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何も変わらねぇよ。




 ちょっとした用事があってカラスの巣を出ようとしていたウォルターは、受付の上に上半身を乗せるようにして身を乗り出して女性と話している若い男の背中を見つけた。

 見つけてすぐに呆れてまぶたを下げて半眼にして据わらせたその目でウォルターはじっと男の背中を見つめる。

 真っ白いシャツに黒いズボンという上着を脱いだスーツ姿だが、似合わない派手なオレンジ色のサスペンダーをしている。

 若い男は受付の女の子とすっかり打ち解けた様子で、明るく大いに笑いながら、他人の邪魔になることなど気にもせずおしゃべりしている。

 まぁ、受付の女の子のほうだって、仕事を忘れて楽しんでいるようだが。

 男のその傍若無人な振る舞いは。

「……ジョッシュ」

 ウォルターの口からぽつりと漏れる。

 それを聞きつけて若い男が振り返った。

 短い金髪に青い瞳、間違いなくジョッシュ……ジョシュア……だった。

「おう、ウォルターじゃねぇか!」

 ニカッと白い歯を見せて笑ってそう言う。

「あんた何して……」

 不本意ながらかなり自分と親しい相手がしているその振る舞いにうんざりとしてウォルターは顔を覆ってため息を吐いて嘆く。

 放っておくとろくなことをしない相手だな、と。

 ジョシュアはすぐに受付の女の子に『じゃあ』と手を振って別れて、その手を挙げたままウォルターのほうに近づいてきた。

「おっ、ウォルター、ウォルター、ウォルターっと!」

「なんだよ、ジョッシュ……おわっ?」

 なれなれしく何度も名前を呼びながら近づいて……遠慮なく距離を縮めて……来たジョシュアは、正面からがばりとウォルターに抱きついた。

 訝しげで警戒するようにジョシュアをにらんでいたウォルターの目など意に介さず。

 そのままぎゅうっと抱きしめる。

 ニヤニヤ、ニヤニヤと笑って。

「おー、これだ、これ! ちょうどいいや!! いい体だな。うん、ちょうどいいとこで会ったなー!」

 そんなことを言う。

 ウォルターは冷たいものが這ったような感覚にぞくりとして鳥肌を立てて固まった。

 ……嫌な予感がする。

 『ちょうどいいとこで会った』ってなんだ。

 しばし硬直して棒のように突っ立って抱きしめられていたが、やがて『ん~』などと調子に乗って顔を近づけてくる相手に、ぞわっとしてわめいた。

「やめろ!! 放せ、ジョッシュ!! 嫌だ、気持ち悪りぃ!! なんなんだ、あんたは!? 楽しいのか、これが!! なんだか知らんがお断り……」

「そう冷たくすんなよ~」

 本気で嫌がるウォルターにもショックを受けた様子もなく、それでも案外あっさりと解放する。

 だが右腕をつかんだまま。

 外を指さす。

「いやー、ちょっと今から備品の買い足し行ってくんだけどさ、ひとりじゃキツいから、ちょうど荷物持ちがいるなーと思ってたとこなんだよなぁ。ちょうどよかった! おまえさんいいところに来たぜ。これぞ、ザ・荷物持ち! って感じだもんな。なっ、ウォルター」

 ぽんっと笑顔で肩を叩かれて、ウォルターは目をつり上げて騒ぐ。

「どこがだよなんでだよどうしてそうなんだよ! 全然違うだろ!? その認識を改めろ!!」

「えー、いっつも担いでんじゃん、棺桶」

「いや、違うから! そうじゃないから! あれ荷物持ちとかじゃねぇし!! あんたは俺のこといったいどう思ってんだよ!」

「へ? 荷物持ち」

「そういうことじゃねぇ……ってか、俺は用事があって……聞けや、人の話!」

 外に出ようとジョシュアはぐいぐいとウォルターを引っ張る。

 なかなか見た目に反して力があって抵抗も空しくウォルターは引きずられる。

 災難だ。

 運が無い。

 きっと厄日だ。

 ウォルターは涙目でそんなことを思い、嘆き、それでも抗議した。

「ジョッシュ、あんたは人をなんだと思ってるんだーっ!!」

「荷物持ち」

 しれっ。

 平然として吐くジョシュア。

 ウォルターは言葉を失くした。

 ずるずるずる……。

 引きずられていくウォルターを受付の女性たちが呆然として見送った。


+++++



 青空の下で真っ赤に輝く自分の髪をイライラとかき上げる。

 頭が痛い、……ような気がする。

 日光のせいとは言えないが。

 別に痛みが取れるわけではないので、それをやめてポケットに手を突っ込む。

 あー、もう、ホントついてない。

 出かけにこんな奴に会ってしまうなんて。

 しかもつい名前を呼んでしまうとか失敗した。

 前をはずんだ足取りで行く陽気な男の背中をにらみつける。

 ウォルターは諦めてしぶしぶとジョシュアの後を歩きながら、ムスッとして吐き捨てる。

「あー……ったくよ、自分ひとりで持てんだろうが! 何も人を付き合わせなくたって……」

 振り向いたジョシュアは口をとがらして言った。

「そういうことは何を買うのか訊いてから言えよ」

「俺の用事は聞かなかったくせに!」

「あ、耳が、あー、なんか調子が……」

 とぼけるジョシュアの背中をウォルターは容赦なく蹴った。

 ドカッ。

 ジョシュアが背中を押さえてうめく。

「うおお、ウォルター君よ、おまえヒドいな……」

「耳になんか詰まってんだろうから衝撃で出そうとしてやったんだよ!」

「口から出るわ、アホが! 蹴る場所が違う!! なに、おまえ、反抗期? 今さらその年で? 恥ずかしいな、オイ」

 軽口にますますムカムカとしてウォルターは険しい顔で低い声をぼそっと出す。

「今度はドタマ(頭)蹴っ飛ばしてやろうか?」

「おー、怖い怖い。よせや。脳みそ無くなっちまうぞ。なんもわかんなくなるだろうが!」

「……今だってわかってんのかね」

 『へっ』とそっぽを向いて軽く笑って吐く。

 ケンカの挑発のようなそれを、ジョシュアは取り合わなかった。

 『ふー、やれやれ』と腰をのばして大げさに首を横に大きく振って嘆いて見せる。

「ガラが悪いねぇ。ごめんな。首と胴の泣き別れは勘弁してくれや。愛着があるんだ。こんな頭でもな」

「俺がそんなことできっかよ。シルヴィオならわかんねぇけど……」

 蹴った程度で首が吹っ飛ぶとか。

 『んー』と考える。

 おかげで少し頭が冷えた。

「……反抗期は過ぎたよ」

「おー、そうか。よかったな。お赤飯でも炊いてやろうか?」

「何それ」

 真面目にどこかから聞いた『お赤飯』の説明をするジョシュア。

 それを真面目に聞くウォルター。

 しばしふたり真剣に語らった後、ウォルターはキリッとした顔つきで言った。

「いや、別に、昨日今日の話じゃねぇから」

「……だよな」

 うんうんとうなずくジョシュア。

 もうすっかりウォルターの気分は落ち着いている。

 ずんずんと歩くジョシュアに不安げに訊ねた。

「なぁ、ジョッシュ。どこに向かってんの? 何買うんだよ。俺、なんも聞いてねぇんだけど?」

 今さらと言えば今さらだ。

 相手が話してくれなかった……もっともウォルターが遮った部分もあるけれど……そのせいで、ウォルターは自分がどこに行くのか、何をするのかもよくわかっていない。

 荷物持ち、とは言われたが。

 あと『備品』とは言っていたが。

 ふたりで持てるのか。

「あー……」

 いまは隣に並んで歩いているジョシュアがぽりぽりと頬をかく。

「なんか紙束が足らないらしくてなぁ。届かないらしいのよ、まだ。あと、あれだ。仮眠室のシーツとか。枕とか。あと、俺のカメラの……ま、それは後で買うからいいとしてー」

 次々に並べていくジョシュアを唖然としてウォルターは見つめる。

「……なんだ、それ」

 終わった時には呆然としてつぶやいた。

 そんなにたくさん買うものがあるとか。

 男ふたりとはいえ、たったふたりでとか。

 ウォルターは『ああ!』と顔を両手で覆って嘆いた。

 ……こんな男についてくるんじゃなかった!

 胸の内は後悔でいっぱいだ。

 こんな奴はアンディがいたら首と胴の泣き別れを頼むところだ。

 それはいつも棺を担いでいるけれども、シーツだの枕だのトイレの紙だの装備して帰れとかなんの拷問。

 俺に出会わなかったらひとりでそれをやるつもりだったのかとジョシュアを死んだような目で見る。

 ……ホントにひとりで全部担いで帰ってきたのなら尊敬に値する。

 なんでそんなに溜めたのか。

 聞けば頼まれて『はいはい』とやっているうちに溜まってしまったのだとか。

 はぁ。

「……ジョッシュ」

「なんだ? ウォルター」

 買い物に出たのが楽しいのかニコニコとしているジョシュア。

 ウォルターはその肩にぽんと手を乗せた。

「あんた少しは計画ってもんをしろ」

「……まさかおまえに言われるたぁ」


+++++



「愛してるぜ、ウォルター」

「……だろうな」

 バールの真っ白いイスに座って同じく白いテーブルに行儀悪く肘をついてあごを支えたジョシュアが、パチリとウィンクをして向かいのウォルターに言う。

 ウォルターは真面目な顔でそれを受け止める。

 装飾華美なせいで穴だらけのテーブル……草木の模様……には、片方にはただのエスプレッソ、もう片方にはカプチーノが置いてある。

 エスプレッソのほうがウォルターだ。

 そして、ジョシュアの前には、コルネット(パン)が置いてある。

 片方はさっさと立ち去るつもりで、片方は長居するつもりだ。

 ウォルターは苦々しく空をにらんで言う。

「愛される自信があるよ、こんだけするとな!!」

「そう言うなよ」

 ジョシュアは目を細めてニヤと力ない笑みを浮かべる。

 いくぶん申し訳なさそうだ。

 ふたりの周りには本や紙束や文具の入った袋の山があった。

 ひとり6袋は持ち歩いたのだ。

 片手に3袋、もう片手に3袋と。

 それが足元にどさどさっと置いてある。

 この上さらにシーツや枕まで買うとなると……。

「ダルい」

 うんざりとして息を吐いてウォルターはカップを口に運ぶ。

 バールで休憩なんかしていないでとっとと帰りたい気分だ。

 理解はしているようで、ジョシュアがそれなりに情けない顔で言う。

「マジな話、おまえさんがいてくれて助かったよ、ウォルター。ひとりじゃどうにもならなかったもんな。うん、こうしてみると。やっぱ大量に引き受けすぎたかなー。……あ、ここはおごりだから、遠慮なく飲んでくれていい。ああ、ほら、これも食って」

 どさっと大量のコルネットが自分の前に置かれる。

 ウォルターはさらにうんざりとする。

 いったいいくつ頼んだんだ。

 なんでこの男は限度ってものを知らないんだ。

「……」

 ウォルターはコルネットには手を出さずにジョシュアをムスッとにらみ据える。

「俺さ、朝飯食ってないんだよねー」

 ジトッとした目で見つめられたジョシュアがコルネットを頬張ってもごもごと口を動かしながら言う。

「……だったらピザとか頼めよ」

「いやさ、朝はこれって決めてるもんで」

「もう昼だ」

 ジョシュアは答えずに少し甘めのパンをもぐもぐと口に詰め込む。

 ウォルターは見ているだけでお腹いっぱいと、そっぽを向いた。

 そしてつぶやく。

「ああ、ダリぃ……」

 しばらく沈黙がそのテーブルを支配した。

 聞こえる音といえばわずかにカップが立てる音くらい。

 ひたすらにコルネットを食べていたジョシュアが、その勢いを緩め、やがて止め、急に外を指さした。

「お、ウォルター! 見てみろよ、いーい女がいるぜぇ。こっち入って来ないかな!? 呼んじゃう!?」

「ジョッシュ……」

 ウォルターは頭を抱える。

 いかにも『痛みます』というふうに。

 ジョシュアは唇をとがらせた。

「なーんだよぉ。イイ女がいたら声をかけるのは男の常識だろ。礼儀だろ? マナーだろ!?」

「あー、はいはい。勝手にやっててください。付き合わねぇからな!? 俺もうホント帰るぞ!? どうでもいいが、声をかけるんなら、荷物を持ってくれそうな女にするんだな!!」

「どんだけ筋肉ムキムキのお姉ちゃんだよ……嫌だよ、怖いよ、ウォルター、待てって!」

 ガタンッと椅子から立ち上がりかけたウォルターより一瞬早く立ち上がって、ウォルターの両手首をつかんでつかまえて、ジョシュアは必死で懇願する。

「おまえでいいって。いやおまえがいい。おまえじゃないと困るよ。ホント、ごめんなさい、謝るから!!」

「調子の良い奴め……」

 チッと舌打ちしてウォルターはがしがしと頭をかきながら座り直す。

 それを見て、ホッとした様子で、いや感激した様子で、ジョシュアが胸の前に手を置いて、キラキラとした目でウォルターを見つめる。

 感に堪えないといったふうに声を上げる。

「ウォルター最高! ウォルターいい奴! だから好きよ、大好きよ、おまえって奴ぁ……」

「あー、はいはい!」

 完全に横を向いて座り、行儀悪くテーブルに肘をついてあごを支え、イライラとして投げやりに返す。

 その顔を座り直したジョシュアがぐいと首を突き出して下から覗き込むようにして口をとがらせて言う。

「でも見るぐらいいだろぉ? 嫉妬すんなよ、そんなことで。そこらの姉ちゃんよりおまえのほうが美人だって!」

「誰がそんなことを言った!!」

 ドンとテーブルを叩いて怒鳴るウォルター。

「嫉妬なんてしてねぇ!! ってか、ジョッシュ、怖いこと言うな!! デートじゃねぇんだぞ!?」

「えーん、アタシこんなに思ってるのにぃ」

「……死ぬか? ジョッシュ。俺の蹴りで『首と胴の泣き別れ』試してみるか?」

 胸の前で両の拳を握って上目遣いの涙目でぷるぷると震えてみせていた二十代の男は元気よく首を横に振った。

 ウォルターからの殺気が半端ない。

 ジョシュアはぷいとそっぽを向いた。

「ご免だね。やだやだ。ただの冗談じゃん。おまえもうちっと余裕持てや。清濁併せ持つくらいじゃねぇとこの世の中やってけねぇぞ」

「ジョッシュのどこに清らかな部分があるんだ。えらそうに言うな。清濁の濁のほうしか持ってねぇだろ、あんたは!!」

「ぷーい」

 こどものようにわざとらしくもう一度向けかけていた顔をつーんと背けるジョシュアにウォルターの怒りが増す。

 どんよりとした黒雲のようなものが自分の内からにじみ出て周囲に漂うのが目に見えるようだ。

 ピリッ、ピリッと、稲妻のようなものが空気に走るのは、尖った神経のなせる技だ。

 目に見えていたら、目の前の男ももっと怯えていたに違いない。

 ウォルターはそう思う。

 ふうー、ふうー、と大きくゆっくりと肩まで動かして呼吸する。

 襲い掛かる寸前の野生の動物のようなウォルターを前にしてジョシュアはカプチーノを飲み干して伸びをして立ち上がった。

「さーて、行くかぁ」


+++++



 相変わらず人が多くてにぎやかな街の中を、両手につかんだ荷物の重さで自然と背中を丸めてトボトボと歩く。

 紙束や文房具の重さって半端ない。

 それを6袋だ。

 いや、全然平気だけど。まだまだ大丈夫だけど! こんなの余裕だけれども!!

 ウォルターはイライラしてそう思う。

 何に対しての意地なのかはさっぱりわからないが、なんとなく負けたような気がして悔しいから、認めてやらない。

 隣を同じようにして荷物を持って歩く男は鼻歌なんか歌っちゃってるし。

 事実、まぁ、この程度でへたばるほどやわじゃない。

 いつも担いでる棺に比べれば……。

 ただ、ダルいだけだ。

 せっかくの休みだってのにこんなことに付き合わされるとか。

 こんな相手に付き合わされるとか。

「愛してるってのはホントだぜ」

 不意にジョシュアが思い出したようにそんなことを言う。

「別に買い物に付き合ってくれるからってわけじゃない。無条件の愛さ。好きだぜ、おまえさんは」

 しばらく言われたことを考えた後、ウォルターの出した返事はこうだった。

「……気持ち悪りぃ」

「おっ、ヒドいな!」

 ウォルターは『はあぁぁぁっ……』と大きくため息を吐き出す。

「どうせまたからかってんだろ? いい加減にしろよ、ジョッシュ。そろそろ本気で怒るぜ」

「んー……」

 ジョシュアはちょっと困ったように眉を八の字にしてあいまいに笑って、振り向いてしっかりとウォルターのほうを見る。

「悲しいな。そりゃ俺はこういう奴だけどさ、人が純粋な気持ちを正直に口に出したってのに、その返しはどうよ。さっきの『美人』ってのだって本気だぜ? 嫉妬うんぬんてのは冗談でもさ」

「本気でなくていいんだよ」

 ウォルターはジョシュアを引き離そうと足を速める。

 そんなことをしてもまた情けない声を出して引き留めるかすぐに追いかけてくるんだろうと思った男は何もしない。

 ただのんびりと自分のペースで歩きながら誰にともなくぼそっと言う。

「……まぁ、愛は気持ち悪いもんだよなぁ」

 なんだそれは。

 背後から聞こえた意味深な言葉に思わず足を止めてゆっくりと振り返る。

 そして顔で訊ねる。

 決して興味があるわけではない、ただどういう意味なんだ、と。

 ジョシュアはめずらしく神妙な顔つきで話す。

「愛ほど美しいけれど、愛ほど醜いものはないんだよ。恋は下心、愛は真心っていうけどさぁ。どちらもひとりで想ってる分には一方的なことに変わりないじゃん? それを押しつけるわけだからさぁ。……ま、受け取る気のない相手にとっては迷惑で、だからって止められるもんでもないわけだから、そりゃ気持ち悪くもあるわな」

 ウォルターは軽く目を見開いて相手を凝視する。

「……意外だな。あんたがそんなこと言うなんて。てっきり『愛ほど素晴らしいものはない!』とか言うもんだと。いつもあんなに女のことではしゃいでるくせに」

「うん。愛ほど素晴らしいものはない! それはそうよ?」

 追いついたジョシュアは『うんうん』とひとりうなずきながら語る。

「そういうとこも含めて素晴らしいもんだよ。誰かを想って美しくて、必死になって醜くて、きれいで汚くて人間らしい。なんにでも二面があるもんさ。二元論だ。恋だってそうだけどな。川にたとえると、恋は浅くて流れが早くて、愛は深くて流れが緩やかだ。どっちで溺れても厄介さ。ま、フツーは恋の川を上流に向かってのぼっていって愛の淵にたどり着く、ってもんだが」

「……くっせぇ」

 呆れて半眼になってそう言って、ウォルターはまた背を向けた。

 何が言いたいのかさっぱりだ。

 背中を声が追いかけてきた。

「誰かや何かを本当に大切に思う時に人は人を許せるようになるってのは真理だと思わねぇか?」

「……」

 ウォルターは苦い顔をして黙り込んだ。

 束の間、幼い頃に遭った、悲しい思い出が蘇る。

 自分はマフィアを許せない。

 とうてい許すことができない。

 どれだけエミリーを好きでも……いや、だからこそ、許すことができない。

 エミリーのせいじゃない。

 あいつらのせいで悲しむ人がいる。

 それを自分が許さないということを選択しただけだ。

 だから執行人なんて仕事をしている。

 それなのに。

「……俺は……」

 ふっと口元だけで笑う。

 ジョシュアは後ろにいるから見えないことは承知で。

 執行人であることを選択した際に誰かや何かを大切にすることを本当は捨てなければならなかった。

 人を裁くということはそういうことだ。

 たとえ判定書に従うだけの『歩く処刑器具』だとしても。

 そもそも神様の教えに従うならそういうことをするべきじゃない。

 許さなければならなかったのだ。

 だから自分は背信者なのだ。

「カラスだからな」

 皮肉げに笑んでそう吐き捨てて歩き出す。

 ずんずんと大股で後ろを振り返らずに歩く。

 思うところがあったのか、ジョシュアも隣に並ぼうとはしない。

 わずかに間を空けてゆっくりとウォルターの後ろを歩く。

 その足が止まった。


+++++



「……お」

 同時にウォルターもそちらを向く。

 女の子が泣いている。

 まだ6、7歳くらいの幼い子だ。

 肩くらいまでの長さのさらさらの金髪の、顔を覆って泣いているせいで目の色はわからないものの、ふっくらしたバラ色の頬をした、小さな、可愛らしい子。

 大きな口を開けて大粒の涙をこぼしてわあわあと泣いている。

 それをウォルターはじっと眺める。

「おいおい……っと」

 ジョシュアは荷物を持っていることさえ感じさせないくらいひょいひょいと軽く跳ねるようにして女の子との距離を縮め、しゃがんでその顔を覗き込んだ。

「どうした、お嬢ちゃん!」

「ふっ……ひっく、えっ……」

 女の子は泣いていて答えられない。

 ウォルターもゆっくりと歩いてそこに近付く。

 まだ買うものがあるが、どこで買うのかはジョシュアにしかわからないし。

 持っていた袋を足元に置いて、ジョシュアは女の子から事情を聞き出そうと熱心だ。

 女の子はしゃべろうとするが、なかなか泣くことをやめられない。

 やがてようやく聞き出せたところによると、『ここがどこだかわからない』とのこと。

「ママとっ……公園に行こうと思ったの。あたし、道知ってるから……先に行くねって走って……そしたらわかんなくなっちゃった……っ。ママ、どこぉーっ!」

 それだけ説明するとまた激しくわぁーっと泣き出す。

 どうにもしょうがない。

 面倒な……と思ったウォルターはぼそりと言う。

「あーあ……迷子かよ」

「どうもそうみたいだな」

 ふむ、と首をひねってジョシュアは言って、よいしょっと女の子を担ぎ上げた。

「ここらへんで公園て言うとあれだろ。ひとつだろ。よし、行くか! お母さん来てるかもしんないし。あ、ウォルター、俺の分の袋頼む」

「マジかよ……」

 それは今どこにいるかわからない母親をあてもなく捜すよりは確実だとは思うが。

 付き合うのかよっ! と怒鳴りたい気分だ。

 だいたい声をかけるなんて。

 厄介に決まってるのに。

 その内心の非難が聞こえたようにジョシュアが顔を向けて真剣に言う。

「可愛い女の子には声をかけるもんだって言っただろー? ラッキーじゃねぇか。お姫様を助ける王子様役がもらえて」

「どっちかっていうと誘拐犯に見えるぜ、ジョシュア」

 やれやれと地面に置かれていた袋を持ち上げて……これで片手に6袋、もう片手に6袋、合わせて12袋だ……ウォルターは真顔で言う。

「幼女好きの変態に見える」

「女の子は小さいうちから女の子っていうイキモノなんだぜ。レディには親切にしなけりゃあな。この子は美人になるぞぉ」

 『うげーっ』と正直に顔に出してウォルターはうんざりとして言った。

「……あんたの好みがわからん」

 別に知りたくもないが、とつぶやく。

 不本意ながら自分も『美人だ』と言われてしまった。

 目の前の女の子との共通項がわからない。

 驚いた様子で泣き止んできょとんとしている女の子を、よーしよしとあやすように揺すってからしっかりと抱え直し、ジョシュアは歩き出した。

 足の向きからして公園だろう。

 ウォルターもしぶしぶとついていく。

 両手に提げた袋がずっしりと重たい。

 泣き疲れて眠くなってしまったのか、女の子はやがてジョシュアの肩に顔をくっつけてうとうとし出した。

 それを嬉しそうに見やってジョシュアが後ろに向けて言う。

「ちょっとアンディに似てないか?」

 『は?』と訝しげにウォルターは背中に向けて問う。

「どこが? 迷ってるところがか?」

 疲れた声になってしまうのは今日のいろいろと荷物があるので仕方がない。

 ジョシュアがチラッと振り向いて意地の悪い笑みを見せた。

「おまえ、見つけんの得意だろ、お兄ちゃん」

「よせよ。弟なんかじゃねえって。アンディは」

 かなりムッとしてウォルターは口をとがらす。

 ジョシュアのからかうような色が増した。

「『人類みな兄弟』はどうした?」

「……」

「黙るのかよ!」


+++++



 公園に着く頃には女の子は起き出して、さっさとジョシュアの腕からおりて、元気に公園の中へ走っていってしまった。

 かといって、それでめでたしめでたしと放置して、『それではこれで』というわけにはいかない。

 肝心の問題が解決していない。

 女の子の母親はこの公園にいるのか、無事に見つけられるかどうか、あるいは向こうが見つけてくれるかどうか。

 いなかった場合ここで待つよりしょうがない。

 あるいは他の方法を取らなければ。

 果てしなく面倒だが途中で放り出すわけにもいかない。

 女の子がおりたおかげで自由になったジョシュアにウォルターは紙袋を突き付ける。

「ほら! 今まで俺が持ってやったんだから、公園の中ではおまえが持てよ!」

 ジョシュアはそれを見つめて嫌そうな顔をしたが、もともとウォルターには手伝いを頼んだだけなのだから、それが筋ってものだろう。

 女の子を抱っこしていたので腕がしびれているのだが。

 しぶしぶと手を出して、片方ずつに6つの袋を受け取り、よいしょっと歩き出した。

「そのかわり女の子の面倒はおまえが見ろよ、ウォルター」

「なんで俺が……」

 文句を言いながらもウォルターは言われずともすでに速足になって女の子の後を追いかけている。

 ジョシュアも重たい荷物に『ひぃひぃ』言いながらその後を追いかける。

 先に公園の中に入っていってしまった女の子だが、幼いこどもの足なのですぐに背中が見えた。

「走るなよー! 危ないぞぉー!」

 ジョシュアがその小さな背中に声を投げる。

 すると、ちょうどその時、女の子が何かにつまずいて転んだ。

 ぽてっ。

「おいおい! 大丈夫か!? 言わんこっちゃない……」

 急いで駆け寄ろうとしたジョシュアの前に腕が出されて止められる。

「おい……?」

 片腕をのばして遮ったウォルターは、立ち止まって黙ったままじっと女の子を見つめている。

 両手をあげた格好でうつぶせになった女の子を。

 女の子はしばらく地面に倒れたまま伏せていたが、やがてぱっと起き上がって、また駆け出した。

 まるで転んだことなどなかったように。

 元気に。

「……大丈夫みたいだな」

 ほう、とジョシュアは安堵のため息を吐く。

「まぁ、あんだけ服がふわふわしてるし、靴下もしっかり長かったから、大丈夫だろ。怪我もしてねぇよ、たぶん。あの転び方なら」

 ぽりぽりと後ろ頭をかいて、ウォルターは心配そうなジョシュアにそう言って、またゆっくりと女の子の後を追って歩き出す。

「下手に手を出さねぇほうがいいんだよ、ああいう時は」

 こどもだってプライドがあるし、自分たちは甘えていい相手じゃなくて他人だし、甘やかし過ぎてはいけないし。

 見守っていて必要なときだけ手を貸せばいい。

 ジョシュアはそんなウォルターをぽかんと見て言う。

「……なんかお父さんみたいだな、ウォルター、おまえって。父性本能ってやつか、それが」

 『へーえ』と感心して。

 前を歩くウォルターはチラと振り向いて、『しまった』というように慌ててさっと前を向く。

 ムッとした顔をしていたが、その頬がわずかに赤い。

「なっ、なに言ってんだよっ……。この年で父親とか、冗談じゃねえ!!」

 『みたいでたまるかっ』と憤然として吐く。

 ジョシュアはしょんぼりとして言う。

「俺はお母さんみたいだったな……」

 反省するようにうなだれて、『あ』と顔を上げて、いい思いつきとばかりに明るく続ける。

「ちょうどいいのか。おまえさんがお父さんで、俺がお母さんで、なぁ」

 ぞわっと全身の毛が逆立つようにぞくっとして、ウォルターは振り向かないままでわめく。

「気持ち悪りぃ!!」


+++++



 結局、女の子の母親の姿は公園の中に見当たらなかった。

 『ママ! ママーッ!』と大声で呼んで捜し回っていた女の子も、やがてそれをやめてしまった。

 かといって、気落ちした様子もなく、草木を眺めたり、散歩中の犬と戯れたり、楽しく遊んでいる。

 もともと楽観的な性質なのもあるだろうが……。

 聞けばここからの帰り道はわかるらしい。

 とはいえ、先ほど『知ってるから』とひとりで公園に向かって迷子になったらしい女の子のことだ。

 どの程度信用できるものか。

 ああそうかと着いて行って迷子になられた日には道のわからない自分たちも今度は困る。

 それに、母親が娘が家に帰っているなどと思わず、捜し回る可能性がある。

 今も捜しているだろうが、公園にたどり着いていると思って来る可能性は高い。

 少しはここで待つべきだろう。

 そして当然ひとりにするべきではない。

 ジョシュアの意見にウォルターも賛成だった。

 そして、公園のベンチに座って、ぼんやりと目の前の風景を眺めている。

 視界に女の子の姿を入れて。

 散歩中の親子、語らう恋人たち、咲き乱れる花、静かな木々、おだやかな池。

 なんとも平和だ。

 この世界に悲しみや憎しみやそれを生み出すものがあるなんて信じられないほどだ。

 嘘くさく感じるほどだが、現実を知っている身としては、目の前の光景のほうが嘘くさく感じられる。

 急に闇が牙を剥き出してこのまぶしい光の世界を飲み込むんじゃないかなどと。

 この平和を守るための存在であるはずなのに。

 ウォルターはふっと皮肉げに笑う。

 居心地が悪い……というよりも。

 普段の自分がばかばかしく感じられてしまう。

 たいていの人はこうして自分なりの幸せを見つけて平穏な暮らしを楽しんでいるというのに。

「これでいいはずなのにな……」

 ぼそりとつぶやくと、隣に座る男がぼんやりとこちらを見る。

 その意を訊ねるように。

 それをウォルターは無視した。


+++++



「あー……」

 しばらくしてぽつりとジョシュアが口を開いた。

「アンディは……強いよなぁ」

 ウォルターは驚いて目を見開いて振り向く。

 すでに顔を背けていた男が地面を見つめて肩を落としている。

 唐突になんだろうかと、訊ねる前に思い当たることがあった。

「ジョッシュも医務室騒ぎの被害者だっけ?」

「おうよ。大いに弔ってやってくれ。巻き込まれたことアリだ」

 えっへんと胸を反らして威張って見せる。

 どこにも威張れるところがない。

 だが同情はする。

 というわけで、ウォルターは真面目に『うん』とうなずいて見せた。

 注射を嫌がる……っていうかそもそも医務室に行くのを嫌がる……アンディを、無理やり連れて行って注射を打ってもらう度に、毎回何人もの犠牲者が出る。

 ひどいと暴れる際に殴られたりもするのだから。

「強いよな。大の男もかなわねぇんだから。あんなすごい力を持ってる」

「そうか? 寝顔とか見ると案外フツーのガキだぜ」

 なんとなくその口調から嫌なものを感じ、ウォルターは意味が違うとわかっていながら、そう言ってかばう。

 大の男もかなわない『力』を持っている……。

 それは決して褒め言葉として出されたものではない。

 そんなものではない。

 それがわかる。

 ジョシュアは少し振り向いて、暗い目を向け、小さな微笑を口元に浮かべ、ぼそぼそと低い声で言う。

「可愛いよな、アンディ。小さいし、あの顔だし。だけど正直言って、俺は怖いんだよ。お近づきになりたくないね。俺がこんなこと言うとおまえには意外なんだろうけど、俺だって避けたい相手がいるんだよ。だって奴はスキャッグスの……」

「アンディはスキャッグスから逃げ出してきたんだ!! 自分でだ!! 自分の意思でだ!! ……そんなこと言うなよ」

 ウォルターは眉をひそめた悲愴な顔つきでそう遮る。

 ジョシュアの口元の笑みが皮肉げなものに変わった。

「……おまさんは強いよな。俺たちだってそう思ってるけど、それでも心のどっかで怯えちまってる。どうしても普通に見れない。警戒しちまう。うまく接することができないんだ。先入観てやつだがな。……それに比べて」

 ギリッとにらみつけるウォルターの目から逃れてジョシュアは上を向く。

 まぶしく光を投げかけてくる太陽のある青い空を眺めて。

 限りない憧れをこめてつぶやく。

「普通じゃないことを知っちまってるのに受け入れて相手してるおまえさんたちはやっぱ凄いよ」

 急にウォルターのほうを見てにっこりと微笑んだ。

「それが『信頼』ってやつなんだろうな……」

 ウォルターはムスッとして黙り込んで何も返さない。

 ジョシュアは短いため息を吐いて続けた。

 いつしかその目は今は通りすがりのおばあさんと楽しそうに話している女の子に向けられて。

「普通を与えられるって大事だよな。平凡な日常ってか、平穏な毎日ってか。そういうなんでもない日々があるからこそ気付くこととか、どんなくだらないことでも、大事じゃん」

 膝の上に置いた手の指を祈るように組んで。

「『普通じゃない』『普通じゃない』なんて扱われてたら、あいつも普通じゃいられないだろ。怯えないで接してくれるおまえら執行人仲間がいてくれるからあそこにいられるんだろうなぁ。アンディは、ああいう性格で、胸張って」

「……アンディなら、どこでだって、自分らしくしていられるさ」

「ははっ。そうかもな。……でもな」

 小さく声を上げて笑って、ジョシュアは悲しげにうつむく。

「……ちょっと、うらやましかったりする」

 ぽつりと出た言葉に、ウォルターはきつく細めていた目を見開き、またスッと細めた。

「……ジョッシュ」

 イラついた様子で髪をかきあげたウォルターが続きを言う前にジョシュアは立ち上がっていた。

「さて、と。あのおばあさん知り合いみたいだぞっと。行くか? 聞いてくるか? あの女の子の住所」

 さっさとそちらに向かおうとするジョシュアに、ウォルターはもう一度『ジョッシュ』と呼びかけ、振り向かせた。

 足を止めたジョシュアは今までの話題を忘れたかのようにきょとんとして見せている。

 スゥッ……と大きく息を吸って、はぁと吐き出して、ウォルターは渋面のまま苦い口調で言った。

「別に……何も思わないわけじゃねぇけど、見た目とかそういうどうしようもない事で避けられる辛さってのは、わかるからな、俺にも」

 イライラと吐き出して、赤い髪の毛をかきあげる。

 『悪魔の子』と呼ばれた真っ赤な色。

 ジョシュアはほんの少し笑った。

「……兄弟なんだな」

「だから違うって」

「アホ。ホンマもんの兄弟とかじゃねぇよ。なんていうか、心がな……つながる部分があるんだろうな」

 しみじみと言うジョシュアに、ウォルターはうんざりとして地面に向けて吐き捨てる。

「くっせぇ」

「……」

 ジョシュアが呆然とする。

「……おまえ、そんな『くさい、くさい』って、人がまるで臭うみたいに……」

 ウォルターは無視して女の子とおばあさんのところに駆け寄る。

 当然荷物を持つのは残ったジョシュアのほうだ。

 やれやれと息を吐いてジョシュアはよっこいしょっと荷物を持って後を追った。


+++++



 結局、おばあさんの的を得ない話を聞いているうちに、女性が公園に入ってきて、女の子が笑顔で『ママ』と呼んで駆け寄って……、母子は数時間ぶりに再会した。

 嬉しそうな母子に満足し、用のなくなったウォルターとジョシュアは退散して、自分たちの用事に戻った。

 残りの買い物を済ませ、ひとり一個ずつ枕と丸めたシーツを背負って、まるでキャンプか何かのような様子で、両手には紙袋他を持って、ものすごい荷物で帰るべき場所に帰った。

 その際に迎えた人たちに笑われたことはともかくとして。

 ジョシュアは今度ちゃんとお礼をすることをウォルターと約束して別れた。

 何故かウォルターはそれをひどく嫌がったが。

 『あんたといるとろくな目に遭わない!!』というウォルターの言葉がどういう意味だかジョシュアにはわからなかった。

 人助けをして充実した一日をウォルターは過ごせたはずなのに。

 本当に謎だ。





 夜。

 街外れの廃屋の中。

 月の光が割れた窓から遮るものもなくきれいに入り込む。

 その光に照らされて写真の表面がキラと光った。

 封筒からわずかに出されたそれがすぐにしまわれる。

 そして封筒が手から手へと移った。

「ほらよ。約束の、あんたらが気にしてる余所のマフィア関連の写真だ。それと、政府の動向。今、カラスがどこにいるかもな」

 封筒を受け取った男がニヤつく。

「どうも、ありがとうな、ジョシュア」

「……名前を呼ぶなよ」

 ジョシュアは苛立ちをこめて男をにらむ。

 闇に溶けるような黒いスーツ姿の中年の男を。

 男は懐から別の封筒を取り出して渡した。

「はいよ。今回の分だ。約束通りな」

 用心しながらそれを男の手から引き抜き、目の前で金を取り出して数える。

「……ああ、約束通りだ。じゃあな」

「次の仕事も頼むぜ」

 ニヤニヤと吐き気のするような気持ちの悪い笑みを浮かべた男が見た目は下に出てそう言う。

 立ち去りかけていたジョシュアは振り向いて少し困惑げに返した。

「あんまり頻繁だと困るな。そう間隔が短いとバレるだろ。あんたらマフィアとつながってるのが」

 マフィアの男は『はっ』と笑った。

「てめぇもそれなりの覚悟ってやつをしとくんだな。誰をだましてんのか知ってんだろ? バレたらどうなるか……なんて今さらだぜ」

 ジョシュアは軽く鼻を鳴らした。

「バレたら困るのは俺だけじゃあねぇやな。……しばらく呼ぶなよ。じゃあな。できれば永久におさらばしたいがねぇ」

「したくなったらいつでも言えや。おまえがその気になったんなら、もうこっちに用はねぇからな。この世ごとおさらばだ」

「あーあ。やだねぇ。殺伐とした関係。ぬるま湯にも浸りたくなるってもんだ。あばよ。今度は若いお姉ちゃん寄越しな」

 言い捨てて廃屋を出る。

 用心深く周囲に目をやりながら。

 いつ危険だと判断されて消されるかわからない。

 今はまだ利用価値があるから生かされているとしても。

 そういう世界だ。

 そこに身を置いたのは自分だ。

 自分を最大限に生かした結果だ。

 自分から離れた。

 自分から捨てた。

 もともと持っていなかったから。

 それでも、最初は……仲間と呼べるものがほしかった。

 安心できる場所に心から身を置きたかった。

 物心ついた頃から……いや、できれば生まれた時から……自分を認め、必要としてくれる、そして大切にしてくれる誰か、何かが欲しかった。

 それを得られなかったことがこういう結果につながった。

 それがあるということさえ結果的に自分には信じられないのだ。

 この危険が日常だ。

 自分にとっての……。

 これこそが真実だ。

 束の間、脳裏を、空のような大きな器を持った誰かがよぎる。

 すぐに首を振ってそれを追い払った。

 いくらなんでも自分を受け入れてはくれないだろう。


 似つかわしくないのだ。



 空を飛ぶ翼を自分は持たない。




 それだけの話なのだ。





(おしまい)
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