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短編

 何処ぞの図書館の特務司書と、その図書館に転生した太宰治が、情死したらしい。たびたび流れてくる話であった。
 そいつは、ただそれだけのつまらない女だったのだろう。たまたま、本当に偶然、今日はやけに天気が良いから昼を中庭で食べよう、と思い立ってやってきた時、既にベンチを陣取っていた先客の坂口先生は言った。どうしてこんな話になったのかは、わからない。最初は世間話からだったのだから、そういった話を出さなければ、到底この流れにはならない筈なので、私か坂口先生のどちらかが話題にしたのは確かなのだが、そういえば、と話題に出したのは、どちらだったか。まあいい、大事なのは話題に出したのが誰か、という事より、その話題の内容である。
 いつぞや、というか、生前、同じような事を書いていましたよね、と問えば、当たり前だろう、と返ってきた。確かに当たり前だ。彼は、坂口安吾だ。坂口安吾なのだから、太宰治考がいまさら、一度くらい転生しただけで変わるなんて、あり得ない。
「その点、うちの太宰は大丈夫だろうな」
「はあ」
 どうしてそうも、自信満々に言い切れるのだろうか。不思議でならない。どうやらそれが顔に出ていたようで、坂口先生は、心底面白そうな声色で「あんたは確実に、ただのつまらない女に大人しく収まる器じゃないだろ」と述べた。それ以上は期待できそうになかったから、私は「それはどうですかね」と、無理やり話を切った。
 買いかぶり過ぎではなかろうか、という言葉は、音にならなかった。
 
 つまらないとか、とるに足るとか、一体どんな基準なのだろうか。私は文士でないから、いや、例え文士であっても、私には理解できなかったように思う。今現在、図書館の中庭で私と語り合っている(彼が一方的に語っていると表現したほうがより正しいが)坂口安吾にしても、つまらない女だの言っていてもその基準を理解しての発言か、という点は疑問が残る。
 いや、基準なんてないのだろう。我々が適当に、つまらないとか、とるに足るとか言っているだけで、そこに明確な基準はない。太宰治と仲良く情死なされた特務司書にしても、もしかしたら、私の基準ではとるに足る女であったかもしれないのだ。
 ああ成程、つまり私は、彼の、坂口安吾の基準で「とるに足る女」ということなのだろう。だから太宰治と情死はしないと、そう判断したのだろう。
 実際、坂口安吾の意見は正しいと言える。自分の死期は自分で決める。情死なんてまっぴら御免だ。頼まれたって死んだりしてやらない。生に執着する、強固たる理由があるわけでもない。ただ、死にたくないから生きる。

 文士の生き方は、わからない。文士ではないから。彼らにも、文士の意地があって、信念があって、誇りがあって、矜持がある。それだけわかればきっと十分ではなかろうか。それ以上を求めてしまうか、あるいは、『わかったつもり』になってしまうと、いけない。ふらりと、玉川上水なんかで、二人仲良くあの世への片道切符を切ることになる。まったく道化のやることである。富士には月見草がよく似合うように(あれは実のところ宵待草らしいが)、道化には道化がお似合いなのだ。
 道化になることの出来ない、いや、道化になりたくない私は、情死相手に似合いでないのだから、してやらない。最期の晴れ舞台の相手は、私じゃなくて、他の女が適任だろう。
 最終的には、そういうことである。
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