このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

いばらの冠






 白いシーツの上の少女の体。

 まだ幼さの残る顔は闇の中に浮かぶ白い薔薇のつぼみのように白くつやつやとしていて。

 そのなめらかな曲線を描くふっくらとした頬が柔らかい光に当たっているかのようにわずかに赤く温もりを感じさせて。

 その唇も今や動き出しそうなほどに薄く開かれ、それは淡く色付いていて。

 シーツから出たほっそりとした華奢な肩も、胸の前で組まれた細い指も白く。

 朝日にきらめく水面のように髪の毛は金色で波打っていて。

 両側でふたつに分けられた金髪から出た額も当然白く、傷ひとつなく、眉毛も、そして大きな目を縁取る長いまつげも、髪と同じくらい美しい光の色で。

 その目は、今は固く閉じられているその瞳は、少年の知る限り濃い紫色をしていた。

 高価な紫水晶(アメジスト)のような紫。

 髪の長さと瞳の色以外、見つめている少年とよく似ているのが、この少女だった。

「……マリー……」

 カルロの去った部屋で、ベッドの横に突っ立ち、少女の寝顔を呆然と見下ろして、アンディはふと名前を呼ぶ。

 それから困ったように首を傾げ、何かを思い出そうとするかのように眉をひそめ、痛むように顔をしかめて、苦しげに声を絞り出した。

「……菫っ……!!」

 少女の上に突然に突っ伏してまるで守るかのように両腕を広げてその体を包み込む。

 黒猫ダイナが『ニャッ』といって慌ててベッドから退いた。

 抱きしめることはせずに、できずに、ただ『彼女』の体にすがりつき、その顔を見つめる。

「……早く目を覚まして、ボクを見て……」

 その短い眉の根をきつく寄せて少女を見て願う。

「菫、ボクを……」

 その続きは声にならず、唇だけが動いた。



 ……ボクを、……。



 答えはなく、菫は眠り続ける。

 少年の目は暗くなり、閉じられてしまいそうなほど細くなった。

 顔はうっすらと青ざめて。


 ふら、と身を起こし、揺れて、どさ、と力なく椅子に腰を下ろした。



 眠る少女を少年は見つめ続ける。

 どこか遠くを見るような目をして。

 少女の目が開かれることを待ち望んで。





(つづく)


+++++





『トラワレ』





いくら腕に傷をつけて、

どれだけ血を流し、

その血で十字架を描いたとしても、

君の罪は消えない。

何故なら、

君の血は、

汚れているからだ。

贖罪にはナラナイ。



いくら喉を嗄(か)らし、

どれだけ叫び、

嘆いたとしても、

君の声は届くことがない。

何故なら、

君は呪われているからだ。

人にはキコエナイ。



いくらもがいても、

ここから出ることはできない。

何故なら、

君は忘れられた囚人。

責める者もいない、

許されることもない、

・・・孤独なトガビト。





(つづく)


+++++





(アンディの過去)





 カチャン……。

 目を覚ますより早く、夢の中で鉄の音を聞く。

 それに引きずられて現実へと突き出された。

 意識は戻ったが、まぶたが重たく開かない。

 まぶただけでなく、全身が重たい。

 まるで鉄の塊を飲み込まされたかのように。

 その熱い塊はもう冷めている。

 しかし、自身の体は未だその熱を移されたかのように気怠く、しびれていて、あちこちがうずいていた。

 体中を這い回ったいくつもの手のせいかもしれない。

 未だに皮膚の上を何かが這っているみたいだ。

 冷えた床が気持ちいい。

 剥き出しのコンクリートは慣れた感触だ。

 動物のいなくなった檻の中の微かに残る獣臭さも。

 重なる青臭さも。

 鉄の臭いも。

 先ほどのカチャンという音は、本当に夢でなければ、最後のひとりが檻を出て行った音だろう。

 用心をしながらうっすらと片方の目だけを開いて動かずに辺りの様子を静かに窺う。

 ここでまだ誰か残っているのに恐怖に負けて跳ね起きたりすれば、そんな元気がまだあるのかということで、逃げられない檻の中でまた蹂躙に遭う。

 それが嫌なので、気絶をしたふりで、じっと辺りを窺う。

 ……どうやら、みんな帰って、もう誰もいないらしい。

 ぼんやりと両目を開いて黒い鉄の向こうの薄闇を見る。

 先ほどまで皓々と自分の肌を照らし出していた天井近くの灯りは消され、今は開け放たれた扉の向こうから月が顔を出して自分を覗き込んでいた。

 撫でるような淡いやさしい光だ。

 白い光のように痛くない。

 ここらの人間はみな朝が早いので早くに解放されることが救いだ。

 また捕まらなければ、だが。

 鉄の檻の扉が開いていることに気付き、ゆっくりと身を起こす。

「っつ……!」

 とたんに走った激痛に体をふたつに折り曲げる。

 ガチャンッ……!!

 鋭い金属音がして、手首を戒めていた鎖が体の上をすべり落ちていく。

 手首はすでに自由だった。

 見れば手首に残る赤い痕。

 それは消えない以前のものと重なってついている。

 体中に散らばる肌を吸われた痕も、噛まれた痕も、火傷の痕も。

 その上を流れた白い液体はもはや乾いてこびりつき、ベタベタとしている。

 口にもくわえさせられていたために、長さの不揃いな髪にまで飛び散って、髪の毛が束になって固まっている。

 自分の惨状に呆然としたのはほんの少しで、すぐにいつものことだからと、目で服を探す。

 こうなると、もう一秒たりともここには居たくない。

 ボロボロになった布がすぐそばにあった。

 それを引っつかみ、痛みを堪えて、身にまとう。

「くっ……!」

 体中の痛み。

 ズキズキする腰を押さえてなんとか立ち上がり、いう事を聞かない足をなんとか動かして、よろよろと檻に近付く。

「……クソッ」

 よろけて檻にしがみつき、空をにらみつけて吐き出す。


 ……それでも、何事もなかったかのように、意地で顔を上げて、胸を張って、平然と帰ってやろうと思った。

 自分の痛みなんて他人に見せたくない。

 同情なんてされたくない。

 これは自分の痛みだから。

 知ったようなことは言われたくない。



 これはボクのプライドなんだ。

 こんなことなんでもないことだ。

 屈してやるもんか。



 好き勝手にされて、それでも、捨ててやるもんか。



 悔しくて仕方がない。



「チクショウ……!!」

 ぎゅっと冷たい檻を握りしめ、そこに居ない相手をにらみ据えて、吐き捨てる。

 そして、ゆっくりとまた、歩き出した。

 檻を出て、小屋を出て、家へと向かう。

 自分を預かり育てることで金を得て、それだけでなく可愛がるふりをして弄ぶ。

 あの家へ。





(つづく)


+++++





「なんてみっともないんだ……!!」

 養父は少年の姿を見るなり嘆いた。

 こっそり入ってこっそり自分の部屋まで行こうと思っていたのに。

 少年は運のなさを恨むが、それほど広くないこの家では、どうせ誰かに見つかってしまう。

「早く外で洗ってきなさい」

「……はい」

 何があったかも聞かず……それは知らないふりをされているだけだから……疎ましそうに押し付けてくる。

 それでも、洗い流せることはいいことなので、素直にうなずき、外の水場へと向かう。

 背後で自分の妻に話しかける男の声がした。

「どうしてあの子はああ汚いんだ。せっかく貴族の家から殺されかけたところを助けてやって育てているっていうのに。万が一あの子のあんな姿を見られたんじゃもう金ももらえなくなるかもしれない。脅迫材料にもならなくなる。あんなのは息子じゃないと言われて。これじゃあなんにもなりゃあしない……」

 最後に、男の妻の『あたしゃ知りませんよ』という、投げつけるような大声が聞こえた。





 ジャバジャバッ、バシャッ……!!

 くみ上げた冷たい水を頭から被る。

 そして体を布でこする。

 先ほどの男の冷たい声が、侮蔑の目が、自分を組み敷いた男たちのものと重なった。

 感じるのは、一様に、貴族への憎しみ。

『アイツら俺たちを見下しやがって……!』

 貴族の運転手をしているのだという男が仰向けにされた自分の両足を抱え上げながら言っていた。

『虫けらのように扱いやがって、たまたま生まれてきた家が貴族の家だったってだけじゃねぇか。偉ぶりやがって。血だけだろう? なんの努力もせずに……!!』

 押しこまれるものに悲鳴を堪えながら、その呪うような言葉を聞くまいとする。

 だが、両手は後ろに回され、鎖をぐるぐると巻かれ、縛られて、それが檻とつながれていたせいで、耳をふさぐことはできない。

 男の冷ら笑う声が否応なしに入ってくる。

『ヤツらの息子は売女じゃねぇか……!!』

 いくつもの嘲笑の声が重なる。

 通いの庭師、首にされたコック、ちょうど休みで帰ってきていた使用人……。

 体を揺さぶられながら、貴族を憎み、その息子である自分に憤りをぶつけ、嘲り、罵る、悪魔のような声が降ってくるのを、避けようもない。

 口で『嫌だ』『やめろ』『放せ』とどれほど言ったところでなんの甲斐もなく。

 上げた声でさえ笑いの対象になるだけで。

 いや、残酷なことに、そのことでより相手を調子に乗らせることになる。

 その力の無さを証明することになって。

 自分に叩きつけられるものは嫌なものばかり。

『おまえも要らなかったから捨てられたんだよ。ざまぁみろ。俺たちと同じなんだ!』

『いいや、俺たち以下だよ。おまえこそ虫けらなんだ。しょせん貴族なんてやっぱり生まれがよかっただけだ。家だけだ。そうじゃなきゃこの有り様だ……!!』

『血だけがよくてもなんにもなりゃあしない。抵抗するなよ。どうせこんなことでしか役にも立たないくせに……』

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 次から次から自分へとのばされる手が思い出されて一瞬息が止まる。

 嫌だ……!

 ギリ、と唇を噛み締める。

 幻だ、こんなのは幻だ、今も手が目の前にあるなんて。

 ぶんぶんと激しく追い払うように闇雲に頭を振る。

 ぎゅっと固く目を閉じて。

 すると遠退く手。

 かわりに現れる蹂躙される自分の姿。

 強烈にまぶたに焼き付いて離れない映像。

 まるで蹂躙される自分を離れて上から見ていたかのように。

 その場面を遠くから見ていたかのように。

 慌てて目を開いてそれも首を振って追い払う。

 もう早くご飯をもらって寝てしまおうと体を洗うことに専念する。

 だが、汚れがなかなか落ちない。



 解放されたはずなのに、脳にこびりついた顔が、声が、手が、男の体が、自分を放してくれない。





(つづく)


+++++





「食べるものなんかないよ」

 女はあっさりとそう言った。

 嫌悪の情を顔に浮かべて、こちらのほうを見もせずに。

「自分が遅いのが悪いんだろう?」

 そう非難げに言って、汚らしいものを見る目をくれて、唾でも吐きかけるように言う。

「明日も早くに卵を街に売りに行ってもらうから早く寝なさい」

 口を開きかけていたが、それをやめて、キュッと唇を噛む。

 言いたいことはいくらでもある。

 だが、女がそう言う以上、どう言ってももらえないものはもらえない。

 自分の母親のメイドをしていたというこの女は、自分を育てるということで辞めさせられ、華やかな街からこんな遠く離れた農家に夫に連れられて移されて以来、少年のことをひどく憎んでいた。

 口を開けば開くほど、嫌がられる。

 不機嫌になる、叱られる、打たれる。

 今の自分がここにいさせられているのは誰のせいだ、と。

 どうしてこんなところにいなくちゃいけないんだ、と。

 何も言わないことが得策だ。

 男たちと違ってこの女は物を使って殴るので危ない。

 男のように殴りなれてもいない。

 たぶん、今日の機嫌の悪さは、また自分が男たちに可愛がられてきたということからだ。

 それは決していい意味ではないのに。

 この女からすれば違う意味に映るのだ。

 正しく『汚らわしい』と思ってもいるし……そして間違って『うらやましい』とも思っている。

 女には大きなこどもがふたり、そして女の夫は、もう女には興味がない。

 自分ばっかり男にちやほやされていい気になるなと怒られたことがある。

 食事は完全に諦めた。





 寝床として与えられ物置部屋に向かう途中、背後から手をつかまれた。

 ビクッとして振りほどこうとするが、外れない。

 振り向くと夫妻の上の息子が立っていた。

 にこやかに笑っている。

「ご褒美」

 少年はのびるままにのばされた長い髪の毛の間から男を見上げてぼうっとする。

 男がパンを差し出し、少年の手に押し付けるようにした。

 笑みが少し歪んだものに変わった。

「今日はお疲れ様。ゆっくり休んでね。休めればだけど」

 パンに目を落とし、それを大きく目を見開いて見つめるうちに、体ががくがくと震え出す。

 男に引っ張られて無理やりあの小屋に連れて行かれ、檻に閉じ込められて、鎖で縛られ、抵抗できなくさせられて、体を好きなようにされたのはもう何度目か。

 それを平然と……!!

 バシッ! ととらわれていないほうの手でパンをはじき、それに驚いて『おっと』と男が手をゆるめた隙に、逃げ出した。

「あーあ……」

 男のため息が背後から聞こえるが知ったことか。





 バタン! と部屋に入って扉を背で閉める。

 ハァ、ハァ……。

 肩を大きく動かして、荒い息を吐く。

 部屋にいた夫妻の下の息子が迷惑そうなににらみつけて言った。

「うるせぇよ」

 ベッドに腰掛けていたのを、立って、小さな机に近付く。

 その上に置かれたふたつの皿を指で示して。

「ほら」

 顔を上げてその目で意味を訊ねる。

 自分と同じくらいの年齢であるその少年は肩をすくめてハッと笑った。

「……おまえの分、取っておいてやったぞ」

 戸惑って、扉に背中をつけて、動けない。

 じれったそうに相手は手招いた。

「早く来い。さっさと食べろ。愚図は嫌いだ」

 しばらく躊躇った後、ずるずると重たく鎖を引きずるようにして歩き、その机に近付く。

 視線を感じながら、スプーンを手に取り、スープの皿に突っ込んだ。

 そして静かに飲み始める。

 夫妻の息子の目が、食べている間中ずっと、じっと自分に注がれているのを感じる。

 パンに手をのばした時、後ろからスッ……と手がのび、羽交い締めにされた。

 ベッドに引きずられ、ドサッと投げ出される。

 疲労でろくな抵抗もできない。

 バサッと服を脱ぎ捨てる音が聞こえる。

 恐怖に目を見開いて硬直する。

 声が上から降ってくる。

「……全部終わったら、残りを食べさせてやる」

 慌てて壁に逃げようとしたら服の裾をつかまれて引きずり戻される。

「どうせ他のヤツらにやらせたんだろう? 汚れているくせに、俺は嫌だってのか。おまえなんかに見下される覚えはない。そんな醜いおまえに」

 頭の横で押さえつけられた手。

 覆い被さってくる体。

 割り込んでくる足。

 がくがくと震える体から、見開かれた目から、ボロボロと涙がこぼれた。





(つづく)


+++++





 朝。

「遅い! まったくいつまで寝てる気だい? ほら、卵だ。自分の食う分くらいはちゃんと稼いできなよ」

 自分を育てるために貴族の家を脅してお金をもらっていて、この辺りでは一番裕福で、農家なのに上の息子は街で遊んでいるし、下の息子を学校に通わせることすらできているのに、女は不満げにぼやく。

「笑いもしないし、泣きもしないし、ちっとも可愛くない!! なんだってこんな子を育てなきゃならないんだか。これで並みの人ができることすらできないんじゃまったくの役立たずだ。生きてる意味なんてあるもんか。ほら、全部売るまで帰ってくるんじゃないよ!」

 じっと女を見つめて口を開いて言葉を探す。

 ……だが、何を言う?

 なんて言っていいかわからない。

 ……何も言いたいことなんてない。

 どうせ理解してもらえるとは思えない。

 どうせこんな理不尽な、こんな押しつけの、こんなむちゃくちゃな、こんな世界では。

 黙って卵の入った籠を受け取る。

 ただ女を赤みがかったオレンジ色の目で見つめて。

 少年の顔をじっと見下ろしていた女は、鼻の頭に皺を寄せ、険しい顔をして吐き捨てた。

「……まったく、嫌な金髪だ!! あの女と同じ、あの気取った、澄まし屋の、高慢ちきなお嬢さんと一緒だよ!! ムカつくったらないね!!」

 自分の母親のことだと気付いてハッとする。

 目を見開いて。

 ……どんな人なのか。

 今どうしているのか。

 自分の今のことを知っているのか。

 ……少しは想ってくれているのだろうか。

「あ……」

 訊いてみたくてたまらなかった。

 だが、女は汚いものでも見るような目を返し、乱暴に少年の頭に汚れた布を被せた。

「ほら、今日もちゃんとこれを被っていきな! 絶対に取るんじゃないよ。きちんと、その髪も、顔も隠して。一応アンタは死んだことになってるんだから。バレたら困るからね。わかったら、さっさと行きな!!」

「……」

 言おうとした言葉を飲み込み、うつむいて、唇を噛む。

 汚い、みっともない、役立たず……そんな言葉が自分を埋めていく。

 本当は違うのに。

 そう思うのに言えない。

 今の自分は……。

 泣けもしないし、笑えもしない。

 感情を出せない。

 弱みを人に見せたくない。

 すべてを封じるしかない。

 こんなことで傷ついてるなんて知られたくない。

 我慢できる。

 できる、から、だから。



 卵の籠を抱えて街へと歩き出す。

 一緒に痛みも抱えて。

 ……それでも、今は、ここで生きるしかない。





(つづく)


+++++





「アンディ!」

 笑顔の女の子が声をかけてきた。

 いつも街へ卵を売りに来ると買いに寄ってくれる知り合いだ。

 自分を名前で呼んでくれる人たち。

 髪の毛が目立たないよう被っていた布を少し上げて、目が見えるようにして、相手を見る。

 おずおずと。

 女の子はにっこりと小首を傾げて笑って言った。

「また卵をちょーだい。今日は6個ね」

「……」

 こくんとうなずき、籠から卵を6個取って、少女に渡す。

「ありがとう!」

 少女はお金を払って手を振って去っていく。

 それからも、次から次に、声をかけられる。

 彼らは一様に笑顔で。

 みすぼらしい姿の自分に近寄ってくる。

 質素な服に、頭から汚れた布を被り、長さの不揃いな髪で、うつむいていて、笑顔のひとつも見せず。

 手や足には傷があって、全体的に薄汚れていて。

 ……そんな自分に、自分の姿に、決して触れることはなく、笑いかけて、話しかけて。

 まるで当たり前のように。

 ……この状態が見えていないように。

 善で相手をして、悪で無視をする、それを同時にやってのけていた。

 可哀想な少年から同情で卵を買い、厄介事に首を突っ込みたくないから少年の事情は決して訊ねず。

 そこには明らかに異常があるのに、それが普通であるかのような顔をして。

 話しかけることはするが、話しかけられることは望んでいない。

 汚いところを見て一緒に戦って少年を救う気など全くない。

 ただ見ているだけと同じだ。

 そこに苦しみがあるのに、悲しみがあるのに。

 誰も助けてくれない。

 ……それくらいならやさしくされないほうがマシなのに。

 この上ありがたがられようだなんて、愛情を奪うような真似をされては。

 それでも、それを口に出さずに、顔にも出さずに、少年はたんたんと卵を売り続ける。

 全部売らないと帰れない、ただそれだけのことだと。

 他人の偽善ですら利用しないと生きのびられない。

 したたかでなければならない。



 帰り道で卵を投げつけられた。

 木のかげに隠れて、無言で。

 振り向くと、笑い声が上がる。

 そしてこどもたちが背を見せて去って行った。

 通りすがりの害意。

 それは『悪』ですらなく。

 ただぶつけられただけだ。

 少年がそれを向けていい存在に見えたから。

「……」

 無言で見送り、止めていた足を前に向けて、トボトボと歩き出す。



 ……それでも、彼らは、人間なのだ。





(つづく)


+++++





 家に帰り、遅かったことを養母に叱られて、さんざん罵られて、それから誰にも捕まらないためにこそこそと隠れ回って、見つからないように部屋の隅にうずくまり、しばらくぼんやりとしていた。

 日が暮れて、部屋から出て、台所に向かう。

 すると、半ばで養父に腕をつかまれ、止められた。

「体を洗って、一番いい服を着てきなさい」

 ビクッとして男を見上げる。

 すると男はめずらしく上機嫌な様子でやさしく猫撫で声で言った。

「おまえを買いたいという人がいる」

 ゾクッとして、目を見開く。

 そこに映るのはケダモノの笑顔で。

 『人間』というケダモノで。

「さぁ、早く支度してきなさい」

「……いっ」

 つかまれた腕を引っ張られ、外の水場ではなく家の風呂のほうへ連れていこうとする男に、悲鳴の高さでわめいた。

「嫌だ!! ……嫌だ、行きたくない!! 放せ……!!」

 足を踏ん張り、ぶんぶんと頭を振り、腕を引く手の力に抗う。

 それは、男と少年では、無駄な抵抗だった。

 それでも、男の苛立ちを生むには、じゅうぶんだった。

 ……バンッ!!

 男の大きな手が少年の頭を叩く。

 ろくに食べ物も与えられず、しかもまだ成長途中の、軽い少年の体はふっ飛ばされた。

 ドン! と棚にぶつかり、少年はずる……と床に倒れる。

 そこに、棚の上にあった花瓶がずれて、降ってくる。

 ……ガシャンッ!!

 花瓶は少年の頭にぶつかって大きな音を立てて割れた。

 男が床にぐったりとのびた少年に向かって怒声を浴びせる。

「嫌だと? 誰が育ててやってると思ってるんだ! 自分にそんな権利があるなんて思うな!! 私たちの役に立てることに感謝しろ!! おまえみたいな汚いのを買ってくれるという人がいるんだぞ!!」

「……」

 少年が声も出せずに横たわっていると、男はフンと鼻を鳴らし、足音も荒々しく去って行った。

 少年はそこに残された。



 ……ああ、なんだろう?

 なんだか、生温かいものが。

 頬を伝っていく感じがする……。



 ……どうしたんだろう?

 目がよく見えない。

 なんだか何もかもがぼんやりとして。



 今日は世界が真っ赤だ。





 動かなくなった少年の首筋に、そっと口付けるように蝶が止まった。

 それは瞬いて。

 消えた。





(つづく)


+++++





「……目が覚めたか?」

 薄くぼんやりと開いた目に、天井と、視界の隅に養父母の下の息子の背中が見える。

 それはベッドの端に腰かけてこちらのほうに顔だけ向けていて。

 出された低い声はその少年の出したもののようで、当然のように、天井からそちらへ視線をすべらせる。

 だが、何故か目を合わす気になれず、その前に自分は目を逸らしていた。

 ギシッ……とベッドをきしませて、相手は腰を上げて、上から少年を見下ろす。

 それが嫌で、布を引き上げ、顔を隠す。

 気にした様子もなく、相手は言った。

「3日も起きねぇから、さすがに危ないかと思ったぞ。っていうか、死んでるように見えたんだけどな、最初は。……覚えてるか? 血まみれで倒れてたんだぞ、てめぇは」

 言われたことに驚いて何があったのか慌てて思い出そうとする。

 ……そうだ、自分は……養父に殴られて……棚にぶつかって、花瓶が落ちてきて、それで……。

 それから。

「……覚えてるよ」

 シーツを被ったままぼそっと答える。

 大きなため息が聞こえた。

「俺が面倒をみてやったんだ。感謝しろ。血も拭いといてやったし、傷は……」

 そこでふと言葉を途切れさせた。

 相手の躊躇いを感じる。

 なんだか黙ってじっとしている。

 言いたいことがあるのに言えないといったような。

 そして、自分に向けられる、強い視線を感じる。

 だが、訊ねることはせず、ただ続きを待った。

 やがて、相手がまた小さなため息を吐いて、投げやりに言った。

「まぁいい。気のせいだったんだろ。普通死ぬような怪我に見えたが……。傷がないなんて馬鹿な話、あるわけがない。とにかく、大丈夫なら起きて、飯を食え。母さんが相当腹を立てている。仮病じゃないかって。早く起きたほうがいいぞ」

 それだけ言ってさっさと踵を返す。

 そして歩いて部屋を出て行く。

 その背中を起き上がって見送った。

 パタン……と扉が閉まった。

 すべり落ちたシーツをつかんで、辺りを見回す。

 気付けばここは自分の部屋だ。

 自分のベッドの上だった。

 少年の言葉を思い出して、彼が面倒をみてくれていたのだとわかる。

 小さなテーブルの上には粗末だがパンとスープが置いてあった。

 この家で、あの少年だけは、自分にひどいこともするが、親切にもしてくれる。

 だが、それでも……。

 自分の中にある違和感。

 今まで自分は、どんな時でも、どんな相手でも、顔を上げて、目を見ようとしていた。

 それはうつむいている時のほうが多いけれど。

 それでも、いつだって、何かがあれば、真っ直ぐに相手の目を見られる人間であろう、と……。

 そう思っていたのに。

 ……怖い?

 殺されかけたからか。

 だから怖くて人の目が見られなくなったのか。

 ……いや、違う。

 そうじゃない。

 目すら上げる気にならないのだ。

 どうでもいい。

 ……何故だか急に人のことに興味がなくなった。

 自分がどうしたのか、どうなったか、どうなるのか、そんなことには興味もあるし、恐怖もある。

 知りたいと思う。

 だが。

 ……あの少年のことはどうでもいい?

 おかしい。

 短い眉の根を寄せて考え込む。

 言われたことは気になるのに、言った相手はどうでもいい。

 だから、目を見る気にもならず、また相手の目も気にならない。

 ……どういうことだ?

「怪我……」

 確かに花瓶が頭に当たって血がたくさん流れた。

 ということは、頭を切ったんだろう。

 ゆっくりと手を持ち上げて頭を触る。

「……妙だな」

 どこにも傷がない。

 もう治ったというのか。

 たった3日で?





(つづく)


+++++





 日常に戻った。

 ずっと顔を上げず、ずっと目を伏せたまま、誰とも目を合わさずに過ごした。

 あの時の自分を『売る』という養父の言葉は気になっていたが、あれは有耶無耶の内になくなったのか、男は何も言い出さないし、訊くのが怖いし、男と話をする気にもならなかったので、そのままにしていた。





 『いつまでも怠けてるんじゃないよ!』という女の言葉で、街に卵を売りに行くことになった。

 街で久しぶりに会った人間たちは相変わらず笑顔で、一週間近く姿を見せなかった自分のことを心配してくれた。

 そして卵を買っていってくれた。

 家の人間と違って、街の人間は少しは自分のことを気にかけてくれるので、ちゃんと顔を上げて、目を見て相手をした。

 その日は声を出して、少し話をして。

 ……あんな目に遭ったのだから、人のやさしさが恋しい。

 ただ、それだけだった。





「おい、ベスが死んだそうだよ」

 それは次の日の夕方のことだった。

 みんなが夕食を終えて、食器をひとりで片付けていた時、街へ遊びに出ていた長男が帰ってきて、いささか慌てた様子で、弟に向かって言ったのだ。

「クロードもルドルフも、フェリシアも……! その他にも大勢死んでるらしい。聞いただけでも8人だ。本当はもっといるらしい」

「何故?」

「わからない。自殺が多いようだが、事故もあるし、原因不明のヤツもいる。俺は善人ぶったアイツらは嫌いだったから、付き合いもなくて、よくは知らないが……友人から話を聞いたよ。ベスやフェリシアはほら、別のことで知っていたから」

 ニヤリと品のない笑みを浮かべることからどういう興味だかわかる。

 皿を片付ける手を止めて、男から目を背け、考え込む。

 『ベス』……。

 それはあの少女の名前じゃないだろうか。

 この間会ったばかりだ。

 いつも卵を買いに来てくれた、明るく美しい少女。

 『クロード』や『ルドルフ』という名前も聞いたことがあるような気がする。

 彼らは一様に卵を買いに自分のところに来てくれた人たちではなかったか。

 あるいは、からかいに来た連中も、含めて。

 それが次々と……?

 会ったばかりで、誰もみなとても元気そうで、何も変わりなかったのに。

 死んだ……?



 街で1日に8人以上の人間が死んだこと。

 それは胸をざわつかせた。

 ……自分が知っている人間ばかりが死んだ……?





(つづく)
13/21ページ
スキ