02. 恋の予感は禁断魔法
「ん……ふぁぁ……よく寝た」
正悟は起きて朝一番で大きな欠伸をしてベッドから出ると学校へ向かう準備を始める。
洗面台のある脱衣所へと向かい顔を洗って髪型を整えていると、鏡に映る自分の姿を見て昨日と同じことを考えてしまう。
その考えを無理矢理頭の中から除去して気合を入れ直すと正悟は諸々の準備と用事を終わらせ朝食も済ませて家を出ようとした時、眼鏡をかけ忘れていることに気付き正悟は部屋まで取りに戻る。
そこに置かれた眼鏡を見ると鏡の前に居た時と同じことを考えてしまう。
鏡を見れば自分という存在を隠すために伸ばした髪が気になり、眼鏡をかければ自分という印象を変えるその行為が気になるという連鎖に正悟は苦しんでいる。
だがこれは仕方のないことなんだ──正悟はそう考えて今日も我慢をしながら学校へ続く道を歩いていく。
相も変わらず人を避けるように学校を目指して進んでいき、無事に教室へ着くと安堵しながら自分の席に向かい荷物を整理していつも通りロッカーの鍵をかけてから、ホームルームが始まる時間まで本でも読んでいることにする。
次第に人が集まり朝のホームルームが終わると、一日の授業が始まっていく。
授業内容も様々なことながら、生徒からはどうしても人気な教科と不人気な教科に分かれる。
正悟としてはそれが特にない。
どの勉強をしていても基本的に悩むこととは無縁で、父親からもきつく言われている通りテストで赤点を取ったことは一度もなく教師の間では優等生という評価を貰っている。
定期試験では学年で一、二を争う程であるからか、机の上での勉強は正直あまり興味が湧かない。
興味を持つのは体育の授業──本来であれば幼少期から動かしている身体を高校でも動かしてみたかった。
体育の授業でも正悟であれば優秀な成績を収めることが可能であろう。
クラスメイトと同じ状態で協力するということにも憧れはあったので、皆が体育の授業に取り組めば取り組むほど尚更その憧れは強くなった。
とはいえ今のままの自分ではスポーツという明るい一面を出すことはマイナスでしかない。
正悟はそんな風に思うと今日の午後に控えている体育の授業が憂鬱に感じる。
それでも時というのは残酷で、否応もなくその時間になり正悟は渋々体育の授業に参加した。
授業内容はどの高校でもやる単純な運動だったので、4月ということもありクラスメイトと打ち解けるための内容となっている。
端の方でなるべく目立たず授業を熟しそれが終わったかと思えば、帰りのホームルームを終えた次は図書委員会の顔合わせが待っていた。
図書委員の一年生から三年生までが集まり自己紹介から始まると、それぞれ受け持つ時間や仕事内容を確認したりと色々と終わらせてから解散となる。
自己紹介の時はやはり密やかに根暗や影が薄そうなどと揶揄されていたが、正悟にとってはそれが狙いでもあり目的であった。
そういった印象を持たれた方がわざわざ近付いてくる人間が少なくなるため、人と接することを禁じられている正悟は動きやすいためだ。
案の定自分に近寄ってくる人物は居なかったので正悟も早く席を立ち、その場から逃げるように学校を出る。
校舎を出て校門を出たところ、正悟はふと視線を感じたのだがそれを確認することは無かった。
わざわざ確認してその人物と下手に関わる方が危険だと言われているので、それに従い正悟は帰り道を歩いて行く。
それから数十分経った頃だろうか──視線を感じていただけなら良かったのだが店に近付くその時まで後ろを歩かれたのでは流石に迷惑ではある。
正悟はどうしたものかと思っていると店の近くに丁度大きなトラックが止まっており、死角になる場所があったので待ち構えることにした。
トラックの陰に身を潜めると同時に静かに呼吸を整えその人物を待つ。
殺気に近いものは特に感じていなかったのでおそらく本当に尾行されていただけではあるのだが、それでも迷惑であることに違いはない。
正悟が呼吸を整え終えたところだ──正悟を見失ってはいけないと思ったのか付いて来ていた人物が急ぎ足でトラックに近寄ってきた。
それを見計らい顔を出すと、そこに居た男が驚き後ろの方へと仰け反った。
「うぉ……吃驚した……!」
「なんか用?」
「お前、急に止まるなよ!」
「用件は?手短に済ませて」
「少しツラ貸せよ」
「……こっち」
「あ、おい!」
正悟は突然現れた素行の悪そうな格好をした男に溜め息を吐きつつも、放っておくわけにもいかず相手をしてやることにする。
場所は丁度店がある付近にある裏路地で、人通りは無いに等しいその場所にその不良を連れていくことにして歩き出す。
当然相手は呼び出して連れ出すつもりでいたので正悟が自分の意思で歩き出し、自分を誘うことに疑問と苛立ちしか感じなかった。
だがそんなことを言っているうちに正悟はどんどんと先に進み、しばらくしたら見失ってしまうのではないかという速さであったため不良の男もその後を追うことにする。
トラックの場所から少し歩けば裏路地なので、本当にすぐの距離であった。
正悟としては対面する相手となるべく揉めたくはないと思いつつも、無理であろうということは分かっている。
相手の目的は今一つ分からないままだが、この手の人間が近付いてくる理由など限られてくると考えていた。
それにどこかで見た顔であった気がする──とはいえ、人のことに興味を持たない正悟は意識しなければ大体の人間の名前と顔は覚えないようにしている。
覚えない理由は色々とあるが、今はそんなことを説明している時間もなければ考えている時間も正悟にはなかった。
「自分からこんなところに誘い込むなんていい度胸だな」
「目立ちたくないだけだから」
「だったら一昨日のこと、あいつらに謝ってもらおうか」
「一昨日?」
「とぼけるなよ。始業式の日に──」
「あぁ、アイツらか」
「分かってるなら、一緒に来てもらうからな……!」
その言葉を皮切りに不良が正悟の間合いを詰めようとする。
しかし正悟はそれを許さない──後ろに跳ねるように飛んで後退ると、その男の手から逃れて一呼吸整える。
間髪入れずに男が掴みかかろうとするのでそれを避けつつ間合いを取られることがないように動き回る。
掴みかかろうとしている不良にしてみれば、逃げ回られるのは苛立ちが増すばかりでより一層力がこもっていく。
その力みは正悟にも伝わり、ますますその動きを読みやすくなり余裕が出てくる。
だがそんなことをずっと行っているとバイトの時間に遅れてしまう。
正悟は少し長めに間合いを取り、一拍間を置いて不良へと話しかける。
「お前がなんであんな奴らに固執するのか知らないけど、迷惑だからいい加減帰ってくれない?」
「アンタが大人しく付いてくるまで諦めきれるか!」
「なら、少し痛い目に合う覚悟は出来てるんだな」
正悟は言葉を放ったのと同時に荷物を地面に放り投げ、ついでに着ていた制服の上着を脱いで荷物めがけて投げ捨てると同時に不良との距離を考えた構えを取る。
構えと言っても正悟の流派は攻撃をいなしてその流れを利用して使う型であるため、呼吸は整えるが見た目からは何ら変わりのない状態であった。
不良の男もそれに気付かず、逆に威勢を張っているだけだと思い無策で正悟へと突っ込んでいく。
その動きを見切っていた正悟としては、後の処理は簡単なものだった。
近付いてくる速さを利用して相手の腕を掴み、そのまま足を掛け地面へと屈服させると背中に腕を回し組み敷くことで男が身動きを取れない状態にする。
そしてその男を見下す形で少しだけ会話をすることにした。
「お前さ、あいつらの何?」
「いいだろ、そんなこと!」
「動くな。ケガしても知らないから」
「あいつら、オレのこと慕ってくれてるんだよ!だから──」
「ふぅん……お前、名前は?」
「なんでそんなこと聞かれなきゃいけないんだよ!」
「嫌なら名乗らなくてもいいけど」
「千草……天ヶ瀬、千草──」
「天ヶ瀬……?」
天ヶ瀬 千草 ──その不良の男が名乗った姓には聞き覚えがあった。
夢校の生徒であれば一度は聞いたことがあるであろう。
その男の名は夢美咲大学理事長の名前と完全に一致している。
更に言えばその大学付属の高校──つまりは正悟の通う高校の校長も同じ姓をしていた。
「アンタも俺の事、色眼鏡で見るわけ?」
「あぁ……お前、理事長の孫って話で持ちきりの不良か」
「フンッ……」
「まぁ、俺には関係ないけど」
教師の間でも問題にはなっている。
素行が悪ければ教師は当然それを律するべきなのだが、下手に触れると自分の立場が危うくなると考えている教師も少なくない。
それどころか男の立場を利用して媚びを売る教師すら居た。
親であり校長でもある父親からも、身内であり理事長でもある祖父からも、随分と言われているのは容易に想像が付く。
それ故の反抗──正悟はその気持ちだけは痛いほどよく分かった。
自分の父親も体裁を気にして正悟に自分の意思を押し付けてくるため、嫌気が差すのは分かる気がする。
しかし正悟からすれば目の前に居るその男は十分すぎるほど自由の身だと思う。
自分の意志で何かを選び取れるその自由に、何があろうと親に反抗し抵抗できるその勇気が、正悟には喉から手が出るほど欲しいものであった。
そんな感情を抱きつつも正悟は平静さを失わない。
それどころか正悟はいつも通り無関心でいることにする──そうでなければならない。
色々と思うところはあれど、正悟は男の腕を解放し自身の荷物を拾い上げ上着を手に取ると羽織ることもなく店へと向かう。
「俺、もう仕事行くから」
「あ、おい!待てよ、逃げる気か!?」
「来たければまた明日来いよ。適当に相手してやるから」
「何を勝手なこと……!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返す」
「待てって!」
「俺の仕事先、この裏の本屋だから。何かあれば来いよ、天ヶ瀬」
「気安く呼ぶなよ!」
「お前が俺に勝てたら呼ばないでやるよ」
正悟はそういうと本当に店へと向かい男を放置していった。
男もいつまでも床に突っ伏しているわけにもいかないため身体を起こすが、悔しさのあまりしばらく立ち上がることが出来ない。
だが不思議なことに、あれだけ組み敷かれていた割には身体の痛みを感じなかった。
どちらかと言えば肉体的な痛みよりも精神的な痛みの方が大きかったようだ。
完膚なきまでに屈服させられ正悟を取り逃し、慕ってくれている仲間のことを思うと自分の無力さに悔しさが満ち溢れてくる。
不良の男は地面へ軽く拳を落とし、悔しさだけでなく悲しみにも似た表情を浮かべていた。
「くそっ、これじゃあ何のために来たのか分かんねぇじゃねぇか……」
男はそう言うと座っていた状態から立ち上がり少しふらつきながらどこかへと立ち去っていく。
その後ろ姿は何とも危うく、少し間違えれば如何様にも変わってしまいそうな純粋さも持ち合わせていた。
これから訪れる未来、自分たちでは想像もしていない変化がこの二人には訪れる。
これが瀬名正悟 と天ヶ瀬千草 の初めての会話であり交わった運命の始まりであった。
正悟は起きて朝一番で大きな欠伸をしてベッドから出ると学校へ向かう準備を始める。
洗面台のある脱衣所へと向かい顔を洗って髪型を整えていると、鏡に映る自分の姿を見て昨日と同じことを考えてしまう。
その考えを無理矢理頭の中から除去して気合を入れ直すと正悟は諸々の準備と用事を終わらせ朝食も済ませて家を出ようとした時、眼鏡をかけ忘れていることに気付き正悟は部屋まで取りに戻る。
そこに置かれた眼鏡を見ると鏡の前に居た時と同じことを考えてしまう。
鏡を見れば自分という存在を隠すために伸ばした髪が気になり、眼鏡をかければ自分という印象を変えるその行為が気になるという連鎖に正悟は苦しんでいる。
だがこれは仕方のないことなんだ──正悟はそう考えて今日も我慢をしながら学校へ続く道を歩いていく。
相も変わらず人を避けるように学校を目指して進んでいき、無事に教室へ着くと安堵しながら自分の席に向かい荷物を整理していつも通りロッカーの鍵をかけてから、ホームルームが始まる時間まで本でも読んでいることにする。
次第に人が集まり朝のホームルームが終わると、一日の授業が始まっていく。
授業内容も様々なことながら、生徒からはどうしても人気な教科と不人気な教科に分かれる。
正悟としてはそれが特にない。
どの勉強をしていても基本的に悩むこととは無縁で、父親からもきつく言われている通りテストで赤点を取ったことは一度もなく教師の間では優等生という評価を貰っている。
定期試験では学年で一、二を争う程であるからか、机の上での勉強は正直あまり興味が湧かない。
興味を持つのは体育の授業──本来であれば幼少期から動かしている身体を高校でも動かしてみたかった。
体育の授業でも正悟であれば優秀な成績を収めることが可能であろう。
クラスメイトと同じ状態で協力するということにも憧れはあったので、皆が体育の授業に取り組めば取り組むほど尚更その憧れは強くなった。
とはいえ今のままの自分ではスポーツという明るい一面を出すことはマイナスでしかない。
正悟はそんな風に思うと今日の午後に控えている体育の授業が憂鬱に感じる。
それでも時というのは残酷で、否応もなくその時間になり正悟は渋々体育の授業に参加した。
授業内容はどの高校でもやる単純な運動だったので、4月ということもありクラスメイトと打ち解けるための内容となっている。
端の方でなるべく目立たず授業を熟しそれが終わったかと思えば、帰りのホームルームを終えた次は図書委員会の顔合わせが待っていた。
図書委員の一年生から三年生までが集まり自己紹介から始まると、それぞれ受け持つ時間や仕事内容を確認したりと色々と終わらせてから解散となる。
自己紹介の時はやはり密やかに根暗や影が薄そうなどと揶揄されていたが、正悟にとってはそれが狙いでもあり目的であった。
そういった印象を持たれた方がわざわざ近付いてくる人間が少なくなるため、人と接することを禁じられている正悟は動きやすいためだ。
案の定自分に近寄ってくる人物は居なかったので正悟も早く席を立ち、その場から逃げるように学校を出る。
校舎を出て校門を出たところ、正悟はふと視線を感じたのだがそれを確認することは無かった。
わざわざ確認してその人物と下手に関わる方が危険だと言われているので、それに従い正悟は帰り道を歩いて行く。
それから数十分経った頃だろうか──視線を感じていただけなら良かったのだが店に近付くその時まで後ろを歩かれたのでは流石に迷惑ではある。
正悟はどうしたものかと思っていると店の近くに丁度大きなトラックが止まっており、死角になる場所があったので待ち構えることにした。
トラックの陰に身を潜めると同時に静かに呼吸を整えその人物を待つ。
殺気に近いものは特に感じていなかったのでおそらく本当に尾行されていただけではあるのだが、それでも迷惑であることに違いはない。
正悟が呼吸を整え終えたところだ──正悟を見失ってはいけないと思ったのか付いて来ていた人物が急ぎ足でトラックに近寄ってきた。
それを見計らい顔を出すと、そこに居た男が驚き後ろの方へと仰け反った。
「うぉ……吃驚した……!」
「なんか用?」
「お前、急に止まるなよ!」
「用件は?手短に済ませて」
「少しツラ貸せよ」
「……こっち」
「あ、おい!」
正悟は突然現れた素行の悪そうな格好をした男に溜め息を吐きつつも、放っておくわけにもいかず相手をしてやることにする。
場所は丁度店がある付近にある裏路地で、人通りは無いに等しいその場所にその不良を連れていくことにして歩き出す。
当然相手は呼び出して連れ出すつもりでいたので正悟が自分の意思で歩き出し、自分を誘うことに疑問と苛立ちしか感じなかった。
だがそんなことを言っているうちに正悟はどんどんと先に進み、しばらくしたら見失ってしまうのではないかという速さであったため不良の男もその後を追うことにする。
トラックの場所から少し歩けば裏路地なので、本当にすぐの距離であった。
正悟としては対面する相手となるべく揉めたくはないと思いつつも、無理であろうということは分かっている。
相手の目的は今一つ分からないままだが、この手の人間が近付いてくる理由など限られてくると考えていた。
それにどこかで見た顔であった気がする──とはいえ、人のことに興味を持たない正悟は意識しなければ大体の人間の名前と顔は覚えないようにしている。
覚えない理由は色々とあるが、今はそんなことを説明している時間もなければ考えている時間も正悟にはなかった。
「自分からこんなところに誘い込むなんていい度胸だな」
「目立ちたくないだけだから」
「だったら一昨日のこと、あいつらに謝ってもらおうか」
「一昨日?」
「とぼけるなよ。始業式の日に──」
「あぁ、アイツらか」
「分かってるなら、一緒に来てもらうからな……!」
その言葉を皮切りに不良が正悟の間合いを詰めようとする。
しかし正悟はそれを許さない──後ろに跳ねるように飛んで後退ると、その男の手から逃れて一呼吸整える。
間髪入れずに男が掴みかかろうとするのでそれを避けつつ間合いを取られることがないように動き回る。
掴みかかろうとしている不良にしてみれば、逃げ回られるのは苛立ちが増すばかりでより一層力がこもっていく。
その力みは正悟にも伝わり、ますますその動きを読みやすくなり余裕が出てくる。
だがそんなことをずっと行っているとバイトの時間に遅れてしまう。
正悟は少し長めに間合いを取り、一拍間を置いて不良へと話しかける。
「お前がなんであんな奴らに固執するのか知らないけど、迷惑だからいい加減帰ってくれない?」
「アンタが大人しく付いてくるまで諦めきれるか!」
「なら、少し痛い目に合う覚悟は出来てるんだな」
正悟は言葉を放ったのと同時に荷物を地面に放り投げ、ついでに着ていた制服の上着を脱いで荷物めがけて投げ捨てると同時に不良との距離を考えた構えを取る。
構えと言っても正悟の流派は攻撃をいなしてその流れを利用して使う型であるため、呼吸は整えるが見た目からは何ら変わりのない状態であった。
不良の男もそれに気付かず、逆に威勢を張っているだけだと思い無策で正悟へと突っ込んでいく。
その動きを見切っていた正悟としては、後の処理は簡単なものだった。
近付いてくる速さを利用して相手の腕を掴み、そのまま足を掛け地面へと屈服させると背中に腕を回し組み敷くことで男が身動きを取れない状態にする。
そしてその男を見下す形で少しだけ会話をすることにした。
「お前さ、あいつらの何?」
「いいだろ、そんなこと!」
「動くな。ケガしても知らないから」
「あいつら、オレのこと慕ってくれてるんだよ!だから──」
「ふぅん……お前、名前は?」
「なんでそんなこと聞かれなきゃいけないんだよ!」
「嫌なら名乗らなくてもいいけど」
「千草……天ヶ瀬、千草──」
「天ヶ瀬……?」
夢校の生徒であれば一度は聞いたことがあるであろう。
その男の名は夢美咲大学理事長の名前と完全に一致している。
更に言えばその大学付属の高校──つまりは正悟の通う高校の校長も同じ姓をしていた。
「アンタも俺の事、色眼鏡で見るわけ?」
「あぁ……お前、理事長の孫って話で持ちきりの不良か」
「フンッ……」
「まぁ、俺には関係ないけど」
教師の間でも問題にはなっている。
素行が悪ければ教師は当然それを律するべきなのだが、下手に触れると自分の立場が危うくなると考えている教師も少なくない。
それどころか男の立場を利用して媚びを売る教師すら居た。
親であり校長でもある父親からも、身内であり理事長でもある祖父からも、随分と言われているのは容易に想像が付く。
それ故の反抗──正悟はその気持ちだけは痛いほどよく分かった。
自分の父親も体裁を気にして正悟に自分の意思を押し付けてくるため、嫌気が差すのは分かる気がする。
しかし正悟からすれば目の前に居るその男は十分すぎるほど自由の身だと思う。
自分の意志で何かを選び取れるその自由に、何があろうと親に反抗し抵抗できるその勇気が、正悟には喉から手が出るほど欲しいものであった。
そんな感情を抱きつつも正悟は平静さを失わない。
それどころか正悟はいつも通り無関心でいることにする──そうでなければならない。
色々と思うところはあれど、正悟は男の腕を解放し自身の荷物を拾い上げ上着を手に取ると羽織ることもなく店へと向かう。
「俺、もう仕事行くから」
「あ、おい!待てよ、逃げる気か!?」
「来たければまた明日来いよ。適当に相手してやるから」
「何を勝手なこと……!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返す」
「待てって!」
「俺の仕事先、この裏の本屋だから。何かあれば来いよ、天ヶ瀬」
「気安く呼ぶなよ!」
「お前が俺に勝てたら呼ばないでやるよ」
正悟はそういうと本当に店へと向かい男を放置していった。
男もいつまでも床に突っ伏しているわけにもいかないため身体を起こすが、悔しさのあまりしばらく立ち上がることが出来ない。
だが不思議なことに、あれだけ組み敷かれていた割には身体の痛みを感じなかった。
どちらかと言えば肉体的な痛みよりも精神的な痛みの方が大きかったようだ。
完膚なきまでに屈服させられ正悟を取り逃し、慕ってくれている仲間のことを思うと自分の無力さに悔しさが満ち溢れてくる。
不良の男は地面へ軽く拳を落とし、悔しさだけでなく悲しみにも似た表情を浮かべていた。
「くそっ、これじゃあ何のために来たのか分かんねぇじゃねぇか……」
男はそう言うと座っていた状態から立ち上がり少しふらつきながらどこかへと立ち去っていく。
その後ろ姿は何とも危うく、少し間違えれば如何様にも変わってしまいそうな純粋さも持ち合わせていた。
これから訪れる未来、自分たちでは想像もしていない変化がこの二人には訪れる。
これが