鬼滅



笑えよ怪物



 これで何度目の命だ。
 人間になって、魚になって、虫になった。
 楼閣から落ちて、地で干涸びて、蟷螂カマキリに食われた。
 男が生まれ落ちた体には常にどこか欠落があった。やれ腕がない、やれ足がない。四肢があってもろくに動かない。内臓は悪く皮膚にかさができる。治る保証もない薬を付けては肌が酷く気触かぶれた。その呪いは男自身に降り掛かるだけでは飽き足らず、罪のないはずの身内にまで及んだ。あまりにも単純な話だが、男がこの世に産まれると彼の身内は次々死んでいくのである。血縁関係のある人間を殺すことが罪人への報復とは、私が其奴等を愛していたかも定かではないのにと男は思う。なににせよ私を裁く神か何かがそうするんだ。これではどちらが悪魔か分からないではないか。誰も許してくれない。誰に許しを乞えばいいのかも分からない。齢二十。他の者は胡蝶蘭の頭のようにばたばた死んでいくのに、私だけが簡単に死ねない。その都度の人生で、私の生死を操る何かが満足するまで命を落とすことができないのであろうか。あかぎれの知らない無垢な手に遊ばれるおもちゃのような人生。そのくせ手垢まみれになったらぽいと捨てられるのだ。どうすればいい。どうすれば終わる。
 軋むような耳鳴りに目を閉じて片頬を歪める。
 雁字搦めだ! ああ惨め、惨めったらしいったらありゃしない! こんなもがけばもがく程絡まりゆく魂など捨ておいてしまいたい。口汚く何かを罵ることしか叶わないこの忌まわしい身体よ。恥ずかしそうに意味も虚しく尖った八重歯よ。
 また今日も、暗渠あんきょから抜け出せない。

    ⁂

 痺れた右足を引き摺って夜道を闊歩する。くすんだ壁を杖にするものだから、飛び出した釘に手のひらの皮膚を持っていかれた。街灯がよく灯って、宿なしが出歩き始めるこの時間。うまく終わらせられないこの身体で、死に場所を探して彷徨っている。途方も無い。まるでおまけみたいに左腕も動かないが、今回は内臓がやられていない分苦しさはないから、歩くのにはまだマシか。殺してくれ。現世まで顔も覚えていない屑共に妬まれている。殺してやる。化けて出る事しかできない能無し共。
「うわ」
 浮浪者じみた格好にまた声を漏らされた。顔は男前なのになあ、人間はすぐ見た目だけで騙される。違うな。特段騙した覚えもなかった。強がりだこんなものは。汚く惨めで可哀想な姿をした私の。
「鬼舞辻無惨は灰になって死んだ」
 逃げない人影がはっきりとそう喋った。
 幾年ぶりに名前を呼ばれた気がする。夜目の利く瞳をちらりと向けると、忌々しくも焦がれた鬼狩りの姿がそこにあった。馬鹿げた幻め。気晴らしに対話でもと、男はひびが入った唇を開く。数ヶ月ぶりにまともに言葉を発するもんだからひびから血が滲んだが、その味に慣れた男は気にすることもない。自分の作った幻覚が、どんな都合のいいことを話してくれるのか見ものだと柔気にやけ顔を作った。
「そうだ。お前に殺された」
「あれだけ生きたくせに骨も残らず死んだ。散った灰から執念で再生することもなく」
「そうだ。あんなにお前に縋ったのに」
「今の名前は?」
「忘れたよ」
「嘘だ」
「覚えていられないんだ。これまで何度も名付けられた」
「お前、何度生まれ直しているんだ」
「お前こそ、そんなに話を聞き出して、カウンセラーにでもなったのか」
 というかお前何なんだ。幻じゃないのか。よく喋るそれに男が思わず間抜けな声をあげると、はぁ。と疑問符のついた返答をされる。どうやら幻覚などではないそれは、男に同情でも慈悲でもない顔を向けた。
「無惨、死にそうな顔してるぞ」
「その名前は久しぶりに呼ばれた」
「何千年も名乗ったお気に入りだもんな」
 表情の読めない子供が目を細めた。子供を宥めるような口調で、何を笑っているんだ。閉じた瞼にすらこびり付くその顔が、どうも好きにはなれない。
「そうだ。うちに来るか」
 あまりに唐突な言葉に。は。男はポカンと口を開けてしまう。聞き間違いかとも思った。あ、痛。唇のひびがもっと開いて、流石にぢくりと痛みを持った。「家がないなら泊めてやる」。やめろ。これ以上追い討ちをかけるな。
「興味があるんだ。ここまで酷く呪われているおまえに」
 民俗学にでも携わっているのか。好奇心が身を滅ぼす事はよく分かっているだろうが。大きな瞳をさらに開いて、こちらをじっと見つめてくる。この世界でもお前はそんな目をしているのか。日の沈んだ黄金島の如き赤色をした曇りの無い眼。ドン引きした自分が一瞬それに映った気がした。まるでいつまで経ってもアルカディアへ行けない私への当て付けのようだ。口を開け阿呆みたいにいつまでも固まっていると、感覚のない左手を掴まれるのが目に入った。身長は幾分か男の方が高いのに健常な青年の方が力は強いから、直ぐに腕を引かれてしまう。偽善では説明のつかない行為に、男は鳥肌が立つほど気味悪がった。半ば引き摺られる形で、鋪装の剥がれたコンクリートが靴底を削る。
「お前も死ぬぞ」
 喉奥から無理矢理声を絞り出す。それなのに歩みを止めようともしない。ぼろぼろの捨て猫でも拾ったみたいな、博愛じみた事をしやがって。ふやけた段ボールに傘を差すだけでは満足せずに、抱いて連れて帰るつもりか。炭治郎、お前が拾ったのは猫は猫でも曰く付きの黒猫だぞ。こんな事をしてもお前も呪われるだけだ。
 痛い。
 青年の歩幅に情けなく根を上げた足が一丁前に鈍い痛みを現すから、思わず声が出る。そうすると、それはすまないと言わんばかりに歩みを緩められた。腹立たしい。私の知っているお前はこんなに優しくなかった筈だ。関わらなければいいものを、何故この日の夜に話しかけてきたんだ。歩幅を合わせた青年の顔を覗くと、楽しそうに薄く口角を上げていて、その意図の汲み取れない表情が薄気味悪くて少しだけ怖くなった。腹立たしい。私の知っているお前はこんな風に笑わなかった筈だ。
「誰なんだお前」
「お前が最後に名前を呼んだ男だよ」
 手を引かれ、此方も向かずに投げかけられる。心の芯まで弱った男はそれを拒絶する元気も持ち合わせておらず、化物問答に負かされてしまった。

    ⁂

 2年前の選挙ポスターに這ったナツヅタとか主張の強い看板とか、生き残りの思想に横目を遣られながら辿々しく足を進めていくと、風が一等強く吹いて水溜りを抉った。涼しげに髪を揺らす夏闌なつたけなわは幾分か雨が増え、道路で蚯蚓が干からびることもなくなった。冬眠しているのかは知らないが、そうするにはまだ暑いように思う。其れにしてもなんという気不味きまずさ。走り出したくなるようなむず痒さ。借間に案内される間一言も口を開けなかった。
「まず風呂に入れ。湯は張っていないが、間違っても手首を切らないでくれよ。俺は飯の準備をする。傷の手当てはその後にでもしようか」
 こっちが風呂だと連れていかれる。感覚のないはずの左手に不思議と感じる子供の体温が煩わしい。枯れたように思っていた涙がじわりとだけ滲んで、困惑して、子供の目を見ることも出来ない。
「私は」
 思いがけず震えた声が、決して静かではない部屋に響いた。人間とは、優しくされただけでこんなに動揺するものなのか。面倒な感情の揺れ動くさま。男はなんとか言葉を繋げようと口を開いた。
「身体が酷く汚れているから風呂場を汚す」
「うん、ノミだってきっといるだろうな」
「手の裂創れっそうで部屋に血をつけるかもしれない」
「それはなるべく気を付けてくれるとありがたい」
「胃が弱いから脂っこいものは食べれない」
「分かったよ。うどんでいいか? それとも粥でも食べるか?」
「……うどん」
 言葉のひとつひとつに返答されて、その暖かさに少しだけ甘えたくなってしまった。団栗眼どんぐりまなこを細くした子供に、猫だ猫だと笑われる。耳があつい。気恥ずかしくて、やっぱりむず痒くて、譫妄せんもうに魘されたほうがまだ救われるかもしれない。お前に触れる心地よさを知ってしまったら、これからの奈落に耐えられなくなってしまうではないか。
「お前にもう一度会えてよかった。苦労しているようだけど」
「こんな事をして何になる。どういうつもりなんだ」
「さっきも言っただろ。興味があっただけだって」
「私を殺そうとしてるのか」
「それこそ意味がないだろ」
 子供はこれでは埒があかないと溜め息を吐き、脱衣所を開けて無理矢理男を入れ込んだ。「そこにあるものは好きに使ってくれて構わないから」。扉越しに声が籠って届いた。ドタドタといなくなる足音が止まる。子供は思い出して呟いた。
「あ、着替え。俺の服でサイズ合うのか?」

    ⁂

 骨張った足が露見するスウェットを着せてしまったことが、何だか罪悪感を覚える。嫌がる猫に被り物を着せたような心地だ。青年はそんなことを思いながらも、男の背中に脈を張る傷を丁寧に消毒していた。飯を食べたというのに凹んだ腹が後ろからでもよく見えて、今度こそ慈悲を覚えた。うねった黒髪から現れる細首にまで突出する赤い斑点を、エタノールを染み込ませたガーゼで撫でる。
「物好きだな、お前は」
 二人の息しか聞こえないこの部屋で沈黙を破る為に無惨は呟いた。破る必要なんて全くないのだけれど、青年の手が皮膚に触れるだけで力の入った指が抉る、フローリングの呻き声を誤魔化したかったのだ。
 酷い落屑らくせつをシャワーで流してしまったその肌から、思わぬ柔らかい香りがする。脂肪の少ない皮の薄い肌を優しく撫でようとはしたが、手当てのやり方を忘れてしまった手は上手に動かない。思わず乱雑になってしまうその手の、少しだけ伸びた爪が真皮に触れると、点々とした毛細血管から血が浮き出した。指先を見ると白色ワセリンが紅色を弾いていた。わずかに爪が当たる度にびくりと背中が震える。
「下手くそ」
「まあまあ、これぐらい我慢できるだろ」
「雑に扱いやがって」
 熟れた皮膚に包帯を回す手が、男の線の細さを確認させる。
「はい、終わり」
 包帯を切った鋏についた糸屑に、ふっと息を吹きかける姿を無惨はじっと眺める。流行には疎いため若者らしいと言い表せるのかは不明だが、青年の装いは現代的で随分と眩しい。派手な赤のインナーにでかでかと印字された名も知らぬブランドマーク。太陽よりもはるかに静かな照明の下にいる青年は、やけに煩い赤色をしていた。
 救急箱を片付ける青年の背中に、ぽすんと肩を預ける。
 どうしたと問いかけられても、無惨は黙るばかり。礼の仕方も知らない男なりの、感謝のあらわれであろうか。触れる体温が暖かく、そわそわした気持ちになる。
「眠い」
 ふてぶてしい猫がそう呟いた。
「そこで寝るなよ」
「こんな硬い背中で寝れるか」
「お前今まで宿無しだったのに、急に我儘に……」
「段ボールは意外とあったかい」
「ぐ……、苦労したんだな……」
「嘘だ。死のうとしてたから寝るときは何も被ってなかったぞ」
「やっぱり苦労してるじゃないか」
 青年は衣食住の苦労話に弱いようであった。炭治郎が涙ながらに布団を貸してやると言うと、最初は潰れた水疱から流れる液体を気にする様子を見せたが、5分ほど説得すると大人しく横になった。
 床で寝ることには慣れているからこっちは問題ない。しかし、男の呼吸音があまりにも静かで本当に生きているかどうか不安になる。勢いで拾ってきてしまったが、死なれたら誰にどう説明すればいいんだ。外をほっつき歩いていた成人男性を連れて帰って、一夜経ったら亡くなっていました……。どう頑張っても留置所行きではないか。そんな不安が過ぎって、男の様子を確認しようと目を開ける。すると、横に人影。
「うわ、!」
 驚いて床に頭を打ち付ける。
「さむい。寒いぞ炭治郎」
 それに気遣う様子もなく男は言った。後ろにある布団をぽんと叩いて、一体どういう要望か。
「一緒に寝たいのか」
 ウン。硬い床の上に膝立ちをしている男が頷く。
 そっと腕を取られ少しだけ温くなった布団へ誘われた。
「子供体温」
「お前が冷たいだけだ」
 無惨に背を向けて眠るが、彼は此方を向いているようで右手が背中に当たる。巻きつけた絆創膏が弛む。安心するために飼い主を触る猫の様。ああやっぱりそわそわする。なんとなく、かつて憎んだ男が目の前に現れたからついつい招いてしまったけれど、こんなに懐かれると少し気恥ずかしい。
「寝込みを襲いにきたのかと思った」
「そんなわけあるか。孔子だって夜這いを進めてはいない。〝子、釣してこうをせず、よくして宿しょくを射ず〟。寝入りをとることは卑怯だと」
「ああうるさいうるさい。いいから早く寝てくれ」
「面倒そうにするんじゃない。私を拾ったのはお前だからな」
「わかったよ」
 ふんふんと、機嫌の良さそうな声が聞こえる。背中を撫でられる感覚。ご機嫌なつり目を想像すると、なぜだかとても愛らしく思えた。それにしても、先ほどまであんなに憂鬱そうにしていたのに、修羅に四十八手で弄ばれる人生を歩んだ男は存外切り替えが早いようである。道端で過ごすことの多かった彼は、見慣れた青年の後ろで安心しきった風に笑みを浮かべていた。
 すぐに、すうすうと寝息が聞こえて、背中をなぞる手が下へ落ちる。その部分が、擽ったく熱を持つ。黒猫を拾った好奇心の正体が情欲でないことを祈って青年は眠りについた。

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