秋村
香煙からたち
何やら貢がれている気分になるというのは、こういった一心たるアプローチに慣れていないからに他ならない。
そんなことを考えながら里谷は、片霧に貰ったカフスを袖からそっと外した。肩肘の張るジャケットを脱いでポールハンガーにかける。脱いだシャツは、やけに皺が寄って見えた。この時代に飛ばされて数年、あっちの世界での生活も役に立っているといえば立っているが、アイロンがけという作業だけは熱心にしていなかったため、どうも億劫になる。買い替えたので必要がなくなったと譲り受けた鉄製のそれは、部屋の隅に置かれて、時折埃を払われるだけだ。
薄生地の浴衣に袖を通す。着ることもなかった服も慣れれば楽なものだ。そもそも、そこまで服に頓着があった方ではない。一日の大半はよれよれのワイシャツで過ごしていたし、休日だって似通った色にしか身を包んでいなかった。スーツというものはどうも、平均的な日本人を洒落込ませるようにはできていない気がする。
まあ、関心のない事柄について、そんな風に言い訳がましく考えてしまうのは褒められた事ではない。里谷は溜め息を吐いて、淡緑の布を訝しむように一目見た。「一応、政治家なのでしたらもっと身なりを整えてはいかがですか」と、たまに会う鬼の少年に言われたことを思い出す。いつだって糊の効いたシャツを着ている彼に指摘されてしまっては、返す言葉もない。
それでも、清潔感ぐらいはあるつもりだ。今日も銭湯に向かおうと一式を手に取り、折角入った部屋から出た。
男は時々、間借りしているハイカラヤではなく、隠れ家としていた部屋で寝泊まりをしていた。別荘と称するにはあまりに寂れているが、天井の低さを気に入っている。秘密基地に焦がれた世代だ。巣とも表現したくなる狭い空間に心惹かれるタチがある。同じ世界からやってきた少女にガキガキ言ってはいるが、己だってそこまで立派に出来てはいないのである。
下駄に足を入れる。
外に出れば、夏の終わりをひしと感じた。
昼間の射るような日差しはまだ健在であるが、太陽が隠れれば心地の良い風が肌を冷やす。袖口から入ってきたそれに、前腕が人恋しそうに震えた。柄にもなく誰かに擦り寄りたくなるが、所謂
顔というよりか、その長身と髪色で判別したのだ。まだまだ明るさを褪させぬであろう店の提灯に、それはそれは鮮やかなオレンジ色が照らされている。
こうして会うのは数回目。彼は珍しく、目の前にいる男に気が付いていないようだった。その足取りは不審なほどにおぼつかない。
随分ふらふらしているじゃないか。そう声を掛けると、半開きの唇が先生と形を作った気がしたが、聞き取れるものではなかった。大凡酒にでも酔っているのだろう。そうでなければ困る。半ば心を騒つかせつつ、冷静ぶって話しかける。肩を貸そう。家か下宿に送っていくのがいいだろうが、具合が良くないんだろう。ここなら俺の家のほうが近いな。男の腕をこちらに回せば、麦酒の匂いが、むっと香った。繊細な作りをしているつもりはなかったが、麦酒はどうも悪酔いを急かす。
この育ちの良い男は、上品な面に似合わず若者らしい酒だって仲間と宜しく呑んでいたが、こうまで酔った姿はめずらしい。そんなことを、年下の男の肩を支えながら考える。大方、趣味の違う上官の板挟みで腹の中でちゃんぽんしているのだと悟った。
顔の少し下にいる項垂れた頭から、ううと唸り声がする。だいぶ酔っているな。というより醒めて気持ち悪さが残っているって風だが。ああ、いい。返事はしなくていいよ。俺の声に集中するのがいい。ゆっくり息をしてろ。もうすぐ着くさ、我慢しな。
常日頃すいすいと運ばれる懸河の弁も見る影なしに、口からはあつい息ばかりが漏れ出る。特別介抱に慣れているわけでもない。長い足を情けなく運ぶ若者を引き摺るように連れて、里谷は来た道を戻っていった。
おい、意識はあるよな。ん、よかった。少し楽にしていてくれ。
片霧はぴくぴくと痙攣する横隔膜を気にしながら、頼りのない視界で辺りを見た。そういえば見覚えのある玄関だ。ぐわんぐわんと回る頭に足音が近づく。横に洗面器を置かれ、白いシャツに手をかけられる。カマトトぶる他ない目元だけが、ぼうっとそのツムジを眺める。
一体何を飲まされた? 悪いものじゃなかろうね。ほら、吐いちまえ。……へたくそ、里谷は背後から男のくちに手を回し、中指のハラを唇にぐいと押し当て、躊躇なく、そこを開こうとする。抵抗をみせる冷めた皮膚の奥にはいって、舌の底を押すと、食道の震えが伝わってきた。そう、そう、上手だ。子供をあやす風な口調が耳に触れて堪らなくなる。ごめんなさい……。いつになくしおらしいな。待ってろ、水を汲んでくる。
飲めるか? はい、すみません……。
水を汲んだ椀を口に当てて、くいと傾ければ、彼は大人しくそれを含む。くちをゆすぐといい。男の言葉に、いやと小さく首を一度降る。気持ち悪いんだろう。いいから。そう制すれば、言葉に体が反応したように顔を顰め、遠慮がちに
せんせい。
里谷は、手元を確認するには心許ないオイルランプを頼りに書類を片付けていた。目の覚めたらしい男に声をかけられ、面倒見が良いと評判の里谷は静かに次の言葉を待った。けれど男は「先生」と呼んでから、すっかり黙りこくってしまった。寝言だとしたら随分いとけないものだ。そっと振り返れば、壁を向かせていたはずの顔は、いつの間にかランプの仄かな光を受けている。観察するみたいに眺めると、もぞもぞと身動いをして、まだ夢ごこちな雰囲気で男のほうを見た。
先生、先生なんですよね。
その目は、机の隅に積まれた里谷の著書をそっと眺めている。
そういえば彼は時折、彼の書いた小説を読み返している。それもかなり熱心に。曰く、文章というものは否が応でも作者の内面が影響するだとかで、自分のことを話そうとしない彼の内情をわずかにでも知ろうとしているらしい。正直、処女作ともども他数作品は、後悔を砂糖で塗り固めたような話だ。とてもいい出せないけれど、しっかりと里谷の心情が反映されている。しかし、難解とまでは言わないが所詮、都合の良いあまいナパージュの被さった物語。過去を紐解かせるにもきっと限界がある……ことを祈る。
なんだ。好きな作家がこんなんで幻滅したのかい。随分今更だな。
見れば、甘い面貌がよわよわしく舟を漕いでいる。ゆるやかな稲穂色が枕に弛んで、あまりに威厳のない光景だ。
いえ、他ならぬ自分に嫌気が差しているんです。先生によくされることに甘んじて、調子に乗っている自分がいる。そんな溜め息を吐きなさんな、俺が悪いことをしている気分になるじゃないか。面倒なことを考えているらしい彼に適当に返答すれば、掛け布団から腕が伸びてきて、畳についていた節立った手に触れてきた。こうして触れると尚更です。美しい白昼夢を描く手を、こうして掴むことができる。
里谷はつい、ぐっとと口籠ってしまった。また、口説かれている気分になる。小説家なぞと言っても、普段からペラペラと二枚目半のような台詞を吐いている筈もない。こうした甘やかな言葉が自分に向けられているというのは、それこそうつうつの夢じみた気分だ。
返す言葉に詰まっていると、そのうち彼は、頬を布団に擦って目をつむった。……なんだ、眠いのか? いえ、先程は申し訳ありません。別にいい。介抱ぐらい引き受けてやるさ。青白い顔を見るのはもうごめんだがな。男が冗談っぽく笑みを浮かべれば、彼もごめんなさいと笑った。
里谷はまつりごとに身を置くうえ一度置いた筆を再び取って、小説を書いていた。
たびたび小説のネタになりそうだと言っていたのだが、その都度期待するように眉を動かす色男の反応を気に入っていたらしい。傍観ぶってそんなことを思いながら、里谷は今度の短編について考えていた。幻想に飽いたわけではない。せっかくの未来への時間旅行を反映するのも良い手だが、なんせ見たものといえば見る影もない荒廃した未来であった。あんまり暗いテーマを烟らせて、ダダイスムに傾倒したと思われるのは御免だ。
隣で眠る男の好きなローマンスを少しばかり含ませるのも良いかもしれない。なあ、俺は存外、あんたに夢中らしいよ。……どうして他人事なんです。起きていたのか、狸寝入りとはかわいくない。
机に向かう身体をずらして、覆いかぶさった。深緑色がオレンジに混ざる。熱いな、あんた。案外子供体温だ。僕は、立派な日本男子ですよ。
なに、いつ捨てられてやっても俺はあんたを憎まないよ。僕は恨みますよ。力のこもった話し振りに、そうかいとだけ返した。
余裕な訳があるか。熱に浮かされてしまえば甲乙の区別も付かないノータリンになる。なんなら今から試してみてもいい。なんて、な。熱の籠る後ろ首に手をかけて、口付けをする。ペタと指先の張り付く感覚が。
今宵の月は貴方を照らしたくて堪らないようです。くちづけを条件反射のように享受するのは年上の矜持というやつだ。驚いた顔すら見せない里谷は、ふっと離された端正な顔に。月とはあんたのことかい。どうとでも。やめておけ、酔い潰れのロミオ様。ほら、ぴくりともしていないじゃないか。指摘をすれば片霧は恥じるより先に、む、と唇を尖らせた。
自分から仕掛けておきながら、酒が所以の一時的なインポテンツをどうこうするほど熱烈な意志はないらしい。どうにも意地の悪いマッチポンプ癖があるのか、それともできないと分かって魅力的な言葉を投げかけてくるのか。
里史さん。こら、名前を呼ぶのは禁止カードだ。
本名を教えさえしたが、彼は里谷のことを変わらず「村雨先生」と呼ぶ。敬意と尊敬と、それと少しのシチュエイション・マニアなところがあるせいだ。小説家とファンといった立場を大変に気に入っている。
子猫に語りかけるようなくすぐったさで名前を呼ばれると、可笑しさの中に愛おしさが混じってしまって困る。何も反応が鈍くても方法はありますし、なにより僕が、いま、先生の肌にふれたくて仕方がない。心臓の音でも確かめるみたいに触れた。そういえば風呂に入りそびれていた。この男だってそうだし、鼻も利いていないだろう。熱い手のひらが好く馴染む。
似合わない酒の匂いと、汗。
詰まるような息継ぎに目敏く気付かれて、後は。
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