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山田短編集

織部少年は、芦田を連れて家に帰った。家族は出かけている。
 彼は芦田に国語の宿題を教える約束をしていた。彼女は万能だが、どうしてか国語は不自由であるらしい。中でも感想を書けだの、作者の気持ちを答えろだの……そういった問いが苦手だと、彼女が珍しく口を開いたときを覚えている。彼女は無口で、感情も表に出さないような人だった。
 彼らは二階に上がった。いくつか並んだドアのうち、一番近いのを開ける。それは織部の部屋だった。小さいが、冷蔵庫も置いてある。彼はそこから紅茶と、たまたま近くにあったクッキーを芦田に差し出した。彼女は軽く頭を下げた。
「さて……じゃあ、さっそく始めようか。」
 織部が鞄から数枚の原稿用紙を取り出す。今日の国語の宿題は、よりにもよって芦田の一番苦手な感想文だった。もっとも、よくあるような小説で、教訓や言わんとしていることもなんとなくわかるような文章だったから、彼は授業に退屈しながらも要点を抑えることはできたし、感想文を書けと言われた時には、休み時間を使ってすぐに終わらせた。うちの学校は三時間の終わりで昼食に入るから、こういう時に楽だな……と、彼は思った。
 今日、国語を教えてほしいと言ってきたのは、芦田の方からだった。織部もなんとなく予想はしていたが、実際に来たときは少しびっくりした。彼女はあまり、自分の席から立たない人だからだ。彼女はその時、織部にしか聞こえないような声で耳打ちした。その内容は予想通りだったが、彼女がぱたぱたと席に戻った時、一緒に食事をしている仲間からはやし立てられたのには少し赤面した。彼らは実のところ、付き合ってさえもいなかった。
 芦田も手提げの鞄から、丁寧に折りたたまれた原稿用紙を五枚だけ取り出した。必要な字数は最低でも三枚以上、とのことだったが、先生は余剰に見積もってくれていた。
 しなやかな指がクッキーの袋を破った。彼女はそれをゆったりとした動作で口に運ぶと、静かに食べ始めた。半袖のブラウスから伸びている腕は華奢だったが、決して不健康と言える細さではなかった。手首から緩やかなカーブを描いている腕は、程よい具合に張っており、彼女自身のみずみずしさを織部に伝えさせた。
 気が付くと彼は、芦田の指を見ていた。しなやかで、今にも折れそうなほどにはかない、彼女の指を。彼女の方もそれに気づいたようで、クッキーを机の上に置くと、そっと織部の手を握った。
 彼はしばらく呆けた顔で芦田の方を見ていたが、彼女がいたずらをした少年のような顔つきで笑いかけながら、重ねられた手を眼前に持ってきたので、一気に顔が上気するのが分かった。彼女は無口な代わりに、よく笑う人だった。
「あ、あの、芦田さん……?早くやってしまおう?」
 織部は顔を真っ赤にして、明後日の方向を向きながら、何とか言葉を紡ぎ出した。やや上ずってはいたが、胸が内側から痛くなるような動悸の前では、気にすることすらできない些事だった。
 ……さて、どれ程経っただろう。織部が原稿用紙を覗いてみると、まだ一枚も終わっていなかった。
「苦手って言うのは本当なんだね、芦田さん。」
芦田はばつが悪そうに笑った。眉がハの字になっている。内容を見てみると、物語のあらすじに触れた時点で止まっていたので、それから先を書くのに悩んでいるわかった。
「芦田さん、何かこの話で……そうだな、感じた事とかないの?」
織部は聞いた。だが、彼女は首を横に振った。彼女はそういう性格だった。おそらく、何かを感じてはいるはずだが、それを表に出すことを何より不得手とするような、そんな性格だ。
「じゃあ……面白いと思ったところは?」
そう聞いてみると、芦田はあるページを開いた。そこでは登場人物が、仲睦まじく笑いあっていた。
「へぇ……じゃ、その理由とか、書いてみたらどうかな。感想文なんだしさ。」
 芦田はへにゃりと笑った。まるで崩れるような笑顔だった。そしてまた、織部が大好きな笑顔だった。
 それはどうも、了解の合図らしかった。彼女はいつもその笑顔を織部に見せたあと、怒涛の勢いで文を書く。彼女には書きたいものがないのではなく、むしろそれは十二分に、ありすぎるほどに存在しているが、ちょうど宙に舞うしゃぼん玉のように不確かでふわふわとしており、それを彼がやり方を教えなければ、捕まえきれないようにさえ見えた。
 そしてわずか十分足らずで感想文を書き終えた。彼女は呑み込みが早い。その文は彼の教えたすべての点をクリアしているばかりか、彼の手を離れ、より素晴らしいものを生み出していた。
「うん、やっぱり芦田さん、さすがだね。これならもう言うことはないや。」
 彼女はやはり何も言わない。ただ、その言葉を受けて、顔がわずかにほころんだ気がした。気がしただけかもしれない——だが、それでもかまわない。大切なのは、今は少なからず彼女に必要とされていること……つまりは、僕がまだ・・、幸せでいられること。

 それから織部は国語の教本を閉じた。そしてベッドの方へと移動した。ここの方がわずかに話しやすい。彼女にはなぜか、宿題を終えても部屋に残るくせがあった。なので三回目に訪れたときあたりから、ベッドに移動して、少しばかり話すという習慣が、彼らの間には出来ていた。
「さて、じゃあ今日は何の話をしようか、……そうだ、僕の好きな本の話はしたっけ?」
 彼女は答えなかった。その代わりベッドに移動したときからずっと、柔らかいほほえみを見せていた。織部は彼女が、心から楽しんでいるとき以外には笑わないというのを知っていたし、何よりそのほほえみに安堵らしきものを見出していた。
「細雪はどうかな、きっと好きだと思うんだけど」
 本棚から『細雪 上』と表紙に書かれた本を取り出した。ぱらぱらとめくりながら、あらすじと、好きな場面の解説とを、交互に彼は話していった。その間ずっと芦田は声を出さなかったが、ほほえみを絶やすことはなかった。
 説明を終えたころ、すでに時計は五時半を指していた。織部は、いつものように「帰り、送っていこうか?」と尋ねる。芦田は首を振った。
 ここまではいつもと同じだった。だがすぐに、彼はおかしなことに気付いた。芦田がまだ帰ろうとしないのだ。彼の母は、まだ帰ってくる気配もない。
「どうしたの?……」
 尋ねるが、返事がない。彼女は首も降ることはなかった。その顔からは笑顔も消えていた。
 彼はぎくりとした。何かまずいことをしてしまったのではないか——そんな考えが、頭の大半を占めるようになっていた。彼はすぐに原因探しに走った。だが、一向に思い至らない。いつもと同じ対応をしていたはずだ。否、ともすればそれこそが、最も大きな原因であるのかもしれない。
 彼には芦田の無反応の理由がわからなかった。口を吐いたのは、謝ろうとする意志だった。
「あ、あの!……」
 突然だった。彼が言葉を発しているその時に、芦田が彼の両肩に手を置いた。そして、自分以外の——もしかすると自分も含めてか、或いは自分だけが、かもしれない——景色がぐわんと真下の方向に向かう。次に明瞭な視界に戻った時には、彼がいつも寝るときに目にする、代わり映えしない白天井。その次に、死角からひょこりと顔を出した、芦田の姿だけが映っていた。
 不意に織部は、痛みのない、やさしい衝撃によって、自分の体がすでに押し倒されているのを悟った。
 だが、なぜか彼には屈辱は無かった。芦田の綺麗にそろえられた髪が自分のために乱れている。それを知れただけで彼は満足であったし、ほかのことなどもう、どうでもよくなっていた。
 織部は、急に動悸が早くなった。まるで心自身——もしそのようなものが、心臓にあれば、だが―が、彼女の顔を一目見んとしているような、そんな途方もない圧迫感と、しあわせのさなかに彼はいた。彼は今まさに、自分の置かれた状況を把握し始めている真っ最中だった。心臓が一回一回鳴る度に、自分の顔があつく、そしておそらくは赤くなっていくのさえしっかりと感じられた。彼は、芦田の顔をこんなに間近に見るのは初めてだった。なぜか、彼女の唇が熱と水気を帯びた、ひどく艶めかしいものに見えた。彼は慌てて目をそらした——なぜだか一心不乱にそこを見つめるのが、たまらなく恥ずかしいような気がしたのだ。だが、彼には目を上に向ける勇気もなければ、下を向いて彼女の胸を直視するような勇気もなかった。彼はどうしていいかわからなくなり、ぎゅっと固く目をつむった。
 すると芦田は、少し、音も聞こえない程度に笑った後、織部の頬に手を添えた。そこには赤子をあやすような、慈愛のような優しさが込められていた。彼もそれに感化されるように、ゆっくりと目を開いた。押し倒されてから初めて、彼は芦田と目を合わせた。
 それから、芦田はいたずらっぽく、口だけでにいと笑って見せた。そして口元に、人差し指を立てて持ってきた——まるで子供に、「静かにしなさい」と言い聞かせるように。
 ……それから起きたことは、二人が語らないので、誰も知らない。
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