いばらの冠
「菫……」
私を呼び止める声がする。
「菫ってば」
……あれ? ここ、どこだっけ。
私は何を……。
……ああ。
そうだ。
名前を呼ばれたんだから返事をしなくちゃ。
「なぁ、おいって、菫!」
ほら、焦れて、イライラしてきている。
早く返事を……。
ここはどこで、何をしていて、そしてどうするつもりだったのか……。
私を呼んでいるのは誰なのか……。
……ああ、そうだ、確か……。
眩しい光の中。
私はハッとして振り向いた。
目の前に立っているのは……。
……これは。
「桜人」
幼い弟がそこにいる。
強張った顔つきだったのを、安堵に緩めて。
「やっと気付いてくれた」
二カッと白い歯を見せて明るく笑った。
ミーン、ミーン、ミーン……。
遠くからセミの声。
むっとするような暑さ。
玄関先で、私は靴を履いていて、肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握りしめて弟を振り向いて。
小学生の私は夏休みの始まりに宿題の読書感想文のための本を借りに行こうとしていて。
夜更かししていた弟は、早くに目覚めた私と違い、起きてきたばかりのようで。
「菫、どこ行くんだよ? 俺も行くー!」
そんなことを言うけれど。
「まだパジャマじゃん、桜人。用意するのに時間かかるでしょ。もうお姉ちゃん行っちゃうよ」
自分が悪いくせに、桜人は恨みがましい目をして、『えー!!』と非難げな声を上げる。
「ちょっと待ってよ、菫ー! すぐ準備できるからさ。俺も連れてってくれよー!!」
私はちょっと困って顔をしかめた。
「ダメだってば。今日は暑いよ? 桜人、昨日よく寝てないでしょ? 倒れたらどうするの? それに、桜人は感想文の宿題出てないじゃない」
「やだやだやだー! 俺も行くー!! 菫、ひとりでずるいー!」
「こら! 桜人!! わがまま言わない。あと、ちゃんと『お姉ちゃん』って呼んで」
弟は目を据わらせて、ぷぅっと頬をふくらませ、不満を正直に顔に出して言った。
「なんだよ、たった3つしか違わないくせに。菫だって俺のこと『桜人』って呼ぶだろ」
私は口をとがらせる。
「3つも上なのー!! お姉ちゃんなんだから。ねっ、桜人は私の言うこと聞くの!!」
「聞かねぇよ、バーカ」
「可愛くないー!!」
もう、本当に、弟なんていらないよ。
生意気でちっとも可愛くないんだもん。
妹だったらよかったのに。
「私、もう行くから」
「あっ、ダメだって!! 菫!! 置いてくなよー!!」
背中を向けると背後で弟がわめく。
「俺も一緒に行きたいんだよ!!」
「……」
ダメ。
ダメだよ、桜人。
来ちゃダメ。
こないで。
一緒は無理なんだよ。
だってこれは夢で……過去のことで……もうずいぶん昔の話で……。
……今の私は……。
今の、あなたは。
「桜人……」
置いていくよ、桜人。
ついてこないでよ。
あなたが大事だから。
「桜人……っ」
あなたに生きていてほしいから。
お姉ちゃん行くよ。
桜人はひとりでも、ひとりじゃないから、きっと大丈夫だよね。
私がいなくっても、いつも周りの人がいてくれるから。
私のことは心配しなくてもいいからね。
だって死んじゃったんだから。
ごめんね。
「桜人……!!」
本当は、もっとずっと、一緒にいたかった。
(つづく)
+++++
「……ん?」
ピク、として顔を上げる。
眠る少女のベッドの横に椅子を置いて、そこに腰かけ、少女の体の上を避けた場所に自分の枕を置いて、そこに顔を埋めていたウォルターは。
「おあ?」
間の抜けた声を上げ、自分の感じた違和感の正体を探るため、その対象を求めた。
その目に、涙を流す、少女が映る。
固く閉じられた目の端からポロポロと涙があふれ出し、頬を伝い、枕を濡らしている。
「……う」
薄く開かれた唇が微かに動き、そこから小さく細くかすれた声が出る。
「桜人……」
苦しげにきゅっと眉を寄せ、振り払うように首を横に振る。
その額には汗が光っている。
「桜人……っ」
はっきりとうなされていることにウォルターは慌てて立ち上がり、少女を上から覗き込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ、この子。ちょっ……」
焦って誰か呼ぼうかとウォルターが辺りを見回した時だった。
「桜人……!!」
パッと目を開けた少女が、がばりと起き上がり、目の前のウォルターに突然抱きついた。
その背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。
包み込むように。
ウォルターは驚いて目を見開いて固まり、されるがまま、呆然とする。
開かれた少女の目の紫と、揺れる金色が目に焼き付いて。
その腕の温もりと柔らかさ。
少女の腕から力が抜け、ずるりと体を離し、仰向けに後ろに倒れこんだ。
その体は元の通りベッドに沈む。
乱れてしまった髪や、かけていたのに落ちてしまった布団や、少女の涙をぬぐうこともできずに、ウォルターは抱きしめられた時のまま、ぼーっとして、少女をただ見つめる。
「……え、誰、だって?」
少女は今や安心したように穏やかな寝息を立てている。
「……菫、さん?」
教えてもらっていた名前をおそるおそる呼んでみる。
少女……菫……は悪い夢にでもうなされただけのようで、まだしっかりと目覚めそうになかった。
ウォルターは戸惑った様子で少し顔を赤くし、ぽりぽりと頬を指で掻き、急にがっくりと体の力を抜いて椅子に腰を落とした。
「……び、びっくりした……!!」
目の前の自分用の枕に顔を押しつけ、その冷たさを味わい、ぽんと自分の頭に手を乗せ、くしゃっとその赤い髪をかき乱す。
「あーもう、なんだよ、それっ!!」
「ウォルター?」
ひょこんと開いた扉からアンディが顔を覗かせる。
何やら大きな声を出しているウォルターを不審がるように、不安げに大きな目をパチパチとさせて。
「どうかした?」
「あー、今……」
顔を枕に押しつけたままそちらを向いたウォルターは、あごを枕に乗せ、菫の寝顔を眺めると、もう一度アンディのほうを見て言った。
「……いや、なんでもねぇよ」
その頬はまだわずかに赤い。
アンディは物問いたげだったが、結局その疑問を口に出さずに、ベッドのほうに近付いた。
「菫さん、起きたの?」
「今、ちょっと……なんか、うなされたみたいでさ」
目を閉じたままで、ウォルターはもごもごと言った。
その横に立ち、アンディは菫にかけてあった布団が落ちてしまっているのを見て、そのドレス姿の少女の上に布団をそっとやさしくかけ直した。
その際に、目元の涙と、頬に残る涙のあとに気付く。
わずかなためらいの後、人差し指でそっとその涙に触れた。
そして、きゅっと消すように、涙をぬぐう。
「……泣いたんだ、菫さん」
「……ああ」
気まずげにウォルターがそっぽを向く。
ふぅん、と小さくアンディが呟いた。
訊ねるようにウォルターを見る。
「大丈夫なのかな……」
「さぁな」
ウォルターは投げやりに答えた。
アンディは、ふ、と小さく息を吐き、踵を返して、部屋を出ようと扉に向けて歩き出した。
その背中をウォルターが呼び止める。
「なぁ、おい、アンディ」
アンディはさっと足を止めて振り向いた。
「何? どうしたの、ウォルター」
それは、『先ほど何があったのか』、ウォルターが話してくれることを期待していたが、ウォルターはそれを無視し、言った。
「……桜人、って、誰?」
きょとんとしたアンディは、それから咎められたかのように切なげな顔をして、ふいとそっぽを向き、苦いものを吐き出すように険しく言った。
「この人の弟だよ」
(つづく)