冷たいもの
古臭い木の看板が立っている。
ずっとバイクを走らせてきた俺はそこで止まる。
それまでの道は決して平坦ではなく走りにくかった。
むき出しの地面はでこぼこしていて絶えず砂埃が舞う。
なんとも不快だった。
街を守るようにめぐらされていた柵はそこで切れている。
ここは街の入り口だ。
ようやく着いたわけだ。
疲れと安堵からのため息を漏らしてバイクを降りる。
看板の横にはひとりの男が立っていた。
急ぎ足でこちらに向かって歩いてくる。
俺を待っていたのだ。
連絡は無事に行っていたらしい。
俺は武器の入った鞄だけを取り、男にいくらかの前金を渡し、バイクを預けた。
……これでいい。
帰る頃にはまたここで己のバイクと再開できるだろう。
俺は急ぐことなくゆっくりと歩いて街へ入っていく。
どこかに……背中や髪や靴の中や……に砂が入っているような、妙なむずがゆさというか、とにかく気持ちが悪い。
腹の傷にも砂が入っただろうか。
だとすると少し困る。
ああ……洗いたい。
アジトに帰るのはまだ無理なので、とりあえずこの街に寄った。
この街には事情を知っている協力者がいる。
俺は一軒の家の前で足を止めた。
色の褪せた青い屋根にもとは白かっただろう薄汚れた壁。
そのみすぼらしい家の前に飾られたプランターの赤や黄色のそこだけ鮮やかな花に『フン』と嘲笑を浴びせて……持ち主の少女趣味を鼻で笑い……玄関の扉に手をかけた。
目立つチャイムなどは鳴らさず、ドンドンドンとノックをした。
「ネリネ!」
そして返事を待つこともせず……俺が来たことを教えただけだ……ためらわずに扉を開き、遠慮せずに中に踏み込む。
慣れたことだ。
「ネリネ?」
奥に向かって呼びかける。
……返事がない。
おかしいな。
俺が来ることは知っているはずだが。
「……ネリネ? いるんだろ? ネリネ? おい……返事をしろ。ネリネ!」
家中に響くような大声で怒鳴る。
それでもネリネの返事はない。
……だんだんといらいらしてくる。
こんなはずでは。
彼女は絶対にこの家にいて俺を待っているはずなのに。
これはどうしたことだ?
「ネリネ! ちっ……、おい、ネリネ!! どうした、何かあったのか? なんだよ……」
次々と部屋の扉を開けて彼女の姿を探す。
いない、いない、いないいないいない!!
ああ、いらいらする!
俺は仕事の後で疲れてるってのに……。
大したことはないが怪我もしているんだぞ。
それがなんであんな女のために……。
この俺が何故こんなに必死になってネリネを捜さなくちゃいけない?
しかし……何かあったなら放っておけないし……あの人にも申し訳が立たない。
「くそっ……」
バタン! と最後の部屋、浴室のドアを勢いよく開けた。
すると水の入っていない浴槽の中になんと服を着たままの女性。
こちらに向けて笑っている人物を見つけてがくりと体中の力が抜ける。
「ネリネ……」
「はぁい♪」
俺はいまいましげに眼を細めてにらみつけて最低まで低めた声を出した。
「……何をしてる……?」
すると、ネリネは『うふふ』と笑って、首を傾げて言った。
「見ての通りだわ。浴槽に入ってるのよ。結構いい気持ち」
上機嫌の様子で、まるで湯が入っているかのように、肌に水をかけるような真似をする。
俺は腹立たしさに女から目をそらした。
言いたい言葉が頭の中をぐるぐるとする。
何をしてるんだ、俺が来ることはわかっていただろ、なんで出てきて迎えないんだ、なんで呼んでも答えないんだ、捜しただろうが、余計な手間取らせやがって……。
……心配、させやがって?
いや、……まさか。
『はぁ』と大きなため息を吐いて、『やっていられない』とゆるゆると首を横に振る。
「相変わらず馬鹿女だな」
「まぁ! 失礼ね! なんてこと言うのよ。いつものことだけど……」
俺を見上げていたずらっぽく目を輝かせる。
「バジルったら相変わらず無礼者なのね。お風呂場のドアをそんなに乱暴に開けるだなんて。私が入っているとは思わなかったの? ……それとも、見たかったのかしら? 婦女子の入浴しているところを?」
入ってると思ったから開けたんだ……いや、入ってるかもしれないと思って……いや、入るの意味が違……。
ただいるかと思って……。
いや、そんなことはどうでもいい。
俺はギリッと歯をくいしばってネリネをきつくにらみつけた。
ネリネが大仰に肩をすくめて口をとがらせてみせる。
「おー、こわ。いいじゃないの。冗談よ。バジルに呼んでほしかったの。捜してほしかったんだわ。それだけのことよ。隠れてたの。ごめんなさいね」
「ハッ……」
くだらねぇ。
「俺は怪我をしてるんだが、治す気はあるのか?」
訊ねると、ネリネが勢いよく立ち上がる。
「それを早く言いなさいな。もちろんよ。私に任せて」
+++++
慣れた手つきで俺の腹に包帯を巻いているネリネをじっと見る。
わずかに下に向けているその顔にさらりときれいな髪が落ちて。
長いまつげに縁どられた目は伏せられて、どこか悲しげに見え。
淡い色の形のよい唇を持つ小さな口はほんの少し開かれていて。
それは抜けては見えず、むしろ口付けを待つような、艶があり。
少なくとも見えているところには傷ひとつないなめらかな肌が。
美しい……。
外見だけでなく、俺の腹の傷を治す手つきもまた。
ただの俺じゃない、武器である俺のことをよく知っている。
……なるほどな。
『彼』が大事にするわけだ。
幾度かこのネリネという女の名前をあの人の口から聞いたことがある。
たんなる『いざという時に匿ってくれる女の住む家』ではない。
もともとはアジトで研究員の仕事をしていた女だという。
このネリネは。
どうして離れたのかは知らないが、もったいないことだ。
それでもこういうことをしているというのも解せないが。
俺にとってはそんなことはどうでもいい。
「アラバスターみたいね」
俺の腕を見ていた彼女が不意に口を開く。
「……あ?」
怪訝に眉をひそめる俺を見上げて面白そうに目を細める。
「『アラバスター』……石よ。鉱物。白い石。あなたの肌、そっくりだわ」
「……それがどうした?」
「うふっ、どうもしない」
手当ては終わったらしい。
俺は腕をひっこめようとした。
だが強い力に止められる。
「ねぇ、バジル」
ネリネの目がじっと俺の目を見つめている。
「あなたの目、『天青石』みたいね。水色だけど、アクアマリンより、少し濁ってるの」
「いい加減にしろ」
俺は不機嫌に返す。
少しも堪えた様子もなく、ネリネは俺の頭に視線を移す。
その顔は意地の悪い笑みに歪んでいた。
「髪の毛は『砂漠のバラ』みたい。……ねぇ、私が何を言いたいかわかる? バジル」
俺はそっぽを向いた。
「さぁな」
「そう」
短く言って、ネリネは俺を解放し、薬箱その他を片付けに入る。
何もなかったように。
ここがただの女の一人暮らしの家であるように。
何も変わったところのないように見えるように。
俺のいた痕跡を消すために動く。
俺はいつしかネリネのほうを向いてそのしなやかな動きを注視していた。
不意にネリネが振り返る。
その顔にはうっすらと笑みが。
そして限りないやさしさを込めた声で。
「……あなたは石のように冷たいって、そう言いたいのよ、バジル」
笑顔で、やさしく、美しい顔で吐き捨てた女。
そこに込められた責める響きに気づかない俺じゃない。
……だが。
「……それが、どうした」
「うふふっ……」
女は肩を揺すって笑った。
「どうもしないわ」
……馬鹿らしい。
それでも、怪我の治療はされて、後はもう帰るだけだ。
こんな女が何を考えているかなんて知ったことじゃない。
風呂にも入りたかったがさっきのことがあった以上なんだか嫌だ。
長居したくない。
「俺は帰る」
「ええ、どうぞ。もう用はないんでしょう。帰ればいいわ。『あの人』が報告を待っているでしょうし」
こちらを振り向きもせず言う女の背中を見つめる。
その声といい、言葉といい、背中といい。
俺を拒絶しているようだ。
……まぁいい。
ネリネも言う通り、用は済んだ。
帰るか。
玄関に向かう俺の後をネリネがついてきた。
チッ……。
めんどくさい。
「見送りならいらない」
そう言うと、ネリネはムッとしたようだった。
「見送りなんかじゃないわ」
スゥッといやらしく目を細めて……猫がつかまえたねずみで遊ぶように……俺の様子をうかがいながらこんなことを口にする。
「さっきのことだけど。言っておこうと思って。あなたはきれい……そう言いたかったのよ、本当は」
『さっきのこと』……ああ、あれか。
俺が照れるとでも?
わざとニヤと笑みを浮かべて丁寧にお辞儀をした。
「それは、どうも」
そうして扉を開ける。
『冷たいものよね、石も、……武器も。……そして私も』
部屋を出て行く俺の耳に、ぽつんとつぶやく、ネリネの声が届いた。
ああ……まったく。
その通りだ。
(おしまい)