いばらの冠
「……これで本当によかったのかい? アンディ」
藤沢菫の魂はもらった。
一命を取り留めたはずの彼女は死んでしまった。
いや、正確には、彼女の肉体は。
カルロは藤沢桜人の手術中だった場に乗り込み、使い魔を使って周囲の人間を眠らせ、同じく使い魔によって桜人の肉体の修復に当たらせた。
今も、カルロの体内から出た使い魔である蜘蛛は、桜人の体を元通りにすることに専念している。
カルロとアンディのふたりは、自分たちの暮らす棲み家である洋館に戻ってきていた。
問われて、すべてを見届けていたアンディが、鋭い視線をカルロに向ける。
「……ボクも、手伝ったほうがよかった?」
使い魔を出したのは……そして、彼女との取り引きを交渉して契約したのも……すべてカルロだ。
「いや、そんなことはないよ。私ひとりでじゅうぶんだ。少し疲れているけどね」
本当に声に疲労をにじませて、それでも明るさを失わず、やさしくおだやかに言い聞かせるようにカルロは言う。
アンディはわずかに頬を赤くしてそっぽを向いた。
まぶたを半分下ろして、目を伏せる。
「……だって、ボクが頼んだことなのに……」
とがめられないことにかえってすねたような口振りで、気まずい様子でボソボソと言う。
カルロの笑みが大きくなった。
「いいんだよ。慣れているんだ、こういうことは。……いや、さすがに初めてだったけれどね……魂をもらったことは。それでも、交渉に関しては、アンディよりよほど上手な自信があるし……なにより」
カルロはふっと目を閉じて悟ったみたいにきっぱりと言った。
「荷が重いだろう?」
キッと振り向いて無言でじっとカルロを見据えていたアンディは、やがて肩を落とすと、力なくつぶやいた。
「……だから、だからこそ、ホントはボクがやるべきだったのに……」
「どうして? そんなことはないさ。彼女を殺して弟を助けるなんてこと、したくなかったんだろう? たとえそれが彼女自身の願いでも」
「……でもっ」
「できないよ」
「……」
遮るように強く言い切ったカルロに、アンディは無言でスッと目を逸らす。
その目が向かう先には、豪奢な天蓋つきベッドの上で、静かに横たわる、少女の姿がある。
レースに縁取られた枕に頭を沈め、愛らしいドレスを身にまとい、柔らかなベッドに仰向けに寝かされて。
腰より長い、緩く波打つ、美しい輝きを放つ金の糸のような髪。
閉じられた目の長いまつげが顔に作る陰、その頬は雪のように冷たさを感じさせるほどの白、唇も淡い色を残すのみで。
……まるで人形のようだ。
いや、胸が上下していない、息をしていない。
少女は死んではいなかったが、生きているともいえなかった。
ただ、そこにあった。
その肉体が。
それを見つめる少年とその少女の顔はそっくりだった。
双子であることが見てわかる。
アンディは少女を見つめて一歩も動かない。
その背後にカルロが立つ。
「そういう意味ではなかったんだがね。聡い君ならばわかっているだろう? アンディ」
「なんの話さ、カルロ。わからないよ」
うんざりとした風を装って投げやりに突っ返す。
カルロのほうを見ないままで。
かたくなに動かずに。
カルロがふうとため息を吐き、やるせない笑みに口元を緩める。
そして、急に刺すような目でアンディを見つめて、声を低めて言った。
(つづく)
+++++
「これで、よかったのかい? 本当に」
一語一語に力を入れて、強く、カルロは試すように訊ねる。
「……」
呆然と突っ立ったままだったアンディの体がふと揺らぐ。
そして、ふらぁっとよろけるように動いて、振り向いた。
その目は、眼帯で隠れていない片方の目は、暗く沈んで、よどんでいて、光がなかった。
アンディはなんの感情もこめずにただ言った。
「『よかったか』って? いいんじゃないの? 別に。あの人は弟が助かってほしかったんでしょ?」
「そうじゃなくて、私が言ってるのは君のことだ、アンディ。君は……」
「……だから、ボクもやっぱり、使い魔を出したほうがよかったんじゃないかって……」
言葉も半ばに、その質問を振り切るように、アンディは歩き出し、少女の横たえられたベッドのそばで足を止める。
自分とそっくりの少女を見下ろし、隣に歩み寄ってきたカルロに向かって言う。
「さぁ、さっさと終わらしちゃおうよ。こんな……めんどうなことはさ」
微笑を浮かべたまま、やれやれと肩をすくめてみせ、カルロはゆっくりと大きく口を開いて、その口から、淡い光を放つ、蛍を吐き出した。
菫の魂だ。
「彼女の口を開けてやってくれないか」
一瞬、ビクリとしたアンディが、ぐっと眉を寄せ、下唇を噛んで、わずかにためらいを見せた後、いきなりひどく乱暴に少女の口に指を入れてこじ開け、あごを押し下げるようにして口を開かせた。
ひどく震える指で。
その口に、カルロがそっとつまんだ蛍を、うやうやしく捧げるようにそっと置く。
蛍はすんなりと少女の口の中に入っていった。
「……さあ、これでいい。後は彼女次第だ。彼女……菫さん……のね。きっと目を覚ますよ。大丈夫。……そう約束したしね」
アンディは話を聞いてもいないかのように、サッと身を翻して、背を向ける。
自分と同じ顔をした少女に。
「マリー……」
つぶやきが漏れる。
苦しみに満ちたつぶやきが。
自身の姉である、死んだ少女の生き続ける体に今、まったく別の女性の魂が入った。
「……マリー……ッ」
ぎゅっと目を閉じる。
悔恨の色濃く名前を……呼ぶというより口からこぼして……痛むように顔を手のひらで覆い隠して。
「マリー……」
振り向いたカルロは心配そうに眉をひそめてアンディのほうを見ている。
「アンディ……やはり、これは望んだことじゃないんじゃないか?」
パチリと目を開いたアンディは、一瞬だけ浮かんだ恐怖の色を消し去り、表情を失くして、カルロに氷のように冷たい目を向けて言った。
「カルロ。ボクが何かを望めると思うの? ボクは間違った道にいるのに……。ボクが何を願ったって、それは間違いでしかないんだ。……そうだよ、間違いだったんだ。死なないでほしい……助かってほしい……体だけでも生き続けてほしい……そんなのはさ。確かに最初は……でも、今はっ……。彼女は人形と変わらない。笑いもしない、泣きもしない。食事も、排泄もしない。老いることもない。死ぬこともない。息さえも。ただこうして……、感情もなく、意志もなく、されるがままで。こんな状態に置いたのはボクなんだ! そんな、そんなのっ……」
声を大きく激しく震わせたアンディは、すぐにその声をもとの高さに戻し、震わせもせず、静かに続けた。
「ボクのせいで彼女は……マリーは……死んでしまった。ううん、死ぬことすらできなくしてしまった。だから……そんなボクが何かを望むなんてできるはずないでしょ。ただせめて彼女は……。この体は彼女の……マリーのものだから……。こんなふうに体だけ生き続けて幸せなはずないだろ。彼女が……彼女の体が、たとえ魂が別人のものになっても、幸せになってくれるなら。幸せに終わってくれるなら。それなら、それだけでもう、ボクはっ……」
胸の前で指を祈りの形に組んで言う。
「それだけでいいんだ」
ふ、と小さく、緩くカルロが笑う。
アンディと目を合わさぬまま、少女のほうを見やって、やさしく言う。
「……君と彼女は似ているのかもしれないね。弟のために命を投げ出した菫さんと……姉のためにすべてを捨てる君とは」
アンディは『何を言うのか』と、物言いたげにカルロを見つめる。
窓から入り込む月光がカルロのおだやかな微笑を浮かべた頬を、淡い黄色に染めている。
深い慈しみの念を込めてカルロは言葉を紡ぐ。
それは、切ない願いをこめたようで、誰かに向けた祈りのようで。
その見つめる先には菫の魂を入れたばかりのマリーの体がある。
「……アンディ。君が本当に欲しいものを、君はようやく手に入れられるのかもしれないな」
(つづく)