◆短編
薄暗い管制室。極限まで抑えられた暗闇の中に、グリーンのランプが小さく点滅している。ありとあらゆる機能をスリープしているから、あの点滅は唯一機能している索敵センサーのランプだろう。俺は管制室の真ん中に座り込んで、そのランプをぼんやりと眺めながら、背中に感じる重みを噛み締めていた。俺の後ろの方から、思い出したかのような小さな声が上がって、もぞりと身じろぐ気配がする。
動かない方がいいと、注意する間もなく空はすぐに口を開いた。
「昂くんはさ、時間を巻き戻すことが出来たら、何がしたい?」
「……突然どうしたんだ?」
「いいからさ、教えてよ」
言われるがまま、頭の中で時を遡る。俺はどこまで遡れば良いのだろうか。首都決戦が行われたロストエンド?それとも適合試験前?又は士官学校入学前まで戻ればいいのか……リングの適合自体、“彼ら”の好みによるものなら、結局俺たちは乗艦する未来になってしまいそうだ。なら……
「入学した頃に戻って、もう一度みんなで学校生活を送りたいな」
「……いいね、それ。最高」
そう言って空は、溜まった空気を吐き出すように息を吐いた。そして冷たい空気をゆっくりと肺に送り込む。もう、限界なんだろう。
「空、もういいから」
「……ううん。大丈夫。せめて、援軍が来るまでやらせてよ。それまで背中……貸して?」
このやり取りも数えきれない程繰り返した。俺はぐっと言葉を飲み込むと、小さく点滅するランプを睨むように見つめた。
数十年前から“彼ら”による猛攻が始まった。Lv5クラスがどんどんと押し寄せて、平和のように見えた世界はあっという間に侵略された。辛うじて首都宙域は死守しているが、それもきっと時間の問題だろう。
北側を守護している俺たち第三艦隊はほぼ壊滅した。“彼ら”の波状攻撃に耐えきれず、残ったのは青龍の主リングをもつ俺と空だけになってしまった。といえと、空も先の戦いで大破クラスの怪我を負い、もう限界を超えて艦船を動かしている。
今は敵の攻撃も止んでいて、小休止と言ったところだが、次また攻撃が来れば耐えられないだろう。そこで空は、まだ損傷の少ない俺を温存する事にした。空の言い分は正しい。共倒れを防ぐならそれが一番いい。逆の立場だったら俺もそうしただろう。
だが、背中越しに苦しそうに呼吸をされると、堪らなくなる。どうして背中合わせなのかというのは、空が俺の顔を見たら甘えてしまうからって、この形に落ち着いた。辛いのだから、楽な姿勢でと言ったのにそれは頑なに断られた。
戦争後半にもなると人員の補給もなくなって、俺たちの艦に人間が乗ることはなくなった。青龍との適合率を上げて細やかな所まで自分たちで動かす事が出来るようになったから、オペレーターや整備士などが不要になったんだ。だから、この艦には俺たち二人しかいない。適合者以外の一般人に危険が無くなったのはいいけれど、それはそれで少し寂しくはある。
適合率を上げた利点は多々あるが、艦そのもののダメージが自分自身に入ってしまうのが難点だ。まさに、俺たちが戦艦になったような感覚で、最近では俺は“人”なのか“彼ら”なのか……よく分からない。
「……昂くんの事だから、“彼ら”の侵略が始まった最初まで戻るんじゃないかなって思った」
「何百年前だと思ってるんだ?」
「んふふ、わかんない。でも、ほら……昂くんは本当に世界の事考えて、みんなのために戦うから、根本から倒しに行ってもおかしくないなって」
吐き出した吐息が白い。空調も切ったのか、大分冷えてきた。目の前のコンソールにかかっていた青い犬の描かれたブランケットを足を伸ばして引きずり落とす。前にいた誰かの忘れ物かもしれないけど、ありがたく使わせてもらおう。つま先で引き寄せて、背中側に回しかけた。空にブランケットがかかったか分からないけど、小さくありがとうと聞こえたから上手くいったようだ。
「でも、また学生やりたいって言われて、俺も確かに!って、思ったから……一番楽しかったんだろうなぁ……もう、ほとんど覚えてないけど」
小さな吐息が、静かな空間に広がった。まだ、ランプは緑色に点滅している。無音が苦しくて、ダメだと分かっていながら空の名前を呼んだ。間を置いてから、小さく返事が帰ってきて思わず泣きそうになる。
「……昂くん、俺のことは気にしないで話しかけてよ。俺、会話しないと気付いた時には意識無いかもしれない」
乾いた笑い声と笑えない台詞にこっそり唇を噛む。自分の膝を強く抱いて、胸の苦しさを誤魔化した。こんな時、俺は何も出来ない。
空の望み通り会話の続きをしなければと、律儀にもふと思っていた事を聞いた。
「……空はどうして突然そんな話を?」
「少し前に映画を見たんだ」
「えいが?映画って、あの旧時代の?また、情報局に忍び込んでアーカイブを漁ったんだな?」
「うっ……はい。でも機密データじゃなくて、娯楽作品だからこっそり見る分にはいいって……まもちゃんが」
「衛……」
突然売られた同僚の名前に、視線を落とした。それでも衛らしいと思えるし、それぐらい構わないだろうと思う。
「その映画はね、主人公が初恋の人を不幸から救おうと、過去に遡って試行錯誤をするストーリーなんだ」
空はその映画の概要を話し始めた。どうやらタイムトラベル物のようで、現代で好きな女の子に不幸が起きてしまうから、過去に戻って救おうとする物語のようだ。
「だけど、何度過去を変えても未来の結末は変わらなくてね……彼女が幸せでも自分が不幸だったり、二人とも不幸になったり……」
空の声が段々と小さくなる。感受性豊かな空の事だ。主人公に感情移入して落ち込んだのか、それとも空の方が喋る気力も尽きそうなのかもしれない。そのまま黙っていれば、空は思い出したように会話を続ける。意識を保とうと、必死で頭を動かしているようだ。
「……その映画観てて、何だか俺たちに似てるなって」
「似てる?」
「うん……こうやって、何度も何度も戦って……見える終わりを先延ばしにして、さ」
俺はそれに対して何も応えられなかった。きっと映画の主人公のように、過去を遡っても何も変わらない。本来なら知らないはずの真実を知ってしまった今、それはどうしようもない“終わり”を指していた。そのいつかを先延ばしにするために、俺たちは存在していると。……出来れば、知らないままでいたかった。
「どこかで蝶が羽ばたけば、星の反対側で竜巻が起こる……」
「空?」
「……俺たちのこの行動も……どこかの未来では……」
こんなにも静かな空間なのに、空の最後の囁きはほとんど聞き取れなかった。ただ、視界の端ではランプが点滅を繰り返す。操縦者である空の意識が朦朧としているのに、システムは未だ正常に稼働している事に、ほんの少し嫌悪感を抱く。
再び訪れる静寂。俺は空の望むまま言葉を口にする。
「空、その映画の結末はどうなったんだ?」
「……彼は思いついたんだよ。二人とも幸せになれる道を……」
どうやら映画の主人公は解決策を見つけたらしい。その方法はなんだろうかと、耳を澄まして頭を傾ける。空の言葉は聞こえなくて、代わりに緑のランプが消えた。ふっと機器から放電する音がして、完全な暗闇が訪れる。それもすぐに切り替わって、電子音と共に周辺のモニターの明かりが点った。電気も再び点いて、機器の動作する低いモーター音が辺りに響く。視界の端では索敵センサーのランプが、他の明かりに埋もれながら、点滅を繰り返していた。
青龍の操縦者が俺に切り替わったんだ。それの意味する事を察して息が詰まった。
抱いていた膝を解いて、身体をずらす。俺にもたれかかっていた空の身体がぐらりと揺れて、床に倒れそうになるそれを抱きとめた。
「空……」
空の頭を腿に乗せて、静かに横たえる。その表情はまるで眠るようで、そっと冷たい頬を撫でた。相当堪えてくれたのか、瞼の下には濃い隈が出来ていて、やり場のない悔しさが腑を焼いていく。
喉元に指先を当てれば感じるはずの鼓動は無くて、大きく息を吐いた。気付いてはいたが、どうやっても割り切れるものじゃない。
空が死んでも俺には仕事が残っている。空の軍服に手を這わせる。パタパタとポケットを調べて、胸元からデバイスを回収。そして右手指から、リングを抜いた。ブランケットを遺体にかけ直して、そして俺は再び緑色に点滅するランプを睨む。いつ、襲撃が来るか分からない。いつ、援軍が来るかも分からない。
奥歯を噛み締めながら、空の頬を撫でる。少しでも温もりが残っていればいいと、願いを込めて。
どれぐらい経ったのだろうか。艦内に響くアラーム音で顔を上げた。気付いたら寝てしまっていたらしい。急いで視線を動かして索敵センサーを確認すれば、ランプは点滅することなく青色に点っている。反応的に索敵範囲内に侵入したのは“彼ら”ではない。艦型識別では同系統艦。恐らく味方、だろう。目の前にモニターを表示して、望遠カメラで確認する。
青色のボディカラーが特徴的で、あれは……“青龍”の機体だ。
着艦許可を出してしばらく待てば、新しく来た青龍の乗組員がぞろぞろと管制室にやってくる。俺は空を膝に載せているから、首だけを動かして彼らを迎えた。
「おかえり」
「……ただいま」
俺に返事を返したのは剣介だけだ。みんな口を閉ざして、じっと俺の膝元を見ている。
「……間に合わ……なかったですね」
「いや、元々空の消耗は激しかった。時間は関係ない」
苦しそうに呟いた廉に向かって返してみたが、あまり気休めにもならなかったらしい。宗司が身を乗り出して空の手首に触れる。死体を確認して、俺の顔を見た。
「確認だがデバイスとリングは?」
「回収した」
「了解。……処理は俺たちでしておく。昂輝は休んでくれ」
空が宗司によって抱えられ、膝の上にあった重みが消えていく。それが寂しくて、すがるように伸ばした手を取ったのは衛だった。衛の手に支えられてゆっくりと立ち上がれば、久々に立ち上がったせいで目眩がした。
「昂くん大丈夫?」
「……ああ、空は?」
「大丈夫だよ。彼は足が早いから、すぐに“新しい空くん”は来ると思う」
終始和やかに努める衛の傍から、宗司と望の手によって部屋から運び出されていく空の姿が僅かに見えた。
その後は操縦を変わると申し出た涼太に操縦権を渡して、逃げるように自室に帰った。
ポケットから自分と空のデバイスを取り出して机に置く。何があるか分からないから自分のリングはつけたままで、空のだけデバイスと一緒にリングも置いた。そしてベッドに飛び込んだ。
ここの所、戦闘続きで本当に疲れていた。すぐに瞼は重くなって、それに逆らうことなく瞼を落とす。ゆっくりと、暗闇に沈んでいく感覚。
もう、膝に抱いていた重さも分からない。涙ははるか昔に枯れ果てた。
ああ、でも……あの映画の結末だけは気になるな。
1
数十年前。第一皇子であった睦月始が失踪した。
第二皇子であり、この世界を作り上げた張本人である霜月隼は、失踪した睦月始に対して特に一言も発すること無く、宮殿の奥深くへ篭ってしまった。突然、主力であった睦月始の安否が不明となり、周辺では暗殺説が流れてしまい一時は巷が騒然とした。
ロストエンドを知っている俺たちからすれば、始さんは自分の世界に帰ってしまったのだろうかとも思う。それとも本当に、殺されてしまったのか……。隼さんが口を閉ざす限り、真実は闇の中だ。
だが、大きな問題はそこでは無い。始さんも隼さんも第一第二艦隊の艦長であり、それぞれ主リングの持ち主だ。その二人が欠けることによる国防への影響は深刻だった。再び第一の主リングの適合者を探すコストや、その間の防衛の手立てを勘案すればするほど、他への負担が大きい。
そこで研究局は考えた。
適合者を探すのではなく、作れば良いのだと。
幸い、第一リングに欠番が出た。更にいえば適合者であった睦月始のサンプルも、過去に太田少尉が手に入れたものがあり、材料は揃っている。研究局は、いなくなった“睦月始”を作る事に決めた。
結果的にいえばそれは成功した。“睦月始”のクローンは、見た目も、声も、仕草も、思考も全てがオリジナルと一緒で、リングとの適合も上手くいった。残すところ倫理的観点の問題だったが、“彼ら”の力を自由に使える適合者の存在は、そんな倫理観など簡単に隅に追いやってしまった。
次に研究局が考える事は簡単だ。適合者を複製出来るのであれば、いざという時のために今いる適合者からもサンプルを徴収しよう。と。
未来の為だといえば誰も断れない。篁中将の際に発生した年齢による不具合も、クローンの作製の際に遺伝子的に若くなるよう調節してしまえばいい。
こうして俺たち適合者は、代えの利く存在となった。
きっとそれが良くなかった。“彼ら”からの攻撃が強まってきたのも丁度同時期だった。
……隼さんは、この世界を終わらせることを願ったらしい。それは生ぬるいものではなく、強い意思として人類に襲いかかる。
“彼ら”との戦いは激化した。人が多く死んで、多くの地が焼かれた。そして、多くの仲間が死んで行った。
そして仲間たちは何食わぬ顔で再び戦地へと戻ってくる。戦火に倫理は焼かれてしまった。俺の心と記憶は摩耗して、何が正常なのかも理解できない。
もう、宇宙で戦っているのは適合者である俺たちだけだ。他の艦隊とは連絡は取り合っていないから、みんな四方に散ってそれぞれの役割を果たしているのだろう。
テールにはずっと戻っていない。
2
僅かな音が鼓膜を揺らした。瞼を開ければ真っ白いシーツが眼前にあって、ゆらりと上体を起こす。俺は上着も脱がないでベッドに倒れ込んだらしい。シワのついた裾を引っ張った時、最初に聞いた音がもう一度響いた。誰かがドアを、控えめに叩いている。
立ち上がってドアに向かう。扉を開ければ、明るい顔色をした空が立っていた。俺の顔を見て、ぱっと表情をほころばせる。
「あ、えと、ただいま戻りました!」
「ああ、おかえり空」
「……休んでるって聞いたんだけど……お仕事してたの?」
「いや、うっかり軍服を脱がないで寝てしまって」
それを聞いた空は丸い目を更に丸くすると、再び目を細めた。
「昂くん、疲れてたんだよ」
「そう、だな……」
「よく眠れた?」
首を傾げて、聞いてくる空の表情は少し心配そうだ。大丈夫だという意志を込めて軽く微笑めば、空もそれに返してくれる。
「俺はどれぐらい寝ていたんだ?」
「えと……前の俺が死んだって報告が来てから……11時間ぐらいかな」
随分と寝てしまっていたらしい。起こしてくれても良かったのに、そっとして置いてくれたのだろう。
「そういえば、どうして俺のところに?」
「へ?」
「用があったんじゃないのか?」
首を傾げた空だが、すぐにはっと思い出したようで自分の両手を叩いた。
「ああ!そう!俺のデバイスとリング!昂くんが預かってくれてるって聞いたから」
ああ、そうだった。くるりと自室に戻って机の上に置いたままのデバイスとリングを取った。それを空に手渡す。
「ありがとう」
それを受け取った空は、そのままデバイスを操作する。リスポーンしたばかりの空は、前回の自分が死ぬ直前の記憶は無い。
基本的に記憶は睡眠時や休憩の時に龍さんを介してデジタル処理されてデータベースに保管される。が、死ぬ直前の記憶となるとそうはいかない。そういうものは全て自分の中の龍さんが記憶しているから、復活して真っ先に行うのが、自分のデバイスからの記憶のロード。なくても最悪困らないが、あった方がその死因が次回に生かせる。
空のデバイス上を指と視線が忙しなく動いていたが、すぐにピタリと止まって空の顔が上がった。
「うん、大丈夫。全部回収できた」
ありがとうと告げて、俺の部屋を後にしようとした空を引き止める。空は不思議そうに小首を傾げて俺を見上げてきた。
俺はとても気になってる事がある。きっとこのタイミングでしか聞けない。
「空……あの、映画の結末はどうなったんだ?」
死ぬ間際に話してくれたあの映画。未来を変えるために、何度も過去へ戻ってあらゆる手を尽くそうとしたあの結末。主人公はどうなったのか。
空は眉尻を下げて、悲しそうに微笑んだ。
「ごめんね、昂くん」
その一言で全てを察した。
「“俺は”覚えてないや。上手く引き継げなかったみたい」
「……いや、大丈夫だ。引き止めて済まない」
「本当にごめんね」
その言葉を最後に、遠ざかっていく空の背中を見届けた。
空にとって、さっきの問題は良くある事だ。
空は記憶を引き継ぐ時に、時々欠落が起きる。何らかの不具合なのか、空の意図によるものなのかは、前の空が死んでしまった以上……もう分からない。
失った記憶の影に過去の空を見つける度、真綿でゆっくりと首を締められたように苦しくなる。
まるであの映画の主人公のようだ。何度も何度もやり直しては、こんなつもりじゃなかったと嘆く。
ああ、こんなことなら
「……映画のタイトルだけでも、聞いておけば良かった」
何度も時を巡り直しても、上手くいかない主人公が選んだ選択はなんだったのか。
きっと俺は……それが分かるまで、戦い続けるのだろう。
0
薄暗い艦内。グリーンの索敵ランプが点滅している。極力照明の落とされた管制室は、一人を残して誰もいない。ただ、一定の間隔でランプが周辺を緑色に染めていく。
そのランプの真下。コンソールに伏すようにもたれている人がいた。傾いた制帽の隙間から明るいブラウンの毛先が覗いている。
丸まった背中は上下に動いているから、きっと寝てしまったのだろう。監視中に居眠りなんて、普段なら危機管理がなってないと注意するところだが、今日ぐらいは仕方ない。ここはテール首都上空だ。ここで青龍の索敵範囲内に入るほど接敵を許したのなら、その敵報は俺たちに伝わって、既に厳戒態勢になっている。それに、そんなことになる前に宙域にある監視衛星にいる索敵部隊が、先に“彼ら”を見つけるだろう。
だから、今だけは……ちょっとだけでも、気を緩めても平気だ。
管制室で居眠りをしているのを見かけて、自室から使っていないブランケットを持って戻って来た。居眠りだけなら目を瞑るが、その結果風邪をひいたとなると、それは黙っていられない。
起こさないように足音を殺して近づいて、そっと肩の上にかけた。瞬間、寝ていると思った彼の両目が大きく見開いた。
まるまるとした瞳と目があって、それが零れそうなほど見開くと、彼は大きく仰け反った。
「う、わ、わわわ!こ、昂くん!」
「おはよう、空」
「お、おはよう、ゴザイマス……」
居眠りをしていて、俺に怒られると思っているのか、空は眉尻を下げてぎゅっと垂れ下がったブランケットを握りしめていた。
「あ、あの、その」
「あまり褒められたことじゃない……が、テール上空なら安全は確保されている。今はそこまで気にしない」
空は分かりやすくホッとした様子で、胸をなで下ろしている。そんな空の首に、ヘッドホンがかかっていたのが気になった。
「通信が来てたのか?」
「あっ、いや……」
なんだか歯切れが悪い。じっと見つめれば、観念したように空は手元のコンソールを動かして、ボリュームレベルを上げていく。
首に下げられたヘッドホンから、僅かに意味をなさない音が聞こえて、その音の輪郭が段々とはっきりしてくる。
「……音楽を聴いていたのか?」
「誰もいないから、いっかなって」
「持ち込んだのか?」
「いや、これは情報局のアーカイブ。私物データは持ち込めないけど、システム内にあるものの閲覧なら問題ないかなって」
「未許可だろ?」
指摘してみれば、空は小さく舌を出して片目を閉じた。申請すれば階級に応じたデータは閲覧出来る。ただ、そこは軍隊で面倒くさいところだが、申請書には閲覧理由を記載する欄があり、そこが不適切であれば申請は却下される。そんな申請があったとは記憶にないし、空がわざわざ書くとは思えなかった。
「ええと、昂くんはわざわざこっちまでどうしたの?地上の用事は終わったの?」
「ああ、俺は一足先に終わったから、空と待機を代わろうかと」
「そっか、ありがと!ええと……調査局の検体採取……だったっけ?」
「ああ、少し血を取られるだけだ。すぐに終わる」
そう言えば、空は分かりやすく嫌な顔をした。“彼ら”との戦闘でそれなりの怪我をしたこともあるのに、小さな針を怖がっている。
「ふふ、大丈夫だよ。ほんの少し、ちくっとするだけだ」
「でも嫌なものは嫌だなぁ」
伸びをするように空が仰け反った時だ。俺が肩にかけたブランケットが足元に落ちて広がった。そこに描かれた青い犬がそのつぶらな瞳で俺たちを見る。すかさず落ちたそれを空が拾い上げた。
「……あっ、これ昂くんが?」
「寝ていたから……俺は使ってないし、それはあげるよ」
「いいの?」
「ああ、良かったら使ってくれ」
テールの雑貨屋で見かけて、思わず衝動的に買ってしまったものだ。ブランケットに描かれている犬が、なんとなく空に似ていて惹かれるようにレジに持っていったのを覚えている。
そんな経緯があるからか、それを空に渡すのになんのためらいもなかった。むしろ、空の手元にある方が良いような気さえしている。
「えへへ、ありがとう昂くん!大切にするね!」
「どういたしまして。そんなことより交代だ。さくっと終わらせておいで」
「うぇ」
さっきまでの笑顔が一転、苦虫を噛み潰したような表情に変わった。本当にころころと表情が変わる。それが面白くてたまらず笑みをこぼせば、空も釣られるように微笑んだ。
「じゃあ、昂くん行ってくるね」
「ああ、いってらっしゃい」
渡したブランケットを握り締めたまま、扉の奥へ消えていく。
その背中を見送る時、嫌な胸のざわつきを覚えた。ここはテール首都直上で、“彼ら”が襲ってくることもなければ、敵対組織も近くにはいない。それに青龍の加護を受けている俺たちが、そう易々と危害を受けることもないはずだ。
それなのに、言葉に出来ないざわめきを覚えて、気づいたときにはその名前を口にしていた。
「そら」
俺の喉から飛び出たその声はかすれるような響きだったけど、空の耳には届いたようで、消えた扉の隙間からひょっこりと顔を覗かせた。
「ん、昂くん呼んだ?」
純朴な笑顔でじっと俺を見つめるその顔に、不思議とほっとした。空の笑顔はいつだって人を和ませる。
そんな空をいつまでも俺のところに引き止めるわけにはいかない。小さく手を挙げた。
「……いや、何でもない。気をつけて」
「うん!また後でね!」
俺は今度こそ、空を見送った。
動かない方がいいと、注意する間もなく空はすぐに口を開いた。
「昂くんはさ、時間を巻き戻すことが出来たら、何がしたい?」
「……突然どうしたんだ?」
「いいからさ、教えてよ」
言われるがまま、頭の中で時を遡る。俺はどこまで遡れば良いのだろうか。首都決戦が行われたロストエンド?それとも適合試験前?又は士官学校入学前まで戻ればいいのか……リングの適合自体、“彼ら”の好みによるものなら、結局俺たちは乗艦する未来になってしまいそうだ。なら……
「入学した頃に戻って、もう一度みんなで学校生活を送りたいな」
「……いいね、それ。最高」
そう言って空は、溜まった空気を吐き出すように息を吐いた。そして冷たい空気をゆっくりと肺に送り込む。もう、限界なんだろう。
「空、もういいから」
「……ううん。大丈夫。せめて、援軍が来るまでやらせてよ。それまで背中……貸して?」
このやり取りも数えきれない程繰り返した。俺はぐっと言葉を飲み込むと、小さく点滅するランプを睨むように見つめた。
数十年前から“彼ら”による猛攻が始まった。Lv5クラスがどんどんと押し寄せて、平和のように見えた世界はあっという間に侵略された。辛うじて首都宙域は死守しているが、それもきっと時間の問題だろう。
北側を守護している俺たち第三艦隊はほぼ壊滅した。“彼ら”の波状攻撃に耐えきれず、残ったのは青龍の主リングをもつ俺と空だけになってしまった。といえと、空も先の戦いで大破クラスの怪我を負い、もう限界を超えて艦船を動かしている。
今は敵の攻撃も止んでいて、小休止と言ったところだが、次また攻撃が来れば耐えられないだろう。そこで空は、まだ損傷の少ない俺を温存する事にした。空の言い分は正しい。共倒れを防ぐならそれが一番いい。逆の立場だったら俺もそうしただろう。
だが、背中越しに苦しそうに呼吸をされると、堪らなくなる。どうして背中合わせなのかというのは、空が俺の顔を見たら甘えてしまうからって、この形に落ち着いた。辛いのだから、楽な姿勢でと言ったのにそれは頑なに断られた。
戦争後半にもなると人員の補給もなくなって、俺たちの艦に人間が乗ることはなくなった。青龍との適合率を上げて細やかな所まで自分たちで動かす事が出来るようになったから、オペレーターや整備士などが不要になったんだ。だから、この艦には俺たち二人しかいない。適合者以外の一般人に危険が無くなったのはいいけれど、それはそれで少し寂しくはある。
適合率を上げた利点は多々あるが、艦そのもののダメージが自分自身に入ってしまうのが難点だ。まさに、俺たちが戦艦になったような感覚で、最近では俺は“人”なのか“彼ら”なのか……よく分からない。
「……昂くんの事だから、“彼ら”の侵略が始まった最初まで戻るんじゃないかなって思った」
「何百年前だと思ってるんだ?」
「んふふ、わかんない。でも、ほら……昂くんは本当に世界の事考えて、みんなのために戦うから、根本から倒しに行ってもおかしくないなって」
吐き出した吐息が白い。空調も切ったのか、大分冷えてきた。目の前のコンソールにかかっていた青い犬の描かれたブランケットを足を伸ばして引きずり落とす。前にいた誰かの忘れ物かもしれないけど、ありがたく使わせてもらおう。つま先で引き寄せて、背中側に回しかけた。空にブランケットがかかったか分からないけど、小さくありがとうと聞こえたから上手くいったようだ。
「でも、また学生やりたいって言われて、俺も確かに!って、思ったから……一番楽しかったんだろうなぁ……もう、ほとんど覚えてないけど」
小さな吐息が、静かな空間に広がった。まだ、ランプは緑色に点滅している。無音が苦しくて、ダメだと分かっていながら空の名前を呼んだ。間を置いてから、小さく返事が帰ってきて思わず泣きそうになる。
「……昂くん、俺のことは気にしないで話しかけてよ。俺、会話しないと気付いた時には意識無いかもしれない」
乾いた笑い声と笑えない台詞にこっそり唇を噛む。自分の膝を強く抱いて、胸の苦しさを誤魔化した。こんな時、俺は何も出来ない。
空の望み通り会話の続きをしなければと、律儀にもふと思っていた事を聞いた。
「……空はどうして突然そんな話を?」
「少し前に映画を見たんだ」
「えいが?映画って、あの旧時代の?また、情報局に忍び込んでアーカイブを漁ったんだな?」
「うっ……はい。でも機密データじゃなくて、娯楽作品だからこっそり見る分にはいいって……まもちゃんが」
「衛……」
突然売られた同僚の名前に、視線を落とした。それでも衛らしいと思えるし、それぐらい構わないだろうと思う。
「その映画はね、主人公が初恋の人を不幸から救おうと、過去に遡って試行錯誤をするストーリーなんだ」
空はその映画の概要を話し始めた。どうやらタイムトラベル物のようで、現代で好きな女の子に不幸が起きてしまうから、過去に戻って救おうとする物語のようだ。
「だけど、何度過去を変えても未来の結末は変わらなくてね……彼女が幸せでも自分が不幸だったり、二人とも不幸になったり……」
空の声が段々と小さくなる。感受性豊かな空の事だ。主人公に感情移入して落ち込んだのか、それとも空の方が喋る気力も尽きそうなのかもしれない。そのまま黙っていれば、空は思い出したように会話を続ける。意識を保とうと、必死で頭を動かしているようだ。
「……その映画観てて、何だか俺たちに似てるなって」
「似てる?」
「うん……こうやって、何度も何度も戦って……見える終わりを先延ばしにして、さ」
俺はそれに対して何も応えられなかった。きっと映画の主人公のように、過去を遡っても何も変わらない。本来なら知らないはずの真実を知ってしまった今、それはどうしようもない“終わり”を指していた。そのいつかを先延ばしにするために、俺たちは存在していると。……出来れば、知らないままでいたかった。
「どこかで蝶が羽ばたけば、星の反対側で竜巻が起こる……」
「空?」
「……俺たちのこの行動も……どこかの未来では……」
こんなにも静かな空間なのに、空の最後の囁きはほとんど聞き取れなかった。ただ、視界の端ではランプが点滅を繰り返す。操縦者である空の意識が朦朧としているのに、システムは未だ正常に稼働している事に、ほんの少し嫌悪感を抱く。
再び訪れる静寂。俺は空の望むまま言葉を口にする。
「空、その映画の結末はどうなったんだ?」
「……彼は思いついたんだよ。二人とも幸せになれる道を……」
どうやら映画の主人公は解決策を見つけたらしい。その方法はなんだろうかと、耳を澄まして頭を傾ける。空の言葉は聞こえなくて、代わりに緑のランプが消えた。ふっと機器から放電する音がして、完全な暗闇が訪れる。それもすぐに切り替わって、電子音と共に周辺のモニターの明かりが点った。電気も再び点いて、機器の動作する低いモーター音が辺りに響く。視界の端では索敵センサーのランプが、他の明かりに埋もれながら、点滅を繰り返していた。
青龍の操縦者が俺に切り替わったんだ。それの意味する事を察して息が詰まった。
抱いていた膝を解いて、身体をずらす。俺にもたれかかっていた空の身体がぐらりと揺れて、床に倒れそうになるそれを抱きとめた。
「空……」
空の頭を腿に乗せて、静かに横たえる。その表情はまるで眠るようで、そっと冷たい頬を撫でた。相当堪えてくれたのか、瞼の下には濃い隈が出来ていて、やり場のない悔しさが腑を焼いていく。
喉元に指先を当てれば感じるはずの鼓動は無くて、大きく息を吐いた。気付いてはいたが、どうやっても割り切れるものじゃない。
空が死んでも俺には仕事が残っている。空の軍服に手を這わせる。パタパタとポケットを調べて、胸元からデバイスを回収。そして右手指から、リングを抜いた。ブランケットを遺体にかけ直して、そして俺は再び緑色に点滅するランプを睨む。いつ、襲撃が来るか分からない。いつ、援軍が来るかも分からない。
奥歯を噛み締めながら、空の頬を撫でる。少しでも温もりが残っていればいいと、願いを込めて。
どれぐらい経ったのだろうか。艦内に響くアラーム音で顔を上げた。気付いたら寝てしまっていたらしい。急いで視線を動かして索敵センサーを確認すれば、ランプは点滅することなく青色に点っている。反応的に索敵範囲内に侵入したのは“彼ら”ではない。艦型識別では同系統艦。恐らく味方、だろう。目の前にモニターを表示して、望遠カメラで確認する。
青色のボディカラーが特徴的で、あれは……“青龍”の機体だ。
着艦許可を出してしばらく待てば、新しく来た青龍の乗組員がぞろぞろと管制室にやってくる。俺は空を膝に載せているから、首だけを動かして彼らを迎えた。
「おかえり」
「……ただいま」
俺に返事を返したのは剣介だけだ。みんな口を閉ざして、じっと俺の膝元を見ている。
「……間に合わ……なかったですね」
「いや、元々空の消耗は激しかった。時間は関係ない」
苦しそうに呟いた廉に向かって返してみたが、あまり気休めにもならなかったらしい。宗司が身を乗り出して空の手首に触れる。死体を確認して、俺の顔を見た。
「確認だがデバイスとリングは?」
「回収した」
「了解。……処理は俺たちでしておく。昂輝は休んでくれ」
空が宗司によって抱えられ、膝の上にあった重みが消えていく。それが寂しくて、すがるように伸ばした手を取ったのは衛だった。衛の手に支えられてゆっくりと立ち上がれば、久々に立ち上がったせいで目眩がした。
「昂くん大丈夫?」
「……ああ、空は?」
「大丈夫だよ。彼は足が早いから、すぐに“新しい空くん”は来ると思う」
終始和やかに努める衛の傍から、宗司と望の手によって部屋から運び出されていく空の姿が僅かに見えた。
その後は操縦を変わると申し出た涼太に操縦権を渡して、逃げるように自室に帰った。
ポケットから自分と空のデバイスを取り出して机に置く。何があるか分からないから自分のリングはつけたままで、空のだけデバイスと一緒にリングも置いた。そしてベッドに飛び込んだ。
ここの所、戦闘続きで本当に疲れていた。すぐに瞼は重くなって、それに逆らうことなく瞼を落とす。ゆっくりと、暗闇に沈んでいく感覚。
もう、膝に抱いていた重さも分からない。涙ははるか昔に枯れ果てた。
ああ、でも……あの映画の結末だけは気になるな。
1
数十年前。第一皇子であった睦月始が失踪した。
第二皇子であり、この世界を作り上げた張本人である霜月隼は、失踪した睦月始に対して特に一言も発すること無く、宮殿の奥深くへ篭ってしまった。突然、主力であった睦月始の安否が不明となり、周辺では暗殺説が流れてしまい一時は巷が騒然とした。
ロストエンドを知っている俺たちからすれば、始さんは自分の世界に帰ってしまったのだろうかとも思う。それとも本当に、殺されてしまったのか……。隼さんが口を閉ざす限り、真実は闇の中だ。
だが、大きな問題はそこでは無い。始さんも隼さんも第一第二艦隊の艦長であり、それぞれ主リングの持ち主だ。その二人が欠けることによる国防への影響は深刻だった。再び第一の主リングの適合者を探すコストや、その間の防衛の手立てを勘案すればするほど、他への負担が大きい。
そこで研究局は考えた。
適合者を探すのではなく、作れば良いのだと。
幸い、第一リングに欠番が出た。更にいえば適合者であった睦月始のサンプルも、過去に太田少尉が手に入れたものがあり、材料は揃っている。研究局は、いなくなった“睦月始”を作る事に決めた。
結果的にいえばそれは成功した。“睦月始”のクローンは、見た目も、声も、仕草も、思考も全てがオリジナルと一緒で、リングとの適合も上手くいった。残すところ倫理的観点の問題だったが、“彼ら”の力を自由に使える適合者の存在は、そんな倫理観など簡単に隅に追いやってしまった。
次に研究局が考える事は簡単だ。適合者を複製出来るのであれば、いざという時のために今いる適合者からもサンプルを徴収しよう。と。
未来の為だといえば誰も断れない。篁中将の際に発生した年齢による不具合も、クローンの作製の際に遺伝子的に若くなるよう調節してしまえばいい。
こうして俺たち適合者は、代えの利く存在となった。
きっとそれが良くなかった。“彼ら”からの攻撃が強まってきたのも丁度同時期だった。
……隼さんは、この世界を終わらせることを願ったらしい。それは生ぬるいものではなく、強い意思として人類に襲いかかる。
“彼ら”との戦いは激化した。人が多く死んで、多くの地が焼かれた。そして、多くの仲間が死んで行った。
そして仲間たちは何食わぬ顔で再び戦地へと戻ってくる。戦火に倫理は焼かれてしまった。俺の心と記憶は摩耗して、何が正常なのかも理解できない。
もう、宇宙で戦っているのは適合者である俺たちだけだ。他の艦隊とは連絡は取り合っていないから、みんな四方に散ってそれぞれの役割を果たしているのだろう。
テールにはずっと戻っていない。
2
僅かな音が鼓膜を揺らした。瞼を開ければ真っ白いシーツが眼前にあって、ゆらりと上体を起こす。俺は上着も脱がないでベッドに倒れ込んだらしい。シワのついた裾を引っ張った時、最初に聞いた音がもう一度響いた。誰かがドアを、控えめに叩いている。
立ち上がってドアに向かう。扉を開ければ、明るい顔色をした空が立っていた。俺の顔を見て、ぱっと表情をほころばせる。
「あ、えと、ただいま戻りました!」
「ああ、おかえり空」
「……休んでるって聞いたんだけど……お仕事してたの?」
「いや、うっかり軍服を脱がないで寝てしまって」
それを聞いた空は丸い目を更に丸くすると、再び目を細めた。
「昂くん、疲れてたんだよ」
「そう、だな……」
「よく眠れた?」
首を傾げて、聞いてくる空の表情は少し心配そうだ。大丈夫だという意志を込めて軽く微笑めば、空もそれに返してくれる。
「俺はどれぐらい寝ていたんだ?」
「えと……前の俺が死んだって報告が来てから……11時間ぐらいかな」
随分と寝てしまっていたらしい。起こしてくれても良かったのに、そっとして置いてくれたのだろう。
「そういえば、どうして俺のところに?」
「へ?」
「用があったんじゃないのか?」
首を傾げた空だが、すぐにはっと思い出したようで自分の両手を叩いた。
「ああ!そう!俺のデバイスとリング!昂くんが預かってくれてるって聞いたから」
ああ、そうだった。くるりと自室に戻って机の上に置いたままのデバイスとリングを取った。それを空に手渡す。
「ありがとう」
それを受け取った空は、そのままデバイスを操作する。リスポーンしたばかりの空は、前回の自分が死ぬ直前の記憶は無い。
基本的に記憶は睡眠時や休憩の時に龍さんを介してデジタル処理されてデータベースに保管される。が、死ぬ直前の記憶となるとそうはいかない。そういうものは全て自分の中の龍さんが記憶しているから、復活して真っ先に行うのが、自分のデバイスからの記憶のロード。なくても最悪困らないが、あった方がその死因が次回に生かせる。
空のデバイス上を指と視線が忙しなく動いていたが、すぐにピタリと止まって空の顔が上がった。
「うん、大丈夫。全部回収できた」
ありがとうと告げて、俺の部屋を後にしようとした空を引き止める。空は不思議そうに小首を傾げて俺を見上げてきた。
俺はとても気になってる事がある。きっとこのタイミングでしか聞けない。
「空……あの、映画の結末はどうなったんだ?」
死ぬ間際に話してくれたあの映画。未来を変えるために、何度も過去へ戻ってあらゆる手を尽くそうとしたあの結末。主人公はどうなったのか。
空は眉尻を下げて、悲しそうに微笑んだ。
「ごめんね、昂くん」
その一言で全てを察した。
「“俺は”覚えてないや。上手く引き継げなかったみたい」
「……いや、大丈夫だ。引き止めて済まない」
「本当にごめんね」
その言葉を最後に、遠ざかっていく空の背中を見届けた。
空にとって、さっきの問題は良くある事だ。
空は記憶を引き継ぐ時に、時々欠落が起きる。何らかの不具合なのか、空の意図によるものなのかは、前の空が死んでしまった以上……もう分からない。
失った記憶の影に過去の空を見つける度、真綿でゆっくりと首を締められたように苦しくなる。
まるであの映画の主人公のようだ。何度も何度もやり直しては、こんなつもりじゃなかったと嘆く。
ああ、こんなことなら
「……映画のタイトルだけでも、聞いておけば良かった」
何度も時を巡り直しても、上手くいかない主人公が選んだ選択はなんだったのか。
きっと俺は……それが分かるまで、戦い続けるのだろう。
0
薄暗い艦内。グリーンの索敵ランプが点滅している。極力照明の落とされた管制室は、一人を残して誰もいない。ただ、一定の間隔でランプが周辺を緑色に染めていく。
そのランプの真下。コンソールに伏すようにもたれている人がいた。傾いた制帽の隙間から明るいブラウンの毛先が覗いている。
丸まった背中は上下に動いているから、きっと寝てしまったのだろう。監視中に居眠りなんて、普段なら危機管理がなってないと注意するところだが、今日ぐらいは仕方ない。ここはテール首都上空だ。ここで青龍の索敵範囲内に入るほど接敵を許したのなら、その敵報は俺たちに伝わって、既に厳戒態勢になっている。それに、そんなことになる前に宙域にある監視衛星にいる索敵部隊が、先に“彼ら”を見つけるだろう。
だから、今だけは……ちょっとだけでも、気を緩めても平気だ。
管制室で居眠りをしているのを見かけて、自室から使っていないブランケットを持って戻って来た。居眠りだけなら目を瞑るが、その結果風邪をひいたとなると、それは黙っていられない。
起こさないように足音を殺して近づいて、そっと肩の上にかけた。瞬間、寝ていると思った彼の両目が大きく見開いた。
まるまるとした瞳と目があって、それが零れそうなほど見開くと、彼は大きく仰け反った。
「う、わ、わわわ!こ、昂くん!」
「おはよう、空」
「お、おはよう、ゴザイマス……」
居眠りをしていて、俺に怒られると思っているのか、空は眉尻を下げてぎゅっと垂れ下がったブランケットを握りしめていた。
「あ、あの、その」
「あまり褒められたことじゃない……が、テール上空なら安全は確保されている。今はそこまで気にしない」
空は分かりやすくホッとした様子で、胸をなで下ろしている。そんな空の首に、ヘッドホンがかかっていたのが気になった。
「通信が来てたのか?」
「あっ、いや……」
なんだか歯切れが悪い。じっと見つめれば、観念したように空は手元のコンソールを動かして、ボリュームレベルを上げていく。
首に下げられたヘッドホンから、僅かに意味をなさない音が聞こえて、その音の輪郭が段々とはっきりしてくる。
「……音楽を聴いていたのか?」
「誰もいないから、いっかなって」
「持ち込んだのか?」
「いや、これは情報局のアーカイブ。私物データは持ち込めないけど、システム内にあるものの閲覧なら問題ないかなって」
「未許可だろ?」
指摘してみれば、空は小さく舌を出して片目を閉じた。申請すれば階級に応じたデータは閲覧出来る。ただ、そこは軍隊で面倒くさいところだが、申請書には閲覧理由を記載する欄があり、そこが不適切であれば申請は却下される。そんな申請があったとは記憶にないし、空がわざわざ書くとは思えなかった。
「ええと、昂くんはわざわざこっちまでどうしたの?地上の用事は終わったの?」
「ああ、俺は一足先に終わったから、空と待機を代わろうかと」
「そっか、ありがと!ええと……調査局の検体採取……だったっけ?」
「ああ、少し血を取られるだけだ。すぐに終わる」
そう言えば、空は分かりやすく嫌な顔をした。“彼ら”との戦闘でそれなりの怪我をしたこともあるのに、小さな針を怖がっている。
「ふふ、大丈夫だよ。ほんの少し、ちくっとするだけだ」
「でも嫌なものは嫌だなぁ」
伸びをするように空が仰け反った時だ。俺が肩にかけたブランケットが足元に落ちて広がった。そこに描かれた青い犬がそのつぶらな瞳で俺たちを見る。すかさず落ちたそれを空が拾い上げた。
「……あっ、これ昂くんが?」
「寝ていたから……俺は使ってないし、それはあげるよ」
「いいの?」
「ああ、良かったら使ってくれ」
テールの雑貨屋で見かけて、思わず衝動的に買ってしまったものだ。ブランケットに描かれている犬が、なんとなく空に似ていて惹かれるようにレジに持っていったのを覚えている。
そんな経緯があるからか、それを空に渡すのになんのためらいもなかった。むしろ、空の手元にある方が良いような気さえしている。
「えへへ、ありがとう昂くん!大切にするね!」
「どういたしまして。そんなことより交代だ。さくっと終わらせておいで」
「うぇ」
さっきまでの笑顔が一転、苦虫を噛み潰したような表情に変わった。本当にころころと表情が変わる。それが面白くてたまらず笑みをこぼせば、空も釣られるように微笑んだ。
「じゃあ、昂くん行ってくるね」
「ああ、いってらっしゃい」
渡したブランケットを握り締めたまま、扉の奥へ消えていく。
その背中を見送る時、嫌な胸のざわつきを覚えた。ここはテール首都直上で、“彼ら”が襲ってくることもなければ、敵対組織も近くにはいない。それに青龍の加護を受けている俺たちが、そう易々と危害を受けることもないはずだ。
それなのに、言葉に出来ないざわめきを覚えて、気づいたときにはその名前を口にしていた。
「そら」
俺の喉から飛び出たその声はかすれるような響きだったけど、空の耳には届いたようで、消えた扉の隙間からひょっこりと顔を覗かせた。
「ん、昂くん呼んだ?」
純朴な笑顔でじっと俺を見つめるその顔に、不思議とほっとした。空の笑顔はいつだって人を和ませる。
そんな空をいつまでも俺のところに引き止めるわけにはいかない。小さく手を挙げた。
「……いや、何でもない。気をつけて」
「うん!また後でね!」
俺は今度こそ、空を見送った。
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