雑多
ハイカロリー
しゃかしゃか、かさかさ。男七人が住宅カタログの表紙でも飾るようにポージングを決めても平気なリビングに、ハンバーガーの入った包み紙のたてる音がよく響く。
男は時折、バンズからはみ出たレタスを指で摘まんでは口に投げ入れる。その度に手についたソースを擦り付けられている紙ナプキンは、可哀想なくらい油まみれなのに、まだ使えるだろうとくしゃくしゃになってもなお机の上に置かれていた。舌でも噛んだのか、時折少しだけ顔を歪める様子を見せては、ポテトにケチャップを付ける手を止める。
「天彦さん! 貴方なんてものを食べているんですか!」
「なんてもの、なんて言い方はセクシーじゃないですね」
「そもそも、もうすぐ夕飯のはずです」
ご飯を美味しく食べられなくなりますよ、等と母親のように説教をする彼を横目に、男は黙々とハンバーガーを口に運ぶ。
B級グルメとはよく言ったものだ。もはや何の肉かも分からないほど味付けされた肉片と、それに付属される濃厚と呼んでいいのか分からない舌に熱く痺れるほどスパイスのきいたソース。長い間手提げの中で揺らされていて冷めているはずなのに、口内に広がると刺激の強さが所以に熱く感じる。粘りけの強いソースはよく口に残り、口蓋にまでこびりつくほどだ。男はそれを流すみたいに、カップに移し変えられてゆるく炭酸の抜けた炭酸飲料を飲み込む。細かい氷の揺れる音が心地好い。そんなことを思っている間も真面目な彼は、栄養がどうだ味覚がどうだと延々と話している。そろそろ、聞いているんですか!と、怒られるはず。
タイミングを見計らい、小言も一緒にゆっくり噛んで飲み込んでから、男はぽつりと言った。
「聞いておりませんか? 本日依央利さんはいらっしゃらないそうですよ。ですので夕飯は各自で済ますといった形に」
「え、」
聞いてなぁいという彼を笑うように蓋の開いたナゲットを差し出すが、要りませんと一掃されてしまった。つれない。二個目のバーガーに手を付けようとすればまた怒られてしまいそうなので、諦めてポテトを摘むことにした。彼の言いたいことも理解出来るけれど、このらしさ全開の濃い味付けが堪らなく恋しくなるのだと一人思考する。それらしいネオン管が光るbarのカウンターチェアのステップにミュールを置いて涼しげに笑う彼女だって、骨伝導イヤホンと仲良く直向きにトレッドミルを駆ける彼だってきっと、裏ではハンバーガーとコーラのジャンキーに違いない。
「まぁるくなっても知りませんからね」
「心配してくれるとは感激です。しかし、僕は日々のトレーニングを欠かしませんので」
のーぷろぐれむです、と口にポテトを含みながら答える。天彦さん、貴方って人は。呆れた表情を浮かべてみせる彼が次に言う台詞は何だろう。食べながら喋るなんて行儀が悪い、でしょうか。そんなことを考える彼の口元は油でつやつやになっていて、皮むけさえ溶け込むほどだけれど、そもそもリップクリームを欠かさない男の唇は元より艶やかである。それにしてもまあ、どんな時でも様になる男だ。いきなり脱いだり、ちっとも理解に及ばない台詞を吐いたりはするが、セクシーを自称するだけあってふとした瞬間の仕草ひとつにも目を惹くものがある。例えば今とか。
青年が黙っていると、いつのまにか近付いたらしいその色気のある面と向き合った。は? と思うのも束の間、唇には柔らかなものが押し当てられている。油の味しかしないそれは一瞬触れただけで離れていったものの、突然の出来事に驚きすぎて声も出なかったらしい。
一拍おいて怒鳴り声より先に鳴り響くのは、ホイッスルのけたたましさ。
PPPPPP!
「っだーーー! なんで!?そういう流れでしたか!?」
「流れなんてありません。いかなる時も、ムードは生まれるのです」
「意味がわかりません……っていうか油!油が凄い!っあー笛もほら!見て!ツヤツヤになってしまったではありませんか!」
「うるんうるんになった理解さんの笛も唇も……セクシーですよ」
「え、せくしー……ですか?」
どうすればセクシーになれるかと相談してきた彼である。満更でもなさそうな顔をして、己の思う正しさと焦がれをぐらぐらと行き来している。
「はい、天彦が言うんですから間違いありません」
極め付けという風に、にこりと目を細める天彦の嘘でも憐れみでもない愛情深い瞳とぶつかる。思わず息を飲んだのと同時、再び迫ってくる彼の顔。思わず唇の油を舐めとる。あまい。塩辛いソースのせいかもしれない。油臭い。舌先がピリピリするのはきっと刺激的なスパイスのせいなのに、以前にした、目の前の男との口付けを思い起こさせる。
「近いです」
「そういう雰囲気ではありませんでしたか?」
そう言って悪戯っ子のように笑う彼は普段通りの余裕たっぷりの色男だ。なんとなく悔しくなって、彼の胸倉を掴み、そのまま引き寄せる。ああ、こんな風に人様の服を掴むなんて、理解は不良になってしまいました……。めそめそと自分の行動に悄悄となりながら、今度はこちらから仕掛けてやった。驚いたように固まる彼に構わず舌先を突き出し、下唇に吸い付く。口の中に残るのは彼の食べたバーガーとナゲットのソースばかり。それでも唾液と混じってほんのり甘さを帯びた舌触りが癖になって止まらない。ああなんたる不健康な味。歯並びに沿ってゆっくり撫でれば、彼の腕が背中に回る。
男の舌を媚びた味にさせる人工甘味料をすっかり舐め取ってしまおうと品なく口内を弄る。ぜんぶ目の前の男に習ったことだ。ほら、上手になったでしょう。
「ん、……ふ、っ」
男の並びのいい歯列をなぞっていると、びくりと身体を固くさせる。色事の得意な男だ。能動的に働きかけることは尤も、受け身でいる愉しさも青年の数百倍は心得ているらしく、年下にリードを取られているというのにうっとりと目を細めている。さらに下唇と歯肉の間に入れると、舌の裏側にざらりと触れるものがあった。気になって執拗に弄れば背中を掴む彼の指先が、信号でも送るように辿々しく動く。
「……っ、! 」
「……ン、ぁ!ぃ、た!」
反応から見るに、おそらく口内炎。まったく、こんなもの《ジャンクフード》を食べているからこうなるのだ。小さめのそれをこじ開けるみたいに弄ると男の口からぼたぼたと唾液が溢れてくる。時折隙間を作って声を出させたら、粘りけのない唾液が流れるのを感じて頬が痒くなった。背中を掴む指の腹が更にもどかしく動く。それでも止めないでいると、とん、と弱く胸元に拳を入れられた。素直に身を引けば、天彦は肩で呼吸を整えている様子。はあはあと乱れた呼吸を懸命に飲み込もうとする姿は何だか、扇情的という表現が似合う。
「いひゃい、です。理解さん」
はあ、荒い吐息に合わせて上下する厚い胸に手を当てると、鼓動は驚くほど速く脈打っていた。どきり。自分の口付けで顔を歪ませる姿に胸の高鳴りを覚える。熱っぽい瞳足す吐息の溶け込む物静かなリビング。なるほど。青年は一人納得したように黒縁眼鏡を掛け直した。
「ムードがなんたるか、分かってきました」
天彦は満足げな青年を見つめる。単語だけで茹で上がっていた頃に比べればすっかり成長したものである。まあそれも全て天彦の教えによる成果であるのだが、そんなことは棚に上げて理解は天を仰いだ。ここで威張る事こそムードに縁遠いということは黙っておいた。
そんなことより、先程好きなように触られた口内炎が熱を持って堪らない。にこーっと、お手本のような笑みを浮かべる彼を余所に、びりびりと痙攣するそれに恐る恐る自分の舌を運ぶ。じんじんする。感覚がなくなるほど弄られていないせいで、融解する風な感覚。痛みの中に少しだけ気持ちよさを感じて、すこし惚けた顔つきになる。ここに、彼の舌が執拗に触れていたと思うと余計ぞくぞくする。もっと欲しい。けれどこれ以上痛くなるのは困る。
勝手に心地好くなっていると、青年は気まずそうな顔つきに変わった。ころころと表情が変わるのは見ていて飽きない。
「……変な顔をするのはおやめ下さい」
「こんな風にしたのは他でもない貴方ですよ」
挑発的に話す彼の目には涙が滲んでいる。確かにちょっとやり過ぎたかもしれない。理解は謝ろうと口を開きかけたが、男はそれを察したのか遮るように言った。
「でも、意地悪な理解さんも素敵です」
その言葉が耳を掠めた途端、再び、かあっと熱が昇った気がした。理解の瞳が揺れ動く。それを隠すように目を伏せて、小さく呟くのだ。ああ、いけない。また、調子に乗ってしまう。
やっぱり、恋とは不健全なのだ。中毒。不健康の塊。病み付きになってしまう。さながらハイカロリージャンクフード。一度味を占めてしまっては。脳味噌が溶けてしまって仕方がない。目の前の男のせいで、思考も、身体も、全てがおかしくなっていく。だって、以前までの自分だったら絶対にやらなかったことを、こんな、ほいほいと。理解は自分の中でぐるりと渦巻いて消えてくれない欲を誤魔化そうと男に背を向けた。
恋をするならば〝健全で健康〟でなくてはいけない。そう、まともに人と付き合ったこともない頭が警告を鳴らす。不健全なままの恋愛など、ろくなものじゃない。そんな風に思っている青年にとって、性に奔放な彼と関係を持つのは非常にリスキー。けれど、第一等の低音と美顔に囚われてみれば大変に好いのだから仕方がない。動物のマーキング行為のように自分の体臭が染み付いた場所を、自分の拠り所にするのと同じような環境依存症的行為。どちらがマーキングをしているのかも考えないままに皮膚を重ねてしまう。
その心地のよさを思い出して、ぐ、と唾を飲んだ。
「今、私との事を考えていましたね」
天彦、お見通しです。と、自信ありげに言われてしまえば否定はできなかった。ねえ、もっと私の事考えてみませんか。なんて、悪戯に囁かれて殊更どうしようもない。易々と振り向けばやわらかな空色とかち合う。振り出しに戻ったように固まる頭をどうにか動かそうと、ゆっくり瞬きをした。
数秒後にはそれがどうも、合意の合図として捉えられている事を知る。
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