第二章
夢小説設定
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「うわー!おいしそうですねぇ!」
「知り合いから貰ったんだよ。どこから流れたかは知らないけど、アンタが倒れたって話を聞いたらしくてね、精を付けさせろって」
いっぱいあるから沢山食べな、と、お登勢さんはぷかりと煙草を吹かして揉み消した。今日の夕飯は彼女手製の鰤をメインにした日本料理である。出来立てのそれからは半透明の湯気が立ち昇っていて、香ばしい匂いが鼻をつく。この家に居候できて良かった事の一つは、彼女の手料理が思う存分食べられる事だ。味の保証は勿論、店をやっているというのもあって一流だ。話ながら二人、カウンターに並んでお箸を持ったところ、ふと銀さんの顔が頭に浮かんでちらついた。彼は食事をしない。基本的に妖は人間が食べるようなものは食べないらしいのだが、私が食べているおやつや隠して置いたお菓子をかっぱらう事があった。現に、今も景品のお菓子両手に嬉しそうだったし、二階の冷蔵庫に彼専用のいちご牛乳スペースが用意されている。甘い物、好きなのかな。
「…ぐあー!いかんいかん!」
「?」
気にしない事にしたんだ!銀さんなんかそこらのネズミでも食べてお腹を壊してしまうがいいわ!雑念を振り払い、大丈夫かと笑うお登勢さんに笑っていただきますと箸をつけようとしたところ、私ははたとまた気が付いた。メインの鰤に極小型の歯形がある事を。関係ないが私はメインを最後に残す方である。つまり、私はまだ、食べていない。
「いやあ、中々美味い鰤使ってんなァこの塩焼き」
ピシリ、と体が凍り付いた。隣のお登勢さんが気づいていないところを見ると、コレは妖に違いない。いや、仮にお登勢さんが視えたとしても、コレは妖以外に違いなかっただろう。ギギギという効果音が付きそうな私が、密かにお盆に置かれた湯呑みを回すと、そこには眼鏡を付けた妖がいた。
「オイ吉田、いい加減昔の名前を返せ。俺のやつ」
ひょこっと現れた相手に、私は思わず咥内の食べ物を噴き出しそうになる。一日に二回も三回も、今日は厄日かチクショーめ!
「いやー!食事中に悪かった悪かった!俺ァ海老名っつーもんだ」
ちょん、と掌サイズの自前のクッションに膝折って、海老名さんは会釈した。あの後、申し訳程度に食事を流し込んで、店の開店準備を始めたお登勢さんに食器だけでもと断って片付けをさせてもらい、海老名さんを右手に二階の部屋へと駆け上がった。そしてリビングのソファで、テーブルの上に海老名さん、向かい合う形で私が座る。この海老名というお方、どっからどう見ても河童である。先程正しくお辞儀をして頂いたのだが、河童過ぎて…いや、衝撃的過ぎてお礼が返せなかった。ホントにいたんだ、河童。緑色をした体に黄色い色をしたアヒル口が何とも想像通りでリアルである。しかし、妖は幾通りか見てきたが、このパターンは初めてであった。先程襲われた妖怪のせいで特にそう感じるのだが、河童って一体何だろうか?…え?河童?アレコレホントに河童だろうか?
「言っとくがそいつァ河童じゃねぇぞ」
「は?」
「ん?その声はあん時の兄ちゃんか!久し振りだなァ!」
突然降ってきた声に顔を上げれば、反対側のソファに丸まった猫の銀さんの姿があった。この人は毎回毎回一体どっから湧いて出て来るんだろう。驚いた事に、銀さんと海老名さんは知り合いらしかった。今は猫の姿なのでわからなかった様だが、猫銀さんの声と癖っ毛で判断したらしい。誰が天然パーマだコラァ!と叩かれている海老名さんを見ながら、猫と河童がどこでどう出会ったのかはてなを浮かべて首を捻った。って言うか海老名さんが河童じゃないってどゆ事?確かに妖だろうけど、見た目は河童に変わりない。まあ取り敢えず、と情を移す前に名を返してしまおうと念じながら、友人帳を開く。相変わらず不思議な仕組みである。パラパラとページが数枚めくれ、一枚の紙が直立し止まり出た。破こうと手を添えた時、随分しっかりした感触に違和感を覚える。よく見てみれば二枚が貼り合っているではないか。
「何で二枚?」
「くっ付いてるだけだろ」
「こりゃお前…米粒だな」
銀さん曰く、先生にはだらしない面があった様で、どうせ飯でも食いながらいじってたんだろうと欠伸を掻いた。確かに、昔はよくご飯の時もぼろぼろと落とす事は多々あったが。しかし年月と共に凝り固まった米粒というのはなかなか取れない。無理をすれば破けてしまう。仕方なしに爪で剥がそうと力を入れた時、海老名さんが高い悲鳴を上げた。
「い゙だだだだだだ!…あれ?痛くないかも。いややっぱり痛い痛い痛い!頼むから嬢ちゃん!無理に剥がさんでくれ!割れてる割れてる!俺のアイデンティティーが現在進行形で割れてるってコレ!」
「だ、大丈夫ですか!?」
そうだった。逆猫背でよがる海老名さんを見て思い出す。友人帳に名を預けた者は魂を拘束される。即ち名前は命、紙を破られれば身が裂け燃やされれば灰になる。だから皆名前を返してもらいたがっているのだ。つまり海老名さんの名前はこの米粒が無くならない限り返却は不可という事だ。丸い瓶底眼鏡にヒビを入れて、海老名さんはいきり立っていた。
「いいか嬢ちゃん。オッサンだってなァ、最初のあの時に謝れば怒んなかったよそんなに。悪いことしたら謝るのが筋だろ。ん?違うか?」
「…はい」
「よーしよく分かってくれたな嬢ちゃん。最近の若い者はひねくれていかんが素直な気持ちを忘れちゃいかんぞ。ご褒美にビスケットをあげよう」
「(うわあドロドロだあ…)…あ、ありがとうございます…」
「しっかし他に方法があるっつったら、二つ同時に返すしかねぇだろ、もう」
掌サイズの河童の前に正座して、説教の次に原形を無くしたビスケットを頂いて固まる私の横で、銀さんがもの凄く面倒な事を呟いた。けれどこれでは海老名さんが気の毒だ。見た目は河童でも礼儀正しくて優しくて、河童だがちゃんと話が分かる河童だ。そこらの妖よりよっぽど弁えた河童だと思う。…他の河童は知らないが。名前を返したい気はあるのだと伝えると、彼はじゃあまた気長に待つさとけろっとして帰って行った。松陽先生の話をして私と区別してくれたのも、友人帳を手にしてから彼が初めての妖かも知れない。しかし海老名さんが帰った後で、初めて彼が重大な役目を担っていた事に気付いた。彼が担っていた役、それはつまり橋渡しである。現在リビングには銀さんと私の二人がいる。改めて見直してみると、彼は人型になり着流しからパジャマに着替えていた。もう外出する気はないらしい。ここは夜を知らない歌舞伎町。百年振りの外なのだ、一晩中夜の町で遊んでいればいいのに。結局、その晩は明日の事の二言三言を交わしただけで、猫と私と、一つ床の中に入って寝た。いつもは特に意識もしないのに何故だか今夜は顔を合わせたくなくて、頭を反対に向けて目を閉じた。気まずい夜が更けるのは、いつにも以上に増して遅かった。
「七つ森、七つ森…っと」
一夜明けた今日、私は学校帰りに海老名さんが住む七つ森という所にお邪魔していた。鬱蒼と茂った木々が陰を落とす。まだ日は暮れきっていないのに、既に森は夜のようだ。因みに銀さんには内緒の話である。今回、否これから私は一人でやると決めたのだ。彼に頼ってばかりもいられないし、かといって嫌々助けてもらいたくもない。少々不安だが、恐らく大丈夫だろう。よし、と頬を叩いて気合いを入れる。そしてまず一歩と歩き出そうとした時、何かが足下を転がった。
「蜜柑?」
何で蜜柑?と首を独り捻り屈んで拾うとした時、背後で小さく声がする。振り返ると上品で小綺麗なお婆さんが日傘の下で会釈していた。
「あらあら、ご親切にどうも」
「あっ、えと…大丈夫ですか?」
「ええ。傷んでなければもらって下さいな」
一人では食べきれなくて、と、お婆さんは細やかに笑った。優しい表情をする人である。厚意に甘えて一つだけもらう事にして、お礼を言うとお婆さんは眩しそうに空を仰いだ。
「今日は良いお天気ですね」
「…はい、そうですね」
こんな時、口下手な自分が嫌になる。もう少し気の利いた受け答えが出来やしないのか。せっかく蜜柑を頂いたのだから、世間話の一つや二つ咲かせればいいものを。それじゃあ、またと腰を折るお婆さんに会釈を返す。お婆さんの小さな後ろ姿を見送り、ふと思った。あの人は今、森から出て来たのではないだろうか。しかし何故あんな上品なお婆さんがこんな薄暗い森に一人で?おずおずと、入ってみれば外観は確かに危なそうだったが、意外にも森の中は明るかった。木々の間から光が射し込み足元を照らす。お陰で直ぐに、目的の人物を見付ける事が出来た。海老名さんは森に足を踏み入れて直ぐの、小さな祠の中にいた。近くには奇麗な池がある。お邪魔しに来ました、と言うと、彼は笑って出迎えてくれた。ここで私は銀さんの言ってたてた意味を知る。祠に住めるなんて、海老名さんはきっと神様だ。そんな彼を河童扱いしてバカにして、昨夜私は何て無礼を働いてしまったのか。慌ててすみません、と謝る私に海老名さんはまた笑って言った。
「俺ァ元は祠に勝手に住みついた宿無しの物怪だったからなあ。何言われても構やしねーよ」
彼曰く、やはり銀さんが言っていた河童じゃないとはこう言う事だったらしい。元来妖力が一際弱かった海老名さんは、ある日他の妖怪に虐げられ逃げさ迷う最中で、七つ森でこの祠を見つけたそうだ。その頃歌舞伎町一帯では干魃で雨が降っておらず、丁度村人が海老名さんの休む祠に祈りに来ていたらしい。元々この場所には河童の噂が流れており、村人達は神頼みならぬ妖頼みだったそうだ。そして翌日、偶然にも雨が降りそれ以来村人達は祠を"露神"として崇め始めたそうだ。溢れんばかりの供物と信仰心で、海老名さんは力を得て立派な河童の妖へと変化した。本当は先生や銀さんと出会った時は私くらいの大きさだったらしいが、今の彼は掌サイズの大きさである。祠への人足が途絶えたせいで、力の源も枯れてしまったそうだ。信仰で膨らんだ身体は信仰が薄れるに連れて、縮んで行った身体がその証だという。
「…蜜柑、どうですか?」
勝手な理由で奉られて、勝手な事情で信仰が途切らされる。気の毒な話なのに海老名さんは顔色ひとつ変えず、笑って言った。だから私の胸が軋んで、誤魔化しも含めて蜜柑を差し出すと彼はまた笑って後ろを指差した。
「蜜柑ならもうあんよ」
蜜柑と、白い小さな一輪の花。あのお婆さんなのだろうか。先程あった事を説明すると、海老名さんはカッカと頷いた。
「毎日毎日、よくもまあ飽きずにここへ拝みに来るもんだ、あの婆さんはよ」
名前知らずのその人を、話す海老名さんは平生より少し興奮して見えた。それが何だか微笑ましくて、笑いながらからかうと、彼は頬を赤らめオッサンをからかうもんじゃないとそっぽを向いた。
「あっ、そう言えば嬢ちゃん、今日はあの兄ちゃんが一緒じゃねぇのか?」
ガツン、と頭が祠の側の木にぶつかった。額を押さえ悶える私に海老名さんは首を斜めに傾ける。それは今一番触れてほしくない私の地雷だ。いつでもどこでも一緒ではない事を主張すると、海老名さんは含みを持った笑いを返してこう言った。
「あの兄ちゃんが誰かの所に留まるのは珍しいんだよ」
初め見た時ァ、流石の俺もびっくりしたものなあと。曰く、海老名さんが彼を見掛ける時はいつも独りぷらぷらとしていたそうだ。しかし私からすれば、今だって十分ぷらぷらしているプー太郎である。どうせもう区切りを付ける。私達は知り合う前の関係に戻るのだ。