05. 千変万化の禁断魔法

「っ…………!?」

朝から嫌な気分になり正悟はベッドから飛び起きる。
よりにもよって千草に嫌われる夢──絶望感にも近い感情が押し寄せてきて、正悟はこの日初めて日課である鍛錬を休んでしまう。
何故こんなにも自分の人生は上手くいかないのだろうと後悔ばかりで朝の鍛錬などやる気分ではなかった。
しかし、今の正悟は鍛錬のことなど気にする余裕もなく目覚まし時計を見て時間にゆとりがあるのを確認してから洗面所まで行くと、服を脱ぎ捨て風呂場に向かいシャワーを済ませることにした。
汗で火照った体には出始めの少し冷たい水が心地良く、次第に水が温かくなり始めたのでかいた汗をその湯で洗い流していく。
シャワーを終え、髪を乾かすと正悟はそのまま学校に行く準備をして家を出た。
そしていつもより早めに学校に着くと、昨日出来なかった予習を少しだけすることにして生徒たちが集まって来るまでは静かにペンを走らせる。
そのまま午前の授業は何とか集中して受けることが出来て少し安堵していたが昼になり正悟は困ってしまう。
いつもなら何事もなく弁当箱を持ち誰にも気付かれないように屋上へ向かうのに今日は気が重い。
だがこのまま騒々しい教室で昼を過ごしたくはないと思い、正悟は渋々静かに教室を出た。
そして屋上でそのまま昼食を済ませて予鈴までその場で過ごしたいと願うと、その願いがそのまま叶い誰も来ることなく過ごせてしまい、正悟は拍子抜けしてしまう。
千草はどうしたのだろうと当然考えたが、他人の思考など理解出来るはずもなく正悟は考えるのを止めようとする。
でないと朝の夢を思い出してつらい気持ちになり午後の授業はまた集中出来なくなってしまう。

『好きになるんじゃなかった──』

あの一言が夢だというのに忘れられない。
千草の気持ちを確かめたいと思いつつも、告白の返事すらまともにしてもいないのに調子が良すぎる。
素直に自分の気持ちを表現するだけにも関わらず、何故こうも上手くいかないのかと正悟は考えないようにしていたのだが、それが逆効果となり余計に考え込んでしまい午後の授業を台無しにしてしまう。
しかし時計の針はそれでも戻ることを知らない。
それどころか一分一秒と進んでいくばかりだ。
そう思った正悟は委員会もあるのだからと教室を出て図書室へと向かいながら、事件のことを思い出す。
図書室でのことを思い出すと気が重くなる──ただでさえ内山の件もあるので、内山が来なくて一人の方が気楽だとはいえそれでも考えてしまうことがあった。
そんなことを考えていると職員室に寄り図書室の鍵を借りるのを忘れてしまい、正悟はまたしても溜息を吐きたくなる。
いつもならば鍵を開けるのは内山の仕事であったのだがあの件があってからは正悟が全ての仕事を熟している。
しかし、図書室は既に目の前であり扉も視界に入る場所であった。
その様子を伺うと、少し違和感を覚える。
本来閉まっているべき引き戸が開いていて中から人の気配までするものだから、正悟は途端に緊張感を抱いてしまう。
恐る恐るの中が見える位置まで来ると、普段見ている光景と大分違う──利用している生徒が居ないのはよくあることではあるが、問題は委員会の人間が座るべき場所に居る人物のことだ。
内山が本来座るべき場所に違う人物が座っていて、正悟はその者の顔と名に覚えがある。
だが先に来ていたその人物は正悟の顔を一瞥してすぐに読んでいた本へと視線を戻してしまった。
正悟の記憶が正しければ、彼の名前は川合かわいアキラ。
同じ学年で、同じクラスの所謂クラスメイトというやつである。
そんなクラスメイトがなぜこの場に居るのか分からないのだが、一瞬担当の曜日を間違えたかとも思いつつ再度考え直しても曜日の間違いはないように思えた。
正悟は勇気を出して声をかけないといけなくなり、まずは室内に入ろうと足を動かして自分がいつも腰掛けている椅子へと向かう。

「あの、川合君……だよね? なんで──」
「アキラ」
「え?」
「苗字で呼ばれるの好きじゃないから」
「でも……」
「いいから」
「じゃあ……アキラ、君」
「君もいらない」
「…………アキラ」
「うん」

軽く挨拶を──と思った正悟としては不思議でならない。
何故自分相手に名前で呼ばせたがるのか、しかも開口一番の会話がそれだ。
しかし、人には人の事情があるのであまり深く詰め寄ることも出来ない上に正悟の性格上あまり興味が湧かなかったというのもある。
本人が苗字で呼ばれたくないと言っている以上、それに合わせるしかないと思い、正悟は慣れない呼び方をしてその場をやり過ごすことにした。

「内山先輩、最近来ないんだってな」
「えっと……うん」
「俺はその代わりらしい」
「そう、だったんだ……」
「そういう訳でよろしく」
「あ、うん……」

それで会話は終了。
内山とはそもそも交流する機会がほとんどないが、正悟としては少しだけ安堵していた。
これでしばらくは内山と会わなくて済むのかと思うとそれだけでも胸を撫でおろしたい気分であったため、正悟は心配事が減り今後も図書委員という仕事を続けられそうだということを認識すると嬉しくなる。
それに少し離れて座る川合アキラという人間をよく観察してみると、他人へ興味がないのか正悟のこともあまり気にしていないような印象を受ける。
今も本を読んでいるのだが、他の仕事は既に終わっていると言う。
仕事を終えた上で静かな空間に居られるのは普段の正悟ならば嬉しく思うところなのだが、ここがいわく付きの場所になってしまった気がしてどうにも落ち着かない。
そんな風に思っているとつい無自覚にそわそわとしてしまいアキラが気にかけるところとなってしまう。

「瀬奈」
「え?」
「何だか落ち着かない様子だけど、どうした?」
「あ、ううん……その、さっきから何読んでるのかなって──」

そこまで口にしてしまい、正悟は一瞬自分でも驚いていた。
何故そんなことを聞いてしまったのか、他人に対して興味を持ってしまったのか、それらのことが招く厄介事を正悟は身をもって知っているというのに、躊躇なく口にしたその言葉で相手はどう思うのか考えもしなかった。
そして考えがまとまった時には既にアキラが返事をしてきて、もう会話を拒むことが出来なくなってしまう。

秋村禅樹あきむらゆずきって人の小説の新作──」
「えっ、あの……それって五月の密会?」
「知ってるのか?」
「うん、それ凄く面白くて大好きだから……!」
「名作だよな。でも、学生で読んでる奴ほとんど居ないから吃驚した」
「そうなの?」
「これってちょっと題材が複雑で難しいからな。けど一度理解すると面白くてどんどん読み込んでいって──」
「最後にはファンになってる?」
「そう。俺は少なくともその口で、気付いたら秋村先生の本全部揃えてたよ」
「俺も全部読んでる!」

その後も本の話が続き、正悟と話をしているとアキラは不思議に感じる。
正悟の噂話は聞いていたが気にしてはおらず、今まで興味もなければ接点もなかったため話をすることもなく済ませてきていたのだが、アキラには正悟が噂のような人間には到底思えなかったため内心驚いていた。
根暗、陰湿、辛気臭い、等といった噂ばかりで良い噂はあまり聞いたことがない。
しかし今の正悟を見たら、ハキハキと喋る上に本の話をしている時は幸せそうで、その姿を見たらキラキラと輝いていると言っても過言ではないくらいだ。
だからこそ、アキラはふと思ったことを口にする。

「瀬奈ってそんな表情もするんだな」
「え?」
「いや、なんか楽しそうだったから」
「あ、ごめんっ……つい──」
「別に謝らなくてもいい。本が好きなのは凄く伝わったから」
「うん」
「他のやつとは今みたいに話さないのか?」
「人と話すの、苦手、だから……」
「ふぅん……でも、俺から見たら随分ハキハキ喋ってたけど」
「そう、かな……?」

千草と知り合ってから正悟は素の自分を出してしまいがちになり危うくなるのではないかと心配になってくる。
しかし自分の好きな本の話が出来るとなると目の色を変え、つい興奮してしまった。
それに、川合アキラという人物を見ていると警戒するほど危険な人物に見えずどちらかと言うと達観した印象を与え人との距離を取って自分からは必要以上に近付かないといった雰囲気を与えている。
ある意味での“似た者同士”そんな風に感じてしまい正悟の気が緩む原因の一つとなってしまう。

「まぁ、苦手なことを無理にやることもないし、頑張りたい時に頑張ればいいんじゃないか」
「…………」
「瀬奈?」
「そんな風に言ってくれる人、初めてだ。ありがとう」
「別に。思ったこと言っただけだから」
「フフ、そっか──」

そこまで口にすると、正悟は背にしていた図書室の入口の方に誰か居る気がしてふと一瞥した瞬間、視界の端に見覚えのある影を見た感覚に襲われ、心臓が跳ねたかのように吃驚してしまい、改めてドアの方へと視線を向ける。
それは一瞬の動作であったがアキラが不思議がるのには十分な動作で、その疑問を口にする時間も十分にあった。

「どうした?」
「あ、えっと……ごめん! ちょっと席外すね!」
「おい、瀬奈!」

正悟はその場に全ての荷物を置き、アキラを残して他には誰も居ない図書室から視界に映った人物を探すため、一瞬で部屋から飛び出した。
普段の正悟からでは想像も出来ない瞬発力に呆気にとられたアキラではあったが、まさか二人揃って図書室を空にする訳にもいかず、仕方ないといった感じに正悟の背中を見送りその場に居残ることにして読んでいた本に再び集中する。
──図書室から飛び出した正悟は見慣れた背中を探し求めて長い廊下を走り一番最初の曲がり角を目指していた。
幸いにも図書室から帰るための昇降口へ向かうには、一番近い階段を目指しても数分かかるので正悟が本気で走れば、余程全速力で逃げられない限り追いつけるはずだ。
案の定その人物は最初の曲がり角に入ったところに居て、正悟は少しだけ安堵しつつも呼吸を整えるために息を数回吸って吐き目の前に居る人物の名前を呼ぶ。

「千草!」

正悟が慌てて追いかける人間と言えば学校では千草くらいしかいない。
その千草も、正悟と話がしたかったのかあえて追いつけるように少しだけゆっくりと歩いていた感じがその雰囲気から受け取れた。
千草は振り向き正悟を視界に捉えると、顔をうつ伏せ気味にして無言のままであったので、正悟は夢のことが忘れられずにいたが多少恐怖を感じつつも控えめな声量で千草と会話を試みる。

「あの。なんで、来たの……?」
「この間のことが気になって心配で……」
「そっか」
「でも迷惑だよな」
「そんなこと──」
「オレが居なくても楽しそうに話してたし、杞憂だったみたいで良かったよ」
「聞いてたの?」
「……オレとはあんな風に話してくれないもんな、だったらオレの居る意味なんて──」
「千草、ちょっと待って! なんの話──」
「ごめん。今、先輩と面と向かって話す自信ないや」
「千草!」

完全に甘えていた──正悟が抱いた一番目の感情。
千草の優しさに寄りかかり過ぎているのを実感しておらず、何を言っても許してくれて優先してくれて一番に愛してくれている。
正悟は知らず知らずのうちに千草のことをそんな風に思っていたが、それは完全なる甘えだった。
人との距離感を掴むのが苦手な正悟にとって、人からの優しさ、思いやりなどを受け取るのも拒否するのもそれらの行為があまりにも極端にしか行えず、一般的な距離感で測れば正悟の距離感は異常値でしかない。
それに気付いた正悟は、千草を追うなんてこと出来る訳もなく再び傷付けてしまうなら追いかけない方がいい。
そう思い、正悟は踵を返して図書室へと戻ることにしたが、その表情はとても悲しみに満ちていた。
だがアキラの居る図書室へそのまま戻る訳にもいかず正悟は無理矢理にでも笑顔を作り悲しみの表情と相殺してから平常心で戻っていく。

「瀬奈?」
「川──じゃなかった、アキラ」
「誰か居た?」
「え? あぁ、うん。何か見間違えたみたい」
「…………そうか」
「あ、そうだ。そろそろ掃除しないと」
「もうこんな時間か」

そういうと二人は普段通りに室内の掃除をしてから、帰宅するために戸締りをすると職員室まで行き鍵を戻してから昇降口へと向かう。
その後は校門まで歩き、駅に向かうと言うアキラと別れ正悟は一人で下校することにして通学路を延々と歩いていくのだが、千草との会話を思い出しながら複雑な気持ちを整理するために思考を巡らせる。
考えたところで千草が抱く気持ちを理解出来るわけでもないが、それでも正悟は千草のことを考えないで忘れたくはなかった。
千草と向き合うことから逃げたくはなかった。
そう考えながら今まで起きた千草との思い出を振り返るのだが、考えれば考えるほど千草という存在そのものが謎めいていることに正悟は気付く。
何故千草は能力の影響を受けないのか、それどころか緩和しているのではないかというほどの感覚さえある。
全てはこの間の出来事から感じていることだが、正悟には気になっていることがもう一つあった。
それが千草の“声”についてだ。
正悟は千草の発する声について違和感を覚え、出会った当初からずっと気にしているのだが未だに確証はなく疑問のまま今に至る。
千草と出会ってから一ヶ月半──今年の春は不可解な出来事が起こりすぎて正悟は少しばかり困惑しているがそれでも前に進まなければならず、正悟の縁で紡ぐ物語は誰かが必ず見届けなければならない。

そう、“誰か”が必ずだ──。

それが彼らの持つ不思議な能力、禁断魔法に通じる者達の運命なのだから──。
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