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ごめんね。






「……ねぇ、それって、これのせい?」

 アンディ君の眼帯に触れる寸前で、相手がビクリとしたことで驚いて手を止め、様子をうかがう。

 アンディ君はなんだか恐れているように片方の目を大きく見開いて固まっていて。

 私をためらわせた。

 ……目を、怪我して、病院で痛い思いをしたのかな、と思ったんだけど……。

 たとえばものもらいとかなら包帯で済ませるだろうと思う。

 だからもっとひどい怪我か何かだろうかと。

 だけど……。

 そんなにビクッとするなんて。

 恐怖に近い感情を浮かべて揺らぐ瞳。

 ……もしかして。

「まだ痛むの?」

 短く問うと、動かなかったアンディ君が、ゆっくりと首を横にゆるく振る。

 私の手を避けるように眼帯を己の手で覆って。

 きゅっと結んでいた口を解いて言った。

「ううん……今は別に……なんでもないよ、直。これは……えっと、あの……」

 声は小さくなって消えてしまう。

 何故だか私に対して……いや、私だけでなく、すべてに対して?……申し訳なさそうに身を縮めて。

 一度開いた唇をまた結んで、唇を噛んで、さらにうつむく。

 それは自分を恥ずかしがっているようにも見えた。

 叱られたように小さくなって、眼帯を押さえて。

 私はたまらない気持ちになった。

 ……アンディ君に何があったのかはわからない。

 けれど。

 私は何も知らない、……だけどさ。

 私は空中に留めていた手を驚かさないようにアンディ君に向けてそっとのばして眼帯を覆う手に手を重ねた。

 ハッとしてアンディ君が片方の目を見開く。

 私を上目遣いに見上げて。

 その目に残る恐れ。

 痛々しい。

 なんでかわからないけどそんな様子を見せられたら悲しくてたまらない。

 胸がきゅうっと締まるようで苦しい。

 だって、たぶん、きっと……。

 どう考えたって、それは。

 こんなことすると傷つけるかもしれない。

 こんなこと言うと傷つけるかもしれない。

 自分も傷つくかもしれない。

 だけど……無視できない。

 私はアンディ君の手をつかんで眼帯から外させた。

 そしてそっと握りしめる。

 低く小声で。

「……痛かった……?」

 アンディ君が顔を上げる。

 その言葉に本当に驚いた様子で。

 私は柔らかく聞こえるようにやさしく声に気をつけて静かに言った。

「なんでもなくないよ。あんたが痛いなら、それは痛いんだよ。誰かと比べる必要なんてない。アンディ君の痛みはアンディ君のものだもの。誰かの痛みよりは……なんて思って我慢することないんだよ」

「……」

 アンディ君は何も言わない。

 つないだ手はいつしか下りてテーブルの上に力なく置かれていて。

 アンディ君の眼帯をしていないほうの目が戸惑いを見せていて。

 私はなんとも言えない焦りのようなものから言葉を紡いだ。

「大丈夫だよ。そういう弱さを持つことを自分に許してあげな。それって他人を気遣うのと一緒でしょ? 自分を大事にできなきゃ他人を大事になんかできないじゃん。痛いって普通のことだよ。何も悪くなんかないって! そういう痛みって無視されていいものじゃないんだ。大事なことだよ。だからさっ……だから……」

 もう言葉が出ない。

 ……本当は抱きしめたかった。

 立ち上がって傍に行って抱きしめてあげたかった。

 だけど、今やアンディ君の瞳は強い光を放って、私を見据えていて。

 それは強く、どこまでも真っ直ぐで、弱くなくて。

 私の衝動を止めさせた。

 ……本当は、泣くようなら、抱きしめようと思ったんだ。

 その必要はなさそうだった。

「……うん」

 わずかに頬を赤くして、アンディ君はうつむいて、こくんとうなずく。

 眉は困惑げにひそめられていて。

 恥ずかしそうで。

 それでも『わかった』と。

 それは『わかってる』に近くて。

 アンディ君にちゃんと支えがあることを私に教えた。

 私の言葉は必要なかったのかもしれない。

 それでも。

 私の手からするりとアンディ君の手が抜けた。

 だけど口から『ほうっ』と漏れた息は安堵のようで。

 ほんの微かだけど私にはアンディ君が笑ったように見えた。

「……ありがと、直」


+++++



「ホントに……今はもう、痛いとかないんだ、直。大丈夫だからさ。だから……あの……」

 私によって眼帯から外されたアンディ君の手は、撫でるように迷うようにもう一度そこを行き来して、それからテーブルに下ろされて、きゅっと握りしめられた。

 戸惑って、ためらって、アンディ君はうつむき、言えない言葉を飲み込んで、唇を噛みしめた。

 『痛かった』とも、私の気持ちを考えて『今は痛くないから気にするな』とも、どちらも言えないようだった。

 『気にするな』なんて、私の気遣いを振り払うみたいだもんね。

 そんなふうにこっちが気にされるなんてなんだかねー。

 申し訳ないしねー。

 よしっ。

「……うん!」

 私はきっぱりと言った。

 アンディ君がハッとして顔を上げる。

 ニッと笑ってみせて、そして大きくうなずく。

「いいよ! アンディ君が痛くないならそれで! 男の子だ、大丈夫だってんなら、余計な心配なんてしないよ!!」

「直……」

 アンディ君がぱちくりと瞬きをする。

 私はもう一度スッと息を吸い込み、大きな笑みを作った。

 そう言い切った以上、もう心配でも、余計なことは言わないようにしよう。

 決意もこめて『任せな』というふうに己の胸をドンと叩いてみせる。

 ……『男に恥をかかせんな』ってよく言うしねぇ。

 私はアンディ君のお母さんじゃないんだ。

 これくらいの少年にはちょっとくらい傷もあるもんだろう。

 それも自分のものなんだ。

 取り上げるような真似はしたくない。

 ……冷たく見えるだろうけど、他人からどう見えるか気にして何かするなら、それって偽善でしょ。

 自分に正直でありたいし。

 ……正直に……そりゃあ、ちょっとは、やっぱり気になるけど。

 アンディ君を信じよう。

 よしっ!

 もう一度、真面目な顔でしっかりとうなずき、アンディ君に手をのばした。

「なんかよくわかんないけどさ、あんたって、自分が思ってるよりよっぽど……」

 ぐしゃぐしゃっとアンディ君の髪の毛を乱して頭を撫でる。

 ニヒヒと笑って。

 『うわっ』とびっくりしてる顔を覗き込んで。

「……わりとたくましいほうなんじゃない?」

 アンディ君がきょとんとする。

 ぼさぼさの髪をそのままに。

 太陽のような色の大きな目をまん丸にして。

「えっ……?」

 しばしぼーっとして私を見つめてから、急にまぶたを半分おろしてムスッとふくれっ面になった。

 目の端なんか涙浮かんでるっぽい。

 すねたみたいに唇をとがらせて言う。

「……直はなんだか……」

「うん?」

 私はにこっとして待つ。

 何を言ってくれるのかなー。

 アンディ君はそっぽを向いて、言いにくそうに口を開いては閉じてから、開いて怒ったように言った。

「なんていうか、ウォルターの友達、って感じだよね」

「どういう意味よ、ソレ。アンディ君、納得いかないんだけどっ!?」

 ムカッ。

 くあぁっ、あのウォルターの友達と認定されるなんて~っ。

 そうだけど、でも、そういうふうに人から言われるなんて~っ!

 私はあんなにだらしなくも、馴れ馴れしくも、図々しくもないよっ!!

 ドンッと机を叩くと、怯えた様子もなくアンディ君は怒る私を眺めて、ドーナッツに手を伸ばしながら、のんびりと静かに続けた。

「……なんか、同類、って感じだよね」

「不名誉なんですけどっ!?」

 私は拳をさらにぎゅっと握りしめる。

「失礼ねー! もーっ! アンディ君、取り上げるよソレー!!」

 私がドーナッツを指さすと慌ててアンディ君が口に持っていってもぐっと口に入れる。

 もぐもぐもぐ……。

 ごくん。

「……」

 ……この子、たくましいというより、ちょっと図太いんじゃない?

 そんなアンディ君にため息を吐いて、まぁいいかと思い直し、私はケーキをすすめた。

 さて、楽しいおやつタイム、続行。





「えーっ、ウォルターって、バイク乗るのー!?」

「うん。運転は、……うまいのかな。わからないけど。比べる相手がいないから。乗せてもらったけど……」

 何を思い出したのか、アンディ君が顔を険しくする。

 空をにらむようにして……たぶんそこに浮かぶ相手の顔をいまいましげににらんで……うんざりしたように言った。

「ボクが運転したほうがマシなんじゃないかとも思ったよ」

「運転したいの?」

「うん。……カッコイイ、から」

 私は抑えて小さくクスクスと笑った。

 とたんにアンディ君がムッとする。

 だって……ねぇ。

 なんだかんだ言ってウォルターのこと好きなんだね。

 ちょっと憧れてる部分もあるんじゃない?

 よかったねぇ……ウォルター。

 アンディ君の口振りじゃ軽蔑してるようにしか聞こえないもんね。

「……っ」

 アンディ君は何か言おうとして、結局やめて、ケーキを口に押し込んだ。

 もぐもぐもぐ……。

 私は顔のニヤつきが抑えられず、紅茶のカップでそれを隠した。

「……そうだ。ねぇ、直。どうして『ウォルター』は『ウォルター』で、ボクは『君』付けなの?」

 しばらくしてから、思い出したように、アンディ君がぽつりと言う。

 私はきょとんとする。

「え……、いやぁ、ウォルターのことも、最初は『ウォルターさん』だったよ。アイツの年齢知らなかったし、アンディ君は……年下に見えるしねぇ」

「アンディ」

 それ以上言うなというように強い口調でアンディ君が遮るようにして大きな声で言った。

 私はハッとして口を閉じる。

 一転して恥ずかしそうに小さな声になってもごもごとしてアンディ君が続けた。

「……ボクのことは、『アンディ』でいいよ、直……」

 私を見つめていた大きなオレンジの瞳がゆっくりと逸らされていく。

 その頬はといえばわずかに赤くて。

 アンディ君……いや、アンディは身を縮めてもぞもぞとして。

 私はぶはっとふき出した。

 くっくっと笑いながら、目の端の涙をぬぐって、アンディを見る。

「……うん、わかったよ、アンディ! アンディアンディアンディ!! ね!?」

「笑うな!!」


+++++



「え?」

 部屋に入ってきてテーブルを見たウォルターはぽかんと口を開けた。

 『終わったぞー』なんて言って疲れた様子でグッタリしていたのが急にハッとして足を止めてその場に棒のように突っ立って。

 信じられないというように目を見開いてテーブルの上を見つめて。

 私とアンディはそんなウォルターを余裕の態度で眺めてそれからの反応を待った。

 ウォルターはじっくりとテーブルの上の皿の山を見てから、私とアンディの顔を順番に見て、震える人差し指でそれを示してかすれた声で言った。

「……えっ? 何コレ。何この空の皿の山。こんなにおまえら食べ……っていうか、俺、あんなに苦労したのにケーキ一個っ!? ヒド!! こんなん聞いたこともないわ!!」

 最後のほうは腕を振ってわめき出した。

「おい、直ーっ!! アンディーっ!! どういうことコレ!? 人に面倒なこと押しつけておいてっ……」

 私たちの傍に駆け寄ってきて目を三角にして怒鳴る。

 私はとぼけた顔をしてウォルターを迎えた。

 アンディも平然として言う。

「ドーナッツもあるよ」

 一個だけ。

 ウォルターの顔が怒りで真っ赤になる。

 おーおー、噴火寸前だ、いやもうこれは噴火かな。

 いっけない。

 これ以上ただ眺めているわけにはいかなさそう。

 もうちょっと見ていたかったんだけどね……。

 怒っているウォルターが面白くて。

 だけど、まぁ、仕方ない。

「だって美味しかったんだもん、ねぇ、アンディ!」

「うん、直」

 にこーっとして話しかける私に、こくんと真面目にうなずくアンディ。

「……は」

 今度は怒りも忘れた様子できょとんとしてそんな私たちを眺めるウォルター。

「あれ? いつのまに仲良くなったの? 直、アンディ」

 訊ねるウォルターに私はにこにこしてみせる。

 アンディは無表情でいるけれど。

 じっとウォルターを見上げて反応を見ている。

 驚いているウォルターを興味深そうに。

 なんとなくうれしそうで、少し恥ずかしそうで、それでいて楽しそうで。

 わずかに興奮からか頬が赤い。

 目をまん丸くしている。

 ……それが、褒めてもらうのを待っているこどものようで、可愛らしい。

 そんなこと言ったら失礼になるんだろうけどね。

 あんまり無いことなのか、本当にめずらしそうに、驚いたといったようにウォルターはアンディを見つめている。

 その大きく開けられた口が、きゅっと結ばれ、それからやさしい笑みを形作った。

 目もまぶしそうに細められる。

 だけど少しだけ淋しそうな笑み。

「……あ、まぁ、いいや、ケーキのことは……」

 アンディから目をそらして、ポリ……ポリ……とまるで照れたようにゆっくりと赤い頭をかいて、ウォルターは椅子をつかんで引いた。

 アンディが拍子抜けしたようにぽかんとしている。

 もっと怒ると思ったんでしょう。

 私は大きく苦笑してウォルターの前にケーキの皿と紅茶のカップを押し出した。

「お疲れ様! ホントにありがとね! 助かったよー!! さっ、ケーキ食べて! 紅茶もどうぞ!!」

 4人分の席でアンディの隣、私の斜め向かい、そこにウォルターが座る。

 座るなり椅子にどさっと背中を預けて、『あー』と上を向いて、発声練習のような真似をする。

「ダリぃなぁ」

 背中を椅子から離したと思ったらそのままがっくりと前に頭を垂れる。

 長い前髪で顔が見えなくなった。

 疲れているのをあからさまに見せている。

 さすがに申し訳ないなぁ……。

 そんな気持ちで見ていると、ウォルターの手が持ち上がり、ちょいちょいと窓のほうを指さした。

「一応、できたと思うからさ。大家さんにこれでいいかどうか確認してもらえよ。どっかダメだったら直すからさ。俺がいるうちがいいだろ? あと日の出てるうちとか」

「……ありがとー……」

 うわ、感動。

 えらいね、ウォルター。

 その思いやりっていうか、気遣いっていうか、なかなかできることじゃないよ。

 うれしくなるね。

 そんなに考えてもらえるなんて。

 その一方で。

「……でも、悪いんだけどさ」

 ペンキのことがあるんだよねぇ。

 私は困惑顔でアンディのほうを振り向く。

 アンディも知ってるから。

 ケーキの残りをたいらげて、紅茶を一口飲んだアンディは、カップをコトンと置く。

 そして、私の言いたいことがわかったのか、口を開いて、なんでもないように軽く、当然といったように言った。

「ペンキならボクがやるよ、直」

 まぶたを半分下ろした目でウォルターをさっと見て言う。

「ウォルターはケーキ食べてれば?」

 言われたほうのウォルターはといえば。

「え、何ソレ、ペンキって……」

 ゆっくりと顔を上げて、きょとんとして、私のほうを見る。

 私は苦い笑みに顔を歪めた。

「そういうこと! ごめんね? 私、言い忘れちゃってさーっ。ウォルターそのうち直し終わったら部屋に来るだろうと思って、待ってたんだけどね。ペンキも塗り直さなきゃいけないんだった。それも頼まれてたんだよ。ごめんね。ホントごめんっ」

「だから、ボクがやるからいいよ、ウォルターは食べてて」

「え、ちょっ、いや待て」

 ガタンと椅子を押して立ち上がるアンディにウォルターが焦って声を上げる。

 アンディは引き止める声も気にせずスタスタと扉に歩いていく。

 思い立ったが……って感じ?

「ちょっと待てって、アンディ……おいっ」

 いくらウォルターが呼んでも振り返らず。

 戸口でようやく足を止めてアンディはゆっくりとこっちを向いた。

 だけどその目は私に向けられていて。

「ボクがやっていいんでしょ、直」

 それは、もう決意した、絶対にやる……という調子だったので、私をまた苦笑させた。

「ああ、いいよ、いいよ。やってくれるってんなら、ありがたいよ! 助かるよー!! ……で、アンディ、ペンキは大家さんの家の前に出してあるからね。それと汚れるからこの白衣を……」

 急いでさっと椅子にかけてあった白衣を取り上げてアンディの元へ近付くと寸前で手で止められた。

「いらない」

「いや、でも、汚れる……」

「いいよ、汚れても」

 ウォルターが笑って口を挟む。

「白衣を着るほうが嫌だよな、アンディ?」

「そうじゃないけど……」

 アンディがちょっと眉をひそめて嫌そうな顔をしてウォルターをにらんだ。

 私は困惑してアンディをじっと見た。

 ……この美少年が汚れるのはなぁ。

 服も高そうではないし、男の子なんだから服が汚れたっていいと思うし、むしろ男なら汚れるべきだとさえ私は思うんだけど。

 だけど、ペンキ、……だからねー。

「ちょっと待ってて」

 今すぐ出て行こうとしているアンディを引き止めて、慌てて仕事机から一枚の布を取り上げて戻った。

 アンディの目の色に近い明るいオレンジ色。

 太陽色。

 アンディの頭にそれを被せて、『わっ』と驚いて暴れるところを無理やり押さえて首の後ろで布の両端を結ぶ。

 結び終わるとアンディが顔を上げる。

 自分の頭を不安そうに触って。

「な、何? コレ……。直、ちょっと……」

 うん、よしっ、似合う!

 アンディを見てこっくんとうなずく。

 我ながら素晴らしい出来栄えだ。

 いや、モデルがいいというか、アンディのおかげだけど。

 選んだ布はぴったりアンディに合っている。

 私は胸を張って人差し指を突きつけて言った。

「取っちゃダメだよ! 汚れ防止!! そのきれいな金髪だけでも守って!!」

「えええ……」

 目をぱちくりするアンディに、テーブルのほうからウォルターが『ぶっ』とふき出して笑う声が聞こえる。

「カッコ悪いよ……」

 頭を両手で押さえてアンディが恥ずかしそうにムッとして言う。

 今にも取りそうに、でも私を上目遣いに見て、取れずに。

 私はそれを叱りつけた。

「いいの!! カッコより、自分の身を守ることを考えなよ! あんたの髪の毛きれいなんだから、もったいないって!!」

 すると、アンディはしゅんとして、手を布から放した。

「……行ってくる」

 くるりと背を向けて、しょんぼりとして、ゆっくりと部屋を出て行く。

 くっくっくっ……とウォルターが笑っていた。

 一応は抑えているみたいだけど堪え切れていない。

 私は眉を吊り上げてばっと振り向いた。

 そして怒鳴る。

「こら、ウォルター!! 笑うなっ!! かわいそうでしょっ!!」

 すると、ニヤニヤしながら、ウォルターが言う。

「なんかさ、直って、怒り方がアンディと似てるんだぜ」

 私はびっくりして怒りが引っ込んだ。

「……そう?」

「ああ」

 さっきはアンディに『ウォルターに似ている』って言われたんだけど。

「……そうかな」


+++++



 アンディがペンキを塗りに部屋を出て行った。

 ウォルターはまだテーブルに突っ伏して『くっくっ……』と笑っている。

 先ほどのやり取りだかアンディの格好だかがよっぽどおかしかったらしい。

 赤い髪の毛がテーブルの上に広がり、その肩がぶるぶると震えている。

 席に戻っていた私はそんなウォルターを呆れ顔で眺めた。

「……そんなにおかしい?」

「だって……ぶふっ……」

 思い出したのか『ひゃっひゃっは』とのけぞって大きく笑い出す。

 ひとしきり笑って、目の端の涙をぬぐい、ウォルターは大きくため息を吐いた。

 『はぁー……』と、全身の力を抜くように。

 そして、まだ口元を笑みの形にしたまま、私のほうを見て言った。

「……いや、やっぱ、アンディも直の勢いには勝てねぇんだなぁ……って」

 何よ、それ。

 どういうこと?

 私は少しムッとしたけど、ウォルターのそれは、とてもうれしそうで。

 思わず私は違うことを言った。

「アンディ、なんかぎこちないっていうか、緊張してるっぽかったけど」

「あー……、アイツ年上の女とか苦手なんじゃねぇ?」

「えっ……」

 私が慌てると……『苦手』って言葉は私といるとつらかったってことかと思う……ウォルターが焦った様子でぶんぶんと手を横に振った。

「あ、いや、そうじゃなくて!! 弱いっていうか、なんていうかさ……。あんまり触れ合ったこととかないみたいだし、だからどう接していいかわかんないんじゃねぇ? あとまぁ、押しに弱いとこあるし」

 私は呆然としてウォルターを眺めた。

「……それを連れてきたのか、あんたは」

「いや、だって」

 非難げな目を向けると、ウォルターが口をとがらせて自己弁護に走る。

「ずっとそういうわけにもいかないじゃん。いや、いいんだけど!! 別にそんなのアイツの自由だしさ。嫌だから避けるってんなら。でも違うだろ? ただ知らないってだけだ。だから……なんていうか、こういうやつもいるって教えてやりたかったんだよ。直は年上だからって距離作るようなやつじゃないからさ」

「うーん、まぁ……言いたいことはわかったよ、ウォルター」

 つまり、それは、アレだ。

 私はわざとにんまりと笑ってウォルターのほうにずいとその顔を近付けた。

 声もせいいっぱいやさしげに。

「……私が女らしくなくて精神年齢も低い……とおっしゃりたいわけだよねぇ?」

 最後は最低まで低めた声とウォルターを鋭い目で眺めまわして脅す。

「ちょっ、待っ、直、違うって!!」

「んん~?」

 また大いに慌てて今度はぶんぶんと首を横に振るウォルターにさらに顔を近付ける。

 自分の背後から黒いオーラが出ているのを感じる。

 顔もさずかし怖いだろう。

 わざとだ。

 私はさんざんウォルターを冷や冷やさせて……からかって……から、それをアッサリとやめて、椅子に座り直した。

「……まぁ、いいんだけどさ、そんなことは!」

「……?」

 ウォルターがきょとんとする。

 自分の失言に私が本当に怒っていると思っていたようだ。

 まるで先ほどまでのことがなかったみたいに私は明るく言う。

「私が役に立てたってんならうれしいよ。それでかまわないよ。少しは仲良くなれた気がするんだけど、どうかな」

「ああ……」

 ウォルターがゆっくりと笑みを浮かべた。

 それは満足げで、同時に少し淋しそうで。

「いいんじゃねぇの? だいぶ慣れたみたいだし。直ならさ、アイツとうまくいくんじゃねぇかって思ったんだよな。っていうか、うまくやってくれるんじゃないかって。なんか普通っていうか、当たり前っていうか、そういうのから外れてほしくねぇんだよな。せっかく取り戻した……あ、いや」

 ウォルターが途中で話をやめて口ごもる。

 ……なんだろう?

 私はスッと目を細めて、その目をウォルターから気まずく逸らした。

 わかってしまったことがある。

 ただの想像だけど、たぶん、それは……。

「……それは、そんなふうに思ってくれるなんて、ありがたいね」

 でも……という言葉を飲み込んだ。

 私にも事情があって、それはいつか話すとしても、今じゃない。

 でもそれは信じてないからとかじゃない。

 相手の何もかもすべてを知っていればそれでいいわけじゃない。

 人は自分の傷を抱えていかなきゃいけない。

 だからって他人がいらないってわけじゃない。

 傷ごと相手を受け入れることも必要だけど、傷をひとりで抱え持つ相手をそのまま受け止めることだって同じくらい大事だ。

 それでも、私にウォルターが期待したことは、おそらく……。

 黙り込んでいる私に、ウォルターが笑みを力なくして、そっぽを向いた。

「……悪いな、直」

 ぽつり。

「何が?」

 私はあえて明るく言った。

 わかるけれど、とぼけてしまった。

 ウォルターが同じくらい明るい調子になって言う。

「いや、突然来たこととか、アンディ連れてきたこととかさ」

「あんたはいっつも突然じゃん」

「ははっ、そうなんだけどさ、迷惑だったろ?」

 私はぶんぶんと本気で首を横に振った。

「いいや、全然だよ! アンディ歓迎!! アンディ大好き!! あんな可愛い子ならもういっそうちに住んじゃってもいいくらいだよ!! むしろウォルターのほうが邪魔!?」

「ヒド!!」

 冗談にウォルターが本気で涙目になって怒鳴る。

「なんなの、アンディといい、おまえといい、『邪魔』って……落ち込むだろーが!!」

「あ、そうなの? アンディにも言われたの? やっぱ邪魔なんだ」

「いや違っ……俺自身じゃなくて、えっと、俺の荷物が……」

「荷物がぁ?」

「……いや、俺です、たぶん」

 しょんぼりして見せるウォルターに、思わず『あははっ……』と笑い出す。

 ウォルターも『ぶっ』とふき出した。

 ふたりして笑う。

 楽しいけど……

 私は胸につっかえていたものに、次第に笑いが小さくなっていった。

 しまいにため息を吐く。

 目を、胸元に落として、身を縮めて。

「……ごめんね……」

 ぽつっと言うと、ウォルターが『え?』と驚いて私を見る。

 私は余計に小さくなった。

「私、たぶん……ウォルターの望むようにはできなかった……。無理だったんだよ。あんたの期待には応えらんなかった。……ごめん」

 目を上げて、ウォルターのほうをうかがう。

 まじまじと私を見ていたウォルターが、急にニッと大きな笑みを浮かべた。

 そしてきっぱりと言い切った。

「そんなことないぜ?」

 私はびっくりして目を見開く。

「え……?」

 私を責める様子などみじんもなく、ウォルターは笑っている。

「アンディとあんなに仲良さそうにしてさ。アイツも楽しそうで……。思った以上だぜ、ホント。じゅうぶんだ。いや、じゅうぶんすぎるくらいさ。……ありがとな、直!」

 やさしく微笑んで私を見ている。

 本当にうれしそうに、まぶしそうに目を細めて。

 そんなウォルターを見て、私の顔にも笑みが自然と広がった。

「……ああ、なら、よかった!」


+++++



 カチャ、カチャッ……。

 私は自分の分とアンディの分の食器を片付ける。

 ウォルターの分のケーキとドーナッツのお皿と紅茶のカップは置いといて。

 ひとりになった部屋はいつも狭いと思うのに今日は広く感じられる。

 食器の音も時計の音くらいしかしない部屋にやけに大きく高く響く。

 淋しい。

 ……そう思う気持ちと、なんだか解放されたような、妙な安堵感。

 ああ疲れた……なんて思う。

 まだふたりとも帰ったわけじゃないけれど。

 ウォルターはケーキを食べ始めてすぐに『そうだ!! アイツ方向音痴じゃん!! 無事に着けてるか!?』と焦った様子で飛び出していった。

 止める暇もなかった。

 まあねぇ、アンディが場所がわからずに迷っていたとしたら、知らない街だし、それは大変なことだけど。

 心配しすぎじゃない?

 アンディだっていい年齢(とし)なんだからさ。

 ……なんて、方向音痴がどの程度がわからないけど、チラッと思った。

 とりあえずウォルターの分を残してテーブルは片付け、食器はきれいに洗い、私は仕事机に向かった。

 ふたりを待っている間に仕事をやっちゃおうかな。

 帽子につけるための布で作った薔薇の花の数がまだ足りなかった。

 私はあらかじめ用意してあった花びらの形に切り取った布を出して並べてみる。

 赤、ピンク、オレンジ、黄色、紫……チェックや水玉なんかもある。

 帽子の色が淡いからはっきりした色のほうがいいか。

 つぼみもつけたほうが可愛いかな。

 ……なんてことを考えながら道具を取り出し、椅子に腰かけて布を選んで取り、針に糸を通して布を縫い始める。

 慣れたことで作りながら考え事もできる。

 ……そうだ、この薔薇をコサージュにしてあげたら、アンディは喜ぶかしら。

 でも男の子だもんねぇ。

 何かあげたい……何かしてあげたい……と思うんだけど。

 気まずい思いさせちゃったみたいだし。

 いやいや、それは無理やり見つけた理由で、本当はただ私が好きなだけなんだ。

 人のために何かできるって気持ちいいもんね。

 喜ぶ顔が見たいんだよ。

 ペンキ塗りのお礼にもなるだろうし……。

 ウォルターにもあげたいけど、前に帽子をあげようとして断られたしな。

 そこまで考えてハッとした。

 アイツの仕事、そして聞いた話、それから人から聞いた話なんかを。

 針を動かす手が止まる。

 アンディの手……それを握った時のこと、その感触を。

 そうか……。

 ウォルターの言葉を思い出す。

 さぁね、私は何も知らないよ、それでいいんでしょう?

 そうだよね、ウォルター、アンディ。

 私は口元をゆるめて小さな笑みを作ってまた布を縫い始めた。

 そうだね、喜ばせたいなら、本人が喜んだものが一番でしょっ。





「おー! すごい! 立派立派!! 見違えるようじゃない!! きれいだよ、とっても!! へーっ、すごいねぇ、こんなにきれいにできるんだね。びっくりしたよ。前よりずっといいね!」

 私は柵を前にして手を叩いて声を上げてはしゃいだ。

 そして横に並んで立つウォルターとアンディのほうを見る。

 結局、やっぱり迷子になっていたアンディを捜し出して、ふたりで塗ったらしい。

「ありがとうー! やっぱこういうのは男に任すに限るね! 出来が違うよ!! すごくしっかりしてるし、塗りもきれいだしね! いやーっ、すごく困ってたの。助かったわ。これで大家さんに大きな顔ができるってもんよ。ふたりのおかげ! ありがとね!!」

 ふたりに順番ににっこりと笑顔を向ける。

 ウォルターはなんだか『やれやれ』みたいに苦笑して肩をすくめた。

 アンディはまぶたを半分おろして目を半眼にして、どうでもいいというように少し横を向いてむすっと黙っているけど、その頬が赤い。

 ちなみに庭の柵は確かにきれいになってたけど、ふたりの服はずいぶんと汚れている。

 ペタペタとあちこちに柵と同じ白いペンキが。

 それでも顔とかについていない分マシか……。

 もう頭の布は外してしまっているけど、アンディの髪も無事みたいだし。

 私はツンとしているアンディに思わず手をのばした。

 わしゃわしゃとその頭を撫でる。

 ニッと笑って。

「えらいねーっ!! やってくれてありがとうねっ! すごくきれいにできてるよっ」

「……直!」

 アンディが私の手から逃れようと焦って後ろに下がって非難げに名を呼ぶ。

 私は『へへーっ』と笑った。

 だってやり遂げた男を褒めるのは女の仕事だもんね。

 アンディは耳まで真っ赤になって私に乱された髪の毛を手で整えている。

 むすっと怒ったような顔をして。

 私は気にせずにふたりに向けて言った。

「さて! 部屋に戻ろっか。ウォルター、ケーキがまだ残ってるよ。アンディ、サンドイッチ作ったから食べて。疲れたでしょ。休んでいきな」

 人差し指で私の部屋のほうを示して、もう片方の手で『こいこい』をする。

「おう、直。じゃ、お言葉に甘えて。なぁ、アンディ?」

「……うん」

 ふたりがゆっくりと私の部屋に向けて歩き出す。

 示されるまま私の横を通って。

 私は少し待って、ふたりの背中を眺めると、後ろから飛びかかるようにしてふたりの肩に勢いよく手を置いた。

 ぐいと間に割り込むようにして前に顔を突き出す。

 『わぁっ』とふたりの驚きの声が重なる。

 私はにこっとして言った。

「本当にありがとね!」





 私はお茶、ウォルターはケーキ、アンディはサンドイッチで、主に私もアンディも知っているウォルターの話で盛り上がった……本人がそこにいるのに……その後。

 空がうっすらと暗くなり始めた頃。

「じゃあ、帰るぜ、直」

 ウォルターは戸口でそう言って、何か言いたげに私をじっと見て、口を開いた後、また閉じた。

 きゅっと唇を噛んで、それから口元を緩めると、笑みのようなものを浮かべた。

 目をスッと細めて、口の端をつりあげて、それはやんちゃなこどものような笑顔に変わった。

「今日は楽しかった。……サンキュな。なんか……いろいろと!」

 言いたいことはじゅうぶんに察することができた。

 でも気付いてないの、私も、そういう暗黙の了解で。

 両手を広げて明るく笑ってみせる。

「ああ、こっちこそ。またおいでよ。待ってるからさ」

「じゃあな」

「うん」

 私はウォルターの中が部屋から出て行くのを見守る。

 その後ろに続こうとするアンディを私は呼び止めようと思った。

 それより一瞬早くアンディがこっちを振り返る。

「じゃあね、直。ありがとう。あの……ごちそうさま。……美味しかった」

 うつむいて、ボソボソと照れた様子で、口をあまり開いてないから聞こえにくいけど、はっきりとそう言った。

 ……ああ、可愛いなぁ!

 私はニンマリ笑う。

 そしてアンディに小さな瓶を突きつけた。

 アンディが顔を上げて驚きに大きく目を見開いて私を見る。

「えっ……と、コレは? 直」

 受け取らずに戸惑った様子で目をぱちぱちさせるアンディに苦笑して言う。

「『コーディアル』だよ。アンディ美味しいって言ってたでしょ? 風邪の予防にもなるし、持っていってたまに飲みなよ」

「え、でも……」

「いいから! うちにはまだあるし! ハイ、持った!!」

 押し付けると、困った様子ながら、しぶしぶと受け取って胸に抱いた。

「……ありがとう、直……」

 またうつむいて、頬を赤くして、ボソボソと言う。

 私はそんなアンディに、申し訳ないような気持ちになりながら、それでも決めたことだからと、そっと手をのばした。

 両肩をつかむと、不思議そうにアンディが私を見つめる。

「……アンディ。これは、私がやりたいから、やるんだけど……」

 そう。

 私がやりたかったこと。

 本心からそうしたいと思った。

 アンディの事情なんか何も知らない。

 だから同情とかそんなものでもない。

 ただ……ただ、本当に、心の底から。

 あなたを抱きしめたい。

「直……?」

 胸に引き寄せて、ギュッとその丸い頭を抱きしめると、アンディから驚きよりも戸惑いがちな声が上がる。

 何が起きたのか、何をされているのかわかっていないような、そんな感じだ。

 私は黙ったままぎゅうっとその少年の体を包みこむように抱きしめる。

 ただ抱きしめる。

 アンディは体を強張らせている。

 それがわかって、さらに申し訳なくなって、私は小さな声で言った。

「ごめんね」

 何故か泣きそうな声が出た。

 やがてアンディがもがいて、私は腕をほどいて解放した。

 アンディは不審なものを見る目で私を見て言った。

「な……何? 直。急にどうしたの? なんでボクをっ……」

 私は仕方なしに苦笑してごまかした。

「うーん、可愛いから?」

「何ソレ……」

 アンディが呆れた顔をする。

「いいの、いいの!」

 私はアンディの肩をつかんでくるりと背中を向けさせて背中を押した。

「ほら、行きな! ウォルターが待ってるよ。じゃあね。元気でね。またね」

「……」

 釈然としない様子で何か言いたげに私を見ていたアンディが、それでもやっぱり恥ずかしかったからか、頬を赤くして、こくんとうなずき、部屋を出て行く。

 私はそれを手を振って見送った。

 友達として。





 ごめんね。

 お母さんみたいになれなくて。

 あなたの傷を見せてもらえる存在になれなくて。

 でも……

 いずれそういう時が来たら、その時は……



 私は逃げないから。





 だからその時はあんたも覚悟してね!!





(おしまい)
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