鬼滅



まともな大人は
そんなことしないよ



 ぱき、って割るアイス。その、吸い口のプラスチックがひょろひょろするチューペットじゃなくて、棒が二つ付いてて、真ん中に線が入ってる。うん、それ。

 午後二時。かんかん照り。昨夜の雨をも匂わせない、からからと乾いたいいお天気。ここ一週間は洗濯物がよく乾くだとか、布団を干すには最高だとかなんとか、気象予報士が話していた。明日も蹴飛ばした靴が表向きになるんだと考えるだけで、ドッと毛穴から汗が噴き出る。目を擦りたくなる程ぼやけた風に見える視界には入ってこない、隣に座る少年の、ほのかに乾いたうねり髪からは、懐かしいような塩素の香りがした。スーパーで買ったサイダー二本と、少年のリクエストに答えて購入したアイス。パチパチと炭酸の弾ける清涼飲料水と着色料の鮮やかな水色は、理想的な夏の色をしている。しきりに蝉が豪雨のように鳴いて、太陽はよく照って、木漏れ日に恩寵を覚える余裕もない。そんな夏の公園。ベンチ。影を作る背後の大木は有難いけれど、幹に張り付いて羽を震わせる音が丁度その恩恵をゼロにする。白い肌を焦がそうと必死な陽を避けてはいるが、子供は背が低く地面に近いから、照り返しで体温が上がりやすいと聞く。大丈夫だろうか。青年の心配を他所に子供は小さな口でしゃくしゃくと、涼しい音を立ていた。ふと視線を動かす。隣に置かれた中身の見える青い塩化ビニールのプールバッグからは、ちぐはぐなオレンジ色をしたラップタオルが青を通して黒く見える。その湿気に曇った内側が気になってしまってじっと眺めていると、何を見ているんだとでも言いたげな小さな手に遮られた。その腕を辿って子供を見遣ると、乾いた砂が頰にセミコロンの形を写している。
「なんだ。馬鹿にしたような顔付きをして」
「いや、馬鹿になど……そんなことは」
 曖昧で弁解とも言えない一言二言。こほん。咳払いを一つ。砂が付いておりまして。思わず口角が上がっていた青年は、そう一言断って、頰に付いた砂を払うために手を伸ばす。つ、指の腹で撫でるとすぐにそれは崩れて、ぱらぱらと落ちていった。此方を興味深そうに眺める黒眼を追って目を合わせてしまうと、おおよそ小学生とは思えない目付きをされるから、緩い風に揺れる睫毛に捕らわれてしまわないようすぐに目を逸らす。柔らかい頬と指先が、汗でくっ付いてしまいそうだった。彼に触れると時の流れがゆっくりになって、数刻でも呑み込まれてしまうような錯覚を起こす……というのは、過去に世話になった欲目なのだろうか。青年の額にじわりと浮かんだ雫がこめかみの辺りに流れる。それと同時に、子供の縦によく伸びたむき出しの太ももに、棒に伝って緩くなったソーダ味がぽたりと落ちた。つつ、流れた人工甘味料は表皮を粘っこく這って、木製の古いベンチに染みこむ。下では蟻が嬉しそうに歩いている。そこまで届けばいいが。
 小さな大行進を蹴飛ばすつもりもなくぶらりと動かす細足では、半透明の鼻緒が少年の足趾そくしを拡げている。暑さに蒸れた指の間がぺとぺと、合成樹脂にくっ付く様子。加えて乾ききらない砂が気になって、サンダルを脱いでベンチに体育座りをする。裾の緩いハーフパンツが太腿の裏に隙間を作った。木目の付いてしまった赤いそれが空気に触れるが、ひやりともしない。棒アイスは手を冷やさないから、当てた左手が伝導させるものは熱ばかりである。駄目だ。暑過ぎる。子供が平い棒を咥えながらぼやけた声で鬱陶しそうに呟いた。小さな肺の上下より速く、食べ終わってしまって、吸っても木の味しかしないであろう棒を器用に上下させている。子供が右足の親指と人差し指の間に、左足の親指を入り込ませる。へばりついた砂粒に指を這わせ、もどかしく掻き出していると、ふと何かに気付いたようで、青年の方を向いて内緒話をするみたいに呟いた。
 ほら、また見てる。
 様子から察するに彼を狙う不届き者でもいるのだろう。視界の端に映る黒い人がたぶん、それであろうか。いかにも不審者っぽい挙動をしている男が見えた無惨の口が、ぽかりと愉快そうに動く。いやそんな、余裕綽々に笑っている場合ではないだろうと黒死牟は思った。その年に似合わない仕草すら糧にされるのだから。溜息を噛み殺してからゆっくりと視線の先を追うと、さとい男はそそくさといなくなってしまった。けれど、後頭部だけはちゃんと見えた。熱を集める黒い帽子を深く深く被った男だった。
「私はおそらく近いうち、何処かの誰かに拐われるぞ。お前に手を出される前に」
 体育座りをもぞもぞと直し、陽に赤くした膝と頬を寄せて黒死牟の方に顔を向ける。
「冗談にならないのでよしてください」
 それに、手も出しませんよ。捕まってしまいます。そう言って一度合った瞳を逸らすと、隙間のある太腿をぴたりと寄せて此方の足元に倒してくる。夏が終われば寒さを由に触れる肌。布越しに寄せられても恐ろしい。好青年と形容される見目をしていて良かった。今の一度もこの幼い彼と一緒にいて、警察に声をかけられたことはない。恐らく、兄弟にでも見えているのだろう、と、思う事にしている。髪質もまるで違うけれど。しなやかに伸びる少年の四肢にたじろいで膝からベンチへ移動させた手のひらに、太陽によく熱された釘が染み込んだ。あつ。すぐさま手を離して熱を逃すように振ると、可笑しそうに何をしているんだと笑われる。けらけら、くすくす。始祖であった頃は男がこんな風に笑っても、次の瞬間には機嫌が悪くなっているか、周りに血溜まりができているか。山の天気。彼の笑う姿と周囲の雑音が不意に途切れないことに、磨りガラスのようなぼやけた違和感がアラートを鳴らす。「あ、また何か失礼なことを考えているだろ」無惨は、全てお見通しだとでも言いたげに、瞳を猫みたいに吊り上げた。
「いいえ、ただ、年相応な笑顔が珍しく」
「いつもは老けているとでも? まぁいい。けれどお前だって、今世でも大層な無口だろうが。笑った日は日記にでも書いてやろうか」
 日記。夏休みの宿題。時たま現れる血縁関係でもない大学生の男に、チェックをする教員の赤ペンが止まるところを想像する。大変だ、放課後に呼び出されるかもしれない。
「なに、〝隣の家のお兄ちゃん〟とでも表現してやるから心配するな」
 顔には出していないはずなのに、ぐるぐると巡る思考を的確に読み取られてしまう。もしかして能力の名残りでも? この時代で彼の血を飲んだ記憶はないけれど。「お兄ちゃんですか」「締まりのない顔」「ずいぶんと可愛らしい呼ばれ方なもので」二人は顔を見合わせ言葉を交わしつつも、絵に描いたような平和さに微睡む。ラブコメディとするには取るに足らない、ふわふわとした雰囲気を楽しんでいるようだった。子供は男に寄せていた足を元に戻して、ぶらりと熱を逃すように動かし始める。そうしていると、また温い風が緩やかに吹いて、日陰を作る大木の木漏れ日がよく伸びた生白い太ももにちらちらと照った。腿の上を揺れ動く光を眺めながら、無惨は思い出したように口を開く。
「焼けたらお前に剥がしてもらおうかな」
「えっと、なんの話でしょうか」
「かぁわ、ひふ」
「皮膚……」
「私は皮膚が捲れるほど肌を焼いたことがないんだ。ぺりぺりって、捲れるんだろう。蛇の脱皮みたいに」
 ふふ、と微笑みながら腕を撫でる。プール後に残った湿り気はすっかり乾いていて、噴き出た汗のみが皮膚を潤している。しっとりとした腕に手のひらが引っかかった。
「皮を捲るのはいいですが、でも無惨様は恐らく」
「恐らく、なんだ」
「あまり焼けない体質なのではないのかと」
 赤く染まっただけの細っこい腕を眺めてしまう。色褪せたカラーコーンの方がまだ、いや、それはなんとなく失礼だ。それにしても、ひりひりと、叩いたような赤みを帯びた腕がなんとも痛そうに映る。日焼け止めは塗っているだろうが、汗で流れてしまっているのか。そんなことを思っていると、察しの良い子供は黒死牟を訝しげに見つめる。何度この男にムッとさせられるのか。その親戚の幼児でも見るような目付きをはやくやめさせたい。
「焼く。こんがり。あの夏らしく、虫取り網を持った子供ぐらい」
 半ズボンに白くて柔らかいシャツを合わせた彼が、お行儀悪く他人に指を刺して話す。指の先には目玉焼きが焼けそうなぐらい炎天の公園で、元気に走り回る褐色の少年がいた。首に掛かる虫かごも、彼に合わせて元気に揺れている。真昼間の木々に、少年の気に入りそうな昆虫がいるとは思えなかった。そういえば今日は、暑さのせいか一匹も蝶を見ていない。一体どこで難を逃れているのだろう、涼しいところがあるなら教えてもらいたいぐらいだ。ぐわんぐわん。揺れる虫かごを見ていると、眩暈に似た思い。その中に入っているであろう生物に同情していると、隣では育ちの良さを語ってくる白が太陽に反射してくる。この季節はどこを見渡しても眩しくてしょうがない。先の少年に代わって彼は、同じ昆虫を与えても標本など作りそうな風貌。虫相撲とか、どのカブトムシがかっこいいとかそういうのではなくって、昆虫針を手に刺すこともなく器用に……そんなことを空想している途中、小さな子供がぶらりぶらりと揺らしていた足を地面に着けた。
「ほら行くぞ黒死牟」
「どこへ」
 アイスの棒を吸うと、皮のするりと剥けて潤いもある十二歳の唇がちゅう、と名残惜しそうな音を立てる。ベンチの横のゴミ箱にカランとそれを捨て、健脚を伸ばした。
「散歩。陽が沈むまで」
 日の長い夏に、陽炎に足を揺らして。太陽はまだ高い。汗が髪の内側をじっとりと濡らすほど燦々と輝く。相棒みたいに隣に置いたサイダーも、堪らず汗を流している。
「日焼け止め、塗り直しませんか」
「焼くって言った矢先にか」
「痛くなるのは嫌でしょう」
「偉そうに」
 そう言いながらも無惨は腕を差し出した。ん、両腕をベンチに座る黒死牟に向け、採血でもさせるみたいに白い肘窩ちゅうかを見せつける。子供の目線からは、日本人の血のみで構成されているとはとても思えない大学生の旋毛と、ぎりぎり目が合わない。青年は慣れた手つきでプラスマークが3つ並んだボトルを鞄から取り出し、細腕に一直線を描いた。大きな手で包み込んでそれを薄く広げる。爪の溝に白い液体が留まった。
「熱いな」
「ご無理はなさらないでください」
「お前の手が」
 それは、すみません。手に残った液を自分の手の甲に馴染ませながら呟いた。言わずもがな、後はご自身で……そう思いボトルを渡すと子供はおとなしく受け取って、数滴出した日焼け止めを顔へと塗り広げる。柔らかそうな頬をむにむにと小さい手で撫でて、お次は脚へ、ベンチに靴を乗せて塗るものだからまた、太腿とパンツが隙間を作る。手持ち無沙汰に横目でその様子をちらり眺めたら、彼の手が止まった。どうしたのかと視線を上へと向け目を合わせると、へんたい。そう口が動いたのは多分気のせいじゃない。なっ。と一瞬、言いたいことも定まらないままに開いた口が定型的な感嘆を吐いたけれど、弁明する気になれなかった。言い訳をする元気も、夏の暑さに吸い取られてしまったみたいだ。顔を伏せる黒死牟に対し無惨は満足そうに口角を上げてから、両足を地面につけた。青年に日焼け止めを返却してすぐに、兵隊のように並ぶ街路樹に守られた道を歩き出す。ぐーぱーぐーぱー。手を丸めたり広げたりを繰り返して、余分に付着した違和感を除こうとしながら歩みを進める子供の後を青年は追った。気分はカルガモの親子であるけれど、微笑ましさは大差をつけて負けている。
 そうだ。
 炭酸みたいにしゅわしゅわ焦げる脳味噌に、跳ねるような声が浸透した。
「海」
「今度海へ行こう」
「お前と眺めた海はいつも黒かったから、新鮮だろうな」
 一息一息丁寧に、言い聞かせるみたいに言葉が紡がれる。背中越しで表情は読めないが、振り向かないところを見るにあまり心情を探られたくはないのか、それとも単なる興味から出た言葉か。子供に合わせて小さくなる歩幅に、時たま足がもつれそうになる。友人へ送る提案のような距離感に、大事な何かを忘れそうになる。春はとっくに終わっているのに、鼻の奥がむずむずとした。正解が分からなくて、お供いたしますと、まるで番犬のような返答をする。つまらない人間だと思われたかもしれない。味のないことしか言えないこの口に辟易へきえきしながら、それでも空想する。かつての主人と鈍行に揺られたらどれほど幸福か。
 歩くたびに黄色い防犯ブザーと銀色のナスカンが擦れて、カチカチと音を立てた。
 プール帰りの子供の言葉はもう微睡んでいて、聞いているこっちが眠くなる。ふああ、だらしなく口を開けて、二、三歩後を着いていっていると、突然低木から現れた手に子供が引かれる様子が目に入った。あ。と驚くには抜けた声を出す無惨の持つ、プールバッグに入った炭酸飲料がちゃぷりと大きく揺れた。突然のことに青年は瞬きするより先にそれを追う。
「……っこの!」
 すぐに黒死牟は男を捕まえ、首と腕を固定させた。それでもしぶとく子供の肩に手は置かれている。
「離せ、はやく」
 肩から熱気が伝わってきて気持ち悪い。そう感じていた手が直ぐに離されて、無惨は思わずふっと笑ってしまう。銃でも突きつけているのか、こいつは。トン、軽やかに一歩引いて振り返り、140㎝より見つめてみる。確証はないけれど、先程こちらを見ていた男だろう。無惨が離れた瞬間逃げようと見動みじろぐ。そんな男の腕を黒死牟は捻って伏せさせ、上から拘束を強める。ザリ。とざらついた地面と靴が擦れる音がした。用意の悪い犯人の走りにくそうなサンダルには血がついている。はあ、人を取り押さえる男の口から、場面に似つかわしくない溜息が漏れた。どうしてこうも彼は狙われやすいのか。なにか悪い幻術でもかけられているのではなかろうか。ぐい、溶けるように揺らぐアスファルトに男の顔を押し付けると熱いと叫ぶ。よかった。暑さを感じられるぐらいには正気なようだ。
 視線を上げると、しゃがんでこちらを向いている少年と目が合う。にやにや、というオノマトペの聞こえるような笑みを浮かべた彼が口を開ける。万人を釘付けにする大きな瞳が三日月型に揺れると、僅かな赤色が強まる気がした。
「いつから私のヒーローになった?」
「あの、はやく大人になってくれませんか。自己防衛ができるぐらいに。こんなことが頻繁にあっては心臓が持ちそうにありません」
「あと十年はかかるな」
 子供が拐われそうになったのは一度や二度じゃない。それでもなぜか、いや本当に何故か、未遂で終わっているから不思議である。今回は黒死牟がいたおかげ。まあいなくても、誘拐される、という雰囲気があればすぐに見知らぬ大人が助けに入る。見目がよいからこそ、よく人目に守られているのかしら。それはそれでなんだか気持ちの悪いこと! なんとも無謀な誘拐犯が、ちくしょうと掠れた喉で吐く様をもう見飽きるほど見た。ちくしょう? 失礼な。こんなに美しい人の形をしているのに。こんなことを考えていると、何の話をしていたか分からなくなる……程、頭を働かせていないわけではないが、この雲ひとつない快晴を理由に呆けたふりをしたくなる。
「えっと、なんだ、私とお前が付き合えるまでの日数の話だったか」
 ぴし。漫画みたいに黒死牟が固まるので、掴まれていた男はやっと見つけた隙に縋って拘束を解いた。
「あ、逃げた」
 ドタドタとサンダルをすり減らしながら男は陽炎に消えていってしまった。そういえば不審者の目撃情報についてホームルームで話されていたような気もする。特徴は確か……帽子、シャツ、ズボン、えっと、どれが黒いんだっけか。記憶力に自信はあるが、どうでもいいことは覚えていない。目線を彼に戻すと、顔を覆っている姿が目に入る。
「そ、のようなことを往来の場で言うのは少し、控えていただけると……。誰かの耳に入って、通報でもされたら困りますので……」
「あ、通報しなくていいのか?さっきの」
「目撃情報として入れておきます……」
「頼んだぞ。私は風呂に入りたいからもう帰る」
 散歩はまた今度だ。そう言いながら、先程触れられた肩を、憑き物でも払うみたいにぐるぐる回す。そうしていると、背後に慣れない重量を感じる。青年の長い横髪が、こそばゆく首に触れた。「お怪我はありませんか」間をおいて安心感が来たらしい黒死牟に、抱きしめられている。あ、あすなろ抱きだ。なんか聞いたことがある。その熱に思わず、おお、と困惑した様な声が出た。ぴたり。汗のせいで腕がくっつく。心配した声色。少し子供っぽいかもしれないが、この無表情な男の心を掻き乱すというのは、どうも気分が良い。「……通報は困るんじゃなかったか」「あ……」パッと彼が離れるとなぜか、肌に触れる空気がやけに涼しく感じた。我を取り戻した黒死牟は気合でも入れるみたいに自分の頬を叩いて、お見送りしますと気まずそうに呟いた。

「また明日、同じ時間に公園で」
 そう言って別れる。また明日。変わらず来る毎日は祈らずとも平穏で、手の皺を合わせずとも、両手の指を絡めずとも素直に昇る太陽に明日も顔を合わせるのだ。別れ際にしては短い影をしっかりと見送ってから子供は、家の扉を開けた。

 午後九時。夕食を食べて、もう一度風呂へ入った後。机に向かった子供の熱に蒸れた手が、方眼用紙をふやけさせる。似合わないと言われたキャラもののシャープペンシルは、持ち手が太くて描きにくいが子供の字に寄せるには丁度いい。夏季課題。カレンダーのように捲る算数ドリル、ハイライトを送るには物足りない一行日記、写経みたいな漢字練習、エトセトラ。小学生の宿題なんてしなくてもいいと思うが一応、謳歌しておいた方がいい気がしてカリカリとペンを進める。ほら、たくさんかけた。毛布って文字。六つも。眉間に皺が寄る。代わり映えのしないことをしているからか、なんか眠くなってきた。こんな言葉をいくつも書いたせいだと無惨は思いながら、ふあ、欠伸をして手足を伸ばす。すると、そのよく伸ばした足が机の脚を蹴った。ぽし、軽い音と視界に入った白い筒。自由研究用に配られた丸まった模造紙が床に倒れる。潤んだ目で捉え、これをまた丸めて、武器みたいに持っていくと思うとめんどくさいなどと、働かなくなってきた脳味噌で考える。少し寝るか。ぼすん。後ろに置かれたベッドに手招きをされた気がして、特別柔らかくもない夏用のシーツに飛び込む。
 重たい瞼を閉じつつも、眠りに誘われる前に昼間のことを思い出した。誘拐未遂、ではなくて、その後。あの血管の張った逞しい腕に包まれたことを思い返すと、シーツの上に丸まった小さな身体がふるりと震えた。適温に設定したクーラーのせいにしてしまえば、恥ずかしさもないのだが。この細首に、汗で纏わりつきながら、広い襟ぐりにこそばゆく入ってくる男の長髪。切らないのかと聞いた時は、なんとなくそのままにしていると返された。そんなものか。肩の真ん中らへんに弛んだ髪の毛が置かれたことを思い出すとどうしても、高まる気持ちを駆り立てずにはいられない。
 ちく。
 もやもやと、何も不満などないはずなのに、鬱屈に似た思いに体の三分の一を支配される。もう覚えてもいない恋の、煩いの感覚。季語らしい音楽を奏でる、スズムシやらマツムシやらの音のみが響く静かな空間がいけない。悶々と意識に張り付く男について納得がいかないようにギュッと瞑る目を、さらに固く閉じる。黒死牟のことは好いているけれど、本人のいない場所で自分がこんな気分になるというのは少し嫌だった。それならこの昂る心の内を、そっくりそのまま晒してしまったほうが楽である。明日、また揶揄うみたいにこの気持ちをぶつけてやろう。どんな反応をしてくれるだろうかと期待をする頭の中、ちんちろりんとは鳴かない夏の虫の声が、だんだん遠くなっていった。
 
『無惨様』
 彼の切羽詰まった声というのは気分が良くなるものなのに、こういう時だけはどうも、胸をつかれる気分になる。
『っ、よろしい、ですか』
 紫色の、着物。麻のかさりとした感触が鼻先に触れると、下に入っている異物を締め付けてしまう。着物の香りは、男の香りはどんなものだったっけ。すう、とそれを吸い込むと頭も体も男に支配されてしまった心地になって、堪らなくて、男の呻る声が上から聞こえて、それで、
「ぁ、ゃだ、……?」
 カーテンから溢れる日の光。朝。自分の微かな喘ぎ声で目を覚ます。ヘンな、で片付けてしまいたくなる夢を見て、横になった身体を起こす。ふと、下半身に感じる、ぬる、と縒れる下着。違和感しかない。
「……ぁは、これは、笑ってしまうな」
「そういえば今朝、お前のせいで精通を迎えた」
 またもや、同じ公園、ベンチ……には先客がいたから、大人しく木陰には入った石壁に背中を置いている。赤裸々に言葉を繋ぐことを好む子供は照れる様子も、ふざけた様子もなくそう言った。開口一番に言う台詞ではない。いや、二言目に話されても困る。
「っ⁉︎ あの、ですから。控えてくださいと……。せ、精……って、私、その、現代の法に触れることはしていないはずですが……」
 子供の一言のせいで、気管へ飲み物でも入ったみたいに咽せた青年は、どうにかこうにか落ち着きを取り戻して、言葉を濁しながら問い返す。
「うむ。夢を見てしまってな。お前とせっンが」
「いけません」
 詳細を話そうとしたら手で口を塞がれてしまった。外です。と、暑さのせいだけではない汗を流しながら、そう目で訴えられる。案外、人の世に生きると常識人になるものだな。あの時手を取らせたのは私だったけれど。無惨はくすりと見えない口を動かした。そして、いつまで塞いでいるんだと瞼を細めながら、舌先をちろりと出して彼の手のひらを突く。男の顔がさらに赤くなって、まるで足の多い虫でも出たみたいに距離を置かれる。青年の手のひらからは、日焼け止めとアルコールシートの混ざった、舐めてはいけない味がした。一歩引いた場所で、手を胸の前に寄せて戸惑う黒死牟。仇でも見る、と表すには力のこもっていない、少女漫画のヒロインが意外な男前にキスでもされたみたいな反応に、少しだけ胸が高なった。
「私が成人したら付き合え。何番目でもいいから」
 不意にそんな台詞が出た。酷い告白だ。子供の恋愛とはもっと、季節に合わせて満開に咲く花の様に愛らしいものであるべきではないだろうか。
「私のことを、どんな風だとお思いなのですか……。それこそ無惨様の方が、私に飽きるのでは」
 交際については否定をせず、プレイボーイ呼ばわりされている部分に引っかかりを覚えた青年は仕返しのように呟く。
「確かに保証はできんな。指切りでもしておくか」
「えっと、それはどちらの」
現代いまの意味だ。馬鹿」
 ほらどうぞ。静脈のよく見える小指を差し出されて、反射的に自分の指を絡めた。ゆびきりげんまん、嘘ついたら……。「嘘?」「……お互いに飽きたら」「あは!」飽いたら針千本飲ます。跳ねた声で指を切った。離れる手が名残惜しい気さえする。青年はふと悪い夢をみた朝、夢の内容も覚えてないのにひどい倦怠感に襲われるような、指先がぴりぴりと痺れて、動き出すことすら気怠くなる感覚を思い出した。こんなことを言ってしまっては、私を悪夢呼ばわりするのかと、子供の怒りを買ってしまうだろうが。そう思いながら彼の表情を窺う。馬鹿などとも吐いた口元は、ふわりとした笑顔を浮かべている。ぐ、と、なんともいえないくすぐったいような気持ちになって、「甘噛みされてるみたいだ」と小さく呟いた。
「今日はどこかへ入りませんか」
 いっそう照りつける日差しに目を細める。
「あそこに行きたい」
 ファミレスに指を向ける。何も知らない子供が、ラブホテルにでも指を刺すみたいな無邪気さがあった。

 午後一時。ファミリーレストラン。店内の涼しさに命拾いをしながら、オアシスにたどり着いたみたいにお冷を飲み干した。和とも洋とも中華とも取れない料理の混じり合った香り。その中でも特段強く感じられた、デミグラスソースの香りに釣られて注文したハンバーグ。可愛い選択をしてしまった。少年の形のいい唇にプチトマトの押し付けがましい赤が鮮血のように栄えた。それを見守る青年はよくないことだと思いつつも、口のなかから、ぶじゅり、と、トマトの弾ける音が聞こえた気がして、揺れる頬を見つめて咀嚼を繰り返した後の口内を想像する。皮と果肉がぐちゃぐちゃに絡み合いながら、舌にまとわりつく様子。その姿は、あの、人の肉を食べていた頃を思い出させる。唇を目で追いかけながらストローに口をつける。喉を流れるアイスコーヒーはやけに熱を帯びている気がした。これは、目の前の、歳が十ほど離れた少年に向けるには相応しくない感情が、現れているような気がする。誤魔化すように目線を上げても、彼の視線は隣に向いていたので目は合わなかった。
 食いつくような欲情を含んだ視線、肌に穴を空けそうな注射針に似たそれは何だ。六ツ目でもないくせに。けれど、好かれた故の目付きなのであれば悪い気はしないので、放っておくことにした。横のテーブルでは未就学児が、お子様ランチに付いてきたおまけの車を走らせていた。そのチープさに知らない懐かしさを覚える。カフェ、というのもいいだろうが、あそこは店員との距離が近くて静かすぎる。目の前の男と空想じみた話題を交えながら話すには、これぐらい賑やかなほうがいい。視線を前に向けると、暑そうな横髪を耳にかけた彼と目が合った。今度は先程の視線と打って変わった、慈愛のように僅かに上がった口角。違う。私が欲しいのは、互いの全てを包み込み、世界を敵に回すことすら厭わない愛などではない。歯痒く、時には気味の悪さすら覚える恋のような情を見せつけて欲しいのだ。
 「はい、あーん」「……?」「食べたいんじゃなかったか?」こちらを見てくる男に微笑み返して、銀食器を向けてやる。恋というのはさしずめ、瞼をこそばゆくなぞる風、夏に頸動脈を伝う汗。遠回りのなかで深める思い。あむ。黒死牟の大きな口がフォークに刺さった肉を呑み込んだ。無惨はそれを見て、ううんと頭を捻る。これではもう家族のよう。やっぱりこの年齢が惜しい。
 甘酸っぱい青春を知らない私たちの、何かが実るまでのスイッチバック。
「長い付き合いになってしまったな」
「私は嬉しいですよ」
 ソースに浸されたとうもろこしにカトラリーを刺すと、薄皮が剥がれる。かちゃ、鉄板とステンレスの擦れる音。この賑やかな空間に紛れて、聞こえるか聞こえないかの声で「わたしも」と呟いた。

5/8ページ