第二章
夢小説設定
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意地を張って私が距離を置いた。きちんとした返事すら返さなかった。自分が不機嫌である事を隠す事も、彼と距離を置く事も。自分が不利になって追い込まれてからそんな身勝手な都合で助けてもらうなんて、そんな甘い事を考えていたのに。なのに、どうして、
「呼ぶの遅ぇぞ、なまえ」
どうして助けに来てくれるのか。どうして、私なんかの為に。
「ぎんさ、なんで」
「友人帳、俺が動くのはそんだけだ」
珍しく銀さんは息が上がっていた。簡潔で抑揚のない言葉はそれを隠す為でもあるのだろうか。けれど、それも今は何だって良かった。彼が来てくれた、その一事だけで。銀さんの木刀よって殴られた木霊は吹っ飛ばされても何事もなかったように再び起き上がり迫って来た。相変わらず不気味な顔だが今不思議と恐れはない。ゆっくりと友人帳を開き、目を閉じる。
「"ススギ" "海老名"」
手を合わせ唱えた刹那、空を舞う墨色の文字。それぞれの額に吸い込まれていった名前達は、友人帳からぷつりと消えた。あり得ない疲労で今すぐ爆睡しそうになったけれど、もう少しこの場に留まっていたくて、この心地よいけだるさが何よりも大事なもののように感じて、銀さんに抱えられ私達は家路に着いた。あのススギという木霊似の妖は、木陰を伝って村へ下りては残飯をもらう代わりにその家の皿洗いをする妖らしい。しかし今この時代では妖を視る人も少なくなり、文明の発達で昼も夜も木陰は町へと届かなくなった。だから人間を見ると衝動的に役目を真っ当しようと本能が動いてしまうらしい。
「同情は要らねぇぞ」
山にはまだ食べ物も仲間も残っているし、人間と関わりを持たなくなって向こうも清々しているだろうよ、と、銀さんは教えてくれた。達者で暮らしているなら、それでいい。酷ぇ顔、と笑う銀さんに元からですと返せばそうだったなと笑われた。喰べられ掛けたのに、そんなことを思う自分が少し可笑しかった。
「海老名さーん、蜜柑持って来ましたよー」
体力的にも精神的にも限界だった私は二人に名前を返した後、また泥のように眠ったらしい。一週間の疲れを癒した二日後の今日、パチンコに行きたいと渋る銀さんを引っ張って、二日振りに海老名さんに会いに来ていた。
「おー、すまねぇなあ。ありがとよ嬢ちゃん」
いつものように祠の中から顔を出した海老名さんを見て、私は驚いた。二日前より更に縮んでいるのだ。こっそり計ってみると、彼は今私の人差し指くらいの丈しかない。心なしか、全体的に覇気もなくなっているような気さえする。
「え、海老名さんもしかして具合でもわるいんじゃ、!」
パチン、と、泡のような光が辺りに広がった。海老名さんの身体が淡く光を放ち、ふわりと揺れる。
「…そうか、とうとうあの子が逝っちまうのか」
「え?」
私は全く知らなかった。あのお婆さんが長い間患っていた事や、毎日この祠へ来るのもやっとだった事も。彼女は海老名さんを信仰していたたった最後の一人だという事も。彼女が逝けば、道理的に自分も消えるのだ、と海老名は眉を下げて笑った。何で、そんな。急過ぎる展開に追い付かず、叫んでいる自分に驚いてしまう。
「私信仰に来ますから!毎日は無理かも知れないけど、ちゃんと拝みに…!」
「だめだ嬢ちゃん。アンタは俺の友達だろ?」
友達だなんて…。海老名さんは私をそんなふうに見てくれていたのかと、言われて初めて気が付いた。けれど私は、当の私は海老名さんの事をどう見ていたんだろうか。それ以前に、私は彼が妖なのだという定義も忘れていた気がする。海老名さんだから、彼だから私は力になりたかったんだと。
「でも!」
「これでいいんだよ。これでやっとあの子といける」
言いながら海老名さんが私に手を伸ばした。最早ミリ単位のそれを握れば潰してしまうだろう。そっと触れると、掌を合わせる微かな感触がした。
「長い事長い事、ずっと見てるばかりだったがやっと人に、これで彼女に触やることが出来る」
その瞬間、海老名さんから湧いていた光が辺りを包み込んだ。蜃気楼のような景色に私は目を見張る。ポツン、と道端に祠があった。見覚えのあるそれは、海老名さんが住んでいる祠であった。まだ今よりも整地されていない、相当昔の森なのだろう。僅かな時間の間にも人足は途切れる事なく供物を置いて手を合わせに来ていった。人と同じ位の大きさの海老名さんは、それを笑って眺めている。その内に一人の女の子が祠に駆け寄って来た。頬を紅潮させ、額に玉のような汗を滲ませて、彼女は持っていた一輪のコスモスを供物の脇に置いて誇らしげに笑っていた。その小さな頭を海老名さんが優しく撫でる。彼女が帰った後、彼はコスモスを供物の一番上に置いた。きっと彼女があのお婆さんだろう。場面が移り、季節が変わっても、私が見る中で彼女の足が途絶える事は一度もなかった。段々と信仰が薄れても、彼女は毎日海老名さんの下に会いに来ていた。唐突に広がった結婚式の風景。白無垢を着た女の人は若い頃のお婆さん。隣を歩く優しそうな男性と彼女を、海老名さんは木の上から笑いながら見詰めていた。相変わらず、微笑みを浮かべた彼は彼女が木の下を通る瞬間、綺麗なコスモスの花弁を降らせ喜んだ。
『海老名、いつまでも供物は続かないよ』
花弁が集まり人型になる。現れたのは、先生だ。
『人は現金で薄情。力がある今の内にもっといい住処を捜しなさい』
彼は祠の前に腰を降ろし、海老名さんに説いていた。信仰が大分薄れてきたせいか、海老名さんはもう先の半分程しかない。
『ああ、分かっているさ吉田。けど一度、人に愛されちまえばなあお前』
海老名さんは伏し目がちに己の身体を見て言った。そして何かを決意したかのように短く息を吐いて儚く笑う。
『人を愛しちまえば、忘れる事なんて出来やしねぇのさ』
そうだろう?嬢ちゃん。
「ちゃんと、聞こえてたよ。あの人には、海老名さんの声が」
確かに、彼女には伝わっていたのだ。彼女の瞳に海老名さんは映っていた。たった一度、それだけだけど、確かに海老名さんが視えていた。もし言葉を交わしていたなら、他に何かが変わったかもしれないけれど。
「ありがとなァ、嬢ちゃん。今も昔も、人は可愛らしいもんだよ全く──…」
パチン、と、風と光が同時に起こり思わず目を閉じた。その刹那、何かが頬を掠め目を開ける。コスモス。その花弁が風に紛れて踊り舞う。
『今日は、暖ったけぇなぁ』
『…ふふ、そうですね』
静かに呟かれた声が、耳朶に届いた。次に目を開けた時、海老名さんの姿は見えなくなっていた。祠の前には私の持って来た蜜柑がある。海老名さんは純粋だった。彼女と出会い言葉を交わし、想いを伝えていたら。現では出来なかったその事を、向こうではちゃんと果たしていて欲しい。きっと少し恥ずかしがり屋で内気な彼の事だ。頬を赤らめその言葉を言うのに暫く時間が掛かるだろう。けれど、そうして二人で過ごして欲しいと切に願った。だって海老名さんは私に教えてくれたのだ。言葉は飲み込むものじゃなく、伝えるものなのだと。最期のあの一言は、海老名さんが一番よく当て嵌まると、独りそう思った。その晩、歌舞伎町一帯に雨が降り、明け方まで降り続いた。森にも山にも町にも人にも、辺り一面に降ったのだ。果たして、海老名さんは彼女に逢えたのだろうか。誰もいなくなった祠を前に思うと少し寂しいけれど、その日の雨は温かく感じた。そして私はというと、銀さんに改めて謝る事が出来なかったのである。帰り道、一度頭を下げたら彼は心底嫌そうな顔をされゲロを吐かれた。甚だ心外な奴である。仕舞にはパフェ奢れとレストラン街を財布片手に練り歩かされたのだ。内心、そんな銀さんに安心してしまった事は私だけの秘密なのだが。
「そう言えば、銀さんって甘い物好きなんですか?」
「あ?…まあ、ってオイ嬢ちゃん、お前何笑ってんだ!」
「っふふ、だって銀さん耳真っ赤…!」
「オメー明日には隠してある菓子全部ないと思えよォォ!」
「え?ちょ、待てこの天パァ!!アンタが何で知ってんだコラァァ!!」
それからはまた慌ただしい日々だった。妖の事はあまり良く思えないけれど、愛しいものと分かり合いたいと思う気持ちはきっと人も妖も、同じなのかもしれない。
(って言うか何でまた人の布団に入って来るんですか銀さん!!)(ちょ、嬢ちゃん邪魔)(お願いだから猫のまんまでいて下さい…!)