死印



迷惑かけてよ



 どうにも彼は、自己犠牲の性質を強く持ってしまっている。人を頼ることだってするにはするが、掉尾を飾る最後に殉ずるのはいつだって彼自身だった。いやはや、全くもって責任感の強い男だ。自分の事を他人を不幸にする黒猫だとでも思っているのだろうか。
 そんなことを考えて大門は、やや皮肉を込めた視線を送った。それでも確かに、どんな窮地に陥ろうが、猫に九生有り〔Cat has nine lives.〕と言いたげに、いつの間にか太陽の下へ戻って来ているのだから不思議で堪らない。

「カレーを作った。大門もどうだ」
「君ね……。いや、ありがたくいただくけども、お小言は後からにしよう」
 はあ、と深いため息を吐く男に対して八敷はノー・リアクションだ。怒られるようなことをした気も、褒められるようなことをした気もさらさら無いらしい。
 家族でも恋人でも、仕事仲間でもないのだから連絡がないのは仕方がないと思うべきか。今回は広尾君、前回は真下君、その前は安岡先生。人づてにしか情報が入ってこないというのは、一時的と言えど一蓮托生となった身としては少し切ないかもしれない。
 そんなことを考えながら大門は、招かれた客として邸の主人に着いて行った。

 火を付ける音がして数分経てば、胃を刺激する良い香りがしてくる。この間に小言の一つでも言えたかもしれないと思ったが、説教をしてしまっては折角のご飯が美味しくなくなると言うものだ。それを狙っていたのなら策士だと思うが、彼に限ってそんなことをするとも思えない。

 ではただ、ご馳走してくれるために呼んだのだろうか。

 香りの良いそれをスプーンで掬う。子供の僕にとっての恐怖の大王は、確かにこのオレンジ色だったはずだ。
「美味しいね。もしかして粉から調達したりしてるのかい?」
「市販の物だ。そこまで料理にこだわりがある訳ではない」
 黙々と箸を進める。心地は良いと思うけれど、やはり少し落ち着かなかった。

「何か幽霊絡みの話でもあるのかな」
 ついつい、口を開いてしまう。医者なんかをやっているとどうも早食いになる。この空間を長引かせるために、お行儀悪く声を掛けた。
「怪異が絡んでいたら、こんな悠長に飯を食べていない……でも、話はしたかった。その、何を話す訳でもないが」
「そうかい。避けられていると思っていたから良かった」
 そんなことを声に出せば、すぐに慌てたような表情を返された。食べた物を早々にごくりと飲み込んで言葉を続ける、
「大門は忙しいだろう。俺や真下、それに萌……はどこからか情報を聞きつけて勝手に来ているが、そういう奴らならまだしも、本業のある相手には声を掛けづらくてだな」

「一度僕が入院してからかな。君の連絡が少なくなったのは」
 彼は分かり易い。普段は何かを考えている風な無表情であることが常だが、案外感情がすぐに顔に出る。今だって、慌てたような、気まずいような、そんな表情。分かりやすく図星を突かれた表情がずいぶん可愛らしく見えた。
 常に誰かのために働く一挙手一投足が自分のために差し出されていると思うと、どうにも弱くなる。
「君に遠慮されるほうがショックなんだ。命は惜しいがね」
 かつん、と皿に当たるスプーンの音がよく響く。あくまで自然に、怒ってなんかいない、でも少しだけ気にしている風体を装って声をかける。
「……でも、俺は怖い」
「それは僕だっておんなじだよ」
「違う。俺の恐怖は……あの場でお前を見捨てた事だ」

 はて、何の話をしているのだろうか。見捨てられた覚えはない。いくら寝込んでも忘れられない強烈な過去に思いを巡らせる。入院の件で彼は動揺を見せた。ならばそれに関係した事柄であろう。
「まさか、長嶋君を助けに行った時のことを気にしているのか?」
 シビトに唆され、今にも殺されるかもしれない青年を助けるために彼は、廊下で倒れた僕をそのままにひとりで走った事があった。ただでさえ悪い肺を一層冒されることになったが、息はあったのだ。それだったら、次に狙われている人間を助けに行くのが合理な筈である。
 問えば、こくりと頷く。その申し訳なさそうな顔に堪らなくなって、反論でもするみたいに口を開いた。
「何事にも優先順位というものがある。君が此方に駆け寄っていたら、僕も構わず走れと言ったはずだ」
「分かってる。けど、床に倒れたお前に背を向けたんだ。たった一度でも、俺はそんなことが出来る人間だった」
 馬鹿な。この男は一体何を気掛かりにしている?
「今回は助かった。運が、よかったんだ。次はどうなるか分からない。それなのに俺は、いつだって、何故俺達が生き残れているのかよく分からないまま、事件に首を突っ込んで……」
 ぐ、とテーブルの上で握り拳を作る手は、怒るように震えている。何に? 他ならぬ自分自身に、だ。君は悪くない。なんて、曖昧な慰めをするより先に、呆気に取られてものが言えなくなった。
 これだけ他人のために命をかけている人間が、これ以上なにを削る必要があるというのだ。
「お前達を、巻き込むんだ……」

 八敷君。名を呼ぶとそれを否定するみたいに首を振る。
「いい、なぐさめなんてするな」
 話した俺が悪かった。気にしないでくれ。等と、話す彼の酷く諦めた顔付きに此方まで苦い顔をしてしまう。
「嫌だよ。気にさせて欲しい」
 こっちを見る。目が合う、さらに顔が歪む。なにもかも逆効果だ。おおかた、こんなこと﹅﹅﹅﹅﹅を話して心配をされているという状況に申し訳なくなっているのであろう。
 また目が離れる。ぽつぽつと言葉は続く。
「終わった後ならいくらでも言える。できる限り助けたいのは本心だ。そうなると、どうしても誰かを頼らなければいけなくなる。あの学園でも、」
 自分以外を犠牲にすることはそりゃあ怖いだろう。けれど、君だけが責任を負う事を、良しとする者がいるなら見てみたいぐらいだ。

「可能な限り……」
 彼は何かを思い出したように顔を歪め、持っていたスプーンを置いた。伏せられた目。自分を落ち着かせるように、テーブルに置かれた手を閉じたり開いたりする。

「…………駄目だ、きもちわるい、」

 そうするのは逆効果だと言う前に、彼は今にも吐きそうに口を押さえた。
 トイレに吐くのが処理は楽だが、精神衛生上良くはない。洗面所や台所もまたそうだ。
 席を立つ。周りにあるものを探した。近くにあったゴミ箱を引っ張ってきてみれば、よろよろと膝をついて下を向く。
 両手をゴミ箱の縁に置いてえづく男の隣に屈んで、震える肩を抑える。慣れていないらしい彼の、慎ましやかに開けた口は頼りない。いたずらに食道を傷付けさせるのは不本意だが、男の抱える何かを緩和できるのなら、そうした方がいいのだとも思えた。

「失礼するよ」
 くちは唾液が垂れているから、もうひとこえ。悪いものを食べたわけでもない限り、口腔内に手を突っ込んでしまうのは性急すぎる。左手を男の腹に潜り込ませて、シャツの上から指を這わせた。親指の付け根をみぞおちに軽く押し当てて、下から上に優しく動かす。そうやって、せり上がる感覚を起こさせ吐き気を誘った。
 抵抗もせず、目をぎゅっと瞑って、その感覚をつよく享受しようとする彼の健気さに手の動きが鈍る。
 そうしてやっと腹が痙攣して、あまり食べていないであろう胃内容物が吐き出された。胸骨の上に手を移動させる。荒い呼吸を戻すため、赤子を寝かせるように一定間隔で軽くたたく。
「……だいもん、」
 落ち着いたらしい彼が、細い声で名前を呼んだ。もう大丈夫と言う事だろうか。

「いま、水を」
 そう言うと、置いていた指先に手を重ねられる。予想していない行動に戸惑った。
「……もう少し、待ってくれ」
 ああ、と口を開くことも叶わず、ただただ体温を感じることしかできなかった。


 落ち着いたらしい彼の手が離れる。もう一度声を掛けてから、テーブルに置いていた水の入ったグラスを手に取って彼に渡した。

「すまない……」
 床にしゃがんだまま呟かれる短い謝罪。

 あからさまに弱った様子。深い眉間の皺、伏せるように逸らした目が、己への失望をまざまざと映す。男は普段、気丈に振る舞っているわけでも、弱みを見せないわけでも無い。けれど、本心のいまいち分からない顔で悩み、いつのまにか多くの負担を担いでいる。
 誰かを見捨てた事に、見捨てた相手が自分を許す事に、仲間を脅威に晒す事に、悩みを誰かに受け止められる事に、食事の席で嘔吐した事に。いっぱいいっぱいだ。
 彼は対人関係をあまり得意としてないらしかった。己の内側を多く見られたこと自体、強いストレスになり得るだろう。
 それでも僕と、半ばトラウマになりかけている男と顔を合わせていなかった事を気にしてここへ招いてくれたのだ。
 呼ばなきゃよかった、なんて絶対思わせてなるものか。

「心配だけでも、させて欲しい。いいか? これは決してシルシの件の御礼じゃない。あれは、ノミを持って行ったことであいこにしたと思っている」
 無論それだけでチャラにできたとは思ってはいないが、半分くらいは本当だ。そういっても彼は引き下がらない様子で、「……じゃあ、シビトの件は?」と続ける。

「あれを解決したのは君だ。僕を救ったのも君だよ」
「原因を作ったのも俺だ」
「そもそも君を近衛さんに紹介したのは僕だ。君が来なかったら僕も学園ごと御釈迦だった」
 こんなのはもう水掛け論。もしかしたら縁を切りたいのではないか等とも思えるほどの意固地。でもそれだったら、きっとここに僕はいないはずだ。否、それとも今後関わらないと宣言するために呼んだのか?
 それは嫌だと思った。〝出逢わなければ〟に収束する前に、なんとか手を打ちたい。

「でも、もう迷惑は掛けたくないよ。大門」

 諦めた顔をしないでくれ。頼りないかもしれないが役には立ちたいのだと、言ってしまいたい。安くて重い男の意地だ。
「ああそうか。でもこっちは迷惑をかけられたいんだ」
「……マゾなのか、おまえ」
「っはは、もうそれでいいさ」
 未だゴミ箱を押さえるように掛けられている右手を取る。
「可能な限りは生き延びたいが、このボロボロの肉体、よかったら好きに使ってほしい。それが気掛かりなら……まあ、連絡ぐらいは欲しいかな」
「なんか、騎士みたいだな、ふ、似合わん……」
 くく、っと耐えきれず笑う姿に心から安堵する。子供を言い聞かせるみたいに手を握ったつもりだったが、そんな面白い風に見えていたとは。
 安堵と同時になんだか気恥ずかしくなる。
「なんだか心外だな。似合っても困るが」
「すまない、ありがとう大門。連絡はするように心がけるよ」
「体を頼る気はさらさら無さそうじゃないか」
 

 申し訳なそうな顔をする彼を放って、吐瀉物を片付ける。ここぞというばかりに医療従事者を掲げれば、八敷はおとなしく眺める事に徹したようだった。

 椅子に座り直して、スプーンを握り直す。
「俺はいい」
「香りも駄目そうかな」
「それは平気だが……」
「じゃあ、僕だけでも頂いていいかい」
 そう言うと彼は気まずそうな顔をして「食欲、あるのか?」と問いた。さっきの様に杞憂にしているのだと思うと、胸が締め付けられる気がした。
「こんなことを言うのが合っているのかは分からないが、僕は医者だからね。内臓を見た後でも、解剖学を読みながらでも飲み食いはできるよ」
「……そうか、そうだな」
 納得する彼の表情は幾分か柔らかい。

 少し冷めてしまったライスを頬張る。気にしいな男を負けさせるにはどれが効果的なのか、いまいち分からないな。情熱的に抱きしめた方が良かったのだろうか等と考えながら、思考を水と共に喉へ流した。

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