◆短編
遠くて蝉がざわめく日だった。カラリと晴れた日で、夏の日差しが容赦なく肌を貫く。そんな日。
今日は珍しく天界からお客様が来ていて、透き通るような肌の彼をいそいそと日の当たらない日陰へ移動させた。丁度日陰になっていた本殿の縁側に連れてきて、奥からお茶と拝殿から拝借してこっそりと隠し持っていたお饅頭を持ってそばに座った。そんな矢先の事だった。
「空には、“誕生日”というものはあるのか?」
突然、この神さまは何を言い出すのかと思った。そっと隣を伺えば、朱の引かれた瞳が、じっと俺を見つめていた。奥深くまで澄んだ瞳の中に無邪気さが伺えて、思わず視線を逸らしてしまった。俺なんかよりもずっと昔から在るくせに純粋な瞳で見てくるものだから、どうしてかいつも俺が照れてしまう。
「守人に聞いたんだ。人の子は毎年生まれた日を祝うのだろう?」
「あー……うん。そう、だね。人の一生はとても短いから」
こくりと昂くんが首を傾げて、少し驚いてしまった。七五三や賀寿を、昂くんは一体どういう目で見ていたのか。
文字通り浮世離れしたこの神さまに、どうやって説明したらいいものか、滅多に使われない頭を総動員して言葉を紡いでいく。
「……この大地はさ、人にとってはとても過酷なんだ。災害や、疫病……そして戦。いとも簡単に死んじゃう」
俺たち妖怪の中には、戦場に積み上げられた死体の山から生まれた奴だっている。人と死はとても密接で、俺たちは光の届かぬ薄暗闇の隙間から、転がり落ちていく人々をよく見ていた。
俺がいつも良くしてもらっているご隠居も、この時勢に珍しく長く生きているけど、きっと瞬きのうちにいなくなってしまうだろう。
「一つ一つ年を重ねていくのは、彼らにとって奇跡みたいなものだから、誕生日は“今日まで無事に生きていてくれてありがとう”という感謝と、“これからも健やかに生きて”という願いを贈る日なんだ」
「良い風習だな。……きっと儚いからこそ、だろう」
さっきまで精一杯鳴いていた蝉の音が、ぴたりと止んだ。風で木の葉が揺れて、木漏れ日が輝いて動く。
そっと昂くんを伺えば昂くんは空を見上げていて、透き通るような青空についと目を細めて、ゆっくりと唇を動かした。
「命を尊ぶからこそ、生まれたものなのだな」
風が止んで、再び蝉が鳴き始めた。日差しは未だ厳しいけど、吹く風に秋の色が混ざり始めたから鳴いている蝉も、今年はもう最後になるだろう。
人の営みと共に生きながら、こうして神さまと仲良くお話できる俺だからこそ、人が生を祈る事の渇仰さを少しでも伝えられたらと思ったけれど……穏やかな昂くんの横顔を見る限り、ほんの少しぐらいは伝わったみたいだ。
「……そうだね」
カタリと下駄が鳴った。確認する間もなく気が付けば俺は両手を昂くんに取られていて、ぎゅっと握り締められる。
「えっ?えっ?」
視線を上げれば、昂くんの顔がとても近くて思わず仰け反ってしまった。
「話は戻るが、空の誕生日はいつなんだ?」
「えっ、ちょ、まっ、待って昂くん!お顔が近い!」
「あっと……すまない」
慌てる俺に気づいて、昂くんは前のめりになっていた上半身を元に戻した。
どうしてこんなに乗り気なんだ?しかも心なしかふわふわの尻尾が揺れている気もする。こんなに爛々な昂くん、久々だ。……あ、
「……もしかしてだけど、昂くん、モリから誕生日の話を聞いて自分も祝ってみたいなって思ったんでしょ」
昂くんは天界の神さまといえど、なんでも知ってる訳じゃない。むしろ箱入りのように育てられているからか、一般常識が疎いところがある。特に下界のことに関しては知らない事の方が多いから、とても興味津々だ。
図星だったのか昂くんはほんのりと頬を染めて、小さくはにかんで見せた。
「分かるか?」
「も〜バレバレだよ!」
「守人に聞いたところ、そう大きな祭事ではないのに、誕生日は皆が笑顔になるという。俺は単純に、空の笑顔が見たかったんだ」
聞き捨てならないお言葉に急に顔が熱くなった。でも、昂くんの顔色は妙に晴れない。
「しかし、空の話を聞けば、あまり単純な話ではなさそうだ」
ほんの少しだけ、複雑な表情を見せた原因は俺にあったようだ。
確かに生とか死とか、ちょっとだけ暗い話もした。でもそれは結果論であって、根底は違う。もっともっと単純な、優しい気持ち。
「あれこれ言っちゃたけど、単純な話だと俺は思うよ!……だってさ、人を祝うのに、邪な気持ちなんて要らないでしょ?」
昂くんはぱちぱちと数度瞬いて、そして穏やかに微笑んだ。
「……それもそうだな」
神さまって、本当に輝いてるからすごいと思う。きらきらと純粋で、俺には少しだけ眩しいや。
そんな昂くんの瞳の奥に、再び好奇心の炎が宿ったのがありありと見て取れた。
「じゃあ」
「えと……期待してるところ申し訳ないけど、俺……ただの猫又だから、誕生日は分からないんだ」
子猫の頃から猫又だった訳じゃない。そんな小さな子猫が、自分の生まれた日を覚えてる訳がないからだ。親も死んでるし、子猫時代の俺を知ってる人もそういない。
「……猫又として、自我を得た時分はどうだ?」
「あー……なんと言いますか、気が付いたら猫又だったと言いますか……ちょっと当時の記憶があやふやでして……」
「なら、今日を生まれた日にすればいい」
「…………はい?」
いまなんと?どうしてその考えに至ったのか全く理解できないでいると、昂くんは平然と同じ言葉を繰り返した。
「生まれた日は分からない。妖怪として変転した日も曖昧。なら祝い日を好きに決めてもいいんじゃないかと思うんだが……それとも、今日が誕生日では、なにかまずいだろうか?」
「い、いや、まずいというか……まずくないというか……そもそも妖怪に誕生日の概念が」
「ん?」
初めにも言ったと思うけど、俺は昂くんのこの純粋な瞳が得意じゃない。その眼差しを目の前にすると、こうして小難しく考えてるのがバカらしくなっちゃうし、どうしてか心臓がどきどきして上手く頭が回らなくなる。
「ぁ……う、だ、大丈夫デス……ハイ。俺は、今日が誕生日です」
ああもういいやと、半ばヤケクソだった。妖怪に誕生日なんてないし、あったところで別に何があるわけじゃない。昂くんが満足すればそれでいいなって、思ってた。思ってた、けど
「本当に?本当にいいのか?」
昂くんの金色の毛がふわりと立って、きらきらと瞳の奥が輝きだした。俺なんかよりもとても嬉しそうにしているから、誕生日がどうのというよりもそれがちょっと嬉しくて、ちいさく首を縦に振った。
「そらっ」
首を縦に振った瞬間だった。次の瞬間には昂くんの腕の中に収まっていた。
「っ!?」
抱きしめられていると理解した瞬間、カッと顔が熱くなる。次には心臓が破裂すると思ったけど、なんだか少しだけいつもと違う。
昂くんの腕の中は暖かくて、夏なのに全然不快じゃない。それにいい匂いがして、興奮していた筈の心臓が落ち着きを取り戻していくのが分かる。ごちゃごちゃだった頭の中が綺麗になって、不思議なぐらいすっきりとしていく。
何かが、削ぎ落とされていくような感覚だった。その感覚は体験したことがなくて、言うなれば、異次元だ。
現状を理解できないまま受け入れていると、耳元で昂くんの凛とした声が聞こえてくる。
「空という存在が生まれて、そして俺に出会えたこと。全ての廻り合せに厚く感謝する。そして、これからも、この先も。空の御霊が息災であることを、強く乞い願わん」
まるで、真冬の広い道場で聴いているような、とても透き通った声だった。
言葉の意味を理解する前に、ゆっくりと昂くんが俺から離れていく。離れた先から夏の湿気がむわりと滑り込んできてぞくりとした。まるで切り取られた世界から元の時空に戻ってきたような、そんな不思議な違和感。
きっと今の俺は、ネズミに噛まれたような顔をしてたと思う。じっと俺の様子を伺っていた昂くんがちいさく吹き出した。
「大丈夫か?」
「ダイジョウブって……あの、昂くんさま?今のって、祝福というやつでは……?」
昂くんは天界に住んでいる九尾のれっきとした神さまで、そんな神さまが贈る祝福は一味も二味も意味が違う。とんでもないものを貰ってしまったかもしれない。
「?もちろんそのつもりだったが、少し違ったか?一応、空に教えて貰った通りに、感謝と願いを込めたつもりだったが……」
「いや、いやいやいや!神さまがそんな簡単に祝福していいの!?俺、ただの猫又だよ?」
俺の尋常じゃない慌てっぷりに何故か気を良くしたのか、昂くんはにこにこと楽しそうに微笑んでいる。
「空が何に動揺しているのかが分からないが、立場の事なら何一つ気にしなくていい」
ゆっくりと昂くんの手が伸びて、俺の頬に指先が触れた。指が滑って、頬を撫でる。
「昔から天は平等だが、神は贔屓する存在だぞ?」
確かに。確かにそうだけれども!
いたずらっ子のようにくすくすと微笑む昂くんを見て、逸る鼓動が別の悲鳴を上げだしたのは、また違う話。
今日は珍しく天界からお客様が来ていて、透き通るような肌の彼をいそいそと日の当たらない日陰へ移動させた。丁度日陰になっていた本殿の縁側に連れてきて、奥からお茶と拝殿から拝借してこっそりと隠し持っていたお饅頭を持ってそばに座った。そんな矢先の事だった。
「空には、“誕生日”というものはあるのか?」
突然、この神さまは何を言い出すのかと思った。そっと隣を伺えば、朱の引かれた瞳が、じっと俺を見つめていた。奥深くまで澄んだ瞳の中に無邪気さが伺えて、思わず視線を逸らしてしまった。俺なんかよりもずっと昔から在るくせに純粋な瞳で見てくるものだから、どうしてかいつも俺が照れてしまう。
「守人に聞いたんだ。人の子は毎年生まれた日を祝うのだろう?」
「あー……うん。そう、だね。人の一生はとても短いから」
こくりと昂くんが首を傾げて、少し驚いてしまった。七五三や賀寿を、昂くんは一体どういう目で見ていたのか。
文字通り浮世離れしたこの神さまに、どうやって説明したらいいものか、滅多に使われない頭を総動員して言葉を紡いでいく。
「……この大地はさ、人にとってはとても過酷なんだ。災害や、疫病……そして戦。いとも簡単に死んじゃう」
俺たち妖怪の中には、戦場に積み上げられた死体の山から生まれた奴だっている。人と死はとても密接で、俺たちは光の届かぬ薄暗闇の隙間から、転がり落ちていく人々をよく見ていた。
俺がいつも良くしてもらっているご隠居も、この時勢に珍しく長く生きているけど、きっと瞬きのうちにいなくなってしまうだろう。
「一つ一つ年を重ねていくのは、彼らにとって奇跡みたいなものだから、誕生日は“今日まで無事に生きていてくれてありがとう”という感謝と、“これからも健やかに生きて”という願いを贈る日なんだ」
「良い風習だな。……きっと儚いからこそ、だろう」
さっきまで精一杯鳴いていた蝉の音が、ぴたりと止んだ。風で木の葉が揺れて、木漏れ日が輝いて動く。
そっと昂くんを伺えば昂くんは空を見上げていて、透き通るような青空についと目を細めて、ゆっくりと唇を動かした。
「命を尊ぶからこそ、生まれたものなのだな」
風が止んで、再び蝉が鳴き始めた。日差しは未だ厳しいけど、吹く風に秋の色が混ざり始めたから鳴いている蝉も、今年はもう最後になるだろう。
人の営みと共に生きながら、こうして神さまと仲良くお話できる俺だからこそ、人が生を祈る事の渇仰さを少しでも伝えられたらと思ったけれど……穏やかな昂くんの横顔を見る限り、ほんの少しぐらいは伝わったみたいだ。
「……そうだね」
カタリと下駄が鳴った。確認する間もなく気が付けば俺は両手を昂くんに取られていて、ぎゅっと握り締められる。
「えっ?えっ?」
視線を上げれば、昂くんの顔がとても近くて思わず仰け反ってしまった。
「話は戻るが、空の誕生日はいつなんだ?」
「えっ、ちょ、まっ、待って昂くん!お顔が近い!」
「あっと……すまない」
慌てる俺に気づいて、昂くんは前のめりになっていた上半身を元に戻した。
どうしてこんなに乗り気なんだ?しかも心なしかふわふわの尻尾が揺れている気もする。こんなに爛々な昂くん、久々だ。……あ、
「……もしかしてだけど、昂くん、モリから誕生日の話を聞いて自分も祝ってみたいなって思ったんでしょ」
昂くんは天界の神さまといえど、なんでも知ってる訳じゃない。むしろ箱入りのように育てられているからか、一般常識が疎いところがある。特に下界のことに関しては知らない事の方が多いから、とても興味津々だ。
図星だったのか昂くんはほんのりと頬を染めて、小さくはにかんで見せた。
「分かるか?」
「も〜バレバレだよ!」
「守人に聞いたところ、そう大きな祭事ではないのに、誕生日は皆が笑顔になるという。俺は単純に、空の笑顔が見たかったんだ」
聞き捨てならないお言葉に急に顔が熱くなった。でも、昂くんの顔色は妙に晴れない。
「しかし、空の話を聞けば、あまり単純な話ではなさそうだ」
ほんの少しだけ、複雑な表情を見せた原因は俺にあったようだ。
確かに生とか死とか、ちょっとだけ暗い話もした。でもそれは結果論であって、根底は違う。もっともっと単純な、優しい気持ち。
「あれこれ言っちゃたけど、単純な話だと俺は思うよ!……だってさ、人を祝うのに、邪な気持ちなんて要らないでしょ?」
昂くんはぱちぱちと数度瞬いて、そして穏やかに微笑んだ。
「……それもそうだな」
神さまって、本当に輝いてるからすごいと思う。きらきらと純粋で、俺には少しだけ眩しいや。
そんな昂くんの瞳の奥に、再び好奇心の炎が宿ったのがありありと見て取れた。
「じゃあ」
「えと……期待してるところ申し訳ないけど、俺……ただの猫又だから、誕生日は分からないんだ」
子猫の頃から猫又だった訳じゃない。そんな小さな子猫が、自分の生まれた日を覚えてる訳がないからだ。親も死んでるし、子猫時代の俺を知ってる人もそういない。
「……猫又として、自我を得た時分はどうだ?」
「あー……なんと言いますか、気が付いたら猫又だったと言いますか……ちょっと当時の記憶があやふやでして……」
「なら、今日を生まれた日にすればいい」
「…………はい?」
いまなんと?どうしてその考えに至ったのか全く理解できないでいると、昂くんは平然と同じ言葉を繰り返した。
「生まれた日は分からない。妖怪として変転した日も曖昧。なら祝い日を好きに決めてもいいんじゃないかと思うんだが……それとも、今日が誕生日では、なにかまずいだろうか?」
「い、いや、まずいというか……まずくないというか……そもそも妖怪に誕生日の概念が」
「ん?」
初めにも言ったと思うけど、俺は昂くんのこの純粋な瞳が得意じゃない。その眼差しを目の前にすると、こうして小難しく考えてるのがバカらしくなっちゃうし、どうしてか心臓がどきどきして上手く頭が回らなくなる。
「ぁ……う、だ、大丈夫デス……ハイ。俺は、今日が誕生日です」
ああもういいやと、半ばヤケクソだった。妖怪に誕生日なんてないし、あったところで別に何があるわけじゃない。昂くんが満足すればそれでいいなって、思ってた。思ってた、けど
「本当に?本当にいいのか?」
昂くんの金色の毛がふわりと立って、きらきらと瞳の奥が輝きだした。俺なんかよりもとても嬉しそうにしているから、誕生日がどうのというよりもそれがちょっと嬉しくて、ちいさく首を縦に振った。
「そらっ」
首を縦に振った瞬間だった。次の瞬間には昂くんの腕の中に収まっていた。
「っ!?」
抱きしめられていると理解した瞬間、カッと顔が熱くなる。次には心臓が破裂すると思ったけど、なんだか少しだけいつもと違う。
昂くんの腕の中は暖かくて、夏なのに全然不快じゃない。それにいい匂いがして、興奮していた筈の心臓が落ち着きを取り戻していくのが分かる。ごちゃごちゃだった頭の中が綺麗になって、不思議なぐらいすっきりとしていく。
何かが、削ぎ落とされていくような感覚だった。その感覚は体験したことがなくて、言うなれば、異次元だ。
現状を理解できないまま受け入れていると、耳元で昂くんの凛とした声が聞こえてくる。
「空という存在が生まれて、そして俺に出会えたこと。全ての廻り合せに厚く感謝する。そして、これからも、この先も。空の御霊が息災であることを、強く乞い願わん」
まるで、真冬の広い道場で聴いているような、とても透き通った声だった。
言葉の意味を理解する前に、ゆっくりと昂くんが俺から離れていく。離れた先から夏の湿気がむわりと滑り込んできてぞくりとした。まるで切り取られた世界から元の時空に戻ってきたような、そんな不思議な違和感。
きっと今の俺は、ネズミに噛まれたような顔をしてたと思う。じっと俺の様子を伺っていた昂くんがちいさく吹き出した。
「大丈夫か?」
「ダイジョウブって……あの、昂くんさま?今のって、祝福というやつでは……?」
昂くんは天界に住んでいる九尾のれっきとした神さまで、そんな神さまが贈る祝福は一味も二味も意味が違う。とんでもないものを貰ってしまったかもしれない。
「?もちろんそのつもりだったが、少し違ったか?一応、空に教えて貰った通りに、感謝と願いを込めたつもりだったが……」
「いや、いやいやいや!神さまがそんな簡単に祝福していいの!?俺、ただの猫又だよ?」
俺の尋常じゃない慌てっぷりに何故か気を良くしたのか、昂くんはにこにこと楽しそうに微笑んでいる。
「空が何に動揺しているのかが分からないが、立場の事なら何一つ気にしなくていい」
ゆっくりと昂くんの手が伸びて、俺の頬に指先が触れた。指が滑って、頬を撫でる。
「昔から天は平等だが、神は贔屓する存在だぞ?」
確かに。確かにそうだけれども!
いたずらっ子のようにくすくすと微笑む昂くんを見て、逸る鼓動が別の悲鳴を上げだしたのは、また違う話。
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