いばらの冠
菫の眠る部屋の扉は開け放たれていた。
マリーの抜け殻のような体がただ横たわっていた頃は部屋の扉は閉められ、使い魔で見張っている程度だったが、今は菫がいつ目を覚ますかわからないし、何かがあっても困るからという紳士的な理由もあって、その時に迅速に対応できるよう扉は開け放ち、常に……基本的にウォルターの分担だが、交替で、誰かが……見守っていた。
今はカルロが傍についていた。
アンディが足音をひそめて部屋に近付き、壁に体を隠して、首をのばし、そっ……と顔だけ出して部屋の中を覗き込む。
カルロはしっかり起きていて、菫のベッドの傍に置かれた椅子に座り、眠る菫をやさしい目で見守っていた。
アンディのことにはとうに気付いていて、さっと振り向き、にっこりと笑って言った。
「こっちへおいで」
場合によっては『来なさい』というところだが、今はそんな必要はなかった。
来るか来ないかアンディの自由にして、カルロはただ手招く。
気が進まなければ断れるようにして。
丸い目でじっと室内を見つめていたアンディのまぶたが少し下がり、その目はカルロから逸れてさまよい、やがて伏せられた。
微かに頬は赤く色づき、金色の髪が揺れておかっぱ頭が少し下がり、さんざんためらいを見せてから、アンディは申し訳なさそうな顔でするりと室内にすべるように入り込んだ。
その腕に猫を抱いている。
ニャーオ……。
猫が鳴いた。
「ごめん、カルロ」
室内に入ってすぐアンディは謝罪を口にした。
うつむき、目だけ上げて、カルロを窺い見る。
カルロはぱちぱちと瞬きする。
「猫だ」
「うん……そう」
アンディがこくんとうなずく。
ベッドに近付いて、おとなしく抱かれている猫を、そっとベッドにおろすようにする。
猫はアンディの手からするりと離れ、寝ている菫の顔のそばに寄り、すんすんと匂いを嗅ぐと、満足したようにそこに座り込んだ。
真っ黒な猫は、パッチリとその緑の目を開いて、自分を見ているふたりを見上げる。
「ずいぶんおとなしいコだね」
きょとんとしていたカルロが不思議そうに言って、猫の頭上に手をのばして、ちょいちょいと揺らして挑発する。
猫はその動きに惹かれ、前脚をのばしてじゃれかかり、しばらく踊るような動きを見せた。
アンディはそれをじっと見ながら、何か言いたげにしていたが、なかなか口に出せないといったようだった。
やがて、カルロが満足した体で猫の頭を撫でて、すっと手を引っ込めた。
そしてアンディのほうを向いてニコニコして言う。
「まだこどもだな」
アンディの視線を受けながら……その何か言いたいことがあるという様子に気付きながら……言葉を続ける。
「本当は手でじゃらしちゃいけないんだが……癖になって人に怪我をさせるようなことになってはいけないし……猫もかわいそうだし……。しかし、この猫はしつけられていないというよりはまだ子猫なんだ。わかってないんだよ。自分の爪がいかに鋭いか、それが凶器になりうるか。まあ、人に馴れているし、どうやら爪も切らせているようだから、心配ないだろう。それはおいおいしつけていくということで」
『え』とポカンと口を開けてアンディが呆然とカルロを見る。
「飼うんだろう?」
すべてをわかった様子でカルロが訊ねる。
訊くというよりは、確認するといったように。
ちょっと首を傾げて、アンディをじっと見て。
「あ、うん。飼いたいんだけど……っていうか」
もじもじして、アンディが言葉を切り、チラッと菫のほうを見る。
「この猫、菫さんの猫で……。『ダイナ』っていうんだ。菫さんの家にいて、菫さんが面倒みてて……だから、起きた時そばにいれば菫さんが安心すると思って、淋しくもないだろうし、それで……連れてきたんだ。もちろん、それまではボクが面倒みるよ。それからも」
そわそわとして、早口で言い終えてから、じっとカルロを見る。
「……飼っていい?」
口を挟まずにすべてを黙って聞き終えてから、カルロは『ふう……』と息を吐き、椅子の背もたれに背中を押し付けた。
いったん逸らした視線を、表情を消して何か考え込むような仕草を見せた後、またアンディに向けた。
そしてあっさりと言う。
(つづく)
+++++
「いいよ。他のみんながいいならね。私が反対する理由もない」
明るい顔で軽く言って、安堵するアンディを眺め、微笑む。
アンディはカルロの気が変わらないうちにとでもいうように急いで言った。
「それで、カルロ。ご飯とかトイレとかウォルターが買いに行くんだけど、そのためにお金が必要で……」
「はいはい。金庫の鍵だ。好きなだけ持っていっていいよ」
カルロはポケットから鍵を取り出し、アンディに押しつける。
また少し、アンディが申し訳なさそうな顔になった。
「……えと、どれくらいるんだろうね、餌代とかって」
「別にいいよ。どうせ私がいなくなったらこの巣はアンディのものになるんだし、今からだってそう違いはない。そっくりそのまま譲るからね」
「……」
さらりと言い放つカルロに、困惑に顔を赤らめ、アンディは横を向く。
不機嫌に空をにらみつけるようにして、ムスッとして押し黙る。
そう言われたことが不本意だとでもいうように。
カルロの笑顔の質が変わった。
より柔らかく、深いものになった。
ギシッと音を立てて、椅子から背中を離し、前かがみになって、両手の指を組む。
そして、下からアンディを覗き込むようにして、しみじみと言った。
「……百年前は女の子を連れてきて、次には女の子の魂を見つけてきて、その次には雌猫をさらって来るか」
「カルロッ!」
真っ赤になってアンディが大声を出す。
めずらしく感情を高ぶらせ、憤りを見せて、慌てた様子でキツく言う。
「そういう言い方しないでよ。そういう……変な言い方やめてよ。まるでボクがっ……お、女の子ばっかり狙ってさらって来てるみたいに……!!」
「違うのかい?」
「違うだろっ!!」
叱り飛ばす激しさで怒鳴る。
次の瞬間には、相手を思い出して冷静になったようで、アンディはしゅんとする。
「……ち、違うからっ……」
それでもそこは譲れないらしく、真っ赤なままで、主張する。
カルロと目を合わせないようにして、気まずそうに。
「そんなんじゃないし、女の子だったのも、たまたまで……。っていうか、猫が雌かどうかなんて知らなかったし、菫さんの魂を持ってきたのだってカルロだし、それはあれを言い出したのはボクだけど、でもっ……」
面白そうにアンディを眺めていたカルロが意地悪く言う。
「次にはオスの金魚とかかな」
「カルロッ!!」
髪を振り乱してアンディがわめく。
「そんなわけないじゃないかっ……!! 猫がいるのに、金魚なんて……っ」
「ははっ、冗談だよ」
冗談を本気に取るアンディの真面目さに、カルロは困ったように苦笑して、『まあまあ』とアンディをなだめる仕草をする。
「落ち着きなさい」
その優雅にひらひらと上下する扇ぐみたいな手つきに、アンディは落ち着くよりも、いっそ気を失うようにがっくりと座りこんだ。
床に腰をつけて、膝を抱えて丸くなって、いじける。
「……ヒドい……」
「はっはっは!」
カルロは両手を広げて明るく笑い声をあげた。
そして、一転静かになり、両手をおろして言った。
「……君は、猫がいても、金魚が陸ではねていたら拾ってくるよ、アンディ。そういう子だ」
隣でうずくまっているアンディの頭を見下ろす。
「こどもだね」
冷たく厳しい目で、さらりと言って、続ける。
「百年前には姉が死んでしまうから助けてくれと頼み、次はこれじゃ生きているとは言えないからと別人の菫さんの魂が欲しいとせがみ、今度はそれじゃひとりでかわいそうだからと猫を連れてくる。……君は自分がとんでもないトラブルメイカーだと自覚しているのかい? 君自身に悪気はまったくないが……。急に娘がいなくなって行方もわからない母親がどう思っただろうね? 自分ではなく菫さんが死んだことを弟は? 菫さんの死んだ家で猫を可愛がっている人は他にもいなかったのかい? ……君のそのやさしさでいったいどれほどの人が傷ついたことか。……それでも君は悪くない」
罪状を読み上げるように告げ、カルロは判決を言い渡すようにきっぱりと言った。
「……それでも悪いのは君のせいじゃない」
断罪。
膝を抱えてそこに顔を埋めたアンディの体が細かく震える。
カルロには見えなかったが、その目は大きく見開かれていた。
顔は青ざめていて。
しかし、それをわかったようにカルロはふっと息を吐き出して、やさしい口調に戻った。
「……君のせいだったらどれほどよかっただろうね、アンディ。しかしそうじゃない。君にはどうしようもない」
自分も床にしゃがみこみ、アンディの背中をやさしくさする。
「……悲しいね。何ひとつ君のものにはならないんだからな。これほど君はそれを欲しているというのに」
(つづく)