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冷たいもの




 目の前の女が白衣を脱ぐのを見た。

 だからといってどうということはなかったが。

 俺の視線は彼女のむき出しになった腕に向けられた。

 ほどよく暖められた室内で、袖なしのセーターを着ていた彼女……ネリネ……の二の腕には、いくつもの傷がついていた。

 横に、真っ直ぐ、赤黒い線が……何本も引かれている。

 決して交わることはなく。

 おかしな話だが、たとえればそれは年輪のように。

 どうやら下から上……肩のほうまで……順につけられていったようだ。

 肌を虫が這っているようだ。

 俺の視線に気付いたネリネがこちらを見てうっすらと笑った。

 ひどく扇情的な、艶めかしい笑い方で。

 唇を持ち上げて、目をうっとりと細めて、歪んだ笑みを。

「……何? バジル」

「いや……」

 俺はそれをどこかで見たことがあるなと考えていた。

 その笑顔ではなく、傷のほうだ。

 ああそうだ、思い出した……ダリオさんの手首の入れ墨に似ている。

 こちらのほうは傷だが。

 ネリネが真顔になってまるで冷えるかのように二の腕をさする。

「イライラするとやっちゃうのよね。私の成長記録。首まで届いたら死のうと思って」

 隠すのかと思えばそうでもなく、平気でセーターを脱ぎにかかる。

「……成長?」

 俺はふと眉をひそめてネリネの言葉を繰り返す。

 だが、その疑問はすぐ、己の中で消えた。

 呆れた。

 どこに向かって成長してるんだ、コイツ。

 いや、それを『成長』と呼べるのか?

「成長だ?」

 口元を歪めて笑みを作り、小馬鹿にした笑いとともに、その言葉を吐き出す。

 嘲りをこめて。

 正しくそれを受け止めたであろう女はちょっと首をすくめて吐いた。

「ねぇ、少し寒いと思わない? 部屋の温度を上げようかしら、それとも厚着しようかな」

「知らねぇよ」

 どうでもいい。

「……ただし服を着ろ」

 鋭く目を細めて釘を刺すと、年齢に似合わぬこどものようなふくれっ面をして、ネリネは服を手に取った。

「かーわいーくなーいー。バジル、つまんなぁーいー。お子ちゃまねー」

「ふざけるな」

 思ったより遮る声が鋭くなってしまった。

 こんな奴をまともに相手するなんて馬鹿らしい。

 頭を振って扉から離れ、窓のほうへと歩いていく。

 この女から自然に目を逸らすためと、距離を取るためだ。

 傷はともかく、この女の体の線は美しく、動きもしなやかで、顔もきれいなものだから……つい見てしまう。

 追いかけるように声が投げられた。

 着替えを取りに別の部屋へ消えたネリネが大声で言う。

「大人の男なら、そういう場合はスーツの上着を貸してくれるか、『俺が温めてやるよ』くらい言うものよ」

「……」

 苦い顔で窓の外を眺める。

 なんだそれは。

 ……吐き気を催す。

「……大人の女ならそんな恥ずかしいことを大声で言わないと思うがな」

 聞こえよがしの皮肉をしっかりと部屋に入ってきたネリネは聞き取ったらしい。

 憤りを含んだ声が返ってくる。

「嫌なガキね」

 苦く吐き捨てるように言われたが、すぐにその声には笑いが含まれた。

「そんな恥ずかしいこと言ったかしら」

 とぼけたように首を傾げて言って、ニヤリと口の片方の端を持ち上げて笑って、椅子にかけていた白衣を手に取る。

 窓に映る背後の彼女は意外にも本当にしっかりと長袖のセーターを身にまとっていた。

 ひらりと白衣を翻して蝶が羽ばたくような美しい動作で身にまとう。

「……まだ見ていたかった?」

 知らず知らずのうちに振り返ってそれを見ていた俺は言われて気付いて戸惑う。

 ……まったくらしくない。

 俺としたことが。

「何のことだか」

「傷よ」

 ネリネはあっさりとそう言った。

「興味があったんでしょう?」

 そこにはなんの含みもなく、ただそれだけといったふうで。

 俺の気持ちがどうであろうと気にしないという様子だった。

 放っておいても自分で勝手に話すに決まっている。

 俺は息を吐いて、苦笑して、窓から離れた。

 キッチンの側のテーブルで紅茶を淹れているネリネのもとへゆっくりと歩み寄る。

 その間にも彼女は口を閉じなかった。

「だってこんな世界、生きてたって仕方ないじゃない。ストレスはお肌の大敵だって言うし。未来に希望が持てないのよね。これはその証。マイナスへの成長。間違ってるって。私じゃないわ、世界がね、生きにくいよね」

 二人分の紅茶を淹れ終えたネリネがテーブルに腰かける。

 俺はそれを見て顔をしかめた。

 汚い。

 ネリネは何も気にした様子もなくカップを手に取る。

 そして初めて俺の存在に気付いたようにカップを押し出した。

「どうぞ、飲んで。『飲んで』と言えば。『不思議の国のアリス』の話。ね、自分に合った世界なんて幻なんだって、誰かが言ってた。きっと世界に自分を合わせようとしたらどのみち何かが歪んじゃうのね。だからそれってとっても正しいことだと思わない? 歪んでいることが、ね。きれいな水の中でしか生きられない魚なんて死ぬしかないじゃない?」

 ネリネはやさしい手つきで自分の腕を撫でる。

「この世界に適合するならばこれもひとつの形……答え……ってわけよ。そしてこれで無理なら私はもう生きていられないのよ。少しずつ間違えながら私たちは生きているんだもの。あなたも」

 俺を妙に細めた目で見る。

 いやに温かいものであることに苛立ったが、見下げるような目線だと不意に気付く。

 やさしくなどない。

 彼女は勝ち誇ったように言い放った。

 微笑んで。

「とっても正しいと思うわ」

 俺は無言で口を押さえて背を向けた。

 吐き気だ。

 本当に吐き気がした。

 何かを突き付けられた気分だ。

 そう、何かとても、汚いものを。

 じわり、と、汗が。

 妙に冷たい頭で。

 ネリネの次の言葉を聞く。



「あなたを愛しているわ」



 ネリネは気が済んだ様子で前を向いて紅茶のカップを傾ける。

 振り向いて呆然と突っ立つ俺の前で鼻歌までうたって。

 俺はこの女はどうしたら消えるのかなんてわかりきったことを馬鹿に真面目に考えていた。



「はっ……」



 笑い出した俺を当然といったように平然と眺めて彼女は首を傾ける。

「本当はただ武器が好きなだけなの」

「……だろうな。傑作だ。『あの人』もそう言ってた」

 おまえがそういう女だと。

 研究員の中でも武器を愛している女だと。

 ネリネは細長い白い指でスゥッとキッチンを指さした。

「左からベネデット、ピエトロ、ロドルフォ、エドアルド、ジョルジョ。私の愛するナイフの名前よ。他にもあるのだけれど、ここは普通の女の家だから。ねぇ」

 クスッと笑い、美しい花のような笑みを浮かべてネリネは、同じ調子で続けた。

「バジル」

 それはひどく俺を安堵させたのだった。





(おしまい)
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