人はそうかと呟いて、再び瞼を閉じた。
「願わくば……少年の旅路の果てに、幸せがあるといい」
優しく紡がれたその言葉に、俺は何も返さない。暫くその横顔を眺めていたが、その人はぴくりとも動かなかった。寝ているのか、横になっているのか俺には判断がつかなかった。
立ち上がり背を向けると、カーテンの隙間からバルコニーに戻った。
月は見えない。星たちは辛抱強くまたたいていたが、それももう薄くなってしまった。西の水平線の端が白み、明けの明星が朝日に飲まれる前にと一際大きく瞬いた。天空は紺碧と白に近い橙が溶けて馴染んでいく。
朝に取り残された冷たい夜風が頬を撫でた。
ああこの世界は、本当に美しい。
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