死印



じゃくはい



 車の音で目が覚める。
 覚めるとは表現したが、今まさにベッドから上半身を起こしたという訳ではなく、抽出される珈琲を眺めつつ、遠くに向かっていた意識を戻されたことに他ならない。キャブ車のエンジン音が止まる。ドアの開閉音、足音は大きくない。重い扉がギィと開かれる。
 この気兼ねのなさは元印人の誰かに違いない。文字通り死ぬ気で共に戦った彼らとは強い繋がりが出来ていて、勿論気を遣ってくれる者もいるが、その殆どがここに来るとまるで自分の家のように自由に過ごしている。
 しばらくぼうっと待っていると、開けっぱなしの扉から白衣を着た男が顔を出した。
「行けば会えるというのはありがたい。君の籠城気質に感謝だね」
 手を挙げて挨拶をされる。手のひらは余計白い。分かっていたことだが、この血の通っていないような肌は夏でも健在なのだと改めて感じる。
 訪問されるのは全く良いのだけれど、まるで遊園地か何かのマスコットのように言われるのは癪だ。
「しかし外には出た方がいい。栄太君より日に焼けていないじゃないか」
「お前に言われてもあまり響かないな。それに栄太は意外と活動的だ。もっと違う人物と比べてくれ」
 彼は案外、仕事を始める前から、電気街やらアイドルの物販やらに足を運ぶエネルギッシュさがあった。同じ匂いのする場所や人物に限って言えば、俺に比べて遥かにハツラツとしている。パソコンを教えてくれる変わった格好をした青年は、おそらく現在の自分より交友関係が広いのだろう。
「それで、今日はどうしたんだ」
 問えば、大門はううんと考える様な声を出した後、「強いて言えば生存確認だね」と加えたので、生きてはいるぞと返しておいた。
 するとまた、んん、と半ば唸り声のような声で不満げに此方を眺める。手が伸びてきて、頰の下辺りに生えていたらしい伸びかけの髭に触れる。確認でもするみたいに触るもんだから、刺さるぞと一言だけ苦言を呈した。これが生存確認か、ボディチェックか、訪問診察か。目が合うのは落ち着かない気がしたので、されるがままに目を伏せる。
 昨晩は調べ物をしていてあまり寝れなかった。そのせいか目の前の男に対する反応が、なんとも微睡みを含んだものになってしまう。寝不足があまり平気ではなくなったというのは、棺桶に片足を突っ込んで仕事をする自分にとって好ましくない。そんな風に思いながらも、睡眠を恋しがって出てくるあくびを目を細めながら噛み殺した。
「そうだね。生きてはいるが、君も僕も睡眠不足のようだ」
 ぼうっとしていたのを見透かしたらしい大門が声をかける。指先が何かの腫れでも確認するふうに下顎骨を行き来する。距離が近い。眠たい。視線を上げればばっちりと目が合った。
 彼の目と鼻がまさに目と鼻の先だ。眠い、けど、何度か腕を絡めた相手だ。診察にしては、おかしな距離感であることぐらい理解できる。
 なんとなくだ。なんとなく、合った目を離す。
 何かを話したほうがいいのか、黙ったほうがいいのか分からないくちが落ち着かなくて、下唇の内側をやわやわと噛む。目の前の男に見られている全てが頼りない。頬に当てられた手が目的を持ったように首筋に入ってくる。態とらしい、産毛を触るような緩やかさが擽ったい。それで、そのまま。

 ちょうど腰をかけられる位置にある机に手をつく。息の仕方は教わった。そもそも彼だってあまり長く口付けはしない。肺が疲れると、情けないと笑って垂れ下がった眦には、なぜか、どきりとしたのを覚えている。
 今だって、恐る恐る目を開けば、俺のくちを玩弄しようとする目付きが見えて、力の籠る後頭部に当てられた手を感じて、うわ、駄目だ。こんな。茹だりそうだ。
 胸でも強く押してしまえばきっとすぐに離れる。それも咳二つ三つのおまけ付きで。
 この男の身体に悪戯に負担をかけることも、この触れ合いを止めることもどちらも、本望ではない、けれど。
「ここで、こういうのは、駄目だ。良くない」
「すまない。この年になると、ムードを作ることはこそばゆくてね」
「ちが、くて」

「少し、君のことを確かめるだけだから」
「すこしもなにも、あるか」
 その骨の浮いた体のどこに肉欲があるのか、八敷は不思議で堪らなかった。ファッションだと言うように開かれたシャツからは、あばらぼねがよく見える。この先を知っているせいで、蛇にでも睨まれた風に身体が硬直した。
 まだ、ここは事務所としている九条館の一角だ。二人とも、こんな日常の香りが残る場所でサカるほど元気な性質たちではない。けれどこの男は、病的な不健康さを一身に背負っている風貌の中に、どこか情熱的な部分があった。揶揄うような戯れを好む節がある。
「ちゃんと叱って欲しいな」
 大人になると叱られなくなるから。などと、やけに和らいだ声色で話しかけてくるものだから、あるのかも分からない正解を探る前に返答をする。何と返したってどうにかなるだろうという慢心が、おのれの口を直感的に開かせた。
「……こら、お前の皮膚が赤くなってる」
 半端に伸びた髭に擦れて、生ッちろい痩けた頬に赤みを作っていた。
 少女の赤らめた頬のようにと形容してみたいが、可愛くもない只のナマキズだ。目に付いたそれにほとんど無意識的に手を伸ばす。心配でもするように、もしくは助けを求めるように、またあるいは強請るように。否これは、あわよくば彼に触れたいだけの、ただの欲求にすぎない。
 そんなふうに彼の温度を感じていれば、ふふ、と笑う声が聞こえた。
「いいじゃないか。たまに、こうしてくっついておかないと、僕のことを忘れられてしまいそうだからね」
 俺を何だと思っているんだ。そう思いつつも黙ってしまう。男の指先の動きを横目で追いつつ、いつも自分は構われるのを待つばかりであったことを思い出していた。
 思い出したみたいに触れ合うのは心地が良かった。
 肌を押し当ててもいい他人がいるというのは、何とも危うい。
 自分の関わった誰かが生きているという安心感を手繰りつつ、微妙に異なる皮膚から皮膚、じわりと戻る体温で自分の生を実感する。重ねるのに許可のいらない手が、合わせることを許される唇が、自己の生存すら肯定する。
「それに、君がこっちの世界に生きていることも。即物的だけれど分かりやすくていいだろう?」
「お前は、お前が触りたいから触っている訳では無いのか」
 俺を生かすためにこうしているのか。と、驚くほど簡単に口から言葉が出た。もし、もし彼が医者として、患者の命を気にするみたいに俺を気にかけているのだとしたら、こうも根気よく関わってくれることに納得がいってしまったのだ。そして同時に、それを酷く淋しいと感じた。

 自分でも何を口走ったのか、咀嚼するまで間が空いてしまう。すまない、変なことを言った。そう謝罪をする前に彼が視界から消えて、同時にひどく強い痛みが体に走る。
「大門、苦しい……首が、」
「すまない! そうだ、僕だって言葉足らずだ!」
 離れることを許さないように強く抱き締められている。
 ほら、やっぱり情熱的だ。などと、客観視をしてみるがそんな余裕はすぐに崩れ落ちる。
「八敷君、僕は何と言えばいい。どう言えば君に、君が大切だと伝わる?」
 此方を見つめる、まっすぐな眼。二の腕の辺りを強く掴んだままの、同じような形をした手の熱さ。答え合わせを急かす焦燥に似た声色に、焦らされるのはこっちの方だ! あまりに真摯に語る姿を向けられているのが自分だと思うと、どうしようもなく照れ臭くなった。目は合う。というより、目を離せない。俺だけを直向きに映す黒目に囚われた気分になる。

「お、俺なんかにそんな焦った顔をするな……」
「焦るよ。あぁ、いけないね。年はとりたく無いものだ」
 隠せない動揺に答える男の優しげな声に耳を塞ぎたくなる。
「生憎僕は、愛してると言うのがとても下手なんだ。そうだ、質問の答えだね。こうやって君に触るのも、勿論体調も気になってのことだが、それ以前によこしまな気持ちがあるからに他ならないんだ。それで、つまるところ」
 まるで純愛だ。メロドラマだ。
 時々肌を合わせるだけでも十分だったはずなのに。くそ。恋愛ごとの当事者になるむず痒さに耐えられなくなりそうだ。けれど、その火種を燻らせたのは己以外の何者でもない。俺もお前も、もう幾つか若ければきっとこんな面倒臭くはならないのに。
 途中で言い淀んだ男の顔が下がって、つむじが見えた。呼吸を整えるために吸われる息に心臓が跳ねる。
「好きだと言っても、離れないでいてくれるのかな」

 祈るように垂れた頭と、先ほどとは対照的な、弱々しく肩口を捕らえる手。言葉は、俺が心のどこかで思っていたものによく似ていた。人肌に怖がっていたのは彼も同じだったらしい。
 情けないことに喉が突っかかって、離れないとも俺も同じだとも声に出すことが出来ない。語の長さというのは、なんとも不勝手だ。
 結局、振り絞るように出た言葉は「ずるい」の一言。
 ほとんど息遣いのようなそれを聞いた彼が抱いた肩から手を外すから。離れ難くて、半ばヤケクソに唇を合わせた。

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