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短編

 木曽路は全て山の中にある。
 その書き出しで知られる物語を手に取る切っ掛けは、やはり特務司書という仕事だという事は否定できない。その前なら手に取ることすらしていない、いや、下手したら気にもしていないかもしれない。読んでしまえば案外すんなりと読めるというのに、純文学、というだけでなんだか小難しく、近寄りがたい物のように思えてしまうから、いけない。
 書き出しというものは小説にとってかなり大切で、そこで読者を惹き付ける物語か否かが決まるという。走れメロスの「メロスは激怒した」とか、舞姫の「石炭をばはや積みてつ」とか、そんな事を高校時代の教師が話していた記憶があって、この「木曽路は全て山の中にある」は十分人を惹き付ける魅力がある書き出しだと思いつつ、私はそれを思い出していた。その2部構成な上にどちらも上下巻あるという途方もない物語を読み終えたのは、読み初めてから一週間後の真夜中であった。巻末に書いてある解説までもついつい読んでしまうようになったのも、特務司書という仕事故だろう。
 だから、この物語が。
 島崎藤村の「夜明け前」が、彼の父親をモデルにした物語だと知って、なんとも言えなくなった。
 
 
 真夜中であるにしろ、この図書館に居るのはほとんど大人である為、誰かの部屋で酒盛りをしていたり、談話室で文学論を交わしていたりする。朝までバーで飲んでいる人も散見される。だけど流石にこの真冬の、しかも冷える真夜中に外へ出る人は居ない、と言ってもいいだろう。普通なら。
 
「藤村先生なんで外に居るの……」
 彼を転生してからそこそこの月日は経ったけれど、その突拍子もない行動には未だ慣れないでいる。
 このたいへん寒い中に、なんでまた。しかもこの、私が夜明け前を読み終えたタイミングで。まるで図ったかのように。少しどきりとしたし、以前オダサク先生が面白おかしく語ってくれた「図書館の幽霊」の話のオチが、実は幽霊が藤村先生だった、というのを何故だか今思い出した。
 窓の外、闇に溶け込みそうな外套を追いかけるように私も外に出た。
 
 
「風邪、引きますよ」
「風邪って引くのかな、この身体で。それもまた興味があるな」
 ふむ、と考えるような仕草をして藤村先生はそう言った。今日も彼の飽くなき好奇心と探求心は絶好調のようだ……ではなくて。
「そもそもなんで外に……こんなに寒いのに」
「……散歩?」
 ずっこけそうになった。なんでもたまたま目が覚めて、することもなかったから夜の散歩。真夜中の中庭の様子も取材してみたかったし、どうやら中庭には不可思議な生物が出るなんて噂も出ているし、とのこと。正直どこをどうしてどうなったと言いたい、というか私なら確実に二度寝を決め込む。
 
「そうだ、先生。聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
 取材されるって事かな、という言葉にはい、と頷いた。
「先生の著作である「夜明け前」についてです」
 本人に聞くだなんて少しずるいかな、と思ったけれど、気になってしまったものは仕方ない。意外とも言えるほど、反応は薄かった。著作を読んだと言えばほとんどの先生はわかりやすく嬉しいという感情を表に出すし、人によっては感想を急かされたりもするけれど、藤村先生は「へぇ、読んだんだ」くらいだった。まあ、藤村先生らしいと言えば、それらしい。
「父親がモデル、なんですよね。あの主人公」
「そうだよ。書いた時の事はまだ思い出せないけれど」
 死んだ時の記憶もね、と続いて、そういえば彼はいつぞや今の自分が死んでそこからまた転生し直せば覚えている可能性が高い、なんてリスクしかない事を言い出した事があった。もちろん阻止した。
「でも多分、忘れたくなかったんだと思う」
「え?」
「父親の事を。当時の“僕”が父親の事をどう思っていたのかは分からないけど、うん、書いて整理したかったのもあるかもしれない。心の底から、書きたいって思ったんだろうね」
 そうじゃなきゃ、あんなに長ーい作品にはならないよ。表情を一切変えず先生はそう言った。
 整理したかった。多分それは自分の血筋のこと。「親譲りの憂鬱」について。特務司書になるまで純文学とはそれほど縁のない生活をしていたからその辺りは未だ勉強中、というのが本音ではあるけれど、書きたかったから書いた、というのはわかりやすくて良いなと思った。
 
「……寒いから、中に入りましょう。お茶を用意します」
「うん。流石にそろそろ寒いね」
 なんて声をかければ良いのかわからなくて、とにかく図書館へ誘導する。話をするにしても暖かい図書館の方がいいだろう。そこでゆっくりと話をしよう。色々なこと。我々にはきっと互いを知るための対話が必要だ。
 
 まだ夜は明けない。
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