死印
みな帰ろ
「僕はもっと頼ってほしいよ」
「いきなりだな。そんなことを言われなくても頼ってるよ」
ほら、と言わんばかりに八敷は立て付けの悪かった引き戸を指差した。つい先程、四苦八苦した末諦めた男に代わり、大門が開けた扉だ。
固まった瓶の蓋はこじ開けれないが、歪んだ引き戸を動かすことはできた。上の方を軽く押したり右側を少し浮かせたり、埃が詰まっているなら、力任せの方が楽に開いてしまうけれど。ここで、「状態がどうであれ壊してしまえばいいじゃないか」などと言い切ってしまうのは野暮なのである。
「まあ、それはそうなのだが……ふむ、確かに僕もおかしなことを言ったね」
男は、頼ってほしいとは言ってはみたもののすぐに言葉を濁した。力を貸せる範囲は、器用さ、あるいは医者としての知識面であることは明々で、かといってフィジカル面に自信がある訳でもなかった。体力仕事も、頼まれれば一応試してはみるが、いつもお粗末な結果に終わってしまう。そして、それもまた仕方がないと、これまた明確に諦めがついているのだ。
ならば何を頼って欲しいのか。それは発言した自分でも、はっきりとは分かってはいない。
八敷は話を聞き流しつつ探索を進めていたが、何かを思い出した風に手を止めて返事をする。
「今は居てくれるだけで十分にありがたい。ここは少し……居心地が悪いからな」
ここと言うのは、この仄暗くジメジメとしている旧校舎の美術準備室の事ではなく、年がふたまわり程離れた生徒に囲まれる学園について言っているのであろうと、定期的に学園に来ている医師は察した。
生徒から呼ばれる〝先生〟というのは、患者から呼ばれるものとは違って未だに慣れない。
子供からしたらこんなものは幼少期より染み付いた敬称でしか無いが、直接的な利益も発生していないであろう相手を信用のおける大人として線引きしている感覚は、男にある種の申し訳なさを引き起こさせた。
「大門は月に一、二回来ると言っていたな」
一体どんな話題で話をするんだ? そう続けられ、興味ありげな視線を向けられたが、大門は特段として答えられる話もなかった。どちらかと言えば教員たちと会話をするほうが多く、いわゆる〝保健室の先生〟という枠は養護教諭の為のものである。医師免許を持っちゃいるがどんな所でも長く居る人間の方が懐かれるというもので、生徒たちからの呼ぶ声だってなんとなくぎこちない。そんな彼らと世間話をするという状況は限りなくゼロだ。
「話すことなんてないよ。学校医がいる時にサボタージュしに来る生徒というのも稀なものなんだ」
正直に言えば、彼も納得した様子で「そうか」とだけ言った。
「まあ、君といたら、生徒に話しかけられることも増えるかもしれないな」
「どうしてそう思う」
「この学園はオカルトな噂で持ちきりだ。そんな学園にやってきた風変わりな非常勤講師、不自然に聞き込みするものだから、君が一介の教師で無いことはみんな薄々気が付いている」
僕だって、最初はもっと珍しがられたものだよ。愛想が足りないせいか、その興味もあまり続かなかったがね。そんなことを続けながら、ちらりと彼の方を見遣った。
「手でも繋いで旧校舎から出て行ってみようか」
大門は冗談で言ってみたが、当の男はなにも分かっていない様子で、言われた通りに手を握った。繋いだ手を持って、胸元の高さまで上げる。あんぐりと口を開ける隣の男を余所に、これの何が良いのだと疑問そうに眺めている。思えば以前からすぐに手の出る男だった。この言い草は語弊を招きかねないが、まあ概ね合っているだろう。思い立ったらすぐ行動する癖は生身の人間相手にも適用されるのか。
このままでは「これで外に出ていけばいいのか?」などと言い出しかねない。そう思った大門は、諦めたみたいに細々と声をかけた。
「……大の大人は、大人同士で手を繋がないものなんだ」
「……確かに、そうか。そうだな」
怪異から逃げるためよく誰かの手を引いているせいか、殆ど癖になっているらしい。窮地に見舞われた場合には手だって腕だって、ジャケットだって首根っこだって、掴めそうな部分を掴んで引きずらなければならない。
先ほどまでは繋がれた手という状態だけを見ていたのに。意識し始めると急に、触れ合っているのが他人の手だという緊張感が走った。訳もなく握った手、医者の手、自分と似た節立った指、友人の手……
離すタイミングの分からなくなったそれ、なんとなく落ち着かなくてじんわりと手汗が出てくる。八敷がそう思って固まっていると、ぎゅぅと握られた。小指の関節がぐにゅりとつぶされる感覚にすこしの嫌悪感を覚えて、たまらず顔が歪む。
「わ、なんだ」
「こっちの台詞だけどね。気まずくなってきたからアクションを起こしただけだ」
そのままぱっと離された手のひらは、汗をかいていたせいか体温が下がって、なんとなく後ろ髪を引かれるふうな空しさが残る気がした。
「……何の話をしていたんだったか」
「ここは居心地が悪いから早く探索して出ようって話かな。腰が抜けるようなことがあったら、また手を繋いでくれよ」