赤葦京治
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ただいま〜」
定時から何時間も経過した遅い帰宅。
玄関の扉へ手をかけるといつもより重みを感じた。
今日は疲れた。別に何かあった訳じゃない。ただ小さいことが積み重なったんだと思う。
繁忙期のピリついた空気、圧迫感のある満員電車での往復、そんなありふれたことは私の限界を突破するには充分だった。
廊下を少し歩けばリビングから明かりが漏れていることに気がついた。
京治くん、今日は早いんだ。
彼がいることがわかるとリビングの扉は少し軽く感じた。
扉を開けると、ソファでテレビを見ている京治くんの横顔。いつもの光景に張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
「おかえり。遅かったね」
テレビからこちらに視線を寄越すとソファから立ち上がり、私は彼の腕の中に収まっていた。視界は彼の胸元で塞がり、京治くんの匂いで一杯になった。
「あれ? 違った?」
抱きしめ返さない私に不思議に思ったのか、耳元には柔らかな声が降ってきた。
「……なにが?」
「疲れてるかなって。だから、充電」
「……合ってる」
控えめに彼の腰に腕を回すと、胸板を通して伝わる心音が、私の荒れた呼吸を整えていく。
「ありがと」
「落ち着いた?」
「まだ。全然足りない」
「そっか」
顔を上げると京治くんは、その端正な顔を綻ばせていた。途端に恥ずかしくなって、距離を取る。
くやしいな。なんか私ばっかり好きみたいじゃん。
「もう無理、何もしたくない」
仕事着のままソファにだらしなく足を放り投げ、寝そべりながら呟けば京治くんは隣に腰を下ろして苦笑した。
「せめて着替えたら? シワになるよ」
「もう限界なんです〜。動けないの。着替えさせて?」
上目遣いで冗談めかして甘えてみれば、しょうがないなぁなんて困ったように目を細め、部屋着を取りに向かう。
その背中を見ると笑みが自然とこぼれた。日頃から思ってたけど京治くんは甘すぎる。もちろん、何でもかんでもする訳じゃない。私の限界を自然と見極めた上で甘やかすのが上手いの。
それを今更どうこう言うつもりはないし、彼の甘やかしを疲れ切った私はありがたく受け取る。
「ほら、持ってきたよ」
「えー、おそろいの部屋着がよかったのに〜」
「文句言うなら頑張った◯◯へのご褒美、無しにしよっかな」
「え?! ご褒美?! もう、先に言ってよ〜!」
持ってきてくれた量販店で買った部屋着に急いで袖を通す。なんとも現金な自分。
その間、キッチンへ向かっていた京治くんは、白い小さな箱を静かにローテーブルへ置いた。
「開けていい?」
「どうぞ」
細く淡いリボン結びを解いて、そっと開ければキラキラ輝くケーキが顔を覗かせた。
「……買ってきてくれたの?」
「今日残業で遅くなるって言ってたし、疲れてるだろうなって」
それに、ここのケーキ食べてみたいって言ってたでしょ。なんて。テレビの特集かなんかでたまたま言っただけなのに。そんなことまで覚えてくれてたんだ。
「ありがとう」
京治くんのこういう気遣いには、いつも胸がきゅっと掴まれちゃう。
「好きな方、選んでいいよ」
いつも私を優先して選ばせてくれる。でも今日はこの甘さを一人占めしたくなかった。
「半分こ、しよっか」
「いいね。紅茶でいい?」
「私、淹れてくる!」
さっきまで身体に力が入らないくらいだったのに。いつの間にか今度は私が慌ただしくキッチンへ向かっている。やっぱり京治くんは凄いな。
ティーポットからは琥珀色が注がれ、トポトポと小気味良い音が流れる。
トレーに二人分のティーカップを乗せるとアッサムの香りが鼻先をかすめた。
「お待たせ〜」
テーブルの上には食べたかったお店のケーキに、お気に入りのティーカップに注がれた紅茶が並んでいてわくわくする。
こんな時間にケーキなんて罪悪感があるけど。
京治くんとなら夜中のティータイムもありかもしれない。
早速、半分こしたケーキを一口頬張る。
「「美味しい!」」
驚くほど綺麗に重なった声。
まるで示し合わせたようなタイミングに、思わず顔を見合わせて吹き出してしまう。
「息ぴったりすぎ!」
「そうだね。……それだけ、二人とも糖分を欲してたってことかな」
「今度は一緒に行こうね」
「イートインもあったから食べてくのもアリだよ」
「迷うな〜」
美味しいケーキに、優しい彼、こうして取り留めのない話をしている今は甘くて温かい。
最後の一口を食べ終えた時、彼が私の手からカップを取り、テーブルに置いた。
そしてそのまま、私の肩を抱き寄せ、自分の肩に頭を預けさせる。
「……◯◯」
「なあに?」
「今週も、本当にお疲れ様」
「ふふっ。京治くんもお疲れさま。」
「頑張るのはいいことだけど、無理しないで」
「大丈夫。無理してもまた甘やかしてくれるでしょ?」
「ご希望ならいつでも大歓迎だよ」
少しだけ意地悪くて、でも包み込むように囁く京治くんの声。
部屋着越しに伝わってくる体温が、心地よくて安心する。
「……ね、京治くん」
「ん?」
「本当はね、少し、しんどかったの。……でも、そんなの忘れちゃた」
正直な気持ちを溢せば、彼の腕がさらに優しく私を抱きすくめた。
テレビの音も、外の喧騒も、今は遠い世界の出来事みたい。
「よかった。◯◯は無理しすぎるところがあるから」
彼は私の髪に、そっと、慈しむように唇を落とした。
言葉にしなくても伝わってくる、大好きだよの熱。
張り詰めていた心が、彼の体温に溶けて、幸せな重みへと変わっていく。
「来週も、頑張れそう?」
「……うん。京治くんが、またケーキ買ってくれるなら」
「ふふ、善処します」
明日が来るのが少しだけ楽しみになるような、そんな不意打ちの優しさに包まれて、私は静かに瞼を閉じた。
甘い時間は、まだ解けそうにない。