死印
丸くする
「そうだ、爪を切ってもいいかな」
「あ、あぁ……?」
暫し、間が開く。
言葉の意味は分かるが、許可を取る意味が分からず言葉尻の下がった返答になってしまった。かた、と珈琲の杯を机に置く。無視されたソーサーはびくりともしない。埃でも気にするように、彫り込まれたレリーフの凹凸に指を滑らせた。
その間も大門は、何も考えてないように瞼の下りた黒目を此方に向けている。
「どうした。爪を切るんじゃないのか? あぁ、ゴミ箱ならここに」
「説明が足りなかった。君の爪を切りたくてね」
そう言われてやっと合点がいく。爪を確認するように指を丸めてみると、今更ながら、確かに伸びたそれが気になった。なるほど、だから許可を待っていたのか。
「頼む」
自分で切るとどうしても深爪気味になっている、らしい。らしいというのは勿論、そんなつもりはないからなのだが、現役アイドル曰く〝切りすぎ〟らしいのだ。どこかに引っ掛けて、ぱっくりいくよりはマシだと思うのだけれど、深爪は深爪で指に痛みが走るようだ。やりすぎが良くないというのは、何ともややこしくて困る。
しかし、愛のみならず大門まで。周りの人間がそんなに指先を見ているとは。調査の折、地図や見取り図を広げて見せることが多いから、自然と目に入るのだろうか。
そんなことを考えつつ、丁度いい機会なので手先が器用な彼にお手本を提示してもらおうと、二つ返事で手を差し出す。
すると何故か大門は唇をむっと真一文字にした後、不審そうに口を開いた。
「理由とかは聞かないのかい? 自分で言うのもなんだけど、もっと不審がってもいいと思うな」
「そんな危ない切り方をするのか。なにかの医療実験なら別に構わないが」
「それは構ってくれよ」
ぱち、ぱち。立ったまま手を差し出したのは他でもない自分なのだが、なかなか慣れない光景だとは思った。正面に立った、同じような身長をした男に手を持たれ爪を切ってもらう。おのれの指先を注視していても、柄のついたシャツが目に入る。
いつ買ったのかは分からないそれは、多分、いい物なのだろう。重みがあって、刃がつややかで、うん。なによりも重みがある。
器用に爪を繋げながら切っていくのを眺める。切ったそれは横の机に敷かれたティッシュの上に置かれていく。なるほど。自分でやると切った側からあらぬ方向に飛んでしまっていたので、そうすればよかったのかと感心する。
「時々、少し気になっていてね」
「深爪がか?」
「ああ、うん」
分かっていたんだね。と言われ、責められているわけではないのに、まるで言い訳でもするように口を開いた。
「自分じゃ分からん、その、ふかづめじゃないという状態が……」
「成程。聞いてくれたらよかったのに」
上目に彼を覗けば、いつになく真剣な顔つきをする重たい瞼に釘付けになる。変なことをしているわけではないが何となく照れ臭い。目が合ったら手を強張らせる自信があったので、視線に気付かれる前に目を伏せる。
右の小指からぱちんと音がした後、もう片方も見せてと言われたため今度は左手を差し出す。左の爪を切られながら、お手本なら片方だけで良かったな、とも思ったが何も言わないでおいた。
「おっと、すまない」
「なにがだ?」
「いや、ささくれに当たったから……ああ、これは真皮まで到達していないのか。早とちりだったよ。ついでに切っておこう」
やがて、彼の手が離れる。
「ふむ、これが」
丁度良い爪の状態か。と、つい声を出す。
確認するために色々な角度から観察していれば、もう一度俺とよく似た男の手が伸びてきて手首の辺りをふわりと掴まれた。切った後の確認だろうと思い、彼が見やすいように指の角度を意識する。
「ちょっと座ってくれるかな。それで、その上に手を」
なにかやり残したことがあるのかと思い、あぁ、と短く返事をする。言われた通り近くにあった椅子に座って、ティッシュを下に手を浮かせた。
「まだ何かやるのか?」
「ヤスリで爪の先を削るんだ。切り立ての爪は少しギザギザしていて、皮膚に当たったりするからね。ちょっと擽ったいかもしれないが」
時折指先の肉に当たる。その感覚が擽ったいと言ったら擽ったいような感じがした。「確かに変な感じだ」そう素直に感想を言うと大門は、ふふ、と緩やかに口角を上げた。
「息を吹きかけてもいいかな」
ふっ、て。と付け加える。それが何故か面白くて、真似するように唇を尖らせたくなる。そんなことをされても彼は困るだろうから、ただ「頼む」とだけ言った。無表情を装ったが、すこし笑ってしまったかもしれない。
「助かった。ありがとう」
「手本になったなら何より。また頼んでも構わないよ」
「……冗談か?」
「え? どれのことだ? 頼まれたら引き受けるというのは本心だが……」
「それは、意外だな。お前は、自分の事は自分でなんとかしろと思っているものだと」
「なんだそれ。己のことを大切にしろと叱ることはあるが、それだけだよ。自己完結を推奨しているわけではないのさ。それこそ、君の無鉄砲精神は信用できないからな」
「たかが爪一本で何を言っているんだ。飛躍しているぞ」
「されど爪一本だ。体を大事にしてくれよ、八敷君」
子供に注意をするみたいに言われて思わずたじろぐ。落ち窪んだ瞳にジッと見つめられれば責められている雰囲気が余計増す。素直に「分かった」と言えば、貫禄のある声色で「よろしい」と恰幅よさそうに返された。
その後すぐ、珈琲へいつものように砂糖を入れ、こてんぱんに怒られたのは言うまでもない。