ごめんね。
鍋で煮詰めた紅茶に牛乳を加えて温めたものをカップに注ぎ、それを口に運んだ。
カップに口をつけて一口。
ほぉ……と息を吐く。
ようやく仕事が片付いた。
今さっき馴染みのおばさんが作品を持っていったところだ。
近所の店で置かせてもらっている布バッグや帽子や財布の類。
大したお金にはならないけど。
これで一息つける。
作品を作っている最中はそのイメージを逃さないように必死だから、それが終わると本当に解放された気持ちになる。
目の前の布が最初に思い描いた通りの形に仕上がっていくのを見るのは楽しい。
だけどその間ずっとそれが頭から離れないわけだから苦しい。
もちろん最初に型紙があるけれど、それは少しの安心をもたらすだけで、捕らわれたような心の解放にはなりはしない。
……とはいえ、ただの布きれで作った小さな、日常で使われるちょっとした物。
異国の人間である私がこうしてこの国でお金を手に入れるのは大変だ。
幸い私ひとりが食べて生きていく分にはまだそう困ってはいないけれども。
カップを傾けながら机の上を見る。
今回たくさん使ったビーズの残りが散乱している。
私の現実になった夢の残りの欠片のようだ。
……片付けなくちゃ。
その時、ガタンッと、窓のほうから音がした。
慌てて振り返る。
「あ……ども」
家の窓を外から開け放って今まさに窓枠に足をかけて部屋に乗り込もうとしている赤い髪の男がぺこっと頭を下げた。
「……」
私が硬直して黙っていると、男……まだ青年か……は少し躊躇った後、後ろを振り返り、『あ、ヤベッ』と小さく言って、部屋に急いで転がるようにして入り込んだ。
そしてバシッと窓を閉めてしまう。
窓から見えないように低い位置にしゃがみこんで外の様子を窺う。
その側の床に棺桶が横たえられていて。
青年の持っていた棺で。
「……」
何なのこの人。
私はびっくりして赤い髪の後ろ頭を見つめる。
いきなり家に入り込んでっていうか窓からっていうかなんで棺を持ってるのっていうか。
パニック。
今までいつもと変わらない日常を過ごしてたっていうのに。
……どうしたら……。
おろおろしていると、窓にコツンと石が当たるのが見えて、外から人を呼ぶ声が聞こえた。
どうやら中の私を呼んでいるらしい。
赤い髪の青年が必死の形相で私に口元に人差し指を当てて『シィーッ』と言って、カサコソと窓から何かの虫のように這って離れて行く。
仕方なしに私はかわりに窓辺に立った。
ガチャッと窓を開けておそるおそる顔を出す。
「……誰ですか?」
見れば、黒いスーツ姿の、明らかにカタギじゃないと思われる男が2・3人。
落ち着かない様子で家の前をうろうろとしている。
どうしよう、店で何かあったのかな……。
「……はい? なんですか?」
目の前にいた若い男が険しい顔で訊いてきた。
「男がこっちに来なかったか? 見てないか? 赤い髪の目立つヤツなんだが」
思わず目が動く。
途中で『いけない』と思って目をさまよわせる。
右に、左に。
微かに入った視界の隅で赤い髪の青年はうずくまって赤いコートのフードを被りながらこっちに照れ笑いのような苦笑を浮かべてぶんぶんと手を横に振っていた。
まるで『黙ってて』というみたいに。
もしかして……。
……笑える事態じゃないんじゃないの?
想像通りだとすると追われているのはこの青年で、追っている連中はマフィアで。
こんな険悪な空気、ただごとじゃない。
厄介事に巻き込まれたくないんだけどな……。
でも、飛び込んできた青年があまりにも無邪気そうだったから、かわいそうになった。
「私、わかりません。仕事をしていました。私、何も知りません」
悲しい顔をして困惑げにぶんぶんと首を振る。
わざとカタコトで。
黒スーツの男は、私の目を見て、髪の色を見て、納得したようにうなずき、チッと舌打ちして、離れて去って行った。
……私が何もわからない外国人だと思ったんだろう。
男たちが離れていくのを見届けてじゅうぶん安全になってから私は室内を振り向く。
赤い髪の青年はもう平然として部屋の片隅のキッチンに置かれた鍋の中を覗き込んでいた。
「何これ。いい匂いすんなぁ。俺にもちょうだい?」
普通の顔で鍋の中身を指差してそんなことを言う。
私の中の何かが音を立てて切れた。
国では『堪忍袋の緒』と言う。
「……あなたはいったいどこの誰ですかっ!!」
怒鳴りつけると『ヒエッ』と青年が首をすくめた。
さっきの赤いコートはもう脱いでいる。
どこにしまったのか手にも持っていない。
さっきの棺は部屋の隅に置いてある。
青年は二ッと人懐っこい笑みを浮かべ、頭をかきながら言った。
「悪い。ちょっとだけ、ここにいさせてくれ。すぐに出てくから。迷惑はかけない。……いや無理か。もう迷惑だもんな。……あのさ」
真顔になって、天井を指差す。
「上に登ろうと思ったら、ちょっとヘマして、そこまで行けなくて。悪ィな。かわりにここにいさせてくれ」
「……屋根も人の家だけど」
私はスゥッと息を吸い込み、大声で怒鳴りつけた。
「だから勝手に人の家入ってきてどこの誰なんですかあなたはーっ!!」
青年が大慌てで駆け寄ってきて私の口を大きな手で押さえる。
……あ、手に、ノーフィンガーの手袋。
間近で私を見下ろす目は黄色っぽい。
それにしても髪の毛が鮮やかな赤い色で……。
つい目を吸い寄せられてしまう。
しかも、近くで見ると、結構な美形だ。
だが、それよりも、その迫力に黙らされてしまう。
切羽詰まった殺気に近いものを感じさせる空気。
低い声がその形の良い唇から出される。
+++++
「悪い。黙って。静かにしてくれ。ホントごめん。こんなことになって。許してくれとは思ってない。ただ……今バレるとアンタもヤバいから」
「……」
私は黙ってこくんとうなずく。
見つめる瞳は真剣で。
その言葉が正しいことがわかったから。
青年は私の口から手を放し、横を向いて『あーっ』と言いながら、困った様子で前髪をかきあげていた。
が、すぐに私に向き直り、早口で言う。
「俺の名前はウォルター。ウォルターでいい。それ以上は聞かないほうがいい。知らないならきっとそのほうがいいから」
「……はぁ」
ウォルター……は名前だよね。
私も名前だけでいいんだろうか。
口を押さえられた時に崩れた体勢を直して勢いよく頭を下げる。
「私の名前は直です。さっそくですが、ウォルターさん……とお呼びしてもよろしいですか? ウォルターさん、なんで家に……」
「あ、たぶん、それも聞かねぇほうがいいから」
遮ってビシッと止められてしまう。
落ち着かなく室内をうろうろとしながらウォルターさんが話す。
「とりあえずさっきのことサンキュ、直。助かった。ありがとう。長居する気はホントにないから。たまたま人が出てきたから留守宅かと思って入っ……」
「ウォルターさん泥棒っ……!?」
「違うから! そんなんじゃねぇし!! ってかだから声っ……!!」
『あっ』って感じで振り向いた。
そして素早い動きで私の傍に戻る。
口を押さえようとする手を私は慌てて止めた。
「だっ、大丈夫です、騒ぎませんから……!」
本当に素早い動きだった。
普通の人ならありえないくらい。
運動神経がいいとかの問題じゃないような気さえする。
ウォルターさんは冷や冷やした様子で私をにらみつけるように見ている。
「頼むぜ、直……」
「いや、本当に大丈夫です、わかってます」
それにしても女性の口を押さえることに躊躇いもない辺り……。
本当にどういう人なんだろうか。
私のしたことは間違ってなかったのかな。
不安になってうつむく。
ウォルターさんのズボンの一部分が赤く染まっていることに気付いた。
「ウォルターさん、怪我してますよ……?」
「あー、これ? いいんだよ。かすり傷だから。ちょっと銃で……」
ハッとして口をつぐむ。
……銃?
さっきの人たちか……。
『ちょっと銃で』と言う、マフィアに追われていた、素性を訊いてはいけない男性。
そんなもの一刻も早く出て行ってほしい。
……でも。
私はウォルターさんの膝をじっと見る。
「え? おい、直……?」
「黙って」
ついに手を出してズボンに空いた穴を広げて顔を近付けて傷を見る。
真っ直ぐに赤い線がピーッと引かれている。
ひどい傷ではないけれど……。
これは、このまま追い出すわけには、いかないや。
私は諦めてウォルターさんの足を放し、かわりに椅子をつかまえて引きずって戻った。
「ウォルターさん、ここに座って」
そう指示して、自分はまた薬を取りに離れていく。
ウォルターさんはきょとんとしながらもちゃんと座ってくれた。
動く私を彼の目が追っている。
「なぁ、直って、どこの人?」
「日本の人ー」
「なんかやってんの? お、あれ、帽子? もしかして、帽子屋さんとか?」
「帽子も作ってるけど、布でいろいろ作って、ちょっとずつだけど売ってるの」
私は薬箱を手に戻った。
「消毒して包帯巻くくらいしかできないけどね」
「あ、なんだよ、俺持ってたのに……」
「どこに?」
私が訊ねるとウォルターさんは部屋の隅を指差した。
「あの中」
「……」
私は口をパカッと開けて棺を見つめる。
……あの中に?
もしかしてさっきのコートも?
そもそもあれはなんなんだろうか。
訊いちゃいけない、訊いちゃいけない……。
ぶんぶんと首を振って疑問を頭から追い払う。
私は手早くウォルターさんのズボンを膝の上までまくり上げた。
「ちょっと痛いよー?」
液体を染み込ませたガーゼで傷口を押さえるようにするとウォルターさんが目をつり上げてわめき出す。
「おいちょっ……、直、マジで痛いんだけどっ!?」
「我慢してねー」
「いやちょっと待てなんでこんな痛いの!?」
ついには暴れ出す。
「それホントに消毒!? なんか間違ってるだろ絶対!! ありえない痛さだぞ!!」
「……うるさい」
イラッとしてついこぼすとウォルターさんがビクッとして固まる。
……あれ?
口元を笑みの形に強張らせてうつむいたウォルターさんの目が泳ぐ。
まるで怯えるみたいに、私と目を合わすまいとして。
「ウォルターさん……? あの、ごめんなさい」
……そんなに言い方キツかった……?
顔に手を伸ばすとまたビクッとしておそるおそるというふうにゆっくりと顔を上げる。
まるで恐ろしい強敵でも見るかのような目をして私を見た。
「……言い方が少しアイツに似てた」
……誰だろう?
そんなに怖い相手なんだろうか。
ウォルターさんはうなだれて急におとなしくなった。
「……直。任せる。あんまり痛くしないでくれ」
「えっ、ええ……」
手当てが終わって、私の作ったミルクティーを飲んで、ウォルターはしばらく私の部屋で過ごした。
日が暮れる頃にはもう『ウォルター』『直』と親しく呼び合っていて。
知り合ったことは結構ヤバいとその頃にはもっと確信を持って言えた。
それでも放り出さずによかったと思ったのはウォルターの人柄ゆえ。
赤いコートに棺……そして銃で狙われた……その話を聞いたおばさんから怖い話を聞かされるのはもっとずっと後。
何か月も経ってからだった。
それでも私はこの日のことを後悔はしていない。
……何故なら。
「帽子あげるよ、ウォルター」
「……?」
きょとんとしているウォルターの手に帽子を押し付ける。
「その髪は目立つでしょ。この街を出るのに不利になるよ。隠していきな」
「……直」
ウォルターは柔らかな素材の飾り気のない帽子をじっと見つめた。
それをぎゅっと握りしめて、不意にぐっと私の胸に押し付けて返した。
そして、へらっと、なんだか緩い笑みを浮かべる。
「悪い。やっぱいい。大丈夫」
「そう? でも目立つよ。被っていきなって」
「いや……俺がこれ持って帰ると、もしなんかあった時、直が困ることになるからさ」
『それに』と、ウォルターがあいまいな笑みを二カッとやんちゃなこどものような笑みに変えて、きっぱりと言った。
「被りたくないんだ」
「……そう。残念だな。でもしょうがないね」
私はしぶしぶと受け取る。
「さよなら、ウォルター」
「さよなら、直」
ひらっと手を振った、その時には、ウォルターはもう背中を向けていて。
棺を担いで家を出て行くその赤い髪の青年の背中を見送った。
ウォルターは何がそう申し訳ないんだか。
……謝ってばかりだな。
そう思った。
あれは、そうか、あのことは……。
思い出にもしちゃいけないようなことだったのか。
……と、それでも今日も作業机を奪って紅茶を飲む、赤い髪の友人を見て思うのだった。
(おしまい)