追憶
「センセーってさ、絶対こーゆー悩みとか、無縁だったでしょ」
突然話を振られて、思わず彼をまじまじと見つめてしまった。
「だってイケメンだし、優しいし、イケメンだし……俺だってイケメンになりたい!」
「突然、どうして俺の話になったんだ?それに、悩まなくとも十分かっこいいと俺は思うが……」
「お世辞ありがと!」
何かまずかったようで、彼は不貞腐れたように机に伏せってしまった。
彼……目の前の男子生徒とは、進路相談で残って話をしていたはずだ。現に俺の手元には彼の成績が収められたファイルがあるし、机の上には幾つか候補の進路先の資料も並んでいた。話し上手な彼に乗せられて、いつの間にか恋愛相談になってしまったのは俺の落ち度だろう。どうやら好きな子に告白したいらしいが、勇気が出ないのだそうだ。
そんな彼は資料を巻き込みながら机の上でぐずぐずとしている。……進路相談はまたの機会だな。
「告白の成功の善し悪しは、なにも顔の良さだけではないと思うが」
「だって、イケメンに好きですっ!って言われたら、断れなくない?」
「それは告白したらの話だろう?」
もぞりと頭が動いた。彼の顔が覗いて、じとりと俺を見た。
「……その言い方、センセイにも好きな人、いたの?」
そういうつもりはなかった。それでも、違うと一概に否定が出来なくて、見つめてくる視線に後押しされるように頷いていた。
「ああ、そうだ」
「ホント!?」
彼がガバリと起き上がる。憂鬱さをたたえていた瞳は今や好奇心に輝いていて、逃れられなさそうだと悟った。
「センセーが告白すれば、誰だってイッパツオーケーだと思うのに」
「勇気がなかったんだ」
「……もったいない」
「こうして、俺に相談できるぐらいなんだから、顔以上の物をお前は持っているんだ。勇気を出せ」
この感情は簡単なものではないと、遥か昔に理解していた。だからこそ、彼が眩しいんだ。それでいて、とても羨ましい。
「忘れられなくなる前に、な」
遠くへと追いやった悔しさが顔を出す。甘く苦いその気持ちを隠すように、微笑みを浮かべたが、多感な彼には少しだけ伝わってしまったらしい。
ぴくりと肩を震わすと、何かを察したように、はっとしたような悲しそうな表情を浮かべた。それも、一瞬だけだ。
「……分かったよ、センセ。また、相談に乗ってね」
「次はちゃんと、進路相談だからな」
「はーい」
立ち上がった彼は、スクールバックを掴むと椅子も戻さずに立ち去った。そんな彼を見送ろうと視線を扉へと向けた先、凄い表情をしたグリーンの瞳と目が合ってしまった。
「…………はぁ」
「えとーセンセっ」
男子生徒と入れ替わりに、にやにやと面白そうな笑みを湛えながら教室に入ってきたのは、同じ学校の教員であり数学教師の八重樫先生だ。
「俺、今すっごい話聞いちゃったんですけど!」
「ケン、やめてくれ」
「数多の女生徒を禁断の恋に陥らせるのに、本人自体は色恋ゼロの優等教師であるコウに!好きな人が!いたと!マジで!?……ちょっと詳しく聞いていい?」
「……好きな人というか……それに近いだけで別にそういう関係では」
「あっ、待って!リョウも呼んでも大丈夫?」
ケンに見つかったが最後だ。スマホを持ち出しながらにこやかに聞いてくるから俺は小さくため息をついた。
*
勤めている学校から離れて、電車に乗り都内に出る。どうやら別の学校で教鞭を取っている涼太との間を取って、お互いに出やすいところにしたらしい。金曜日、仕事終わりに飲みながら話そうと言うことに決まり、今日がその金曜日。
教員の勤務時間は長く、開放された頃はすっかり日が落ちてしまっている。そんな時間でも剣介はとても元気で、帰ろうと支度を済ませた俺を逃さないぞとばかりに捕まえてきた。
因みに、剣介から連絡を受け取った涼太は、俺に対して好意を持っていることもあってか剣介の提案に衝撃を覚えつつも、二つ返事で参加した。
「……居酒屋だと聞いていたんだが」
剣介に案内されたところは、俺の想像していた居酒屋とは少し遠い。お洒落なバーのような場所だった。
「いや……うん、場所はリョウが決めたんだよね……」
なるほどと思った。センスの良い涼太らしい。彼なら大衆居酒屋よりも、ゆっくりとできるこういう店を選ぶだろう。
「先に入ってるって言ってたから、入ってみようぜ」
中に入って涼太の名前を言えば、涼太のいる席に案内された。案内された先は涼太の計らいなのか、カウンターではなくて奥まった個室のようなテーブル席で、俺を見上げた柘榴の瞳がにこりと微笑んだ。
「お疲れ様、コウ。ケン」
「おつかれーリョウ……と、衛?」
「あ、えへへ……お疲れ様です、二人共」
涼太の向かいには、あの日から何一つ変わらない衛が、くしゃりと微笑んだ。その隣に腰を下ろす。
「俺が呼んだんだ。衛には是非、聞いて欲しくて」
「何故か!呼ばれましたぁ!」
すこしばかり大げさに反応する衛に、怪訝そうに眉をひそめる涼太。そして、面白そうに二人を見る剣介。少しだけ、懐かしい気分だ。
「それにしても、ずいぶんと良いとこ選んだな?」
「コウと久々に会うのに、騒がしい居酒屋なんて論外。ココ噂では芸能人も使っているらしいから、そういう面では安心できるかなって。それに、……デリケートな話をしてもらうんだから、少しは配慮しないと」
「昔の話だし、そんなに気負う必要はないんだが」
そんなに面白い話でもないと、下手に出てみれば剣介と涼太が二人して同時に俺を見た。
「たとえ昔の話だとしても、俺は凄い……いや、かなり気になるよ!」
「俺も、正直あのコウを射止めたってだけで気になるし、何がコウの琴線に触れたのか……とても興味がある」
丁度、涼太が頼んでいたのか、料理が運ばれてきた。サラダと、話しながらも軽く食べれるようなおつまみが並べられる。お酒も手元に届いたところで観念した。
「あれは随分と前の話だ。とある先生が産休でお休みを取るから、その代理で地方の学校に臨時の非常勤として雇われた事があったんだ」
グラスビールを傾けていた衛がびっくりしたように俺を見た。
「もしかして、コウくんが俺を呼んだのって……まさか」
「ああ、そのまさかだ」
さすがに衛はなんとなく全容を掴んだようだ。これから話す内容に、衛も全く関係が無い訳ではない。だからこそ、俺は衛を呼んだんだ。
あれは夏休みの前。七月の始め。梅雨が明けて、夏が走り出した頃だった。
1
それは俺がまだ教師になりたての頃だ。新人、とは言えないが、ベテランでは決してない。そんな時分。丁度受け持っていたクラスが卒業して身軽になった時、俺は埼玉のとある中学校へ移動が命じられた。
中途半端な時期に珍しいと思ったが、聞けばなんということはない。クラスを受け持っていた先生が、出産で長期休暇を取るからその代理として一時的にという事らしい。距離もそう遠くなく、クラスを受け持っていなかった俺に白羽の矢が当たった。通常は同じ県内から教員を募るだろうに、どの業界も人手不足の波は押し寄せている。断る理由もなかった俺は二つ返事で了承した。
代理として受け持ったクラスはみんな明るくて、すぐに打ち解けてくれた。そんなある日の事だった。
授業の最中、窓の向こうに何か動くものが見えた気がした。鳥ではない。じっと目をこらせば、真向かいの棟の屋上に人影が揺らめいているのが見えた。シルエットは大人のそれではない。随分と小柄で、おそらく生徒。だが今は授業中で、校内をふらつく生徒はいないはずだ。
影は屋上の奥の方へ向かうと見えなくなってしまった。一瞬だけ嫌な予感が過ぎったが、飛び降りという様子ではない。俺は気にはなりながらも、窓から視線を外して授業を続けた。
次の時限は丁度空いていたので、俺は先ほど人影を見た屋上に向かうことにした。自殺、とはいかなくとも、いじめや他の問題が起きている可能性もある。教師の目が届かないところは、何が起きていても不思議じゃない。取り返しのつかなくなる前に、確認するのも務めだと思っている。
屋上へは簡単に行けた。踊り場には使われていない机や椅子が積まれていたけれど、特にバリケードになっている訳でもない。埃も薄くて、つい最近ここを人が通ったのは明らかだった。
積み重なった机を避けて、屋上へ続く重い扉を開けば、初夏の風が身体を撫でる。新緑が遠くに見えて、頭上は明るい水色で覆われている。ぽつりと浮かぶように真っ白な雲が遠くに浮かんでいて、空模様は一足早い夏のそれだ。
空を見上げる俺の視界を、足がよぎって行ったのは扉を開いてすぐだった。
靴下すら履いていない小さな素足が、言葉通り俺の頭上をぷらぷらと浮いている。正確には屋上の入口がある塔屋の上から足が飛び出しているだけ。
俺が屋上の扉を開けた音が聞こえていたようで、空を泳いでいた脚は一瞬で塔屋の奥へ引っ込んでしまった。そして、ひょこりと足の主が顔を出した。
明るい瞳が印象的だった。その丸い瞳が瞬いて、じっと俺を見つめてくる。
「……誰?先生?」
彼女が発した声でハッとした。思わず夏空に見とれていたようだ。
「あ、初めまして。俺は衛藤昂輝。ついこの間、この学校に赴任してきたばかりなんだ」
慌てて自己紹介をするも、彼女は何も答えないでじっと、観察するように俺の頭からつま先までをまじまじと見てくる。屋上のこんなところにどうしているのか分からないし、どうにも不思議な女の子だ。
「あの、キミの名前は?何年生、かな?」
「センセイこそ、どうしてここに?」
「……さっき授業中に窓から姿が見えたから」
「叱りに来たの?」
「違う、注意しに来たんだ」
ぱちぱちと両目が驚いたように瞬いた。
「屋上は危ないから、居座るならもっと別の場所にしたほうがいい」
屋上へ向かう階段の踊場には使われていない筈の机や椅子が積まれていた。使われていない割には埃が少なかったし、人が一人通れるようなスペースが作られていた。それはきっと、最近になって彼女がこの屋上に通うために机とかを退かしたのだと思う。
それに、授業に出ないでこんなところにいるということは、確実に訳がある。俺なりに、慎重に言葉を選んだつもりだった。
「……今は授業中だよ、センセ?他に言うこと、あるんじゃないの?」
それは彼女にも分かっていたみたいだ。表情は変えずに、じっと俺を見ながら試すように問いかける。
「さっきも言ったとおり、俺はこの学校に来たばかりなんだ。キミの名前すら知らないのに、無闇に叱ることは出来ない」
「……確かに」
何に納得したのか、彼女は小さくこくりと頷くと、再び塔屋の奥へと姿を消してしまった。
「あっ、ほら。そこは危ないから」
どうやって上に上がり込んだのかは分からないが、ここからだと彼女の姿は見えない。ひとつふたつと後ろへ下がって、上の方を見ようとしたその時だった。
その塔屋の上から何かが飛んできて、俺の隣にぱたりと落ちた。思わず視線を向ければ、それは履き古されてかかとの潰れた上履きで、名前は特に書かれていない。
「センセー、危ないから退いててね」
「えっ?」
日差しが遮られた。学生にしては生白くて細い素足が、ふわりと揺れる濃紺のスカートから伸びている。彼女は塔屋の淵に足をかけて、太陽を背に立っていた。
彼女は俺と目が合うと、にいと笑って、そして彼女の身体が宙に浮く。危ないと叫ぶ暇すらなく、彼女はそこから飛び降りた。こなれているのか、伸ばした脚は綺麗に床を捉えて、ゆっくりと膝を曲げながら綺麗に着地した。
「な、何をしているんだ!」
「なにって……これぐらい。そんな高さないから、大丈夫だよ」
「だとしても、何かあってからじゃ遅い」
眉間に皺を寄せると、唇を突き出して明らかに不満の意を示してる。
「……叱らないんじゃなかったの?」
「それとこれとは話が別だ。目の前で危険な事をしたら、それはダメだと叱るのが大人の役目だ」
「ああ、そっか」
彼女はどこか納得したように頷いて俺から視線を外すと、先ほど投げ捨てた上履きの方へぺたぺたと足音を鳴らして向かった。ポケットから丸められた靴下を取り出すと、手早く履いてそのつま先で上履きを引っ掛ける。
そして彼女は、こちらを振り向くことなく屋上への扉に手をかけた。
「どこにいくんだ?」
「まもちゃん先生のとこ」
「……まもちゃん先生?」
そう言うと、扉の奥へ姿を消してしまった。
2
「まって。コウの気になる女性って、生徒だったの?しかも中学生?」
剣介が律儀にも手を挙げながら、困惑した様子で俺を見た。
「だから言っただろう?彼女とはそういう関係ではないし、特に何かがあった訳でもない」
「何かあったら、そっちの方がまずいから!見てみろ!リョウなんて、動揺してずっとおしぼり握ってるからな!」
剣介のとなりでは涼太が困惑したような表情で、頭の中を整理するように布巾を広げたり畳んだりを繰り返している。
「待ってくれ。俺だって、教師である自覚と責任はもちろんある。お前たちが想像しているような不埒な感情は抱いていない」
「でも、好きだったって言ってなかった?」
きっと剣介が言ってるのは、この間の進路相談の時の事だ。確かにあの時は、そう口を滑らしたかもしれない。
「あれは、彼に勇気を出して貰いたくて、少し表現を誇張しただけだ」
何かを言いたそうにしていた剣介だったが、小さくため息をついて微笑んだ。
「なるほどね……大丈夫。本気でコウが生徒に手を出すやつだなんて思ってないさ。ただ……たとえ誇張表現だとしても、枕詞に“好きな人”が出てくるなんて、コウにしちゃ珍しいなって」
「……今もまだ分からないんだ。彼女と過ごした時間はとても短いものだったのに、どうしてこんなにも心が揺れたのか。恐らく好きとか嫌いとか、そういうものじゃないんだ」
俺は本当に、自分の中の感情がよく分かっていない。恋愛感情ではない……それ以外の何かで、どこか引っかかっている。それが何なのか今もまだ分からないが、少なくとも嫌悪ではないのは確かだ。
グラスの氷がカラリと音を立てた。剣介との話を聞いて落ち着きを取り戻したのか、涼太が申し訳なさそうに俺を見ながら手を挙げた。
「ごめん、コウ。コウの心を動かした生徒も気になるけど、それよりも気になる名前が出なかった?」
「まもちゃん先生、だよな」
三人の視線が衛へ注がれる。それにびくりと肩を震わした衛は、取り皿に枝豆を取り落とした。
「あっ、はは……いやぁ、実はコウくんが赴任してきたっていうその学校に、俺は養護でいまして……だから、今回呼ばれたのかな?」
「ああ。彼女は色々と事情があって不登校だった子なんだ。俺が来た頃には、学校には来るようになっていたんだが、授業には出ないで人の少ない屋上や保健室に入り浸っていた。そういう子だ」
衛が過去を慈しむように目を細めた。
「懐かしいなぁ。確か……彼女の名前は空ちゃん。大原空ちゃん」
懐かしい響きに胸が締め付けられる。あの刹那は、俺にとって宝物に近いのかもしれない。ずっと胸の奥に閉まっていたそれを、友人にそっと見せようとしている。そんな感覚。
そんな時、剣介が大きく首を捻った。
「……なんか、めちゃくちゃ聞き覚えがあるんだよなぁその名前。どこで聞いたんだろう?」
「知ってるのか?」
俺がうっかり少し食い気味にきいてしまったせいか、剣介は慌てて両手を振った。
「違う違う!その名前、聞いたことある気がするなぁ~ってだけ。俺の生徒にはいなかったと思うけど……特に珍しい名前じゃないし、似た名前の別クラスの生徒と間違えただけかも」
そうは言うものの、剣介はやはりどこか引っかかるようで、気になるような表情を浮かべている。彼女の進学先が剣介のいた学校かもしれない可能性は大いにある。一時的に教鞭を取っていたに過ぎない俺にとっては、彼女がどこに行ったのかなんて知らない事だ。
「まぁいいけどさ。それよりもコウ、続き聞かせてよ」
はっと顔を上げれば、涼太がグラスを傾けながら俺を見上げていた。
「結局、コウの恋はケンの早とちりだった訳だけど?」
「本当にすみませんでした!」
「でも、それだってずっと、大切にしてた思い出でしょ?よかったら聞かせてほしいな」
最初こそ色恋沙汰に色めき立って集まったが、今は少し違う。宝物を共有できる良い友人を持てたことに、感謝だ。
「ありがとう」
「やめてよ、お礼を言われるようなことなんかしてない。今日は久々に会う友だちと飲みに来ただけ。でしょ?」
「ああ、そうだな」
ふわりと涼太が微笑んだ。なんだかんだと言いながら、一番気を使ってくれるのは涼太で、それは何年たっても変わってないようだ。
正直、この話は誰にもしたことがなかった。誰かに話すような内容でもないからか、ずっと俺の心の中に残って少しだけ埃をかぶっている。それが今回、手繰るように語ることで、セピアに染まっていた記憶が滲むように色彩を思い出していくよう……。
それはあの時の感情をもう一度、追体験するような感覚に近くて、目を閉じると時を遡った。
3
あれから俺はずっと屋上で出会った彼女の事が気になっていた。
こういういわゆる私的な事というのはあまりよくないとは知りながら、間借りしてる自席から学校名簿にアクセスして彼女の名前と学年を知った。
三年生の大原空。一時的に赴任しているという状況だからか、この学校で俺は部外者である自覚はあった。だからだろうか、どうして授業に出ていないのか、詳しいことまでは調べようとはしなかった。
時期を過ぎれば俺は元々いた学校に戻ってしまう。それなのに、どうして俺は何度も屋上へ足を運んでしまったのか。
そう、あれから俺は時間を見つけては何度か屋上へ様子を見に行っていた。意外と彼女に会える事は少なくて、次に会えたのは丁度一週間後の同じ時間だった。
その日は良く晴れて、一足早い真夏の強い日差しが屋上を照りつけていた。深緑の防水塗料がギラギラと反射して、目の奥が痛くなる。
「あっ、センセ。また来たんだ」
前と同じように、頭上から声がした。ついと見上げれば、塔屋の淵から彼女の顔が覗いていた。その後ろ、遥か遠くで太陽が輝いていて、思わず目が眩んだ。手で日差しを遮っても、彼女の顔はよく見えない。
「また上に登ってるのか?暑くないか?」
問いかけに彼女は何も答えずに、小さく小首を傾げた。
「あっ、ちょっと待ってて!」
何かを思いついたのか、彼女はそう叫ぶと塔屋の奥へ姿を消してしまった。上に色々とあるのか、ガサガサと音がしている。
しばらくその場で待っていた。時間にして三分ぐらいだろう。塔屋の横からひょっこりと彼女が顔を出した。
「おまたせ、センセ」
「一体どこから来たんだ?」
「この裏に上に登るハシゴがあるんだ。たぶん、給水塔の点検用だと思うけど」
律儀にも、前に飛び降りたらダメだと言ったのを覚えていてくれたみたいだ。
「それよりセンセ、こっち」
腕を掴まれて塔屋の横に連れ込まれる。そこにあったのは屋外のカフェや海辺で見かける日除けのパラソルと、レジャーシートが敷かれていた。これはと尋ねる前に、そこに連れ込まれて座らされる。
「先生、色薄いから、今日みたいな日にここ来たらすぐ赤くなっちゃうよ?」
突然の事に、俺はぱちぱちと瞬くことしか出来なかった。満足そうに大きく頷いた彼女は、俺の隣に腰を下ろしてしまう。嫌われてないのはいい事だけど、あまりにも突然過ぎて正直驚きの連続だ。
隣同士に座り込んで、何も離さないのは少々居心地が悪かった。少し辺りを見回してから、直近の疑問を投げかける。
「このパラソルは一体……」
「これ?たぶん体育祭か何かで使ったやつだと思うんだけど、備品室で埃かぶってたの見つけて持ってきたの。ちなみに、このシートは私物。さすがに、埃まみれのを下に敷くわけにはいかないから」
「わざわざ、備品室にあったのを屋上に持ってきたのか?」
「だって、直射日光は暑いでしょ?」
まぁ、それは確かにそうだろうが、言いたいことはそうではない。
こういう時は、言葉足らずな自分を責めたくなる。正直な話、ここには“気になったから”という理由だけで来たから、特に何をするかなんて考えていなかった。最近は覗きに来ても会えないことが続いていたから、尚更何をするか考えてない。
「なんとなくだけどさ、センセーがここに来た理由、分かるよ」
まるで心の中を見透かされたようで、どきりとした。はっと隣を見れば、彼女は膝を抱えながら、こちらを見上げてにぃと笑った。
「理由もないのにこんなところ、来ないでしょ?」
「……まぁ、そうだな」
実際は理由もなくここに来た。いや、理由はある。ちょっと気になった。……それだけ。
教師のくせに、俺はあまり会話が得意じゃない。人に何かを教えるのは得意だけど、自分から話題を広げていくのは、どちらかと言えば苦手だ。
空の問いにそうだと返した割には、特に何も話さない俺が妙なのかじいっと顔を覗き込んできた。
「……先生って、モテるでしょ?」
「なんだ、急に」
「いや、こっちじゃあまり見ない顔だなぁって……東京から来たの?」
「……そんなところだ」
「ふうん」
屋上に籠っているから人見知りの子かなと思っていたら、意外と良くしゃべる。授業を理由なくサボる不良少女には見えないし、俺と話す際の言葉もハキハキとしているし、俺を見上げる大きな瞳も曇りがちというよりは逆に快活な印象を俺に与えた。きっと、大きく笑えば可愛いのだろう。
瞬間、俺は酷く動揺した。今、何を思った?少なくとも、教鞭を取るものが感じてもいいような感想ではない。
「私、別にいじめられてる訳じゃないよ」
そんな俺の動揺なんて知らずに、彼女は続けた。
「学校は好きだし、理解してくれる友だちだっている」
至って明るく彼女は話し続ける。おそらく、俺がここに来る理由を彼女は少し勘違いしているようだ。確かに、それも気にならない訳ではない。
「ただ、少し疲れただけ。先生が心配するようなことは起きてないから安心していいよ。これでも一応、クラスでは人気者なんだから!」
そして、彼女は目を細めた。俺が望んだようにふわりと彼女は微笑んだけれど、それは俺が想像したものとは大きく違っていた。
どうしてこの子は諦めたように笑うのだろう。まだ中学生なのに。そんな笑顔を浮かべるには早すぎる。
じりじりと響く蝉の音が、憂慮を煽るように遥か高い空に響いた。
4
古い扇風機のカラカラという音。開け放たれた窓からは、僅かな湿気を帯びた初夏の風がカーテンを揺らして室内を満たしていた。幼い頃に感じていた消毒液のきつい臭いはほとんどなく、夏風によって運ばれてくる焼けたグラウンドの砂の匂いと歴史の詰まった埃っぽさが、懐かしさを伴って胸の奥に詰まった。俺はあまり保健室とは縁がなかったから、来るたびに少し新鮮な気分になる。
俺が来たのに気が付いたのか、保健室のソファに座って本を読んでいた生徒が顔を上げた。おそらく保健委員の生徒だろう。軽く室内を見渡してから、俺はその生徒に声をかけた。
「藤村先生はどちらに?」
生徒は少し視線を彷徨わせてから、無言で窓の外を指さした。
「……外?」
その子がこくりと頷いた所を認めて、俺はそっと窓辺に近寄った。
カーテンがゆらゆらと揺れていて、隙間から運動部の活発的な声が届いた。そんな合間、ふんふんと鼻歌が聞こえてくる。カーテンの隙間から外を伺えば、鼻歌の主は直ぐ外にいた。
丁度窓の外が花壇になっているようで、その人はホースのシャワーノズルを引きながらご機嫌そうに花に水をやっている。しばらく会っていなかったが、変わらないようだ。
「衛」
名前を呼ぶと、紫色の瞳が俺を見る。一瞬見開いて、そしてくしゃりと潰れた。
「コウくん!」
「久しぶりだな?」
「衛藤先生が移動してきたってのは聞いてたけどまさかコウくんとは!教育実習の時以来だよね?わーっ!待ってて、今そっちに行くから!」
「慌てなくていいから、きを」
気を付けてと、言いたかった。俺の声を待たずに背を向けた衛は、見事に自分の持っていたホースに足をひっかけて、盛大に転んだ。
「その……なんだ。衛が変わってなくて安心したというかなんというか……」
自分で擦りむいた膝小僧を手当する衛を見ながら、思わず呟いた。衛の着ている白衣の裾が、妙に汚れてたりほつれているのを見ると、少しうっかりな所も変わらないんだろう。衛の頬についた土を払ってやると、衛はありがとうと柔らかく返してくれた。
「コウくんも変わってなくて安心したよ。田中先生の代わり、だよね?」
「ああ、ほんの短い間だが、またよろしく頼む」
「ふふふ、怪我したらいつでもおいでね?あっ、怪我してなくても大歓迎だよ?」
「分かっているさ。次に来るときは一緒にお茶をしよう」
救急箱を所定の位置に戻した衛が、懐っこい微笑みを湛えたまま小さく首を傾げた。
「ということは、今日は何か用事があってきたのかな?」
さすがと言うべきだろう。衛のこういう鋭いところは、とても助かる。
「実はとある生徒の事を教えて欲しくて」
「コウくんは来たばっかりだし、自分のクラス以外は分かんないよねぇ。ここは誰にでも開かれている保健室のお兄さんに任せてよ!」
やはり、衛は頼りになる。大きく背中を逸らして、どんと胸を叩くコミカルなその姿に、頼もしささえ感じてしまう。
「三年生の、大原空さんに関して教えてもらえないだろうか」
名前を出した瞬間、衛の表情が悲し気に歪んだのを、俺は見逃さなかった。
突然話を振られて、思わず彼をまじまじと見つめてしまった。
「だってイケメンだし、優しいし、イケメンだし……俺だってイケメンになりたい!」
「突然、どうして俺の話になったんだ?それに、悩まなくとも十分かっこいいと俺は思うが……」
「お世辞ありがと!」
何かまずかったようで、彼は不貞腐れたように机に伏せってしまった。
彼……目の前の男子生徒とは、進路相談で残って話をしていたはずだ。現に俺の手元には彼の成績が収められたファイルがあるし、机の上には幾つか候補の進路先の資料も並んでいた。話し上手な彼に乗せられて、いつの間にか恋愛相談になってしまったのは俺の落ち度だろう。どうやら好きな子に告白したいらしいが、勇気が出ないのだそうだ。
そんな彼は資料を巻き込みながら机の上でぐずぐずとしている。……進路相談はまたの機会だな。
「告白の成功の善し悪しは、なにも顔の良さだけではないと思うが」
「だって、イケメンに好きですっ!って言われたら、断れなくない?」
「それは告白したらの話だろう?」
もぞりと頭が動いた。彼の顔が覗いて、じとりと俺を見た。
「……その言い方、センセイにも好きな人、いたの?」
そういうつもりはなかった。それでも、違うと一概に否定が出来なくて、見つめてくる視線に後押しされるように頷いていた。
「ああ、そうだ」
「ホント!?」
彼がガバリと起き上がる。憂鬱さをたたえていた瞳は今や好奇心に輝いていて、逃れられなさそうだと悟った。
「センセーが告白すれば、誰だってイッパツオーケーだと思うのに」
「勇気がなかったんだ」
「……もったいない」
「こうして、俺に相談できるぐらいなんだから、顔以上の物をお前は持っているんだ。勇気を出せ」
この感情は簡単なものではないと、遥か昔に理解していた。だからこそ、彼が眩しいんだ。それでいて、とても羨ましい。
「忘れられなくなる前に、な」
遠くへと追いやった悔しさが顔を出す。甘く苦いその気持ちを隠すように、微笑みを浮かべたが、多感な彼には少しだけ伝わってしまったらしい。
ぴくりと肩を震わすと、何かを察したように、はっとしたような悲しそうな表情を浮かべた。それも、一瞬だけだ。
「……分かったよ、センセ。また、相談に乗ってね」
「次はちゃんと、進路相談だからな」
「はーい」
立ち上がった彼は、スクールバックを掴むと椅子も戻さずに立ち去った。そんな彼を見送ろうと視線を扉へと向けた先、凄い表情をしたグリーンの瞳と目が合ってしまった。
「…………はぁ」
「えとーセンセっ」
男子生徒と入れ替わりに、にやにやと面白そうな笑みを湛えながら教室に入ってきたのは、同じ学校の教員であり数学教師の八重樫先生だ。
「俺、今すっごい話聞いちゃったんですけど!」
「ケン、やめてくれ」
「数多の女生徒を禁断の恋に陥らせるのに、本人自体は色恋ゼロの優等教師であるコウに!好きな人が!いたと!マジで!?……ちょっと詳しく聞いていい?」
「……好きな人というか……それに近いだけで別にそういう関係では」
「あっ、待って!リョウも呼んでも大丈夫?」
ケンに見つかったが最後だ。スマホを持ち出しながらにこやかに聞いてくるから俺は小さくため息をついた。
*
勤めている学校から離れて、電車に乗り都内に出る。どうやら別の学校で教鞭を取っている涼太との間を取って、お互いに出やすいところにしたらしい。金曜日、仕事終わりに飲みながら話そうと言うことに決まり、今日がその金曜日。
教員の勤務時間は長く、開放された頃はすっかり日が落ちてしまっている。そんな時間でも剣介はとても元気で、帰ろうと支度を済ませた俺を逃さないぞとばかりに捕まえてきた。
因みに、剣介から連絡を受け取った涼太は、俺に対して好意を持っていることもあってか剣介の提案に衝撃を覚えつつも、二つ返事で参加した。
「……居酒屋だと聞いていたんだが」
剣介に案内されたところは、俺の想像していた居酒屋とは少し遠い。お洒落なバーのような場所だった。
「いや……うん、場所はリョウが決めたんだよね……」
なるほどと思った。センスの良い涼太らしい。彼なら大衆居酒屋よりも、ゆっくりとできるこういう店を選ぶだろう。
「先に入ってるって言ってたから、入ってみようぜ」
中に入って涼太の名前を言えば、涼太のいる席に案内された。案内された先は涼太の計らいなのか、カウンターではなくて奥まった個室のようなテーブル席で、俺を見上げた柘榴の瞳がにこりと微笑んだ。
「お疲れ様、コウ。ケン」
「おつかれーリョウ……と、衛?」
「あ、えへへ……お疲れ様です、二人共」
涼太の向かいには、あの日から何一つ変わらない衛が、くしゃりと微笑んだ。その隣に腰を下ろす。
「俺が呼んだんだ。衛には是非、聞いて欲しくて」
「何故か!呼ばれましたぁ!」
すこしばかり大げさに反応する衛に、怪訝そうに眉をひそめる涼太。そして、面白そうに二人を見る剣介。少しだけ、懐かしい気分だ。
「それにしても、ずいぶんと良いとこ選んだな?」
「コウと久々に会うのに、騒がしい居酒屋なんて論外。ココ噂では芸能人も使っているらしいから、そういう面では安心できるかなって。それに、……デリケートな話をしてもらうんだから、少しは配慮しないと」
「昔の話だし、そんなに気負う必要はないんだが」
そんなに面白い話でもないと、下手に出てみれば剣介と涼太が二人して同時に俺を見た。
「たとえ昔の話だとしても、俺は凄い……いや、かなり気になるよ!」
「俺も、正直あのコウを射止めたってだけで気になるし、何がコウの琴線に触れたのか……とても興味がある」
丁度、涼太が頼んでいたのか、料理が運ばれてきた。サラダと、話しながらも軽く食べれるようなおつまみが並べられる。お酒も手元に届いたところで観念した。
「あれは随分と前の話だ。とある先生が産休でお休みを取るから、その代理で地方の学校に臨時の非常勤として雇われた事があったんだ」
グラスビールを傾けていた衛がびっくりしたように俺を見た。
「もしかして、コウくんが俺を呼んだのって……まさか」
「ああ、そのまさかだ」
さすがに衛はなんとなく全容を掴んだようだ。これから話す内容に、衛も全く関係が無い訳ではない。だからこそ、俺は衛を呼んだんだ。
あれは夏休みの前。七月の始め。梅雨が明けて、夏が走り出した頃だった。
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それは俺がまだ教師になりたての頃だ。新人、とは言えないが、ベテランでは決してない。そんな時分。丁度受け持っていたクラスが卒業して身軽になった時、俺は埼玉のとある中学校へ移動が命じられた。
中途半端な時期に珍しいと思ったが、聞けばなんということはない。クラスを受け持っていた先生が、出産で長期休暇を取るからその代理として一時的にという事らしい。距離もそう遠くなく、クラスを受け持っていなかった俺に白羽の矢が当たった。通常は同じ県内から教員を募るだろうに、どの業界も人手不足の波は押し寄せている。断る理由もなかった俺は二つ返事で了承した。
代理として受け持ったクラスはみんな明るくて、すぐに打ち解けてくれた。そんなある日の事だった。
授業の最中、窓の向こうに何か動くものが見えた気がした。鳥ではない。じっと目をこらせば、真向かいの棟の屋上に人影が揺らめいているのが見えた。シルエットは大人のそれではない。随分と小柄で、おそらく生徒。だが今は授業中で、校内をふらつく生徒はいないはずだ。
影は屋上の奥の方へ向かうと見えなくなってしまった。一瞬だけ嫌な予感が過ぎったが、飛び降りという様子ではない。俺は気にはなりながらも、窓から視線を外して授業を続けた。
次の時限は丁度空いていたので、俺は先ほど人影を見た屋上に向かうことにした。自殺、とはいかなくとも、いじめや他の問題が起きている可能性もある。教師の目が届かないところは、何が起きていても不思議じゃない。取り返しのつかなくなる前に、確認するのも務めだと思っている。
屋上へは簡単に行けた。踊り場には使われていない机や椅子が積まれていたけれど、特にバリケードになっている訳でもない。埃も薄くて、つい最近ここを人が通ったのは明らかだった。
積み重なった机を避けて、屋上へ続く重い扉を開けば、初夏の風が身体を撫でる。新緑が遠くに見えて、頭上は明るい水色で覆われている。ぽつりと浮かぶように真っ白な雲が遠くに浮かんでいて、空模様は一足早い夏のそれだ。
空を見上げる俺の視界を、足がよぎって行ったのは扉を開いてすぐだった。
靴下すら履いていない小さな素足が、言葉通り俺の頭上をぷらぷらと浮いている。正確には屋上の入口がある塔屋の上から足が飛び出しているだけ。
俺が屋上の扉を開けた音が聞こえていたようで、空を泳いでいた脚は一瞬で塔屋の奥へ引っ込んでしまった。そして、ひょこりと足の主が顔を出した。
明るい瞳が印象的だった。その丸い瞳が瞬いて、じっと俺を見つめてくる。
「……誰?先生?」
彼女が発した声でハッとした。思わず夏空に見とれていたようだ。
「あ、初めまして。俺は衛藤昂輝。ついこの間、この学校に赴任してきたばかりなんだ」
慌てて自己紹介をするも、彼女は何も答えないでじっと、観察するように俺の頭からつま先までをまじまじと見てくる。屋上のこんなところにどうしているのか分からないし、どうにも不思議な女の子だ。
「あの、キミの名前は?何年生、かな?」
「センセイこそ、どうしてここに?」
「……さっき授業中に窓から姿が見えたから」
「叱りに来たの?」
「違う、注意しに来たんだ」
ぱちぱちと両目が驚いたように瞬いた。
「屋上は危ないから、居座るならもっと別の場所にしたほうがいい」
屋上へ向かう階段の踊場には使われていない筈の机や椅子が積まれていた。使われていない割には埃が少なかったし、人が一人通れるようなスペースが作られていた。それはきっと、最近になって彼女がこの屋上に通うために机とかを退かしたのだと思う。
それに、授業に出ないでこんなところにいるということは、確実に訳がある。俺なりに、慎重に言葉を選んだつもりだった。
「……今は授業中だよ、センセ?他に言うこと、あるんじゃないの?」
それは彼女にも分かっていたみたいだ。表情は変えずに、じっと俺を見ながら試すように問いかける。
「さっきも言ったとおり、俺はこの学校に来たばかりなんだ。キミの名前すら知らないのに、無闇に叱ることは出来ない」
「……確かに」
何に納得したのか、彼女は小さくこくりと頷くと、再び塔屋の奥へと姿を消してしまった。
「あっ、ほら。そこは危ないから」
どうやって上に上がり込んだのかは分からないが、ここからだと彼女の姿は見えない。ひとつふたつと後ろへ下がって、上の方を見ようとしたその時だった。
その塔屋の上から何かが飛んできて、俺の隣にぱたりと落ちた。思わず視線を向ければ、それは履き古されてかかとの潰れた上履きで、名前は特に書かれていない。
「センセー、危ないから退いててね」
「えっ?」
日差しが遮られた。学生にしては生白くて細い素足が、ふわりと揺れる濃紺のスカートから伸びている。彼女は塔屋の淵に足をかけて、太陽を背に立っていた。
彼女は俺と目が合うと、にいと笑って、そして彼女の身体が宙に浮く。危ないと叫ぶ暇すらなく、彼女はそこから飛び降りた。こなれているのか、伸ばした脚は綺麗に床を捉えて、ゆっくりと膝を曲げながら綺麗に着地した。
「な、何をしているんだ!」
「なにって……これぐらい。そんな高さないから、大丈夫だよ」
「だとしても、何かあってからじゃ遅い」
眉間に皺を寄せると、唇を突き出して明らかに不満の意を示してる。
「……叱らないんじゃなかったの?」
「それとこれとは話が別だ。目の前で危険な事をしたら、それはダメだと叱るのが大人の役目だ」
「ああ、そっか」
彼女はどこか納得したように頷いて俺から視線を外すと、先ほど投げ捨てた上履きの方へぺたぺたと足音を鳴らして向かった。ポケットから丸められた靴下を取り出すと、手早く履いてそのつま先で上履きを引っ掛ける。
そして彼女は、こちらを振り向くことなく屋上への扉に手をかけた。
「どこにいくんだ?」
「まもちゃん先生のとこ」
「……まもちゃん先生?」
そう言うと、扉の奥へ姿を消してしまった。
2
「まって。コウの気になる女性って、生徒だったの?しかも中学生?」
剣介が律儀にも手を挙げながら、困惑した様子で俺を見た。
「だから言っただろう?彼女とはそういう関係ではないし、特に何かがあった訳でもない」
「何かあったら、そっちの方がまずいから!見てみろ!リョウなんて、動揺してずっとおしぼり握ってるからな!」
剣介のとなりでは涼太が困惑したような表情で、頭の中を整理するように布巾を広げたり畳んだりを繰り返している。
「待ってくれ。俺だって、教師である自覚と責任はもちろんある。お前たちが想像しているような不埒な感情は抱いていない」
「でも、好きだったって言ってなかった?」
きっと剣介が言ってるのは、この間の進路相談の時の事だ。確かにあの時は、そう口を滑らしたかもしれない。
「あれは、彼に勇気を出して貰いたくて、少し表現を誇張しただけだ」
何かを言いたそうにしていた剣介だったが、小さくため息をついて微笑んだ。
「なるほどね……大丈夫。本気でコウが生徒に手を出すやつだなんて思ってないさ。ただ……たとえ誇張表現だとしても、枕詞に“好きな人”が出てくるなんて、コウにしちゃ珍しいなって」
「……今もまだ分からないんだ。彼女と過ごした時間はとても短いものだったのに、どうしてこんなにも心が揺れたのか。恐らく好きとか嫌いとか、そういうものじゃないんだ」
俺は本当に、自分の中の感情がよく分かっていない。恋愛感情ではない……それ以外の何かで、どこか引っかかっている。それが何なのか今もまだ分からないが、少なくとも嫌悪ではないのは確かだ。
グラスの氷がカラリと音を立てた。剣介との話を聞いて落ち着きを取り戻したのか、涼太が申し訳なさそうに俺を見ながら手を挙げた。
「ごめん、コウ。コウの心を動かした生徒も気になるけど、それよりも気になる名前が出なかった?」
「まもちゃん先生、だよな」
三人の視線が衛へ注がれる。それにびくりと肩を震わした衛は、取り皿に枝豆を取り落とした。
「あっ、はは……いやぁ、実はコウくんが赴任してきたっていうその学校に、俺は養護でいまして……だから、今回呼ばれたのかな?」
「ああ。彼女は色々と事情があって不登校だった子なんだ。俺が来た頃には、学校には来るようになっていたんだが、授業には出ないで人の少ない屋上や保健室に入り浸っていた。そういう子だ」
衛が過去を慈しむように目を細めた。
「懐かしいなぁ。確か……彼女の名前は空ちゃん。大原空ちゃん」
懐かしい響きに胸が締め付けられる。あの刹那は、俺にとって宝物に近いのかもしれない。ずっと胸の奥に閉まっていたそれを、友人にそっと見せようとしている。そんな感覚。
そんな時、剣介が大きく首を捻った。
「……なんか、めちゃくちゃ聞き覚えがあるんだよなぁその名前。どこで聞いたんだろう?」
「知ってるのか?」
俺がうっかり少し食い気味にきいてしまったせいか、剣介は慌てて両手を振った。
「違う違う!その名前、聞いたことある気がするなぁ~ってだけ。俺の生徒にはいなかったと思うけど……特に珍しい名前じゃないし、似た名前の別クラスの生徒と間違えただけかも」
そうは言うものの、剣介はやはりどこか引っかかるようで、気になるような表情を浮かべている。彼女の進学先が剣介のいた学校かもしれない可能性は大いにある。一時的に教鞭を取っていたに過ぎない俺にとっては、彼女がどこに行ったのかなんて知らない事だ。
「まぁいいけどさ。それよりもコウ、続き聞かせてよ」
はっと顔を上げれば、涼太がグラスを傾けながら俺を見上げていた。
「結局、コウの恋はケンの早とちりだった訳だけど?」
「本当にすみませんでした!」
「でも、それだってずっと、大切にしてた思い出でしょ?よかったら聞かせてほしいな」
最初こそ色恋沙汰に色めき立って集まったが、今は少し違う。宝物を共有できる良い友人を持てたことに、感謝だ。
「ありがとう」
「やめてよ、お礼を言われるようなことなんかしてない。今日は久々に会う友だちと飲みに来ただけ。でしょ?」
「ああ、そうだな」
ふわりと涼太が微笑んだ。なんだかんだと言いながら、一番気を使ってくれるのは涼太で、それは何年たっても変わってないようだ。
正直、この話は誰にもしたことがなかった。誰かに話すような内容でもないからか、ずっと俺の心の中に残って少しだけ埃をかぶっている。それが今回、手繰るように語ることで、セピアに染まっていた記憶が滲むように色彩を思い出していくよう……。
それはあの時の感情をもう一度、追体験するような感覚に近くて、目を閉じると時を遡った。
3
あれから俺はずっと屋上で出会った彼女の事が気になっていた。
こういういわゆる私的な事というのはあまりよくないとは知りながら、間借りしてる自席から学校名簿にアクセスして彼女の名前と学年を知った。
三年生の大原空。一時的に赴任しているという状況だからか、この学校で俺は部外者である自覚はあった。だからだろうか、どうして授業に出ていないのか、詳しいことまでは調べようとはしなかった。
時期を過ぎれば俺は元々いた学校に戻ってしまう。それなのに、どうして俺は何度も屋上へ足を運んでしまったのか。
そう、あれから俺は時間を見つけては何度か屋上へ様子を見に行っていた。意外と彼女に会える事は少なくて、次に会えたのは丁度一週間後の同じ時間だった。
その日は良く晴れて、一足早い真夏の強い日差しが屋上を照りつけていた。深緑の防水塗料がギラギラと反射して、目の奥が痛くなる。
「あっ、センセ。また来たんだ」
前と同じように、頭上から声がした。ついと見上げれば、塔屋の淵から彼女の顔が覗いていた。その後ろ、遥か遠くで太陽が輝いていて、思わず目が眩んだ。手で日差しを遮っても、彼女の顔はよく見えない。
「また上に登ってるのか?暑くないか?」
問いかけに彼女は何も答えずに、小さく小首を傾げた。
「あっ、ちょっと待ってて!」
何かを思いついたのか、彼女はそう叫ぶと塔屋の奥へ姿を消してしまった。上に色々とあるのか、ガサガサと音がしている。
しばらくその場で待っていた。時間にして三分ぐらいだろう。塔屋の横からひょっこりと彼女が顔を出した。
「おまたせ、センセ」
「一体どこから来たんだ?」
「この裏に上に登るハシゴがあるんだ。たぶん、給水塔の点検用だと思うけど」
律儀にも、前に飛び降りたらダメだと言ったのを覚えていてくれたみたいだ。
「それよりセンセ、こっち」
腕を掴まれて塔屋の横に連れ込まれる。そこにあったのは屋外のカフェや海辺で見かける日除けのパラソルと、レジャーシートが敷かれていた。これはと尋ねる前に、そこに連れ込まれて座らされる。
「先生、色薄いから、今日みたいな日にここ来たらすぐ赤くなっちゃうよ?」
突然の事に、俺はぱちぱちと瞬くことしか出来なかった。満足そうに大きく頷いた彼女は、俺の隣に腰を下ろしてしまう。嫌われてないのはいい事だけど、あまりにも突然過ぎて正直驚きの連続だ。
隣同士に座り込んで、何も離さないのは少々居心地が悪かった。少し辺りを見回してから、直近の疑問を投げかける。
「このパラソルは一体……」
「これ?たぶん体育祭か何かで使ったやつだと思うんだけど、備品室で埃かぶってたの見つけて持ってきたの。ちなみに、このシートは私物。さすがに、埃まみれのを下に敷くわけにはいかないから」
「わざわざ、備品室にあったのを屋上に持ってきたのか?」
「だって、直射日光は暑いでしょ?」
まぁ、それは確かにそうだろうが、言いたいことはそうではない。
こういう時は、言葉足らずな自分を責めたくなる。正直な話、ここには“気になったから”という理由だけで来たから、特に何をするかなんて考えていなかった。最近は覗きに来ても会えないことが続いていたから、尚更何をするか考えてない。
「なんとなくだけどさ、センセーがここに来た理由、分かるよ」
まるで心の中を見透かされたようで、どきりとした。はっと隣を見れば、彼女は膝を抱えながら、こちらを見上げてにぃと笑った。
「理由もないのにこんなところ、来ないでしょ?」
「……まぁ、そうだな」
実際は理由もなくここに来た。いや、理由はある。ちょっと気になった。……それだけ。
教師のくせに、俺はあまり会話が得意じゃない。人に何かを教えるのは得意だけど、自分から話題を広げていくのは、どちらかと言えば苦手だ。
空の問いにそうだと返した割には、特に何も話さない俺が妙なのかじいっと顔を覗き込んできた。
「……先生って、モテるでしょ?」
「なんだ、急に」
「いや、こっちじゃあまり見ない顔だなぁって……東京から来たの?」
「……そんなところだ」
「ふうん」
屋上に籠っているから人見知りの子かなと思っていたら、意外と良くしゃべる。授業を理由なくサボる不良少女には見えないし、俺と話す際の言葉もハキハキとしているし、俺を見上げる大きな瞳も曇りがちというよりは逆に快活な印象を俺に与えた。きっと、大きく笑えば可愛いのだろう。
瞬間、俺は酷く動揺した。今、何を思った?少なくとも、教鞭を取るものが感じてもいいような感想ではない。
「私、別にいじめられてる訳じゃないよ」
そんな俺の動揺なんて知らずに、彼女は続けた。
「学校は好きだし、理解してくれる友だちだっている」
至って明るく彼女は話し続ける。おそらく、俺がここに来る理由を彼女は少し勘違いしているようだ。確かに、それも気にならない訳ではない。
「ただ、少し疲れただけ。先生が心配するようなことは起きてないから安心していいよ。これでも一応、クラスでは人気者なんだから!」
そして、彼女は目を細めた。俺が望んだようにふわりと彼女は微笑んだけれど、それは俺が想像したものとは大きく違っていた。
どうしてこの子は諦めたように笑うのだろう。まだ中学生なのに。そんな笑顔を浮かべるには早すぎる。
じりじりと響く蝉の音が、憂慮を煽るように遥か高い空に響いた。
4
古い扇風機のカラカラという音。開け放たれた窓からは、僅かな湿気を帯びた初夏の風がカーテンを揺らして室内を満たしていた。幼い頃に感じていた消毒液のきつい臭いはほとんどなく、夏風によって運ばれてくる焼けたグラウンドの砂の匂いと歴史の詰まった埃っぽさが、懐かしさを伴って胸の奥に詰まった。俺はあまり保健室とは縁がなかったから、来るたびに少し新鮮な気分になる。
俺が来たのに気が付いたのか、保健室のソファに座って本を読んでいた生徒が顔を上げた。おそらく保健委員の生徒だろう。軽く室内を見渡してから、俺はその生徒に声をかけた。
「藤村先生はどちらに?」
生徒は少し視線を彷徨わせてから、無言で窓の外を指さした。
「……外?」
その子がこくりと頷いた所を認めて、俺はそっと窓辺に近寄った。
カーテンがゆらゆらと揺れていて、隙間から運動部の活発的な声が届いた。そんな合間、ふんふんと鼻歌が聞こえてくる。カーテンの隙間から外を伺えば、鼻歌の主は直ぐ外にいた。
丁度窓の外が花壇になっているようで、その人はホースのシャワーノズルを引きながらご機嫌そうに花に水をやっている。しばらく会っていなかったが、変わらないようだ。
「衛」
名前を呼ぶと、紫色の瞳が俺を見る。一瞬見開いて、そしてくしゃりと潰れた。
「コウくん!」
「久しぶりだな?」
「衛藤先生が移動してきたってのは聞いてたけどまさかコウくんとは!教育実習の時以来だよね?わーっ!待ってて、今そっちに行くから!」
「慌てなくていいから、きを」
気を付けてと、言いたかった。俺の声を待たずに背を向けた衛は、見事に自分の持っていたホースに足をひっかけて、盛大に転んだ。
「その……なんだ。衛が変わってなくて安心したというかなんというか……」
自分で擦りむいた膝小僧を手当する衛を見ながら、思わず呟いた。衛の着ている白衣の裾が、妙に汚れてたりほつれているのを見ると、少しうっかりな所も変わらないんだろう。衛の頬についた土を払ってやると、衛はありがとうと柔らかく返してくれた。
「コウくんも変わってなくて安心したよ。田中先生の代わり、だよね?」
「ああ、ほんの短い間だが、またよろしく頼む」
「ふふふ、怪我したらいつでもおいでね?あっ、怪我してなくても大歓迎だよ?」
「分かっているさ。次に来るときは一緒にお茶をしよう」
救急箱を所定の位置に戻した衛が、懐っこい微笑みを湛えたまま小さく首を傾げた。
「ということは、今日は何か用事があってきたのかな?」
さすがと言うべきだろう。衛のこういう鋭いところは、とても助かる。
「実はとある生徒の事を教えて欲しくて」
「コウくんは来たばっかりだし、自分のクラス以外は分かんないよねぇ。ここは誰にでも開かれている保健室のお兄さんに任せてよ!」
やはり、衛は頼りになる。大きく背中を逸らして、どんと胸を叩くコミカルなその姿に、頼もしささえ感じてしまう。
「三年生の、大原空さんに関して教えてもらえないだろうか」
名前を出した瞬間、衛の表情が悲し気に歪んだのを、俺は見逃さなかった。
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