右手
職業と云ふのは大変人の生活を造るもので、勿論其は手に於いても例外では無い。
例へば僕なんぞは筆 胼胝 を患つてゐるし、此 がもし軍人やらになつたならば、泥塗 れの、武骨な手であつたのであらう。
兎も角、次に記すのは其様 な話である。
彼 れはまるで武蔵野の如く、都会近くの田舎町であつた事だけ覚へてゐる。
国木田の武蔵野を読んだから、似た場所へ行きたいと思つた。此処で僕が武蔵野を散歩せむとしなかつたのは、偏 に泡 のやうな自尊の心の所為 に他ならない。
然しながら、詳しく思い出せと云はれると、地名さへ思い出せない。其 なので、貴君らが此処に至る事は諦めて貰ひたい。
僕は其処で、一面の芒野 を絵に収めてゐた。友人の好事家 が存外高い値段で買い取ろうとしたが、今では唯一 つの思い出であるので、断つた。
僕が彼の、夕方の海を振り撒いた位の金色を漸く再現せしめた頃、背後から呼ぶ声が聞こえた。
振り返つてみると、一人の男が立つてゐた。背は180糎 を超えており、服越しでも隆起した筋肉が確 と見へる。
男に返事をするより早く、男の声は飛んで来た。
「貴方 、絵描きだらう。
否 ね、今日丁度、俺の誕生日であるのだ。
なのでどうだろう、俺の絵を描いてくれまいか。」
あまり覚へてはゐないのは先に記した通りであるが、凡 そ此 な調子であつたのは記憶してゐる。
僕は描きかけの芒野の方を処理してから、直ぐに何時ものに取り掛かつた。
さて、彼の右手はまるで戦場帰りのやうに古傷が刻まれてゐた。
手の彼方此方 に凹凸が走つており、癒着 した肉の痕が、異様に血の気の無い肌となつてゐた。
然 し、奇体な事に此傷 が皆、如何 も見事な形を作つてゐるのだ。例へば此 手が軍人の手であつたならば、先ず傷が何かを描く様な事は、無いと云へる。
其処 で僕は、其男に尋ねた。
「大工を、してゐるのでありますか。」
すると男は、吃驚 した調子で云つた。
「解るのかい、流石 、絵描き殿は目が良いのであるな。」
此処より先の大工の言は失念して了つたけれども、あまり取留めの無い会話であつたと思う。
だが彼は、今日は休みだと云ふ。さう聞くと、貴重な大工の休みを、増してや彼の誕生の日を、僕なんぞが邪魔して了ふのは忍びないと思つた。
思つたので、僕は斯 、彼に云つた。
「此後 、一緒に善哉 を食べませんか。
甘物 は力に成りますし、何より善哉 と書いて“ぜんざい”と読みますれば、縁起の良い食物である事には、疑ふ余地さへ見せませんな。
勿論、此は僕からの贈物 とさせて頂きます故。」
さうして出来上がつた似顔絵を、彼のケヱスのやうな木造り鞄に仕舞い込んでから、近くの甘味処に寄つたのであつた。
例へば僕なんぞは
兎も角、次に記すのは
国木田の武蔵野を読んだから、似た場所へ行きたいと思つた。此処で僕が武蔵野を散歩せむとしなかつたのは、
然しながら、詳しく思い出せと云はれると、地名さへ思い出せない。
僕は其処で、一面の
僕が彼の、夕方の海を振り撒いた位の金色を漸く再現せしめた頃、背後から呼ぶ声が聞こえた。
振り返つてみると、一人の男が立つてゐた。背は180
男に返事をするより早く、男の声は飛んで来た。
「
なのでどうだろう、俺の絵を描いてくれまいか。」
あまり覚へてはゐないのは先に記した通りであるが、
僕は描きかけの芒野の方を処理してから、直ぐに何時ものに取り掛かつた。
さて、彼の右手はまるで戦場帰りのやうに古傷が刻まれてゐた。
手の
「大工を、してゐるのでありますか。」
すると男は、
「解るのかい、
此処より先の大工の言は失念して了つたけれども、あまり取留めの無い会話であつたと思う。
だが彼は、今日は休みだと云ふ。さう聞くと、貴重な大工の休みを、増してや彼の誕生の日を、僕なんぞが邪魔して了ふのは忍びないと思つた。
思つたので、僕は
「
勿論、此は僕からの
さうして出来上がつた似顔絵を、彼のケヱスのやうな木造り鞄に仕舞い込んでから、近くの甘味処に寄つたのであつた。