鬼滅



霜月に亡霊



 どうやら彼処には〝出る〟らしい。
 シンボリックな岩礁が波を分けるこの海で、どうやら小さな幽霊騒ぎ。噂話を耳にして数日、炭治郎は凍てつく冬の海にひとりぽつんと立っていた。又聞きに次ぐ又聞きを繰り返し濾過しきった話によれば、それは丑三つ時も終えた時刻に現れるらしい。姿はひょろりとした背の高い男で、腰まで伸びたうねる黒髪を持っている。また、濡羽色からちらり覗いた瞳は朱ロウソクの様な赤色をしているのに、病的なまでに虚ろであると聞く。はて、どこかで会ったことがあるのかしら。何故だか心当たりのある特徴。極め付けにはその男、短髪の青年を見つければ、ナントカ治郎と鳴くらしい。ああこれは、決まりではないか。
「あいつの霊でもいるのか」
 白い息に紛れ、ぽつり呟く。すると噂をすれば影がさすという風に、ふと岩陰に人気を感じた。岩場に視線を送ると例の男の姿が見えた。少年はもはや驚きもしない。薄めた目蓋から視界を捉える瞳によれば、噂通りの背丈、黒髪、月に暴かれる赤い瞳。長く面にまで掛かった後ろ髪に加え病弱な様を可視化したような擦れた着物の男が、此方をじっと見ている。
「地獄にも見放されたのか」
 語りかけるとその亡霊は、呪うように禍々しい言葉を返すわけでも、長い髪を巻き付けて黒い海へ引きずり込むわけでも無く、小さい口を開けてこう呟いた。
「……その忌まわしい痣、炭治郎か?」
「ああそうだ」
 だぶつかせた白い着物を引き摺らせる姿。その哀れな様に近付くと、少したじろいだ男の様子。まさか本当に亡霊が現れるなど思いもよらなかったから、構わず歩み寄ってしまう。読めない表情を気にするように一等強い風が吹いて、その長い髪を巻き上げた。憎たらしい笑みも浮かべなくなってしまっているが、まさしくそれは鬼の始祖であった。
「どうして朝に現れないんだ。折角幽霊になったんだから陽の元へ出ればいいだろう」
「日が雲間から笑いかけてくるんだ。にやにやと油っこく。だから夜しか歩けない」
「お化けが昼に出ないのはそれが理由だったんだな」
「そんなことは知らん」
 なんだまともに会話ができるのかと青年は思った。人を殺すことを忘れた無惨を、再び責める気にもなれない。せっかく会えたのだから会話をしようと思っていると、亡霊が先に口を開いた。
「私が死んで、万々歳に終われたか」
「勿論だ。もう誰かが理不尽に食われることも、望まず他人を呪うことも無くなった。ああでも一つ、お前の名残が消えない場所があったぞ」
「大方見当はつく。あれだ、ええっと、名前は何と言ったかな。極楽、ごくらく……?」
「万世極楽教だ。執着の薄い神だな」
 神というのは何かと便利に使われる。凶作から農地を肥したり、天災から村を守ったり。かねてより弥勒ミロクというものは不安定な世で何かと重宝された。信じられるものが何もない時、信じさせるものを与え縋らせる。鬼が消えたからといって不安の残るこの世では、万世極楽教の信者がじわりじわりと増えているらしい。一縷の望みに短い手を伸ばす、ファナティックともいかない信者が各地方に点々と、何処から伝播しているのか皆目見当もつかない。
 万歳楽、万歳楽。ナマズの絵と同じように消費される神仏不在の宗教。
「そのうち自然と消えていくさ」
「そういうものか?」
「一部の熱心な狂信者が暴れ回るようなことさえなければな」
 神も教祖も忽然と消えたのだ。これからどうなるかなんて誰にも分からない。それほど人の思いというのは、どこに転んでいくか考えもつかない曖昧で不安定なもの。それにしても、あの、月彦などと名乗った男の名残はどこかに残っているのだろうか。人が消えるなどの話は、嫌なことに日常茶飯事であるから、噂話に埋もれてしまったのだろうか。
「お前は、人の振りがやけに上手かった。人だったお前が築いた人との関係の中で、どうして変わるきっかけがなかったのか不思議なんだ」
「馬鹿め、生憎そんな、ころころと山の天気のように変わる情緒は持ち合わせていない。それに人の振る舞いが上手い人間はな、神にも悪魔にもなれるんだよ。上手い、というのは少し違うかもしれないな。お前だって神にでも仏にでもなりそうな活躍であっただろう。この天然のヒトタラシ。私はその誑かしを考えて行っていただけさ」
 病気をしている人間と言うのは存外、まともな思考をする。やけに高く効能も曖昧である妙薬を使われ余計に具合が悪くなったり、わざわざ病床から連れ出されわけの分からない呪文を吐かれたり、甘い言葉では何も得られないことがよく分かっているからだ。どれなら治るこれなら治ると、見慣れぬ治療をもってくる様は、なにかに取り憑かれてしまったようであった。また昔の記憶を思い出す。我ながら、面倒な性質を持っていることに嫌悪を覚える。亡霊はそんなことを思いながら辺りを眺めた。
 炭治郎が男の隣に腰を下ろすと、男も目線を合わせるために、砂を気にする必要もない身体を小さくする。
「この辺の者は、私のことをなんと言っているのかな」
「無理心中の死に損ないだと」
「お前の考えは聞いていない」
「ただ、男の霊が出たとしか」
「なんだ、つまらん」
 ああそれでも。そう思い出した風に炭治郎は付け加える。
「その赤い眼が良いとも言われていたな」
 無惨をじっと見つめてそう話すものだから、まるで口説かれているような気分。緩やかなさざ波がざあざあと音を立てる。ふは、! 耐えきれなくなった男が可笑しそうに笑うと青年は、怪訝そうな顔付きになってしまった。
「そんな言葉がお前の口から聞けるとは、化けて出てみるものだな」
「俺が言い始めたわけじゃないぞ」
「分かってるよそんなの、はあ、可笑しい」
 さっきまでの、沈んだ顔立ちが嘘のようにくすくす笑っている。少し腹立たしく思いつつも、嫌味もなく笑みを浮かべる様を珍しそうに眺めてしまった。
「害のなくなったお前は、なんだか可愛く思えるよ」
「こんな弱った男がか? ほんとうに趣味の悪い。それとも世話焼きの癖があるのか。怖いな、長男というものは」
「この減らず口。口から生まれたのか、お前は」
「死人のくせによく喋るなどと言って、口を汚せばいいさ」
「大人しくしてくれ。亡霊は殴れない」
 前言撤回だ。やはり腹立たしくて堪らない。
 ふいと男から目線を逸らし、静かにざわめく海を眺める。夜の海というのはなんだか、命を吸い込みそうな禍々しさ。星をも飲み込んでしまうぐらりと大きなさざ波が、光の無い深く淀んだ水面を浮かび上がらせる。凍えた血のような黒色。母なる海とはよく言ったもの。しかし国が変わればまた違う。唐国ではその字が闇を意味する晦に似ているため、海には良い意味合いを含ませないらしい。まあそれでも、月ばかりは明るい。あの輝きが此奴の夜道を照らしていた燈。
 ふわ、冷たい風に温まる体温が眠気を誘って欠伸が出る。
「愈史郎さん、絵を始めたらしいんだ」
「ふぅん」
 無惨は興味が無さそうに青年を見ている。
「白色」
 青年が再び、男の方に顔を向けた。
「この色がなかなか出せないと言っていた」
 だらりと垂らした腕を取ることもできないので、頬を指差す。この暗い海に溶けてしまいそうな白。つんと触れたつもりではあったがうっすらと透ける肌に指が飲み込まれてしまった。
 鬼になっても血の通いは薄い、白皚皚はくがいがいを思わせる肌が気に入らないようではあったが、その白肌に集まる男や女は多かった。それが如何にドーラン知らずでも価値ある女に仕上げるには粧すことが必須。少年がベニを乗せた無惨の頬に触れると指に白粉が付いたものだ。粉がうっすらと剥げても、見えた先は真白くどこまでが化粧か判らない。鉛白に身体を蝕まれないものだから、気味悪がられたと話していた様が懐かしい。今はもうその身体に触れることすら叶わないのだけれど。磨り硝子のように半透明な男の、いかにもな様にやはり笑ってしまいそうになる。
「上手く生まれ変われたら」
 炭治郎は重くなった瞼をどうにか開けて呟く。
「変われたら?」
「いや、なんでもない。どうせ反りが合わず喧嘩する」
「そうだろうな」
 ふわ、相槌を聞きつつも、また大きな欠伸。
「ああ駄目だ。眠くて敵わない。なあ無惨、俺を家まで運んでくれないか」
「できるわけないだろ。ここで眠って、寒さに身を落としてしまえ」
「うん、」
「おや、いやに素直だな」
 砂にまみれることも気にせず寝転がる子供。夜の奏でる子守唄というのは、翅を合わせる虫の声も顎の下を膨らませる蛙の歌も聞こえやしない。あるのはただ僅かな風の音。整えようとした姿勢が擦る布の音が、大きく響くような気さえする。
「おやすみ炭治郎」
 そう言って無惨は、淵のような海に朝日が差すまで、青年の顔を横目に見つつ、傾く月を眺めていた。

    ⁂

 ……いつの間にか眠っていた。
 既に日は登った様で、男の姿は消えていた。なんとなくもう会えない様な、そんな風に思った。凍える季節に一夜を過ごしても、息の続くこの身体。病に臥すばかりであった男の、孤独な心持ちについて知る由もない内臓。よく冷えた風に頬が引き攣って、ふと周りに目を運ばせれば、彼を嫌って激しく輝いた真赤い太陽と目が合った。朝日をちらちらと照り返す波の、その赫赫かくかくたる様! これではあの男と立場代わって、陽が溶かされているようではないか! 何度生まれ変われば彼奴と、燦々と炎を浮かべるこの光景を目の当たりにして肩を並べることが叶うのだろう。「太陽はなにも私達を焦がしただけじゃない。肉だって腐らせる。」……こんなもの、幻聴だ。あの遠く昇る赤を憎んだような物言い。焦がしたなんて語っているが、恋焦がらせられるの間違いに決まっている。頭を振って言葉を取り払う。これ以上聞こえてしまったら皆に頼んで煤払いでもしてもらおう。それでも駄目だったらお祓いにでも行くとするか。

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