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桜が散る時、春が訪れる

この日、冬だというのが嘘のような暖かさによって雪は溶け、春のような麗らかな空気が街を包んでいた。
渡り鳥が優しく抱きしめる胸の中で、サクラは小さく寝息を立てていた。

「雪もすっかり溶けたね」
「やっぱり咲いてないかー」
「昨日のあれはなんだったんだろ?」
「でも、綺麗だったよね!」

陽が天辺に近づいてきた時、桜の周りが賑やかになってきた。
人々が昨夜の光景を見て、丘の上にある桜を見に来ていた。
桜並木よりも、こちらの桜に何かあったのではないのかと思ったらしく、続々と集まり始めていた。

「サクラ、サクラ」
「……あら、これは」
「君を見に来たんだ」
「まぁ……。本当に?」

サクラは立ち上がると、人々を見渡す。
不思議そうに見つめている人々が一同に口を揃えて言うことがある。
「もう一度、咲いたところが見たかった」と。
もう、咲くことは出来ない。
どれほど春を待っても、花を咲かせることは無理だと判断されたため、明日伐採される。

「……もう一度。そうね、もう一度、私も咲きたいわ」
「サクラ……」
「……もう一度。もう、一度」

両手を広げ、天を仰ぐ。
大地の奥底から、桜の木に栄養が行き渡る。
そして

「ねぇ、ママ」
「ん?」
「あれ」
「まぁ!」

指さす方に、小さく一輪の桜が咲いていた。
その一輪が合図かのように、次々と花が開いていく。

「まさか……」
「嘘、でしょ……」
「すごい!」
「綺麗……」

満開の桜が花開く。

「良かった、咲くことが、出来た」

満開の桜のように、サクラの笑顔が咲く。
最盛期の桜なように咲く花は、暖かく柔らかな表情を魅せていた。
優しい風が吹くと、花びらが少し散るがその様子すら、踊っているように見え、それすら美しい。
子どもや動物たちが、花びらを追いかけるようにはしゃぎ、少しでも目に焼き付けようと桜を眺める者もいる。
そして、千春はスケッチブックを開き、下描き程度に絵を描いていく。
木の下にいるサクラや渡り鳥、雪虫を遠くから眺め、その者たちもどうにか描こうと、筆を走らせていた。

「初めて、見た……」
「雪虫に見せられて良かったわ」
「こんなにも、こんなにも、貴女は美しく可憐だったのね……」

その美しさに涙を流さずにはいられなかった。
こんなにも美しく、儚い花がこの世にあったなんて。
雪の降る中、咲く桜を何度か見てきた雪虫だが、この桜だけは特別だった。
最初で最後の桜が、こんなにも美しいものになってしまい、雪虫は涙を止めることが出来なかった。
もっとしっかりと目に焼き付けたいのに、涙は溢れてくるばかりで、滲んだ世界に桜が舞っている。
そんな雪虫のことを優しく抱きしめるサクラ。

「ありがとう、私のために泣いてくれて」

嬉しかった。
サクラは自分のために泣いてくれる雪虫のことが愛おしくて、自分のために涙を流してくれる人間たちが恋しくて。
こんなにも、愛されているのだと、実感出来るのだから。

「このまま、永遠に咲き続けることが出来たら、どんなに嬉しいことか」

それが無理だと分かっているけれど、そう願わずにはいられなかった。
この一瞬が止まってしまえば、この一瞬が永遠に続けば、と。
サクラだけでなく、渡り鳥や雪虫も、そして桜を見つめる人々も、そう思っていた。
けれど、その願いを叶えるためには、遅すぎた。
桜は散り始めた。

「私はこんなにも愛されていた。今、一番の幸福を味わっているのね!」

その笑みは、満開に咲き、渡り鳥もうれしそうに頷いた。
ゆっくりと人間たちの方へ歩き出すと、桜の木の下で、両手を広げて人間へ語りかけた。

「私は幸せだった。こんなにも愛されて、こんなにも美しいところに居られて」

聞こえるはずもないのに、桜は語り続ける。
涙を一切流さずに。

「……ママ。さくらのおねえちゃん、笑ってるよ」
「……そう。桜さんにありがとうと言わないとね」
「ありがとう、私をここに連れてきてくれて。ここへ来てくれてありがとう」
「ぼくも、ありがとう!」

大きく手を振る冬悟にサクラは無邪気な幼子のように笑った。
冬悟の大きな声に周りの大人は戸惑いを見せた。
もしかしたら視線の先に何かがいるなかもしれないと、今この不可思議な状況でならあり得ると、誰もが疑わずサクラに視線を移した。
そこには誰もいない。
けれど、きっと、そこに何かはいる。
だんだんと風が強くなっていき、花びらが舞い、桜を攫っていく。

「ありがとう……」

小さくも、今にも消えてしまいそうな灯火のような声が聞こえた。
ピタッと風が止んだ。

「愛してくれてありがとう。愛を教えてくれて、ありがとう」

その言葉が、聞こえてきた。
美しくも儚い、女性の声が。
そこにいるんだ、桜は。
涙を堪えていた人たちの目から、溢れ出していた。

「ありがとう!」
「思い出を、ありがと……」
「私、忘れないわ!」
「……どうか、安らかに」

再び風が吹き始めてると、枝に咲いていた花びらまでもが、舞い上がる。
サクラは渡り鳥の方に向き直し、微笑みかけた。

「逝って、しまうんだな」
「えぇ」
「僕からも、ありがとうを、言わせてくれ」
「それは私もよ」
「君との出会いを思い出していた。君にとっては一瞬の出来事だったかもしれないけれど」
「いいえ。とても長い長い時間だったわ。貴方を待っている時間が、とても寂しいと思う時だってあったのだから」
「……嬉しいことを言ってくれる」
「ふふふ。旅人さん、どうか、笑っていて」
「あぁ、分かった」
「ありがとう」

サクラの体がふわりと浮いていく。
名残惜しそうに、渡り鳥はサクラの手をギュッと握り、連れていかれないように引き寄せ、そして額と額をくっつける。

「……先に逝くわ」
「あぁ、ゆっくり休んでくれ」
「ありがとう、愛してくれて」
「こちらこそ、ありがとう」

サクラの体が、ゆっくりと花びらへと変わり、散っていく。
ゆっくり、ゆっくりと。
風に吹かれて、天高く。
渡り鳥と繋がっていた手も、花びらとなり、そして風に吹かれていく。
美しく儚い笑顔のまま。
いつもはサクラに見送られ旅立つのに、今日限りは渡り鳥の手から、サクラが離れ、空へと飛んでいった。
黄色いマフラーと、共に。
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