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◆短編

砂浜を裸足で駆ける。寄せてかかる水面が足をつく度に弾けて輝く。水平線では、夕日が沈みかけていて、青い海を赤く染めていた。
夕方になれば海水浴客は少なくなって、沖合でサーファーが波に乗っているぐらいだ。
私の目の前では、空が制服のスカートを翻しながら笑顔で水面を駆けていた。私はその輝く笑顔に若干の眩しさを感じながら、その小さな背中を追っかけている。
学校帰りに、遠くまで寄り道をしてスクール鞄を片手に海辺を走るなんて、きっと空とじゃなきゃ経験する事は無かった。

前期の終業式。世間では夏休み前の最後の登校日。その日は、午前中だけで終わる予定だった。帰りのHRが終わった頃に、別クラスの空がチャイムと同時にやって来た。
「昂ちゃん!昂ちゃん!夏休みだよ!海に行こう!」
そう満面の笑顔で告げる空の中では、もう既に夏休みに突入しているらしい。空らしいと少し笑った。
「今から?」
「そう!今から!」
本当にいつも突拍子もない。それでも、そんな空に振り回されるのが堪らなく楽しいと感じている自分がいる。
気が付けば「いいよ」と、二つ返事で返していた。
今日は午前だけだったから、駅前のファーストフード店で一緒に昼食をとりつつ少しお喋りして、それから電車に揺られて乗り継いで、二人だけで遠く離れた海に来た。
学校帰りに図書館や本屋、たまにカラオケに寄ったりはするけど、ここまで遠くまで来たのは初めてだった。実の所、道中の車窓から見えた海に、密かに心が踊っていた。自分の良く知る世界から離れて、何があるんだろうという好奇心と、ちょっとした不安。
海辺の駅から一歩外に出れば、まさに港町といった土産物や海産店が並んでいて、物珍しく辺りを散策した。日と潮に焼けた薄茶色の木造やトタンの平屋が多く、家屋の隙間には錆びて放置された自転車が物悲しく立てかけてある。
地元でそれを見れば不法投棄だと一瞥もくれないかもしれないが、すぐ隣が何もない海だと思うと、その錆びすらも味があるように見えた。
ここは大型の港湾を持つ商業色の強い栄えた港町でも、人気の海水浴場やアミューズメント施設があるようなリゾート地ではない。丁度双方の中間ぐらいの小さな漁港と、そこそこの海水浴場。そして小さな民宿があるような、どこか褪せた遠くの海辺。
「どうしてここに?」と聞けば、彼女は「海ならどこでもよかったけど、どうせなら遠いところがいいじゃない?」と、屈託のない笑顔で返してくれた。
一歩早い、夏が顔を見せた気がした。
目が眩む私の手を取って、来たばかりの木造の駅舎を飛び出した。



青い海に青い空。どこまでも遠くに伸びる水平線に、シンボルの灯台。潮の香りが風に乗って髪とスカートを揺らした。遮るもののない海辺では、風が強く吹き付ける。
隣で空の息を呑む音が聞こえた。ふと、横を見れば喜びを抑えられないといった感じで、大きな瞳を更に大きくして、キラキラとそれを光らせている。
「う、うみだー!」
両手を胸の前で握りしめて、今にも飛び跳ねそうだ。
「昂ちゃん!海だよ!海!」
「そんなに海に来たかったの?」
あまりのはしゃぎっぷりに不思議に思って、そう聞いてみると、一瞬だけ動きが止まってそれから、にっこりと笑った。
「だって高校最後の夏休みだよ?昂ちゃんと一緒に来たかったの」
臆面もなくそうはっきりと言われて、急に顔が熱くなった。遮るものがなくなった、夏の日差しのせいだと思いたい。いや……夏の日差しのような空のせいだ。
「嬉しいな」
素直に思ったままそう伝えれば、空もようやく自分の発言に気が付いたのか、顔を赤く染めた。そんな空が可愛くて、手を差し出す。
「行こう?」
「……うん!」
差し出した手を、優しく握られる。
「なんだか昂ちゃん、王子さまみたいだ」
隣を歩く空がぽそりと呟いた。そんなことは無いよと、心の中で返した。

いつだって連れ出してくれるのは空だった。
初めは教室から。次に通学路、そしてどんどん世界が広がって行く。
今日食べたハンバーガーだって、私一人だったら選択肢には上がらないし、最近行くようになったカラオケも、始まりは空。近頃は剣や涼も誘うようになった。そして、今日も帰り道が広がった。
海なんて、小学生の頃の遠足以来だろうか。休みの日ならまだしも、学校帰りとは予想していなかった。
実際にそんなに遠くはない。電車を乗り継げば一時間前後で着いてしまう。だからだろう。近くてわざわざ行こうとは思わなかった。
空はそんな足元に目をやって、私が見逃したきらりと光る日常を教えてくれる。
だから、空が私のことを“王子さま”と形容するのは違う。私は物語の王子さまのように空を新たな世界に連れ出すことが出来ないからだ。強くもない、ただ綺麗な見かけだけの人形みたいなものだ。
お姫さまを連れ出して行ける世界を、私は知らないのだと、つくづく思い知らされる。

空と一緒に駆け出して、焼けた砂浜の熱さと、波間の涼しさの間を小さく跳ねた。脱いだローファーは丸めた靴下と一緒に、「何も入ってないから大丈夫!」と公言された空の鞄の中だ。だから、素足で指の間を通り抜ける砂と水の感触を楽しんだ。
気をつけてはいたけれど、スカートの裾を少し濡らしてしまった。どうせ夏休み中にクリーニングには出すのだから構わないのだけど、つい気にしてしまう。
気が付けば太陽は大きく傾いて、白く強かった日差しを、柔らかな橙色に変化させている。先を行く空の影は伸びて、姿は黒く曖昧になる。
「空、そろそろ帰ろう」
空に向かって言えば、私の小さな言葉なんて潮がさらってしまったみたいで、空は聞こえなかったのかさらに先へと駆けてしまう。
走る空の後ろを、きらきらと跳ねた水が夕日を反射して柔らかく輝いている。
なんて、綺麗なんだろうか。
「好き。……空の事が、大好き」
聞こえないって分かってて声にした。
案の定、空は気が付いてない様子でくるりと振り返ると、私に向かって大きく手を振った。その姿があまりにも愛らしくて、思わず笑顔になってしまう。そして少しだけ、息が詰まった。
今の言葉に連れて、この気持ちも一緒に、潮がさらってくれればいいのに。そうすれば、きっと苦しくはない。
いずれ空の隣には、人形ではない本物の王子さまが来るだろう。それまでは……
輝く笑顔で私を待つ彼女の元へ、水面を蹴った。
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