いばらの冠
カラーン……カラーン……カラーン……
夕刻の祈りの時間を知らせる鐘がどこからか聞こえる。
街に響いている。
赤く染まりゆく街の中、橋の上で川面を眺めてぼんやりとしていた。
川面は今や光に照らされて金色だった。
秋に黄金色に色付いた麦の畑で穂を揺らして風が渡っていく時のような波打つ金色。
それはキラキラと眩しく輝いていて。
まるで神の庭のような光景。
だが、それは見えてはいたが、目に映っていないも同然だった。
……慣れない片目で迷ってしまった。
欄干に手をかけて重たくため息を吐く。
そしてぼさぼさの前髪の下の黒い眼帯を手で覆い隠す。
頭にはさっきからひとつの考えしかなかった。
……吸血樹……
人が、死んだ。
たくさんの人が。
自分とかかわった人たちが。
……ボクのせいなのか?
ボクが悪いのか……?
ボクが、殺した?
確かに、カルロの言うことに、思い当たることはある。
あの時、自分は確かに、『死ぬ』と思った。
養父に殴られた時。
大量に血が流れ出て……。
このままでは死んでしまうと思った。
いや、生きているはずがない。
しかし、目が覚めてみれば、傷さえなかった。
それからおかしなことが相次いでいる。
……だからって……!!
街で一度に8人以上の人間が死んだ。
ほとんどは善良な、なんの罪もない、死ぬ必要のない人たちだった。
そう……何もなければ。
ボクの目のせいで……?
ボクが見たから?
ボクが殺したのか?
何の罪もない人を、それどころか親切にしてくれた人たちを、何の意味もなく……!!
ボクが、人を食べる、化け物だから?
……そんなことって……!!
カルロの屋敷から逃げ出して街をさまよい歩く間、一度も顔を上げることができなかった。
ずっとうつむいていた。
顔を上げて人を見ることができなかった。
……怖い……。
怖い怖い怖い怖い怖い。
嫌だ……!!
「ううっ……」
顔を両手で覆ってうめく。
万が一誰かと目が合ってその瞬間にその人が死んでしまったら。
目の前で死んでしまったら。
……ボクがそんな化け物だなんて証明されたら。
ボクはどうやって生きていけばいいんだ。
これからどうやって生きていけばいいんだ。
そんな罪を犯して。
……『罪の前に罰はない』……。
報いを受けているような日々だった。
罰を与えられていた。
……だけど、自分は悪いことなんて、何ひとつしてないつもりだった。
これが辻褄合わせのための罪だとしたら、なんてひどい世界なんだろう……!!
ボクのせいでたくさんの人が死んでしまった。
……そんなこと自分は一度だって望んでやしないのに。
ずっと、人間であろうと、そう思って生きてきたのに。
どんなひどい目に遭っても、人として、そう思ってきたのに。
そのボクが、人を殺して生きる、化け物だって?
もうダメだ。
なんて滑稽なんだ。
バカらしい。
そんなはずが。
ああ、でも、だって……。
だけど、ボクは。
何を考えているんだ、そんなはずがない。
だけど……!!
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!
わけがわからない。
苦しい……!!
「誰か……!!」
どんどん世界が暗くなる。
何も見えなくなっていく。
自分がわからなくなっていく。
助けて。
闇に溶けそうだ。
「ボクを見つけて……」
悲痛な声。
だが、返る声はなく。
諦めて、またトボトボと歩き出した、その時。
目の前に、金色の光に包まれたかのような人が、立っていた。
(つづく)
+++++
その人は、自らが光り輝いているかのような、美しい少女だった。
まるで内側から柔らかく温かな金色の光を放っているかのような。
神の園から遊びにきた天使。
そんな形容がぴったりだった。
街灯の白い光の下、金色の豊かな長い波打つ髪を先ほど見た黄金色の川面のように輝かせ、神秘的な吸い込まれそうなほど澄んだ濃い紫色の瞳をぱっちりと見開き、足元まである長さのドレスはふわりとしていて純白で。
ふっくらとしたほんのり赤い頬も、淡いピンク色をしたつやつやとした唇も。
傷ひとつない肌、細い真っ白な首筋も、腕も。
少女はどこまでも『愛されるために生まれた人』だった。
その少女は呆然と突っ立ってこちらを見ていたかと思うと、やがてパァッと歓喜の色に顔を輝かせ、飛びつくようにして抱きついてきた。
「アンディ……!!」
嬉しくてたまらないといった様子で抱きしめて、今度は呆然としているこちらに、明るくはずんだ声で話す。
「アンディ! あなた『アンディ』でしょ!? そうよね!? 間違いないわ!! 私、お母様から聞いたのよ、あなたのこと。私に双子の弟がいるって……! あなただわ、きっとそうよ。だって私たち、こんなに似てるんだもの!!」
似てる……?
本当に嬉しそうな少女の声を聞きながら、少女の腕に包まれながら、ぼんやりと考える。
……似てる……?
いいや、全然違う。
ボクはこんなにきれいじゃない。
こんな、髪の毛もぼさぼさで、長さも不揃いで、汚い布を被っていて、服だってボロボロで、傷だらけで、薄汚れていて……。
健康的でもなくて、やせっぽちで、小さくて。
……こんな自分と彼女が似てる……?
どこが。
まったく似ていない。
確かに自分は『アンディ』だけれども。
双子……『双子の弟』だって……?
この少女は貴族の……。
でも、自分は、自分は……。
ポタ、と顔に水滴が当たる。
彼女の涙だ。
少女はゆっくりと身を離し、両手は少年の肩に置いて、じっと少年の顔を見た。
「アンディ……会えてよかった。ようやく会えた……。私、お母様からあなたのお話を聞いてから、ずっと会いたいと思っていたのよ。私の弟に……。どんな子なのかとずっと想っていたわ。本当に私たちそっくりなのね。すぐにわかったわ。ああ、会いたかった……!!」
……でも、彼女は『そっくり』だと言ってくれる。
こんな自分と、彼女とが一緒だと。
自分も尊い存在みたいに言ってくれる。
ボクに『会いたかった』と。
ボクのことを『想っていた』と。
……見つけてくれる人がいた。
ボクのために涙を流す人が。
「……アンディ? その目、どうしたの?」
彼女が不思議そうに訊ねる。
ハッとして目を覆い隠した。
眼帯をしていれば大丈夫だとそう言われているけれど……。
思わず上げてしまっていた顔を下げてうつむく。
その動作に彼女は悲しげな声になった。
「……可哀想に、怪我をしたのね……」
「……あの、君は」
おそるおそる片目だけで見て言うと、少女は涙をふいて、また明るく笑った。
「あ、ごめんなさい! まだ名前も言ってなかったわね。私はマリエッタ。マリエッタ・メイヤン。マリエッタよ、アンディ。でもマリーでいいわ。みんなそう呼ぶの!」
「マリエッタ……マリー……」
「ええ、そうよ。私たち仲良くしましょうね。姉弟なのよ、アンディ!」
『よろしく!』と言って手を差し出してくる。
とても無邪気に、なんの躊躇いもなく。
……ボクの手は汚れているのに……。
洗っていないことを考えて戸惑う。
その手をのばして、マリエッタが手を取り、きゅっと握った。
そして花のような笑顔で明るく笑いかけてくる。
小首を傾げて、にこりと、愛らしく。
「嬉しいわ、アンディ、あなたがいてくれて」
「えぇと……マリエッタ……」
「マリーでいいわ!」
「あの、マリー……その」
下を向いたまま、おずおずと口に出す。
「……それ、ホントなの? ボクと君が姉弟だって……」
「ええ、そうよ。ちゃんとお母様に聞いたんだから。本当よ? だってほら、こんなに似てるじゃない」
「……」
それがそうは思えない。
彼女は普通の人間ですらないように思える。
まるで天使だ。
容姿も声も振る舞いも何もかも、人ではないような美しさがある。
こんなにもキラキラした人がいるなんて。
これが貴族ってものなのか。
これが双子の姉だなんて。
姉弟だなんて。
……だけど、まったく違う……!!
だってボクは。
ボクのほうは……。
こんな、こんな汚い、醜い、みすぼらしい、みっともない、みじめったらしい、ボクは。
自分と少女とは何もかも違う。
……まるで違うじゃないかっ……!!
周りの人間からゴミのように罵られる自分。
彼女はそんなこと言われたことがないに決まっている。
家畜のように扱われ、愛玩動物のような扱いを受ける自分。
彼女はそんなことされたことがないに決まっている。
きっと、大切に、大事に大事に育てられ、なんの苦労もなく、不幸を知らず、幸せに……。
これが逆だったら……?
双子なんだ。
もしも捨てられたのがマリーで、ボクが貴族の家で育てられていたら……?
そうしたら……。
……それでも。
それでもこんなボクを抱きしめてくれた。
いてくれて嬉しいと言ってくれた。
気にしてくれた。
自分が少しでも大事な存在であるような気にさせてくれた。
それはマリーなんだ。
こんな時に……!
こんな自分が化け物かもしれないって時に……!!
現れて、救ってくれた、ほんの少しでも。
それがどれだけありがたいことか……!!
彼女は自分を怖がらずに接してくれる。
『汚い』も『醜い』も『みすぼらしい』も『みっともない』も『役立たず』も言わない。
……ああ、だったら、たとえ何かの間違いだろうと……。
構いやしない。
捨てられたのがボクでよかったんだ。
彼女……マリー……が微笑む。
「アンディ、まだ時間があるから、少しお話しましょう! 私、あなたのことが聞きたいの! ねぇ、いいでしょう?」
「……うん、いいよ」
言えることなんて大してないけど。
こくんとうなずき、手を引かれるまま、マリーについていく。
前を歩く少女の長い髪がゆらゆらと揺れて。
夢の中にいるみたいだ。
なんてやさしく温かく甘く、美しい夢。
……自分が化け物かもしれないなんて、もうどうでもいいと思えるほどの。
許されたような気持ちになる。
それはいけないことだろうか……?
街のレストランでマリーと話をした。
食事にはほとんど手をつけなかった。
それをマリーは心配したけれど、ナイフやフォークの使い方がわからないんだと言うと、『なんだ、そんなこと』と笑ってやさしく教えてくれた。
本当はそれほど食欲がなかったからで。
でも、普通の人と同じに、食事をとること。
普通の人が食事をする場所で、みんなと同じようにすること。
それはとてつもない幸福であり、同時にとんでもない苦痛だった。
居たたまれない感じがして早く逃げ出したかった。
それでも……レストランではマリーと同じように扱われて、まるでマリーと同じ貴族であるかのような錯覚ができて、少しは楽しめた。
嫌な視線は感じたけれども。
結局、自分からは話せるようなことが何もなく、マリーの話を聞く一方になった。
マリーは不審がったけれども、口下手なんだと思ったらしい。
無口な性質なんだと。
それはそう外れてはいない。
人見知りするほうだし、今までの経験から他人と話すことは苦手だし、だいたいがどうしても他人を警戒してしまうしで。
だからマリーの貴族の夢のような生活をただただ聞いていた。
幸せな人というのはこういうものなんだと思った。
なんでもあって、なんでも手に入る。
ないものなんてない。
疑いもしない。
満ち足りた生活。
何も不満なんて持つはずがない。
そんなものが存在することすら知らないだろう。
この世の中に自分の望む通りにならないことがあるなんて知りもしない。
だから、こう言われた時は、本当にびっくりした。
「ねぇ、アンディ。アンディって、普通の家に住んでるのよね? 一般の人の農家だって聞いたわ。私、一日でいいから、普通の生活をしてみたいの!」
食事を終えて、レストランを出て……お金はたまたま持っていたので自分の分は出した……、マリーと並んで道を歩く。
帰り道のはずだった。
だが、マリーは手を合わせて、こう懇願してきた。
「アンディ、一日だけ、私と家を交換しない? ねぇ、そうしましょうよ! 私がアンディの家に帰って、アンディが私の家に帰るの! ね、いいと思わない? 私ね、結婚するために、勉強に行儀作法にピアノのお稽古までさせられて、うんざりしているの! 一日くらい休みたいのよ。それに、普通の生活って憧れるわ。ずっとしてみたかったの! ねぇ、いいでしょう? アンディだって、お母様に会えるわ。ね?」
普通の生活……?
だけど。
母親に会える?
マリーに話したということは、母親は自分のことを知っている。
もしかしたら気にかけてくれているのかもしれない。
それに……。
マリーと交換すれば……。
たった一日でも、普通の生活ができる。
……ああ、それはなんて、なんて素晴らしいんだろう……!!
喉から手が出るほど欲しいものだ。
「いいよ」
気が付いた時には自分はうなずいていた。
「マリーのしたいようにすれば」
マリーがパァッと顔を輝かせる。
無邪気なこどものような明るさで。
払いのけられることなど考えもしないという風で手を握ってきて。
「ありがとう! アンディ、大好き!! じゃあ、今日はアンディが私の家に帰ってね。馬車をつかまえましょ。私のほうは大丈夫。場所は聞いているから」
「……うん」
うつむいたまま、こくんとうなずく。
期待が胸を切なくしめつけ、息ができないほど苦しくさせる。
……お母さん……普通の生活……当たり前の……!!
それが手に入るのか。
怯えずに済む、安心できる、そんな居場所。
ずっとずっと欲しかったものが手に入るのだろうか……?
(つづく)
+++++
「あなた……!!」
自分を見るなり金髪の女性はさっと青ざめて叫んだ。
驚きというより、恐怖にといったように、ハッと青い目を見開いて。
その女性はマリエッタそっくりの美しい顔を歪めて悲痛な声を上げる。
「あなたは何故ここに来たの!?」
「ボクは……」
「来てはいけなかったのに!!」
自分のことを話そうとするのを大声が遮る。
「え……?」
ビクリとして体が動かなくなる。
……来てはいけなかった?
タタッと慌てた様子で駆け寄ってきた女性……母親……がガッと強い力で肩をつかんで揺さぶる。
「あの子は!? マリーをどこにやったの!? どうしてあなたがここにいるのっ!? マリーは……マリエッタはどうしたの? 何故帰ってこないの……。こんな時間にっ……! ああ、あの子はどこなの!?」
「え、あの……1日だけ家を交換してくれって言われて」
愕然として目を見開いて自分を凝視する女性。
だが、その目に自分は映っていないも同然で。
女性はしばらくぼうっとしていたが、やがて急に嫌そうに目を細め、いまいましげに少年をにらみつけて呪うように吐いた。
「あなたなんか……!! 生まれてこなければよかったのよ、この悪魔!! マリーをたぶらかして……。どんなことを言ったの? あの子があなたの家になんか行きたがるわけはないわ! マリーはどこに行ったの……。家を交換したなんて話、嘘なんでしょう? そうよね……そんなはずないわ!! マリーはどこ!? 返して!!」
「でもっ、本当に……!!」
「マリーを返して!! 私のこどもはあなたじゃない!! どれだけ悪く言われたと思っているの!? あなたが生まれたことで……私は……心中者の生まれ変わりなんか!! そうよ、私のこどもはマリエッタだけよ!! 最初からひとりだけだわ! あなたは……あなたは違う!!」
呆然としている体をがくがくと揺さぶられる。
「早くいなくなって!! また責められる……あなたは死んだはずなのに!! あの時きちんと殺しておけばよかった……使用人に預けたりせずに。こんなことになるなんて……。マリーをどこにやったの!?」
「あの、だから、マリーは……ボクの家に」
女性は突然手を放した。
突き飛ばすようにされて、よろけて後ろに下がる。
信じられないと見つめる先で、女性は顔を両手で覆って嘆いた。
「マリーは……マリエッタは私の子よ! あの子は大切な……大事なこどもなの!! 誰にも渡したくないっ……。あの子しかいないのよ!! もしひどい目に遭っていたらと思うとっ……、ああ、どうしたら……!!」
ハッとした。
ひどい目……。
自分のあったような目……。
自分はあの家でどう扱われていた?
そんなところにマリーが行って大丈夫なのか?
女性の言う『ひどい目』とは恐らく農家の暮らしのことだ。
でも、世の中には、もっとひどいことがある。
そして、もうひとつ、はっきりとわかること。
……この女性は自分を必要としていない。
それどころか、疎んでいる、自分のことを。
ここでも、自分はただの、役立たずだ。
目障りな存在だ。
「……」
たぶん、双子は心中者の生まれ変わりということで、自分が男だから悪いとされた。
そして自分が生まれたことで母親は悪く言われた。
マリエッタだけでよかったんだ。
自分は生まれなくてよかったんだ。
だから捨てられた。
……何を勘違いしてたんだろう。
何を期待してたんだ。
バカみたいじゃないか。
……喜んでくれるかもしれないなんて……。
ひどい思い上がりだった。
自分がここに来たのは間違いだった。
自分は要らない存在だ。
女性のこどもはマリーひとりなんだ。
自分じゃない。
マリエッタなんだ。
マリーじゃなくちゃダメなんだ……!!
「……ごめん、なさい」
崩れ落ちて『ひぃぃぃっ……』と何かに怯えるように泣いている女性におずおずと声をかける。
「ボク、家に戻って、マリーに帰るように言うから」
ひっく、ひっくとしゃくりあげている女性からはなんの返事もない。
嘘だと思っているのかもしれない。
自分がマリーに何かしたと。
そう思われているのかもしれない。
「……本当だから。ボクはもう来ないから。ここへは二度と……」
なんとしても無事にマリーを戻さないといけない。
必要なのはマリーなんだから。
マリーだけだから。
「さようなら……」
屋敷を出て家に向かうために踵を返す。
未練なく見えるように。
あっさりと。
……ああ、なんてバカだったんだろう。
ほんの少しでも愛されていることを期待したボクが。
期待しなければこんな思いせずに済んだのに……。
……自分は望まれて生まれたのですらなかった。
それどころか生まれてきたことを嫌がられていた。
生まれてこなければよかったんだ。
……なんてことをしてしまったんだろう。
母親が愛しているのはマリーひとりだ。
自分は代わりになんてなれない。
マリーを返してあげなくてはっ……!
夜の街をひた走る。
あの嫌な家に向かって。
マリーのいるところへ。
一刻も早くマリーのところへ……!!
(つづく)
+++++
「いやっ、やめて!!」
床の上に押し倒されたマリエッタがわめく。
のしかかった男……夫妻の上の息子……が低く笑う。
マリーの両手首をつかんで床に押さえつけて。
「弟の代わりに来たんだろう?」
その言葉に、マリーはこどものようにあどけなく目をいっぱいに見開いて、きょとんとする。
「何をするの……?」
「まさか、何も知らなかったのか?」
不審そうに男の眉がひそめられる。
少女の顔をじろじろと見て。
本当に何も知らなさそうなことにハッと笑った。
そして少女をなぶるように楽しげに話す。
「おまえの弟はいつも俺に抱かれてるんだよ。おっと、抱きしめるって意味じゃあない。お姫様でもそれくらいはわかるかな。俺だけじゃない。村中の男たちに可愛がられてる。ありがたいよ。育ちは悪いが、元は貴族のお坊ちゃんの体を好きにできるんだからな。おまえらが捨てたせいで」
「何を言ってるの……?」
見開かれていた目が怪訝そうに細められる。
一生懸命理解しようとしているように眉は寄せられて。
自分の上に跨っている男を見上げて。
「抱かれている……? 弟が、あなたに……?」
「ああそうさ。君はその代わりに来たんだろ? 弟の代わりに、俺に抱かれに」
「そんな……!!」
驚愕して、一瞬後、マリーは暴れ出した。
ぎゅっと両手首が握りしめられ、男が少女に覆い被さってしっかりと押さえつける。
怯えて引きつる少女の顔に顔を近付けて男は低くささやいた。
「おっと……、今さら逃げ出そうなんて考えないほうがいい。もう遅いよ。観念するんだね。痛い思いはしたくないだろう? なぁに……弟だっていつもやってるんだ。初めてみたいだけど……大丈夫、すぐに慣れる」
「いやっ……放して!! 何をするの!? やめて!!」
少女の手首を余裕で解放して男は少女のドレスの胸元に手をのばす。
ビリッと布が破かれた。
白いドレスの胸元から、同じくらい白い少女の肌が覗く。
男の手がそこにすべりこんだ。
「やめて……!!」
少女の目が絶望に暗く沈みこむ。
男が何をする気かようやく本当に理解ができた。
先ほどの言葉がどういう意味かも。
それは耐えられないほどの衝撃で。
信じられないほどの闇で。
「そんなことって……」
男の手は構うことなく少女の肌を這う。
「嫌……!!」
悲痛な声が漏れる。
涙があふれ出る。
逃げられないことも悟ってしまった。
「神様……」
マリーの手が、護身用の短剣を取り出し、握りしめる。
男は夢中で気付かない。
鞘を抜いて、マリーは自らの首に当てた。
「お許しください……」
……ザシュッ!!
真っ赤な血がほとばしり出る。
少女の無惨に切り裂かれた首筋から。
街外れにある豪華な屋敷の中。
カルロは窓から外を眺めている。
どこというわけでもなく、しかし何かが窓に映っているかのように熱心に。
ふと、思い出したように、口を開いた。
窓のほうを向いたままで、背後の人物に向けて。
「……たぶん、もうすぐ、ここに猫が来るよ」
「猫、……ですか」
独り言のような呟きに敏感に反応して声が返る。
その素直な驚きの声に、カルロは面白そうに笑んだ。
「そう、猫。まだ子猫なんだ。ちょっと爪が鋭いけど、君たちに怪我をさせるようなことはないと思う。一緒に連れていくからね、日本に」
「……はい」
疑問を沈黙に表しながらも、控え目に、声はそれを受け入れる。
カルロは振り向いてにっこりと相手に向けて笑った。
「一応念のために服を用意しておいてくれ」
「服? ……猫にですか?」
そこに立っていた眼鏡をかけた青年がますます不審げに問う。
カルロの笑みが深くなった。
「……我々の仲間にだよ」
青年が少し困惑した様子で小さく息を吐いた。
(つづく)
+++++
「マリー……」
目の前に血まみれの少女の体が横たわっていた。
「マリーッ……!!」
駆け寄って抱き起こす。
首に大きく切り裂かれた傷がある。
白いドレスは破かれて肌が見えていて。
少女の手には短剣が握りしめられていて。
何があったのか一目瞭然だった。
「……マリー……」
少女の目は見開かれていたが何も見ていない。
ヒュー、ヒュー……と微かな息が漏れていて。
今にもその呼吸は止まってしまいそうだ。
「いや、驚いたよ。まさか自害するとはな。度胸がある」
ハッとして振り向くと、顔に飛んだ血を布で拭っている、養父母の上の息子の姿。
悪びれず、慌ててもいず、いつも通りで。
にこやかに笑ってこんなことを言う。
「汚される前に死ねて良かったね?」
マリーを腕に抱いたまま男を凝視する。
呆然として。
「……」
……そうだ。
何があったか明白だ。
マリーは男に襲われたのだ。
そしてマリーは……。
……怖かっただろう。悲しかっただろう。悔しかっただろう。
自殺するほどに……!!
それなのに男は平然として……!!
「……もういいよ」
ぼそりと、自分でも驚くくらい、冷たく低い声が出た。
「何?」
男が怪訝そうな顔をする。
少しの苛立ちを含んで。
低く、険しく、脅すように言う。
男はマリーという獲物を逃がして不機嫌なのだ。
……だが、恐ろしくもなんともなかった。
「いいって言ったんだ」
ゆっくりとマリーを床に横たえる。
そして黒い眼帯に手をかけた。
ゆっくりと外す。
隠していた右目をあらわにし、その目で、じっと男を見据える。
そして低い声で言い放った。
「今この瞬間にボクにすべてを捧げろ……!!」
男が自分を見る。
自分の目を。
男の目と目が合う。
男の目が見開かれる。
その顔は急に恍惚として、目には喜びの光が、うっとりとして微笑んで。
「……ああ、もちろん、喜んで……」
男の手がテーブルの上にあった果物ナイフをつかむ。
それを首に押し当てて、一気に横に引いた。
パッと、そしてビシュッと勢いよく、鮮血が迸り出る。
突っ立っていた男の体がゆっくりと傾ぐ。
どさっと床に倒れた。
「……」
男は絶命していた。
……ああ。
男の死体を眺める自分口から蜘蛛や蟻が這い出してくる。
それは一直線に男の死体に向かって。
男の流れ出た血に群がって。
……ああ。
そうか、こうやって……。
吸血樹は食事を……。
気付いて、顔にかかった男の血を指で拭い取り、ペロと舐める。
それは信じられないほど甘く。
ぽつりと呟く。
「おいしい……」
……何故だろう。
人が死んだのに……。
男の死体を前になんの感情もない。
しかも男は一緒の家に住んでいた相手なのに。
今まで自分は、死ねばいいのにとか、死んでほしいとか、そう思うことくらいはあった。
……でも。
死んで当然だなんて……!!
そんな……。
男には散々なぶられた。
嫌な思いをさせられた。
恨んでいたし、憎んでいたし、死を願うくらいの感情はあった。
……それがどうでもいいだなんて。
自分は……。
人間を『ケダモノ』だと思っても、それは『人間というケダモノ』だと思っていた。
人を人じゃないとか人以下だなんて思ったことはなかった。
……それなのに。
虫けらが死んだようにしか感じないなんて……!!
人を虫けらだなんて思ったことはなかった。
人は人だったのに。
それが。
……いや、違う、ボクが人じゃなくなったんだ……!!
ボクは最低の人ですらなくなった。
こんなの人間じゃない……!!
……自分は化け物だ。
こんな自分は……。
多分、もう……。
『ひっ』という短い悲鳴が上がった。
振り向くと戸口に養母が立っている。
その顔は青ざめて。
「化け物っ……!!」
自分を見つめてそう叫ぶ。
向けられる恐ろしいものを見る目。
嫌悪の情。
……化け物……?
今さら何を言うんだ。
滑稽だ。
……今まで、ろくに食べ物はもらえず、ボロボロの服を着せられ、冷たいところに寝かされて、朝から晩まで働かされ、病気になっても休めもせず、周りにひどい目に遭わされていたのに助けてもくれず、それどころか女にも罵られ、物をぶつけられて、つらい思いをしてきた。
……あれが人間に対する扱いだったとでも……?
自分のことを人間だと思ってくれていたのか?
それであの扱いだったのか?
……違うっ……!!
最初から化け物だと思われていたじゃないか。
そういう扱いをしてきたじゃないか。
今さらボクが化け物になったからって驚くことないじゃないか。
人間だなんて思っていなかったくせに。
もういいんだ。
必死に守ってきたものが崩れてゆく。
……『人間なんだから』と思っていた。
相手も自分も人間なんだからと。
いつかわかり合えないことはないと。
許せないことはないと。
バカらしい。
なんだったんだ、今まで、何を守って。
でも、それでも、ボクは……。
ボクは……!!
そんな目で見られる存在になってしまったけど、ボクは……。
それでもボクは……。
女がふらふらと歩いてどこかへ行く。
多分、死ぬために。
どうでもいい。
決めたんだ。
命を奪う。
戦う。
人間でも。
その覚悟ができた。
ああ、だけど、ボクは……。
もう世界は違ってしまった。
自分の世界は人間の世界じゃない。
……人殺しの化け物になってしまった。
だけどボクは……。
人間としてこの罪を抱えて。
ボクが人間でいられるように。
罪を覚えていなくては。
人を殺した罪を。
ずっと、ずっと……。
どうでもよくならないように。
そのために生きて……。
たとえ、もう人間の世界に入れないとしても、二度とやさしい目で見てもらえなくても。
たったひとりでも。
元からそうだったんだ、大丈夫、孤独でも生きていける。
でも、マリーは……。
マリーはボクをやさしい目で見てくれた。
ボクがいることを喜んでくれた。
マリーだけはっ……!!
今にも息絶えそうな少女の体を抱き上げ、外へ行こうと駆け出す。
途中、騒ぎに気付いたらしい、不安そうな養父にぶつかった。
「退け」
ギロリとにらみつけてそう吐けば、相手はふらりとどこかへ向けて歩き出す。
……見守るつもりはなかった。
決して忘れはしないけれど。
(つづく)
+++++
ハッ、ハッ、ハッ……。
薄闇の中、少女を抱いてひた走る。
目指す場所へ。
どう行けばいいのかわからない。
それでもとにかく街へ向かって。
途中、ツイッ……と先導するように蜻蛉(トンボ)が現れた。
直観的にそれが何かわかってその後をついていく。
すぐに昼間見た屋敷の灯りが見えた。
「カルロッ!!」
片手でバタンと勢いよく扉を開く。
そして躊躇わずに中へと駆けこんだ。
同時に入った蜻蛉を指へと招いたカルロがおだやかな笑顔で居間に迎え入れる。
「やぁ、アンディ。我々と一緒に来る決心はついたかい? 準備のほうは……」
「それどころじゃないっ……!!」
まるで腕に抱えたマリエッタが見えていないかのように話をすすめようとするカルロを大声で遮って、血まみれの少女の体をソファーに横たえる。
そしてカルロを見上げ、必死に懇願した。
「マリーを助けて……!! このままじゃ死ぬっ……!! 死んじゃうんだ!! お願いだから、なんでもするから、なんでも言うことを聞く!! だからマリーをっ……マリーを助けて!!」
「落ち着いて、アンディ。私は医者じゃないんだ。そう言われてもね」
腕を組んで少女の傍に立って見下ろし、困惑げに眉をひそめて言う。
死にそうな少女を前にしての冷静さに腹が立つ。
ギッとにらみつけて怒鳴った。
「体を修復するって言った……!! 傷が治るって、すぐに元に戻るって!! そう言ったじゃないか……!!」
カルロがふうとため息を吐く。
「あれは吸血樹の話だ、アンディ」
「ならマリーを吸血樹に……!!」
思わず口走って、ハッとして口を閉じる。
自分は今、とんでもなく恐ろしいことを。
何かいけないことを言わなかったか?
「あ……」
次の言葉が見つからず、撤回することもできずに、ただ困惑してうつむく。
だが、カルロは、怖いほど静かに言う。
「……アンディ。吸血樹になれるのは人間の雄だけだ。男だけなんだ。人間の女性は吸血樹の種を宿してそれを蒔いて死ぬまでの一月の間だけ吸血樹になる。彼女を吸血樹にするのは無理だろう? それに……もう死んでしまっているしね」
「嘘っ……」
「魂はもう抜けてしまっている。体が死ぬのも直だ」
心がざわりと波立つ。
いったん落ち着いた心が。
バッと少女の上に屈みこみ、顔を覗き込む。
がくりと力なく横たわる少女の体。
もう息をしていないも同然だった。
「嘘だっ……!!」
ぎゅっと目を閉じる。
強く拳を握りしめる。
全身が寒いかのように震える。
いや、本当に寒い。
寒くて、目の前は暗く。
これが絶望というものなのか。
「そんなの嫌だ……!!」
マリーがいなくなるなんて。
あんなにやさしいマリーが。
光のように見えたマリーが。
……この世から消えてしまうなんて……!!
バッと顔を上げてカルロを見上げる。
「どうしよう……! ボクのせいだ!! 全部ボクのせいなんだ!! 街の人たちが死んだのもっ……、マリーが死んでしまうのも……! ボクが見たから……ボクの目のせいでっ……たくさんの罪のない人たちが死んだ! マリーだって……ボクがあんな提案に何も考えずに乗らなければっ……!! 母親に会いたいなんて、普通の生活がしたいなんて、そんなこと望まなければ!! ボクがいなければみんな何もなくて済んだんだ!! ボクさえいなければっ……」
静かに聞いていたカルロが重たく口を開く。
「……アンディ。それは君のせいじゃない。街の人のことは、君はまだ目のことについて何も知らなかったんだ。彼らは交通事故に遭ったみたいなものさ」
「でもっ……」
「意志なきところに罪はあらず、だ。ついでに言えば、罪の前に罰はないというのも、罰ではないから甘んじて受ける必要はないというつもりだったんだがね。君のせいだなんて言ったつもりはないよ。確かに、吸血樹は人を食べる。だが、人間だって牛や豚などの生き物を食べる時に、感謝こそすれ、言い訳なんて普通はしない。食べてしまって済まなかったとは決して言わないだろう。我々は人間を食べる。変えられない事実だ。そういう生き物なんだ。吸血樹というのはそういうものなんだよ、アンディ。言っただろう、君の世界はもう違ってしまった、と」
「それでもボクは人間だ……!!」
カルロが軽く肩をすくめる。
顔にかかった髪を払いのけ、ふぅと小さくため息を吐いた。
「……人間が人間を殺すことは罪だが」
「いいんだ……!! ボクは罪を抱えて生きる」
思いをこめて吐くと、カルロはもう一度肩をすくめた。
「……そうか。でも、彼女のことにしたって、君は提案に乗っただけなんだろう? どうやら君が殺したわけでもなさそうだし。君になんの罪がある」
「ボクが……!! ボクが自分がどんな目に遭っているかも教えなかったから、マリーは……マリーは襲われて……っ!」
「アンディ。それなら、彼女は生きるべきだったよ。君と。君がつらい目に遭っていることを知ったのなら、一緒に生きて、君を守るために、戦うべきだった。彼女は君を捨てたんだよ。自分がひどい目に遭うのが嫌で。逃げたんだ。それがわからないのか?」
「だけどっ……ボクはっ……」
「……それはそれとして、彼女は食事にもらっていいのかな」
サッと顔が青ざめる。
マリーの真っ白い顔を見る。
それは流れ出た真っ赤な血によって濡れて溶ける紙のようで。
……このまま……。
彼女の存在はなくなってしまうのか。
ぎゅっ……と抱きしめる。
やさしい目で見てくれたのに。
温かい言葉をくれたのに。
大好きだって言ってくれたのに。
こんな自分のせいで……!!
もう一度カルロを見上げる。
「お願いだ、カルロ……!! 助けて。ボクはどうなったっていい。マリーは……マリーだけはっ……!! 生きていてほしい、死なないでほしいんだ!!」
初めてカルロの顔と声が険しくなった。
「アンディ、人は死ぬんだ……!! 死ぬから人なんだよ。生に限りがあるからそこに感情が生まれる。人間は死ぬから人間なんだ!! どんなに悲劇的であろうと、関係なく人は死ぬ。死ぬことに変わりはない。……死なないものはもはや人とは呼べない! それは……」
……それは化け物だ。
彼女を化け物にする気か?
そう問われていると正しく理解した。
がく然と目を見開き、言われた言葉を飲み込むことに時間を要する。
だが、それはほんの短い間だった。
決まっている。
ぎゅっと目をつぶり、噛みしめていた唇を解いて、声をしぼり出す。
「それでもボクは……マリーに生きていてほしいっ……!!」
「わかった」
短く低く返したカルロが、薔薇の枝の絡みついた剣を取り出す。
「退いていなさい。これを使えば、彼女の体だけは保つことができる」
半信半疑ながらも、迫ってくる刃に、後ろへ下がる。
カルロはそれで少女の体を貫いた。
「……っ!!」
見る間に薔薇の枝がのび、少女の体に絡みつき、体内に埋まるようにして消える。
少女の右手の人差し指に薔薇の花のついた枝の指輪を残して。
カルロは息とともにゆっくりと剣を引き抜く。
「……これは、吸血樹が愛する女性と長い時を過ごすために使う。吸血樹の種を宿し、繁殖を終えるまで、この体は老いることもなければ、死ぬこともない。魂のない抜け殻の体だが、君の望み通りだ」
恐怖に目を見張ってただ呆然としていることしかできない。
そんな自分にカルロは鋭く刺すような目をくれる。
そして、低く、よく響く声で、冷たく言った。
「……これは君の唯一の罪なのかもしれないね」
それを表すならば。
断罪。
まさにそれだ。
……望み通り……
……老いることもなければ死ぬこともない……
……化け物……
……魂のない抜け殻だけの体。
マリーを見つめる。
いまやただ眠っているという風だった。
……罪……。
剣を片付けたカルロが自分を見つめている。
手がのびてきてびくっとして振り向くと、その手が肩へとかけられる。
やさしく促されて立ち上がると、扉近くの鏡の前へ連れて行かれる。
鏡に背を向けて立たされた。
傍の棚からカルロは手鏡を取り出し、自分へ向かって差し出した。
「見てごらん」
素直に……未だ呆然自失で……言われた通り鏡を手にしてそれを見る。
後ろの鏡に自分の背中が映っている。
首筋に妙な赤い薔薇のような痣が見えた。
……いつのまにこんな痣が……?
ぼんやりと奇妙に思っていると、カルロにそこを突かれる。
先ほどより力がないが、やさしい笑みを浮かべていた。
「吸血樹の証だよ。年輪みたいなものだ。長く生きるほどこれが成長して前のほうに。ほら、私みたいに」
カルロがチラッとシャツの襟を指に引っかけて下げてみせる。
そこに同じ模様があった。
確認したことを見てとると、カルロは襟を戻し、手から鏡を奪った。
声が厳しいものになる。
「さて、アンディ。次は私の願いを聞く番だ。私の巣に入りなさい。次期当主として。一緒に来るんだ。……もちろん、彼女も一緒にね」
……断ることはもうできなかった。
(つづく)