信介くんと、結婚前の恋。
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誰かの為の結婚?
私は正解だとは思わない。
自分の気持ちを大切にしたいから。
「あんた、良い人いないの?」
また始まった。最近、実家に顔を出すとこれだ。
「別にいいでしょ。お母さんには関係ないじゃん。」
「そうは言ってもねぇ。あんたの友達もだんだん結婚してるし、お母さんだって孫の顔見たいわぁ。」
「そんな事言われても無理なものは無理なの。じゃ、そろそろ帰るね。」
母親の愚痴にたまらず実家を後にした。
結婚することは素敵だよ?
でも、親の都合で無理矢理決めるのは、私には違うの。あー、だってこんなにもやもやするし……!
結婚するなら、ちゃんと自分が好きな人と結婚したいよ。
「夢見過ぎなのかなぁ?」
実家であった事を、幼馴染の信介くんについ愚痴をこぼしてしまう。
「夢見過ぎ、とは思わんけどな。ただ、」
私が淹れたまだ湯気が立つほどの紅茶を、彼は一口含み、それから私を正面から見据えて続けた。
「◯◯のおかんも、心配で言うてはることだけはわかってやってな。」
「……うん。」
彼が手土産にくれたケーキをつつきながら一人ごちるように頷く。結局、信介くんも母親寄りなのかなぁ。
そわそわして胃のあたりが痛くなる。湯気が立っている紅茶に映る私の顔はなんだかいつもより歪んでいるようだ。
「でもさ、孫の顔見せるために結婚するとかは私には無理だよ。」
「……せやな。◯◯も選ぶ権利はあるな。」
「でしょ〜。」
信介くんはやっぱりわかってくれる……!
結婚している友達には言えない愚痴も、静かに聞いてくれて。改めて幼馴染でよかったな。
「どこかに私が好きで、私のことも好きな人がいればなぁ。実際上手くいかないけどさ。」
「……なんかあったんか?」
「この前、婚活アプリで知り合った人といい感じかなーって、次もデート誘ったけど振られた。」
「……婚活してたんや。」
ガラス玉のような瞳をさらに丸くして、彼は呟いた。
「んー、まぁ。結婚までいかなくても彼氏はほしいし。」
「…………。」
ケーキを一口頬張る。信介くんが買ってきてくれたケーキは私のお気に入りのお店。その甘さが口いっぱいに心地良く染みてくる。疲れた心と身体には、彼のこういう気遣いに温かくなる。
「ほな、」
「ん?」
静かにティーカップを置いて。
それから彼は一瞬視線を落として、琥珀色の瞳を向けてきた。
「ほな、俺とするか。結婚。」
「ぶっ!」
「ほれ、これ使い。」
やばい、紅茶が変なところに入ってむせた。
そっとティッシュを差し出す信介くんは酷く落ち着いていて。
「待って、今なんて言ったの?」
凄いこと言ってたような……。
頭の中で何度も反芻する。だって信介くんがそんなこと言うはずがないし、聞き間違いかもしれない。
「せやから、俺と結婚せぇへんか?」
「……はい?」
聞き間違いじゃなかった……!
こうして、幼馴染の信介くんと結婚することになった。
……ってなるかい!!!
「ちょっと待って! 信介くんもご両親になにか言われたの?!」
「いや。ばぁちゃんは俺が高校生の頃から結婚するん楽しみにしてるけど、他はないな。」
「なんでいきなり結婚なんて言い出したの?」
なにか信介くんには私が知らないような、深〜い事情があるのかもしれない。
ケーキをひと掬い乗せた銀のフォークが彼の唇に触れ、淡々としかし重みのある声で放った。
「好きな子が、ようわからん男に取られる前に、ちゃんと言うとこ思てな。」
「ぶっ!」
「◯◯はほんま、しゃあないな。ほれ、これ使い。」
やばい。また紅茶が変なところに入ってむせた。
しかも発言した本人はま相変わらず妙に落ち着いてるし。
「信介くん、今なんて言ったの?」
「ようわからん男に取られる前に、」
「その前!」
そう! そこ! 聞き間違いじゃなければ好きな子って言ってたような……。
「あぁ。好きな子、言うたな。」
なにが面白いのかカラリと笑っていて、そんな彼を見て顔が熱くなるのを感じた。
聞き間違いじゃなかった!! 待って、ってことは……?
「……信介くんて、私のこと好きなの?」
「おん。」
「幼馴染として?」
「それもあるな。……せやけど、一番は女の子としてやな。」
「…………。」
これ、本気? 信介くんたまに本気なのか冗談なのか分からないこと言うし。
「冗談やない。」
「え?!」
「冗談でこんなこと言わへん。」
そう言う彼の瞳は、微かに揺れているような気がした。
「……ちなみに、信介くん今、彼女は?」
「おらんな。」
「……じゃぁ、好きな人は?」
「◯◯やな。」
本気? 本当に本気で言ってるの?
もし、仮に、本当に仮の話で。
信介くんと結婚したら、手繋いだり、キスしたり、ベッドでのあんなことを…………。
一気に全身が熱くなり、火照りを感じた。
「なんや、顔真っ赤やな。タコさんみたいや。」
こっちの気も知らないで、彼は目を細めて珍しく口を開けて楽しそうにしている。
信介くんとのすっ飛ばした結婚生活を想像したらだいぶ顔は熱を持っていた。私だけ照れて恥ずかしいんですけど!!
「あの、信介くんのお気持ちは、その、大変嬉しいんですけど……。」
「おん。」
「いきなり結婚は、ちょっと躊躇しちゃうっていうか……。」
「……ええよ。」
「ん?」
「◯◯が答え出るまで待つ。せやから、よう考えてな。」
彼は紅茶に口を付けて、またカチリと音を鳴らしティーカップを置いた。一瞬伏せたまつ毛は、長いななんて場違いなことを考えちゃう。
「……。」
「俺の気持ちは変わらんから。」
待つと、言ってくれる信介くんはどこまでも優しい。
その優しさは幼馴染だからと思っていたら、違っていて。
でも、やっぱり信介くんとの結婚生活もすぐには考えられなくて。
どうしたらいいんだろう。
せめてお試し期間とかあればな。………あっ、お試し婚前交際ならいいのでは? いや、でも、それは信介くんに失礼な気もする……。
「◯◯?」
「……はい?」
「なんか言いたいことあるなら、教えてな。」
「いや、その、ちょっと思いつきっていうか。」
「どないしたん?」
「いきなり結婚は難しい、から、婚前交際とかどうかな〜って。ちょっと思いついただけで。」
信介くんは瞳をぱちくりさせて、それから口元が少し弧を描いてゆっくりと発した。
「ええな、それ。」
「え?! いいの?! だってそれで結婚しなかったら……!」
「そん時はそん時や。」
「でも、」
自分から提案したのにいざ乗られると、胸のざわつきが止まらない。
「……ほんなら、◯◯は今日から彼女やな。」
普段の彼からは見ることのない、ふにゃりとした顔で言った。
「……うん。」
私には、それしか返事が出来なくて。
この頃には、二人の紅茶はすっかり冷めていた。
信介くんと婚前交際の恋人となり、早いもので一週間になった。
彼女になったからと言って、特に大きく変わることはなくてほっとした。
少し変わったのは、朝はおはようから夜はおやすみまでメッセージをくれるようになったことと、私の家に来る頻度が増えたこと。
信介くんは実家住まいだから、私から彼のお家には行かないけど。よく、お夕飯のおかずを差し入れに持って来てくれる。信介くんが作った煮物美味しいんだよね。レシピは確かおばあちゃんから教わったって言ってたな。
あぁ見えて、信介くんは意外とまめに連絡をくれる。
『おはよう、ちゃんと朝飯食べたか?
今日も頑張りや。』
とか、
『お疲れさん。今日もよう頑張ったな。
気を付けて帰り。』
とか、
『ちゃんと、温うして寝るんやで。
おやすみ。』
とか。まぁ、主に心配されているけど。
信介くんは少し心配性な気がする。でも、それは嫌じゃなくて、ぽかぽかと温かくなるのがわかった。
そんな生活をして、さらに数週間経った頃だった。
その日は残業で遅くなることが確定した日だった。信介くんはきっと心配するだろうから先に連絡を入れておいたのだ。
『今日は残業で遅くなるから
このあと連絡出来ないかも!』
『何時に終わるん?』
『わかんないの!
だから今日は差し入れも大丈夫だから。』
結局終わったのは21時過ぎで。街灯が滲んで見えるほどふらふらし、重い足を引きずるように歩いていると、プップッと軽くクラクションを鳴らされた。
私、信号無視したっけ? ……ん、あれ、あの車はもしかして。
「信介くん!」
「お疲れさん。」
「どうしてここに居るの?!」
「どうして、って◯◯のこと迎えに来たんや。」
さっきまでのどんよりとした気持ちはどこかへ飛んでいってた。なんでそうなったかは分からないけど、身体がふわふわして軽くなった気がした。
「はよ、乗り。」
信介くんは運転席から助手席の扉を開けてくれて、私はいそいそと乗り込んだ。
「お迎えありがとうね! 嬉しい!」
「そない喜んでもらえるんやったら、迎えに来た甲斐あったな。」
帰り道は仕事が疲れた、とか今日も差し入れ持ってきた、とか他愛のない話であっという間に私の家に着いた。
車を停めて、シートベルトを外し、外へ出ようとした時。
信介くんの声に引き止められた。
「◯◯。」
「ん?」
「手、貸してみ。」
「手?」
よくわからないけど、こちらに向けて差し出している信介くんの大きな手の平に自分の手を置いた。
「子どもの頃……、隣に◯◯たちが越してきて。それからずっと◯◯のこと知っとるつもりやったけど、」
「?」
なんだろ。
手のひらだけじゃなくて、だんだん滑り込むように指先が絡み合っていく。
これって恋人繋ぎってやつじゃ……。
少し前までただの幼馴染と思っていた彼の手は大きくて、農作業で所々マメが出来ている節くれ立った手は、嫌でも男の人を感じさせた。
「今もこんなに、ちっこくてかわいい手しとるんは知らんかったな。」
「……。」
「彼氏の特権や。」
まただ。
彼は笑いながらも普段は見せないような、ふにゃりとした顔で楽しそうにしている。そんな彼を見る度、心臓がきゅっとなる。
信介くんは本当に私のこと好きでいてくれるんだ。だって恋人繋ぎしただけなのに。大切なものを愛でるような、こんな彼の表情は初めて見たから。
初めてお迎えに来てくれてから、さらに一ヶ月ほど経った頃。
この頃には、お出かけする時は信介くんと恋人繋ぎするのが当たり前になっていた。慣れって凄い!
「今日の煮物も美味しいねぇ。信介くんって本当お料理、上手だよね!」
「誰かさんが美味そうに食うてくれるから、作りがいあるわ。」
「だって美味しいから止まらないんだよ! 胃袋掴まれちゃったな〜。」
「…………そか。」
そう言って信介くんは、少しだけ目を細めて私を見つめた。
「幸せ太りしたらどうしよ〜。」
「……まぁ、ほどほどにしとき。」
なんてちょっとアホっぽい話もしながら、この日も信介くんが差し入れしてくれたお夕飯を食べた。こういう時間を信介くんと過ごすことができて幸せだな。
「コホッ、…コホッ」
「なんや、風邪か?」
「ううん、昨日から咳が出てて。」
「今日ははよ休み。ちゃんと温うしてな。」
「うん、そうする。」
お夕飯を食べ終えて信介くん帰っていった。
それから目が覚めたのは深夜だった。
「熱い……。」
おかしい。少し前まで咳だけだったのに、喉は焼けるように痛い。身体は熱さと怠さで自分の身体じゃないみたいに重い。
測らなくてもわかる。これは熱がある。しかも高い。
「あー、つらい。」
どうしよ、薬も切らしてるし、家にスポドリも当然ないし。
明日ってか、今日の仕事は休ませてもらおう。
それから、えーっと。あとは。一応、信介くんにも連絡……
熱にうなされながら、再び深く眠りに落ちていった。
***
◯◯の様子が気になったんは昼頃。
いつもの朝の連絡に返信が来おへん。朝、忙しなくても昼休憩には返してくれとったのに。
『心配やから、これから行くわ』
その前に一応、行くって連絡してんけど。スマホの画面に既読の文字は並ばん。
昨日見た彼女の顔が、嫌な予感と一緒に頭をよぎる。無意識にアクセルを踏む足に力がこもった。
「◯◯ー? おるか?」
合鍵を使い呼んでみる。返事はない。でも靴はある。……仕事休んだんやな。
ベッドへ向かうとそこにはぐったりしてる◯◯がおった。
「◯◯……?」
「んっ、信介、くん……?」
……よかった。意識はある。
額に手を当てると、手のひらがじりじりと焼けるようやった。普通やない。そう直感するほど、彼女の肌は火照っとった。
「薬、飲んだか?」
「……薬、切らしてて。」
買うてきた薬飲ませたかった。けど、食後に服薬……。
「あんな、◯◯。ご飯食べな、薬飲めへん。食べれそか?」
「……ぅん。……信介くんの、おかゆ。食べる。」
彼女は心配かけまいと笑っとる。
なんで、俺が代わってやれへんのやろ。
「今、作るから寝て待っとき。」
「……うん。」
熱で体力消耗しとる彼女からは、すぐにすぅすぅと可愛らしい寝息が聞こえた。
「◯◯ー、起きれそか?」
「……ん。」
背中に手を添えてゆっくりと起こす。
上半身起こすだけでも、大分辛そうや。
「無理せんで。食べられる分だけ食べ。」
「…………。」
「どしたんや? まだ食べられへんか?」
彼女の口元に、粥をすくったスプーンを差し出すもなかなか口を開けへん。
「……自分で、食べる。」
「こぼすやろ。恥ずかしがらんと、食べ。」
「……ん。」
それからようやく彼女は、ちっこい口を開けて食べ始めた。
「おいし。」
「そか。」
「…………ごめんね、迷惑かけて。」
彼女の目からは涙がぽろぽろこぼれ落ちとる。
涙をこぼす彼女を見とると、胸の奥がぎゅっと握られる。同時に、弱り切った彼女が俺を頼っとるという事実に、ほんの少しだけ、変な独占欲がじんわりと広がった。
「迷惑やない。」
「でも、信介くんお仕事なのに、休ませちゃった……。」
「こんなん、結婚したらこの先何回もあんねん。せやから気にせんとき。」
「…………うん。」
それから粥食べさして薬飲ませたら、また可愛らしい寝息が聞こえてきた。泣き疲れと熱で身体、しんどいんやろな。
「はよ、治るとええな。」
そっと頭を撫でた。
***
目が覚めたら、身体は軽くなっていた。
今、何時だろ?
カラスの鳴き声が聞こえる……。夕方かな?
……あれ? 信介くんがベッドの縁に突っ伏して寝ている。
いつ来たんだっけ?
「……ん。」
声を漏らして顔を上げた彼は、少しだけ髪が乱れていて。起きたばかりの低い掠れ声が、熱の引いた私の耳に届いた。
「信介くん、起きたの……?」
「……◯◯、もう起きて平気なんか?」
「うん! おかげさまでだいぶ楽になったよ。本当、ありがとう。」
彼がお粥食べさせてくれて、薬も飲ませてくれたおかげで、ずいぶんと楽になった。
「ほんまや、熱だいぶ下がったな。」
私の額に、彼の大きな手が吸い付くように当てられ、彼はほっと小さく息を吐いた。
信介くんの手はひんやりとしていた。それだけ私の体温が下がった証拠なんだろうけど、彼の指先が、火照りの残る肌に気持ちいい。
「でも、まだ本調子やないから、無理せんとき。」
「はーい。」
「今晩は念のため、泊まってくな。」
「え、もう大丈夫だよ! あとは寝てれば治るって!」
「そうしてたら熱、高なったんやろ?」
「……はい。」
なんで信介くんには全部お見通しなんだろ。
「あ、ゼリーも買うてきたわ。食べるか?」
「うん、食べる!」
「ほな、今、持ってくるな。」
ゼリーまで買ってくれているなんて至れり尽くせりだな。
というか、熱が出てあのまま寝ちゃったのになんで信介くんは来てくれたんだろう。連絡出来てなかったのに。
「ほら、食べや。」
「……あの、もう、さすがに自分で食べられるから。」
「まだ少し、熱ある。こぼすで。」
「本当に食べられるから。」
「……ええやん。俺が世話焼きたいんやから。」
そんなの言われたらなにも言い返せないよ。
彼は少し困ったように眉を下げて、その琥珀色の瞳は真っ直ぐに私から逸らさなくて。その強引な優しさに、私はもう口を開けるしかなかった。
「……美味し。ありがと。」
なんだか信介くんの優しさに照れくさくなっちゃった。そんな一日だった。
信介くんが看病してくれた日から翌週。
私の風邪もすっかり治り、今日は待ちに待った楽しみな日!
お気に入りのお洋服に、カバン。それからメイクはいつもよりキラキラさせて、髪の毛も丁寧にセットして、最後に香水を一振り。
部屋には甘い香りがふんわりと漂って、思わず背筋が伸びた。
「よし、完成〜!」
あとは、信介くんを待つだけ。
ピンポーン
「来た! 今、開けまーす。」
インターホンが鳴り、扉を開けると、
「こら、ちゃんと確認してから開け言うとるやろ。」
「だって信介くんだと思ったんだもん。」
早速、お小言をもらってしまった。でも、今日の私はご機嫌だから気にしない。
「なんや、今日はまたえらい別嬪さんやな。」
「違いますー。いつもかわいいんですー。」
「せやったな。」
「早く行こ!」
信介くんの車まで行くといつものように助手席を開けて、私が乗ってから閉めてくれる。それから運転席に座る。
最初はくすぐったくて慣れなかったけど、今ではすっかり慣れた。
「車で一時間弱やから、のんびり行こか。」
「うん。安全運転でお願いします!」
「任せとき。」
車内ではBGMに最近好きなアーティストの音楽をかけて、あれが見たい、ここ回りたい、なんて話して。
途中、ドライブスルーでカフェラテなんか買ったりして相当浮かれていた。
「着いたね〜!」
「思ったよりはよ着いたな。」
車から降りたらチケット売り場で、大人二枚購入して。
入口へ並ぶとカップルや家族連れで賑わっている。
「◯◯、手貸してな。」
「ん。」
「はぐれたらあかんから。」
信介くんと手を繋ぐのにも慣れてきた。けれど、今日はなんだか特別感あって。繋がれた手のひらには、じんわりと熱が広がっていく。心臓の音がうるさくて、彼にバレていないか不安になる。
入場すると幻想的な青い光と水槽で優雅に泳いでいる魚たちが歓迎してくれた。
「水族館なんて久々やな。」
「私も〜!」
通路を抜けた先に、想像以上に大きな水槽が広がっていた。視界いっぱいの青の中を、数えきれないほどの魚がゆったり泳いでいる。
「わぁ……すご……。」
思わず足を止めて見上げると、大きなエイが羽ばたくみたいに頭上を滑っていった。
「ほんまやな。」
「ね、時間忘れちゃう。」
気づけば信介くんのすぐ隣に立っていた。人が多いから、と自分に言い訳する。
「◯◯、前な。」
「え?」
信介くんは少し前に出て、さりげなく私を水槽側にかばうように立つ。
「見やすいやろ。」
「……ありがとう。」
水槽の青い光が信介くんの横顔を照らしていて、胸がきゅっとした。
グラデーションにライトアップされた水槽でふわり、ふわりと自由に漂っている。
そんなクラゲたちを見ていると、なんだか別世界に来たみたいでずっと眺めていられる。
「……きれい。」
「せやな。」
思わず声を潜めると、信介くんも同じように小さく頷いた。
「なんか、触ったら消えてまいそうやな。」
「うん……夢みたい。」
隣を見ると、信介くんはクラゲよりも私を見ていて。
「……なに?」
「ふわふわしとるのは◯◯そっくりや。」
「なにそれ?」
「手、離すとすぐどっか行きよるところとかな。」
繋いでいる手にほんのり熱がこもり、くすっと小さく笑う気配がした。
イルカショーの時間が近づいて、席に腰掛けると潮の匂いと水しぶきの音が近く感じられた。
音楽が流れてショーが始まる。合図と同時にイルカが高く跳ね上がって水しぶきが舞った。
「わぁ……!」
「おぉ、すごいな。」
イルカがジャンプするたび歓声が上がる。でも私は半分くらいしか見ていなかった。
隣に座る信介くんの横顔と、繋いだ手の感触ばかりが気になって。
「……楽しい?」
「うん、すごく。」
「そか。」
短い返事なのにどこか嬉しそうで、その声を聞くだけでここに来てよかったと思えた。
最後にイルカが大きくジャンプしてショーが終わる。拍手が起きて、私は名残惜しく手を離した。
「楽しかったね。」
「せやな。……また来てもええな。」
「うん、また来たい。」
そう言うと信介くんは少しだけ笑った。
メインのイルカショーを見終えて、お土産コーナーへ。
なににしようか迷っていたら、目が合った。
「……それ、気に入ったんか?」
「いや、見てただけ!」
「ええやん、それ。」
「ぬいぐるみなんて子どもっぽいよね。」
「せやな。」
「だよね〜。」
自分でも、子どもっぽい自覚はある。でも、かわいいんだもん。目が合っちゃったんだよ!
「でも、◯◯が気に入ったんならええやろ。」
彼ははぬいぐるみの一つを手に取り眺めていた。
「……そう、かな?」
「どの子にするん?」
「え?」
信介くんが興味持つなんて、意外かも……。
なんて思ってたら違ったみたいで。
「今日の記念に買うたるよ。」
「いいよ! そんな、悪いよ!」
「ええから。はよ、選び。」
「……この子にする。」
私が選んだ子を受け取り、少ししたらお会計が済んだイルカのぬいぐるみが手元にやって来た。それは彼の温もりをほのかに感じるようで。
「信介くん、ありがとう……。」
「ええよ。」
車の中では、少し照れながらも柔らかい感触を確かめるようにぎゅっと大事に抱きしめながら、また一時間弱かけて帰路についた。
さらに、翌週。
久々に実家へ帰ると、
「あんた、いとこのあーちゃんも結婚したらしいよ。」
またまた母親からの催促攻撃。
お母さんは私の話、ちゃんと聞いてるの?
「もう、今日はせっかくお土産持ってきたのに!」
「お土産?」
「そ。この前水族館行ってきたから、ハイ。これね。」
お土産を渡すと、母親はきょとんとしていた。
「誰と行ったの? あんたの友達ほとんど結婚してるでしょー。」
「……信介くんと行ったの。」
「信介くんって? 北さん家の?」
「他にいないでしょー。」
急に目を大きく開いて、口角が上がって、
「え?! いつから付き合ってるの? もしかしてこのまま結婚?! 信介くんなら安心して任せられるどころか、この子で大丈夫かしら〜。」
なんて、好き勝手言ってる。
「信介くんのご両親に変なこと言わないでよね!」
「あぁ、挨拶もしないとよね!」
「ちょっと!」
「お邪魔しますー。」
げっ? 信介くん?! なんで家に?
「あら〜、信介くん久しぶり。うちの子とお付き合いしてるんですってね! この子ったら恥ずかしがって全然教えてくれないの。」
やっぱりその流れになるよね……!
「お母さんてば!」
「そうです。◯◯さんとお付き合いさせてもろてます。」
そう言うと、彼は私の肩を抱き寄せて小さく笑った。
「あらあら! 信介くんならいつでも結婚大歓迎よ〜!」
「ちょっと、お母さん! いい加減にしてよね!」
母親と私の声を遮るように、でも静かに凛とした声が聞こえた。
「結婚は◯◯がしたい人と、◯◯のタイミングでしはりますから。」
「そうよね〜、うちの子には信介くんなんてもったいないわよね。」
彼は私のことをまっすぐ見据えている。
「逆です。俺に◯◯はもったいないくらい、ええ子で、かわええお嬢さんです。」
こんな時なんて言うのが正解なの……?
彼の視線からは反らせなくて、心臓がどくんと跳ねるのがわかった。
それから、この気まずい空気を変えたくて。気になってたことを口にした。
「……あのさ、信介くんはなんで家に来たの?」
「せや、おかんから◯◯が実家に帰っとるって聞いてな。マンションまで送ろ思てたんや。」
「あんた、いつも信介くんに送り迎えさせてるの?!」
違う、って言おうとしたら信介くんに先を越された。
「ちゃいます。俺が好きでやっとるだけです。」
「……信介くん。」
「ほな、◯◯そろそろ行こか。明日も仕事やろ。」
「あ、うん。じゃ、お母さんまたね。」
「失礼します。」
「はーい。また二人でいらっしゃい。
信介くんはいつものように、助手席の扉を開けて私を座らせて、それから運転席に座った。いつもと違うのは車内が無言だったこと。
こんなに空気が重く感じるなんて。
走る度にすれ違う街灯が信介くんを照らしては暗くして、彼がなにを考えているのかわからなかった。
「あの、お母さんが変なこと言ってごめんね……。」
「気にせんでええよ。」
「でも、」
「◯◯は好きな人と結婚したらええよ。それは本心やから。」
握っているハンドルに力が入るのがわかった。
それは、ミシリと音を立てそうなくらい強さを感じた。
「…………。」
やっぱりなんて返事をすればいいのかわからなくて。
帰りの車内は再び無言になった。
車内には規則的なウィンカーの音だけが響いていて、いつも他愛のないおしゃべりしていた日常が遠く感じた。
彼は隣にいるのにまるで、どこか遠くへ行ってしまったようで、私の胸はきゅっと締め付けられた。
あれから静かなまま時間は過ぎて、無事に自宅まで送り届けてもらった。
信介くんはいつもなら少し上がっていくのに。
今日は珍しく、「帰るな、おやすみ。」と言ってすぐ帰っていった。それがどれほど彼を、遠くに感じさせたことか。このまま離れちゃうのかな、そんな不安が募る。彼をとめる術も言葉も私は持ってなくて、ただ見送ることしかできなかった。
ベッドにダイブして、天井を見上げる。
私はどうしたいんだろう。
信介くんのこと、どう思っているんだろう。
親に急かされる結婚が嫌で、信介くんに相談したら、私のこと好きでいてくれて結婚を申し込まれて、婚前交際を始めたんだよね……。
それから、こまめに連絡くれて、お夕飯差し入れしてくれて、私の家で二人でお夕飯食べたりする。
初めてした恋人繋ぎもいつからか当たり前になって、車へ乗るときのエスコートも当たり前になった。
連絡出来なかったのに、風邪引いたら駆けつけてくれて看病してくれた。
完治したら、ずっと行きたかった水族館に連れて行ってもらって、お土産まで買ってくれた。
実家へ帰ったときは、さりげなく母親からの結婚催促を受け流してくれた。
そんな信介くんとのお付き合いは想像していたより、ずっと楽しくて、甘くて、優しいもので……かけがえのないもので。
付き合ってから知った、嬉しそうな時はふにゃりと笑って、心配したときはいつもの冷静さが控えめになることを。そんな彼を一人占めしていいのだろうか。
彼からは与えられてばかりなのに、私は彼になにか与えられているのだろうか。
彼は私との付き合いに満たされているのだろうか。
枕元に置いてあるイルカのぬいぐるみを、そっと抱きしめた。抱きしめたら信介くんの気持ちれが少しわかるような気がしたから。
あの時と同じ柔らかい感触を確かめるように、抱きながら深い眠りへ落ちた。
それから少しした頃だ。
信介くんが、風邪ひいたのは。
いつもなら来ている時間なのに、何気ない連絡が来ない。
『おはよう
信介くん、なにかあった?』
メッセージを送るも、既読がついて返信も来たのは随分と後のことだった。
『風邪引いた』
簡単な一言のみだった。きっとそれほどしんどいのかもしれない。信介くんは実家住まいだからきっと大丈夫。
だけど、どうしても一目会いたくて気が付けば、仕事終わりには彼の実家のインターホンを押していた。
信介くんのお母さんへの挨拶を反芻させても、心臓は早鐘を打っていて。インターホンから返事が聞こえるまでの時間がやけに長く感じる。
『……はーい、北です〜。』
『こんばんは。私、□□◯◯です。信介くんのお見舞いに来ました。』
『あら〜、◯◯ちゃん? 久々やねぇ。今、開けるから上がっていってやぁ。』
信介くんのお母さんと久しぶりの挨拶を交わして、お家に入れてもらった。
「すみません、夜分遅くに突然押しかけてしまって……。」
「ええんよ。それより、信介やろ? 今な、ちょっと熱下がってん。」
「……そうですか。」
その言葉に胸を撫で下ろした。
よかった……。
「丁度な、薬とご飯持っていこ思てたん。◯◯ちゃん、よければ部屋まで運んでやって。」
「もちろんです!」
薬とご飯をトレーに乗せて、静かに彼の部屋へ向かい、そっと扉をノックする。
「信介くん、体調どう?」
「……ん、◯◯か。……俺ん家来るん、珍しいな。どないしたん?」
彼が発する声は掠れていて、いつもの芯のある声ではない。
「お見舞いに来たの。これ、おばさんからご飯とお薬。」
「ありがとうな。風邪移るから今日はもう帰りや。」
少し熱は下がったらしいけど、それでもまだ辛そう。
そんな彼を見ると、心臓が痛くなった。
「やだ。」
「せやかて、また風邪ひくで。」
「信介くんは私が風邪ひいた時、付きっきりで看病してくれた。私にできることはほとんどないかもしれない。けど、辛いときは側に居たいよ。」
「……俺は、幸せもんやな。」
彼は上半身を起こそうとして、だけどその姿がしんどそうで。背中を支えて、身体を起こした。
「食べて、お薬飲んで、ゆっくり寝て治そうね。」
「……おん。」
信介くんの口元へ、お粥を掬ったスプーンを差し出すと、ゆっくりと口へ含んだ。
「……◯◯に看病されんのも、ええな。」
お粥を食べた後、薬を飲ませて、横になったら、信介くんからはいつの間にか寝息が聞こえてた。
「無理しないで。早く良くなって……。」
眠っている彼の熱を持った額にそっと唇を落とした。
それだけなのに、私の顔も熱を持ったような気がする。
***
目が覚めたら、部屋の明かりは常夜灯になっとった。
熱は、下がったな。身体軽うなったのがわかる。
今は……、もう、夜中か。
◯◯はちゃんと帰れたやろか……。
なんや今日は情けない姿見せてしもたな。
それでも、◯◯は側におってくれた。
側におるだけで、それだけで充分やったはずなのに。
付き合うて、今ではもっと◯◯が欲しなる。
あの柔らかい声で名前を呼ばれる瞬間、額に残る優しい感触も、全部、全部忘れられへん。
誰にも触れさせんで、このまま繋ぎ止めたい。
俺ん中の真っ黒い欲がじわじわと広がるのを感じた。
……これは俺の我儘や。
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