鬼滅



忘れたマアチ



 寝ても覚めても、私は私であった。金輪際見ることはないと思っていた夢から、今日も目醒める。モンシロチョウの泳ぐ夏の海も、暗闇から伸びた手に足を掴まれることも。前頭葉にこびり付いた鮮明な記憶を、ぐるりと攪拌させれば出来上がる、あべこべでちぐはぐな夢たち。やおらに上半身を持ち上げた無惨は、目を開けることすら億劫になる倦怠感を覚えた。寝癖のよく付く後ろ髪を直す。ふと目線を下へ移し、隣で眠る彼の、レースカーテンから突き刺す燦々たる日光に照り返す鬢髪を払う。そのままの長い黒髪はシーツによく広がっていて、寝ているうちに引っ張ってしまっていないかを、少しだけ気にしてしまう。黒髪の中から現れた頬を撫でてみた。すると、もったりとした微睡の中でシーツの皺を刻んだもう一人の男は、自分の皮膚をまどろっこしく伝う指先に対して擽ったいと抗議をするように、ううんと声を出した。二人分の重みに慣れていないスプリングはきしりとも音をたてず、壊れているような気さえする。
「起きろ、」
 縒れた布団の穏やかな暖かさに思わず、人恋しくなってしまって声をかける。薄く開けた瞳に目を合わせるが、また目が閉じられた。此奴の寝起きがこんなに悪いとは、以前であったら知る由もない情報である。仕方なく男を寝かしたままに立ち上がり、ふと昨夜の出来事と、彼についてを思い返した。

 その日、無惨はゆるりと柔らかいシャツの袖を捲り、酒場で濃度の低いアルコールを体に染み込ませていた。正面にはかつての同胞である黒死牟。
 彼と再会したのは一ヶ月ほど前。その日は、その文字に似合わない、頬にひしひしと触れるような寒さの残る立春であった。吐きだす白い息に水滴を作る黒いマフラーを煩わしく思いながら、夜道を闊歩しているところをそいつに呼び止められたのだ。振り返ると、体格の立派な長身の大男。都市伝説かなにかに見初められてしまったか、それとも不審者かなにかに目を付けられたかと思ったが、全く襲いかかってもこないこの男。不審に思いながらも顔を覗くと、よく見知った顔と目があった。否、見知ったと言ったが、自分でもよく気付いたほうだと思う。なんせ記憶の中の黒死牟はほとんど六ツ目の化け物であったのに、そこにいた男は顔に痣もない二ツ目の、紛れもない人間、おまけに目鼻立ちの整った、パーツがしっかりと揃った顔立ち。あの双子の方と見間違えて、本能的に逃げてしまうことも考えられたが、不思議なものだ。
「お会いしたかったです」
 寡黙な男が息を整えながらそう話すから、気恥ずかしい思いだ。追いかけてきた。その長い手足を息を切らすほど動かして。そう考えると、どうもこの男が可愛く思えて仕方がない。そうか、私も。そう言いかけると、男の尻尾を振る姿が見えて、はて、記憶の中のあの男はこれほど私に懐いていたであろうかと疑問に感じた。まあ今はいいか。どこまで覚えているのか、いつから記憶が戻ったか、今何をしているのか、道端で話し込んだ。少しして私が、くしゅんとくしゃみをしてしまったから、連絡先だけ交換し、日を改めて会うことを約束して別れたが、その二日後にはもう予定を合わせていた。仕事もあり、夜に度々顔を合わせるだけ、せっかく自由に朝の元を歩けるのだから、明るみで会いたくも思ったけれど。
 それから一ヶ月、また今日も夜になってから密会のように会う。無惨がアルコールを口に運んで静かに飲み込むと、前にいる男も次いで同じ行動を取った。心理学を作用させているつもりはないのだろうが、うん。かわいいやつだ。
酣酔かんすいできるというのはなかなか、いい気分ではあるな」
 猪口ちょこを手にして薄く笑う男の、少々シニカルな喜び。なにせ前世は鬼の始祖。その字面に倣って今世では嗜好品をばかすか貪り放題の下戸、というわけでもなく、男は過剰な煙草で肺を黒く染めることも、一升瓶の首を持って無理やり胃に流し込み肝臓を硬くさせることも望まぬようであった。ピンク色の臓器を確かめることはもうできないが、紅潮する肌の健康的な様。その瞳と視線が合うと、三日月型になったそれに当てられた。
「酔っちゃった。なんてな」
 如何にもわざとらしい口振り。耳ざわりによく響く声色。
「いい慣れているようですね」
 少し意地を張って男の言葉に返答する。
「そんなわけ無いだろ。こんな馬鹿馬鹿しい事を言うのは初めてだ」
 無惨はくすくす笑いかけ、箸の先で行儀悪く目の前の男を指差した。片肘もついてしまって、上品そうな見目が泣いている。さらに拍車をかけるようにこう問い掛けた。
「じゃあこうとも言おうか。家で飲み直さない?」
「……大変、酔っていらっしゃるようで」
「なんだ、不服か? 今更気にするような仲ではないだろうが」
「招いてくださるのですか」
「吸血鬼か何かか、お前は」
 呆れた様な表情で話す。洒落たカクテルを想わせる紅色の混じった瞳を持って微笑む彼の、現実離れした雰囲気が悪い。動揺する。仕方がないだろう。あれだけ慕った相手とこの世で再会し、仲良さげに対話までできている。そう黙り込んで思考していると、彼はまた言葉を続ける。
「もう思考は読めないんだ。お前は取り繕うのが面倒だから、心を覗いてくれるのは便利だと言っていたな。あの頃からそうだったが、お前の顔付きは分かりにくくてしょうがない」
 からんと、軋んだ氷が落ちる音がした。
「もっと言葉に出してくれ」
 とっておきの話をするみたいに呟く男の色っぽい様。脳神経を麻痺させるように響く低音。ビニール傘の向こう側を見ているみたいな気分だ。プラスチック樹脂を通して見えるぐらついた歪みを覚えた景色が、目の先を不明瞭に捉える。私も幾分か、酔っているのであろうかと黒死牟は思考する。
 そうと決まれば! 無惨はぽんと手を叩く。そうして話もほどほどに、男らしく串カツを頬張ってから店を後にした。足取りが軽い。浮かれ心地だ。横を歩くとなんだか、はるか昔を思い出す。大きな身体をガードレールにぶつけると、目が足りないのかと笑われた。
 人通りの少なすぎる帰路で身体を押し付けてくる男について黒死牟は、化かされているのかと思った。頬が染まってるから、たぶん酔ってはいるのだろう。誰もいないのに人に見られている気がして、また、見られてはいけない気がして監視カメラの死角にいることを確認していると、よそ見をするなと言わんばかりに痛いほど腕をつねってきた。甘えている、みたいな仕草。やはり、言い慣れているのでは。私以外にもこんなふうに引っ付くことがあるのかと、疑問を投げかけたくなったけれど、ぐ、っと口を噤む。そんなの人の勝手だろう。そう舌を隠す口をこじ開ける東風が、びうと音を立て肌を抉るように吹いた。
 梅の花でもない私たちは素直にこの冬を喜べない。それでも頬に当たる冷たい風が、今だけは心地よかった。

「名残は無いのか」
 ソファに腰を掛けた無惨が突っ立ったままの黒死牟を隣へ誘って話しかける。男は素直にそこへ座って、落ち着かないように滑らかな布生地を撫でた。
「首に痣が少し」
「見せろ」
 そう言われ、長い横髪を耳にかけ首筋を見せる。近付いて、頸動脈をなぞられると脈が早まる気がした。命綱でも握られている気分。
「ああ本当だ。男の勲章だな」
「貴方は、あ、いや」
「なんだ」
「傷を見せろと言っているようで」
「構わないが」
 程よく皺の寄ったワイシャツの前を開け、インナーを捲る。
「傷がここに、それにここにも」
 触ってもいいぞ。おあいこだ、おあいこ。
 そう言って黒死牟の手を皮膚に導く。ハンドクリームを欠かさない柔らかな手で、心地好く酔った男は嬉々として自分の腹を触らせる。なのに手を誘われた方の腕は、ぎこちなく強張っている様子。
「あの、少々動悸が、すみません」
 動きがやけに緩慢だ。
 緊張しているような手のひら、不自然な顔付きに、無惨は深く疑問に思った。
「お前、そんなに初心だったか?」
 それとも六ツ目に気を取られてしまって、気が付かなかったのだろうか。泳ぐ瞳を身体を傾けて追いかける。恥じた目尻が愛らしい。逸らされた顔を見ながら、引っ張った男の手を鳩尾から脇腹にかけて動かした。
「見てみろ。お前の弟にやられた傷が未だに少し見えるのだ」
「キズモノにしてしまった責任は取ります……」
「随分男らしいな」

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