わたしのなかみ
……おとうさん、おとうさーんっ……!!
誰かが泣いている。
まだ若い女の子の後ろ姿。
地味な汚れた服に、長い黒髪を後ろでひとつに束ねて。
地面に倒れた男性にすがりついて。
その周囲には人が……。
……ああ。あれはわたしだ。あの男性はわたしの養父。
あの場面だ。
これは夢。
わたしはそっと女の子の後ろに立って覗き込む。
首から血を流した『おとうさん』。
もはや息はなく。
……そう、『カルモ』に噛まれて、養父は亡くなった。
『カルモ』を興奮させたマフィアは去った後で。
養父はわたしに「おまえは悪くない」と言い残して。
……でも。
猛獣たちはより強い者の命令を聞く。
あの時、わたしが興奮した『カルモ』を抑えられていれば……。
鞭でおとなしくさせられていたら……。
わたしにその力があれば。
あの時わたしは負けたのだ。
マフィアたちの見せつけた力に。
わたしが弱かったから……。
……でも。
養父は「おまえは悪くない」と言った。
……では、誰が悪い?
『カルモ』。
養父を噛んだのは『カルモ』。
でも……。
まだ若いわたしが振り向いて『わたし』をギュッと抱きしめる。
銃を取り出すサーカス団員から守るように。
「カルモはっ……カルモは何も悪くない!!」
わたしは『カルモ』。
『カルモ』はわたし。
『カルモ』はわたしの分身。
もうひとりのわたし。
わたしの命令によって動くのだから。
そうだ、『カルモ』は何も悪くない。
『カルモ』を怯えさせ、興奮させて、人を襲わせたのはマフィア。
マフィアが、あの馬鹿な連中が、あんなことをしなければ……。
『カルモ』は決して人にとびかかって噛みついたりしなかったのだ。
あんな力を、強い力を、制御できないようなものを、軽々しく脅しのためだけに使って。
あの<力>。あれがすべてを奪ったのだ。わたしからすべてを。
やさしかった養父を、良くしてくれた仲間を。楽しかった日々を。
おだやかだった『カルモ』の心を。
わたしの心を。
かわりに与えられたのは憎しみ。激しい憎悪の心。嫌悪の情。マフィアに対する復讐心。
すべてを失くして『カルモ』とふたり歩き出した時から、わたしは恨みを晴らして生きることになったのだ。
……いいや、恨みは、憎しみは消えない。
ただ嵐の夜の黒雲のように増え続ける。
積もり続ける。
わたしのだけじゃない。
いくつもの悲しみが力によって生み出されていく。
悲しみからは憎しみが。
……ならば、わたしはもっと、強くならなければ。
もっともっと、本当の意味で、強くなければならない。
もう同じ過ちを繰り返さないよう。
自分を、そして『カルモ』を、わたしの中の感情を制御して。
人には過ぎた『力』を振りかざす者に征伐を。
ひとりの『生き物』として。
*番目の執行人『悲劇の猛獣使い』として。
目が覚めて一番にベッドの横にわたしに添うようにして寝ていた『カルモ』の黒い首に抱きつく。
「あなたはわたし、わたしはあなた……」
ねぇ、カルモ。わかるでしょう?
わたしたちは強くあらねば。
+++++
「……」
「……」
夕方に寝て、真夜中と呼べる時間に起き出して、わたしは月夜ということで散歩に出ようと思った。
そして紐をつけた『カルモ』と共に部屋を出て、ひとりの少年と出会った。
明らかに今まで寝てましたという様子の少年に。
……何故こんな時間に、こんなところに?
人のことは言えないのだけど、少年は外に出ていくような格好ではないし。
少年は見知った相手だ。
けれど、実はよく知らない。
知りたくもない。
こどもは苦手だ。
……何故なら、大好きだから。
わたしたちのサーカスを一番喜んでくれたのはこどもたちだ。
初めは猛獣たちに怯えて泣いたこどもも、わたしたちのショーが始まるといつも笑顔になってくれた。
そのこどもたちの笑顔が大好きだったのだ。
……だけど、この子は笑わない。
笑ったところを見たことがない。
思わず笑わせてみたくなってしまうのだけど。
わたしたちのショーはもはやこどもたちを笑顔にできるようなものではない。
それだけでなく、このこどもは……おそらく笑わないだろう。
笑えないんだろうと思う。
だから嫌。
それでもこどもは好きだから、ついかまいたくなってしまうのだ。
でも、だけど、この子は……。
「あの、アンディ、どうかなさいました?」
膝を折り、しゃがんで目線を合わせ、こども向けのおだやかな笑みを顔に作ってやさしく訊ねてみる。
サーカスにいた頃は自然に笑顔になったんだけど。
わたしたちの関係では……。
眼帯をしていない方の目を大きく見開いて、きょとんとして立ち止まってわたしたちの方を見ていた少年は、嫌そうにその目を細めた。
「そんな顔してボクのこと見ないでくれる? 気味が悪い」
やけにはっきりとそう言った。
「……」
笑顔が強張る。
……このガキッ……。
人が気を遣ったというのに、何よ。
アンディは不機嫌そうに続ける。
「同じ執行人でしょ? こども扱いはやめてよ、アガタ」
……そう、同じ執行人。
4番目の執行人のアンディだ。
仲間である以上、そして本人が嫌がる以上、余計にかまう気はない。
何より、わたしは特別な存在を作りたくないし、それがどんな意味でもだ。
特に仲間内では。
同じ執行人には。
……まぁ、ウォルターなんかは、気にせずかまっているようだけど……。
こどもというだけでわたしには特別になってしまうし。
だから、特別<嫌い>、ということにして。
遠ざけたい相手用の上っ面の笑みをやめて、わたしはにっこりと微笑んで見せた。
そしてスッと立ち上がる。
「あなたみたいなのを『小憎たらしいクソガキ』というんですのよ、ご存じ?」
一気に冷たい目をして腰に手を当てて見下ろせば、相手は無表情に戻って。
「嫌いなら嫌いって言えば? アガタ」
……さらに小憎たらしいことを。
本当に何この子。
将来が心配になってしまう。
まぁ、執行人であるわたしたちに、将来も何もないものだけど。
またにっこり笑って『だ・い・き・ら・い』とか言ってからかってやろうかと思ったけど、一瞬思ってすぐにやめた。
この子なら『ああ、そう』とか言ってさっさとどこかに行ってしまいそうだから。
かわりに笑顔に少し眉をひそめることで困惑をまぜて首を傾げて言う。
「そんなことはないんですのよ。ただ、大人の女性に対する言葉遣いというものを身に着けた方がよろしいのではと思いまして。アンディ、あなた誰に対しても敬語を使いませんでしょう? その態度は……」
「敬語なんて、知らない」
「『知らない』で済む問題じゃ……」
呆れて言いかけたわたしはアンディのスッと暗くなった顔に黙った。
アンディはまぶたを下げて半眼でわたしを見据え、低い声でぼそりと言った。
「それに、大人ならみんな尊敬できるってわけじゃない」
そのひどく冷たい声に驚く。
「ボクの知ってる大人はヒドいことを平気で他人にするようなヤツらばっかりだった」
「あ……」
わたしは視線を落とす。
アンディの大きなシャツの襟元から覗く文字。
逆さ数字。
それがどのようなものかを思い出して押し黙る。
……しまった、また失敗した。
だからこの子は苦手なのだ。
好きなのに遠ざけなければならないし、それなのにうまくできなくて。
なんだか見抜くみたいな目をして真っ直ぐに見てくるし。
本音を引き出されるようで……。
今も真っ直ぐに見つめてくる。
「アガタ」
急に名前を呼ばれてハッとする。
輝く金髪を揺らして首を傾げ、窓からの月光にその白い頬をおだやかな黄色に染めて、アンディは無表情のまま、小さく口を開いた。
「無理して笑うことないよ。その言葉も。……ボクたち仲間でしょ?」
ぼそっと吐き出された言葉に目を見開く。
『仲間』……。
それはわたしが使う『仲間』とは違う響きで。
サーカス時代の仲間たちが使っていた『仲間』に近いもので。
頭に2番目の執行人ウォルターの言葉がよみがえる。
『ここはカラスの巣だし……』。
ゆっくりと目を閉じ、再び開ける。
……いいえ、だからこそ。
わたしは『カルモ』を見つめる。
置いて行かれるかもしれない、置いて行くかもしれない。
亡くなった養父のように。
かつての仲間たちのように。
その時どれほど嘆くだろうか。
それが怖い。
……わたしにはあなたがいればいい。
あなたはわたし、わたしはあなた。
あなたがわたしの魂。
でも……だけど……少しだけ……。
それでも、少しだけ、ここにいたいと思ってしまっているわたしがいる。
顔を上げると、アンディがスタスタと歩き出している。
ひとこともなしに。
……本当にこの子はちょっと……。
その時、ふとあることに気付いて、無性に気になって訊ねた。
「ねぇ、アンディ、どこに行くつもり?」
「……」
足を止めて振り向いたアンディがぽかんとしている。
当然のように言う。
「……部屋」
あらあらあら。
わたしは思わず笑った。
これは散歩はおあずけね。
「そっちは外。案内するよ。こっちでしょ?」
わたしの言葉にちょっと驚いた様子で瞬きして、それでも素直に手招きされるままについてくる。
……だから、みんな大好きだから、嫌なのよ。
(おしまい)