複雑回帰(過去選)
薄暗闇の中で椅子に腰かけている男が居た。
そこは空気の擦れる音が聞こえるほど静かな部屋だった。男と椅子と暗闇以外には、そこには何もない。
何もないが、時折ちらほらと光がさすことがある。どうもその部屋には窓があるようで、ぱ、といきなり明るくなったかと思えば、すぐにまた、暗くなる。
だがそれも、男が覚えている限りでは、数えられるくらいに少ない回数しかなかった。始めて明るくなった時には、立ち上がって喜んでみたりもしたが、それでも周りが変わるわけではない。
男はそれを繰り返すうちに、何もする気が起きなくなって、最近——と言っても一、二年ほど前から——はずっと、椅子に腰かけて、真反対の壁にある、扉を見つめるだけの日々が続いていた。
ある日、男がいつものように扉を見つめていると、やおら開きだした。
男は吃驚した。それは、扉の向こうから、例の光が漏れていたせいではなく、嫋やかな、男か女かまるで見当もつかない顔をした人が、この部屋へ入ってきたからだった。
しばらく男はその人に目を奪われていた。——その美しさといったら。まるで光をそのまま寄せ集めて、固めてしまったような。
その人が椅子を引きずってきて、男とちょうど背中合わせになる位置にまで持ってきた。そこで男は、ようやく自分の心を取り戻した。
どうしてこんなところに、このような美しい人が来るのだろうか。ひょっとしてここは病院か何かで、この人も隔離されて来たのか知らん……男が考えている間に、その人は持ってきた椅子に腰かけた。そして満足そうなほほえみをして、ドアもない真っ暗な壁を見つめた。
「あの……」
男はおずおずと口を開いた。その人は何やらわからぬといった、呆けた顔で、目をまん丸くしていた。
「あなたは……あなたの名前は……?」
「オヤ、これは失礼しました。私の名前は”こころ”です。」
中性的な、透き通るような声だった。あわよくば声から性別を聞き分けてみようと思ったが、これではわからない……
”こころ”は心底嬉しそうに男の方を見ていた。男は、なぜだか気まずくなって、次の質問を続けた。
「あなたはなぜここに?」
すると”こころ”は、一寸申し訳なさそうな、うつむき加減の顔で、
「あなたがここにいるからです。」
と言った。男は増々訳が分からなくなった。髪を思いきり搔き乱す。搔き乱しながら、どういうことだと考えてみたものの、一向にわからない。
男はそのあとも、いくつかつまらない質問を続けた。
その度に”こころ”は、とてもうれしそうな顔で答える。
いくつか問答を繰り返し、男はまた、さっきと同じ質問を、語勢を強めて聞いた。
「あなたは、あなたはなぜここに来たのですか。」
”こころ”は、大声に吃驚したと見えて、一瞬だけ驚いたような表情をした。そのあとに、これまでには見せなかった、口を真一文字に結んだ、神妙な面持ちで答えた。
「あなたを、あなたをここから出しに来たのです。」
次は男が吃驚した。この人が、私をこの暗闇と、静寂の他何もない場所から連れ出してくれるのか。そう思うと嬉しかったが、どうも男は半信半疑だった。
短い沈黙が流れた。そのとき、男の頭にあることがよぎった。——よく考えてみると、私は私自身の名前さえ知らないじゃないか……
だがこの、”こころ”と名乗る人はどうだろう。私より、私のことを知っている様子だ。ならば私は、”こころ”のことではなく、私のことを聞くべきではないのか?……
文字に起こしてみればたった数秒の、なんとはない沈黙を、意を決して男は押し破った。
「すいません」
”こころ”は笑顔だった。さっきの、男を連れ出しに来たと言った時の表情とは、似ても似つかないほどの、可憐で、凛々しく、気品のあふれる、美しい笑顔だった。
「私の、私の名前は何というのですか。」
すると”こころ”は、今までにないほどに目を見開いた。余程吃驚したのだろう。口からは無意識と見える、悲鳴にも似た、短い仰天の声が漏れていた。
男はそれを見て、——私と”こころ”には、やはり何か、深い関係があるのだ、と確信した。
こころはすでに、先ほどの真顔に戻っていた。
「あなたの」
男は耳を澄ませた。例えどのようなことがあろうとも、この言葉だけは聞き逃してはならない。
一言一句を体にしみこませ、咀嚼し、余すところなく吸収してしまうような意識を以て、男は”こころ”の言葉に耳を傾けた。
「あなたの名前は”自分”です。」
そこは空気の擦れる音が聞こえるほど静かな部屋だった。男と椅子と暗闇以外には、そこには何もない。
何もないが、時折ちらほらと光がさすことがある。どうもその部屋には窓があるようで、ぱ、といきなり明るくなったかと思えば、すぐにまた、暗くなる。
だがそれも、男が覚えている限りでは、数えられるくらいに少ない回数しかなかった。始めて明るくなった時には、立ち上がって喜んでみたりもしたが、それでも周りが変わるわけではない。
男はそれを繰り返すうちに、何もする気が起きなくなって、最近——と言っても一、二年ほど前から——はずっと、椅子に腰かけて、真反対の壁にある、扉を見つめるだけの日々が続いていた。
ある日、男がいつものように扉を見つめていると、やおら開きだした。
男は吃驚した。それは、扉の向こうから、例の光が漏れていたせいではなく、嫋やかな、男か女かまるで見当もつかない顔をした人が、この部屋へ入ってきたからだった。
しばらく男はその人に目を奪われていた。——その美しさといったら。まるで光をそのまま寄せ集めて、固めてしまったような。
その人が椅子を引きずってきて、男とちょうど背中合わせになる位置にまで持ってきた。そこで男は、ようやく自分の心を取り戻した。
どうしてこんなところに、このような美しい人が来るのだろうか。ひょっとしてここは病院か何かで、この人も隔離されて来たのか知らん……男が考えている間に、その人は持ってきた椅子に腰かけた。そして満足そうなほほえみをして、ドアもない真っ暗な壁を見つめた。
「あの……」
男はおずおずと口を開いた。その人は何やらわからぬといった、呆けた顔で、目をまん丸くしていた。
「あなたは……あなたの名前は……?」
「オヤ、これは失礼しました。私の名前は”こころ”です。」
中性的な、透き通るような声だった。あわよくば声から性別を聞き分けてみようと思ったが、これではわからない……
”こころ”は心底嬉しそうに男の方を見ていた。男は、なぜだか気まずくなって、次の質問を続けた。
「あなたはなぜここに?」
すると”こころ”は、一寸申し訳なさそうな、うつむき加減の顔で、
「あなたがここにいるからです。」
と言った。男は増々訳が分からなくなった。髪を思いきり搔き乱す。搔き乱しながら、どういうことだと考えてみたものの、一向にわからない。
男はそのあとも、いくつかつまらない質問を続けた。
その度に”こころ”は、とてもうれしそうな顔で答える。
いくつか問答を繰り返し、男はまた、さっきと同じ質問を、語勢を強めて聞いた。
「あなたは、あなたはなぜここに来たのですか。」
”こころ”は、大声に吃驚したと見えて、一瞬だけ驚いたような表情をした。そのあとに、これまでには見せなかった、口を真一文字に結んだ、神妙な面持ちで答えた。
「あなたを、あなたをここから出しに来たのです。」
次は男が吃驚した。この人が、私をこの暗闇と、静寂の他何もない場所から連れ出してくれるのか。そう思うと嬉しかったが、どうも男は半信半疑だった。
短い沈黙が流れた。そのとき、男の頭にあることがよぎった。——よく考えてみると、私は私自身の名前さえ知らないじゃないか……
だがこの、”こころ”と名乗る人はどうだろう。私より、私のことを知っている様子だ。ならば私は、”こころ”のことではなく、私のことを聞くべきではないのか?……
文字に起こしてみればたった数秒の、なんとはない沈黙を、意を決して男は押し破った。
「すいません」
”こころ”は笑顔だった。さっきの、男を連れ出しに来たと言った時の表情とは、似ても似つかないほどの、可憐で、凛々しく、気品のあふれる、美しい笑顔だった。
「私の、私の名前は何というのですか。」
すると”こころ”は、今までにないほどに目を見開いた。余程吃驚したのだろう。口からは無意識と見える、悲鳴にも似た、短い仰天の声が漏れていた。
男はそれを見て、——私と”こころ”には、やはり何か、深い関係があるのだ、と確信した。
こころはすでに、先ほどの真顔に戻っていた。
「あなたの」
男は耳を澄ませた。例えどのようなことがあろうとも、この言葉だけは聞き逃してはならない。
一言一句を体にしみこませ、咀嚼し、余すところなく吸収してしまうような意識を以て、男は”こころ”の言葉に耳を傾けた。
「あなたの名前は”自分”です。」
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