03. 動き出した禁断魔法
禅と別れたあと正悟は自宅を目指してエントランスを抜け、エレベーターを通り過ぎて階段を目指しそのまま進む。
そこそこ広い作りになっているこのマンションでは階段に辿り着くまでも時間を要するのだが、防犯上のことを考えると致し方ない部分でもあるので正悟もそれについては諦めているからかそれほど悩むことはなく毎日を過ごしているし、正悟にとってはエレベーターを使うことの方が恐怖でしかないため、それで幾分か気分を帳消しにしている節がある。
自宅に着くと鍵を開け荷物を置きに自室へと戻るのだが、そこで急に力が抜けたように立っているのがつらくなりその場の床に座り込んでベッドへうなだれると同時に溜め息を吐き、そのまましばらく考え事をすることで体力を少しでも回復させようとしていた。
そうしなければ立てない状態にまで陥っているというのは本人が一番理解しているだろうし、頻繁ではないとはいえこういう状態になるのはよくあることなので、日常茶飯事とまでは言わずともいつものことであると思い込まざるを得ない。
「疲れた……」
ぽつりと呟いた正悟はその一言の他に何かを言うことはなかった。
考えることはしても口を動かす気力もなければ体力もなく、ただその場に座り込んで気持ちを切り替えることだけを目的とし、正悟はここ最近で起きた出来事を順に思い出して物思いに耽ることにする。
こうなった原因を遡り考えてみたのだが、どうしても自分が悪かったということしか思いつかない。
始業式の日に自分が近道をするために裏道を通らなければあの不良達とも出会わずに済んだ。
しかしそうなると千草とも出会わなかっただろうと思うと正悟は複雑な気持ちを隠すことが出来ず、千草のことが気になっているからこそ余計に自分のせいにして心に小さな傷を付けていく。
正悟は昔から人のせいにするのが苦手で、そもそも責任転嫁の方法を一切知らないのが自分を追い込む最大の原因と言えるであろう。
小さい頃から人と距離を置いて生きてきた正悟には、誰かのせいにするという意識そのものがない。
人と絡むことがなければ事件も起こらず、誰かのせいにしなければ誰かと揉めることもなく時を過ごしていける。
だからこそ他人の目を気にして生きるしかなく、そうでなければ心の維持が出来ない。
何よりも今抱える自分の能力のせいで、誰かを不幸にするところを見なくても済む──それだけの問題であった。
どこまで自覚があるかは分からないが正悟には確かにそういった気質がある。
今日も能力 を使ったがために起きた疲労困憊だ。
能力を使った後は確実に反動が出ると言っても過言ではなく、一つの能力は常に正悟の身体を蝕むように現出しており、もう一つの能力は制御出来るものではあるが正悟の身体には負担が大きすぎる。
とはいえ今日はそれほど能力を使った訳でもないのに酷く疲れた気分であるのは、おそらく精神的な意味合いでの疲弊であろう。
千草を助けた時には感じなかったその感覚も禅と帰る頃には限界を感じていたのだが、ここまで来て倒れては禅に心配と負担を与えてしまうことに繋がると考え、正悟は意地でも倒れる訳にはいかず平常心を維持することに必死になっていた。
そしてその反動が今やってきた──つまりはそういうことである。
本来であればこのまま寝てしまいたいところではあるが、流石に明日の鍛錬と通学にかかる時間を考えるとこのまま寝てしまうのは後が大変だということで、正悟は手早く寝支度を整え就寝することにしたのだが、いざ布団に潜り瞼を閉じる際に何故か突然千草の顔が思い出され、今日見せられた微笑みを思い出してしまう。
正悟はその顔を思い出してこう思う──変なやつ、と。
次の日になり正悟はいつも通りの身支度を終わらせると通学路から外れ、人の少ないところを歩いて学校へと向かった。
そこからはつまらない授業につまらない休み時間、そしてつまらない昼食が待っている──そう思っていたがその日の昼食はそうでなく、正悟にとっては喜ばしくもない変化 が待っていて、それはいつも通り弁当を広げて食べようとしたところにやってくる。
今ではもうすっかりと聞き慣れてしまった声が頭上から降ってくるものの、正悟はそちらを見ることもせずひたすらに自分のペースを貫くことにした。
「せーんぱい!」
「…………」
「あの、無視するのやめてくれる?」
「……なに」
「一緒に飯食おうと思って」
「あのさ、前にも言ったけど学校であんまり絡んでくるな」
「昼休みくらいいいじゃん」
「はぁ……勝手にしろ」
昨日からの疲弊もあったのだろうが千草のしつこさは嫌というほど味わっていたので、正悟はそれらの障害を乗り越えてまで追い返すのが面倒になり止めてしまう。
千草には何故か逆らえないという気持ちがどこかにあり、“嫌”という感覚がそこまである訳ではないのが大きく、どちらかというと千草の声が心地良いと思ってしまっている正悟は実際のところ戸惑っているのが現状だった。
それ以外でも気になる点は他にもある。
それが自分自身の能力に対する受け方についてだ。
千草には何かあると正悟は思い考察していた最中に、春特有の心地よく柔らかな風が吹くと正悟を通過して千草に向かっていくのだが、その際に何と表現したらいいのか本人達にも分からない香り が千草の鼻先を掠ると同時に風が吹き止む。
形容し難いその香りは強いて一言で例えるならば魅惑的 とでも言うべきなのか、そればかりは受け手に聞かなければ分からないことではあるが、わざわざそんなことを聞くのはおかしな人間だと思われても仕方がない。
それにそのようなことを聞いて付け込まれてしまうのも困るので、正悟は一つ質問をするのではなく別の方法で気になっている点を確かめてみることにする。
食べ終わった弁当の蓋を閉め膝の上から退かすと、地面に手を添え身体を支えて千草に近付くことにした。
「──天ヶ瀬」
「えっと……なに?」
「…………」
その体勢で千草の顔を覗き込んだ瞬間、二人の距離は急激に近付き千草からしたらキスでもされるのかと思うほど正悟が見つめてくるのだから驚いても仕方がないことではあるが、それとは別に近付かれたことにより正悟の香りが心地良いと感じてしまい、千草は複雑な心境となってどう接したらいいか分からない状態で時間が過ぎていく。
正悟はそういったことに興味がないのでこの状況で思うことも特になく、そのままの状態で一分ほど経過したのだが千草はそうではない。
憧れの先輩である正悟の姿を見て改めて思う。
華奢な体に柔らかそうな髪、それに隠れていても綺麗な顔立ちをしていることや澄んだ瞳と潤んだ唇──。
欲情する人間が居てもおかしくはないのでは、と思ってしまうほど正悟は魅力的であった。
こんな不用意に他人へ近付いて大丈夫なのかと千草は心配になってしまうが、正悟はそこを確かめたかったからわざとこういう姿勢を保っている。
確かめて思う──正直な話、千草に関して言えば未知数 という言葉が当てはまるのではないかと正悟は思いつつも、頭を悩ませもう少し様子を見るかやはり突き放して二度と近付かせないようにするか、千草の“声”の件も関係してくるのだから正悟はいつも以上に慎重になってしまう。
本来であればこれほど慕ってくる人間が自分 という人間に欲情という名の関心を持たないというのは今までの事例で言えば考えられないことであった。
だが千草はそれに反応することなくこうして平常心を保っているように見えるというのが正悟にとっては不思議なことで今でも信じられずにいる。
その考えを持った辺りで千草の方がこの無言の空気に耐え切れなくなったのか、痺れを切らして正悟に声をかけてきたことで考えることに集中していた正悟は我に返り考えるのを止めて返事をすることにした。
「あの……」
「……変なやつ」
「…………え」
思いもしない言葉に千草は正直困惑してしまう。
そう思ってしまっても千草は何も悪くない。
それどころか困惑させた正悟の方に苦情を言ってもおかしくはないが、千草としては嫌な訳ではなく本当に驚いたというだけなので苦情を言うなんてことは考えもせず、憧れの先輩と一緒に居られることの方が何よりの幸せであり満たされている瞬間でもあった。
ただ幸せな時間を過ごしていると思うのは千草だけで、正悟はそう思える状態ではなく今は睡魔が襲ってきていて、余裕がなくなっている。
正直に言って千草が横に居なければ予鈴までうたた寝でもしたい気分であったのだが、まだ完全に千草を信じている訳でもないのに何かあったらどうすればいいのかと迷っていると本格的に眠くなってきてしまう。
睡魔に負けるのは嫌だと思いつつも残念ながら時間が足りない。
だが千草を自分の能力 によって引き起こされる面倒事に巻き込みたくないというのも事実で、それと睡魔を天秤にかけたとき正悟は賭けに出るしかない状態になった。
「ごめん……少し寝る。予鈴の前に起こして──」
「え、先輩!?」
その言葉を最後に正悟は千草の肩を借りて眠りに落ちる。
千草はそれによって小さな驚きと小さな幸せが同時にやってくることになり、少しだけ戸惑いが生まれはしたものの嫌がることなどなくその場に留まり続けた。
風が吹く度に正悟の香りが鼻先を掠めて千草は心地良さを覚えはしたがそれだけの話であり、正悟が気にしていることをしようだなんて思うことはなく、ただひたすらに正悟のことを支え続けているだけなので何か問題が起こるということはなかった。
心地良い風と香りがする中で千草は色々なことを考えそして思う。
初めて出会った時のこと、助けてもらった時のこと、他にも細かい正悟の仕草や表情──そういったことを思い出していくうちに時間が経過し正悟の身体が動くのを感じた。
てっきり起きたのかと思ったのだがどうやら肩に寄りかかっていた状態から崩れ落ちたようで、千草は瞬間的に正悟の身体を支えて自分の足に乗せると膝枕の状態にして正悟をゆっくりと寝かしてやる。
その後も正悟は起きることなく眠り続け、その身体や表情を見ていることで千草は一つの心境の変化に気付いたのだが、それをはっきりと認識したのは次の言葉をぽつりと呟いた時のことだ。
「先輩、スキ──」
そこまで口にしてしまい千草はハッとする。
いくら憧れている先輩と言っても出会って数日、それも相手は男でどう考えても受け入れてもらえる訳もないし自分でもすぐには受け入れられない思いもあった。
恋に落ちるのは時間も性別も関係ないとはいえ、それでも千草はその複雑な思いを受け入れられるか、正悟に打ち明けることは出来るのか、短い時間で悩みながら心の整理をしていく。
だが流石に気持ちの切り替えが早い千草でも簡単に答えの出せる問題ではなく、しばらくは今の関係を続けこの思いは自分の中で決まってから付き合い方を考えよう、そう考えると千草はふと時間のことが気になるようになった。
正悟が寝始めてから大分時間が経過した気がして、予鈴の前となるとそろそろなのではと思い、千草はポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると予鈴の三分前という丁度良いタイミングだったので正悟を起こすため肩を軽く叩き声をかける。
「先輩、起きて。そろそろ時間だから」
「ん……天ヶ瀬……?」
「おはよう」
正悟は薄っすらと瞼を開けてそれを何回か繰り返すうちに目を覚ます。
目が覚めたと同時に本人としては何故千草が目の前に居るのか、正確には何故千草が視界に入っているのか瞬間分からなかった。
肩に寄りかかって寝ていたのだから本来であれば風景がまず最初に飛び込んで来るはずだったのに、崩れ落ちたことによって千草が覗き込む形になったその状況を正悟が理解出来た時には凄く気恥しいという感情になることは容易に想像出来ることである。
寝顔を見られた挙げ句に、千草の微笑んだ表情が急に目に映るとなれば恥ずかしくもなるだろう。
それならば気まずくもなって飛び起きたくなるのも当然と言えば当然なのだが、あまりにも勢いが強すぎて千草の額へとぶつかりそうになる。
そこをすんでのところで千草が避けたことによって頭を強打することもなく済んだ。
「ん……ごめんっ!」
「そんなに慌てなくても……」
飛び起きた正悟はしばらく千草と顔を合わせることが出来ないでいた。
千草と自分の距離が近付いて心の氷が徐々に解けていくのを感じ始めた正悟は千草に甘え始めてしまっている自分を戒め、いつも通り自分を偽るために表情を落ち着けなければならないが、いざ意識的にそれをやろうとしても先程の千草の微笑みが忘れられないでいる。
そんな正悟を横目に微笑んでいた千草が表情を変えて話しかけると、正悟はその言葉で我を取り戻したかのように現実へと一気に引き戻された。
「あのさ、先輩……やっぱり、疲れてる?」
「なんで?」
「昨日のことで──」
千草がそう言葉を呟いた時、タイミングが良いのか悪いのか分からない予鈴が鳴り響く。
正悟は授業が始まると思いその場を離れようとするので千草は心配になりつつも会話が途切れたことに不満を覚え、授業があるということに少しだけ苛立ちを感じてしまう。
それを正悟が感じ取ったのか去り際に千草へと声をかけて移動することにした。
「大丈夫だから」
呟くように正悟は千草へ言葉を放ちその場を離れると、残るのは正悟の香りと優しく流れる風だけでそれもしばらくしたら消えてしまう。
千草は自分が心配しているのは無駄なのだろうかとそう思うほど正悟の反応が冷たく感じてしまい、納得出来ずにその場に居続けそれでも納得出来ずに居ると次は本鈴が鳴り、そのまま屋上に居ても良かったのだが、そうするとどうしても正悟のことを思い出して複雑な気持ちになるため、仕方ない ──そんな気持ちで渋々納得するようにして教室へと向かうことにした。
千草にとっては授業に遅刻したところで困ることはなく、それよりも正悟の反応が気になっている状態で授業に出ても身が入る訳もない。
どうせそんな状態で遅刻するならば授業など受けても受けなくても一緒かと思い、行き先を教室から裏庭へと変えるとそこに向かうために昇降口を目指すことにした。
屋上からどこかへ行くとしても校舎の作り上どうしても職員室へと続く廊下付近の階段を使うしかないので、千草が何気なくその階段へと近付いた時、一人の教師に声をかけられる羽目になる。
確かにそこは教師とすれ違うことが多い場所ではあるが今は授業中だ。
誰にも会わないだろうと踏んでそこを歩いていたのだが、タイミングが悪くその教師に捕まり説教じみたことを言われ続け千草が抱いていた苛立ちは大きく膨らんでいく。
「そこの生徒、授業はとうに始まっている。さっさと教室に戻りなさい」
「……あ?」
「まったく、これだから不良は……理事長の孫だからといえ授業をサボっていい理由にはならない。大人しく授業でも受けていろ」
「チッ……偉そうに」
千草は小さく舌打ちをしてその教師に対して小声で不満を言うと、それが教師の耳に入ったのかあからさまに教師の機嫌が悪くなる。
だがそんなのに構っている気分でもないので千草は無視して裏庭に向かうことにした。
しかしそれを教師が許す訳もなく、より一層言葉を荒らげ千草に対して説教をしてくるものだから腹立たしさが頂点に達したのかその教師を睨みつけ今にも手を出そうとしたその時、教師の後ろから声をかけてきたもう一人の教師が現れる。
「中塚先生、どうされました」
「小梨先生……いえ、この生徒が授業を受けないと言うので少し話をしていただけですよ」
資料とクラス名簿を持って歩いていたその教師はたまたま千草と言い争っているところを目撃したのか、事件に発展する前に止めようと話に割り込んで二人の視線を同時に受けるとそれに対応していく。
正直に言えばこの二人の教師に関して千草は何の情報も持っていない。
新入生というのもあるし、親の七光りとしてしか扱わない教師を覚える必要もないので、担任の名前でさえまだ覚えていないような状況である。
だからという訳ではないがいきなり知らない教師に声をかけられても迷惑 でしかない。
とはいえ自分がしてはいけないことをしているのも分かっているからこそ、余計に反発したくもなってしまいこうして揉め事になってしまった。
千草は二人の教師から説教されるのか──そう思っていた矢先、後から現れた小梨 という教師は最初に声をかけてきた中塚 という教師に用件を伝えてその場を去らせようとする。
「困りますよね、親の七光りは……そもそもなんでこんな素行が悪いのか──」
「中塚先生、先程教頭先生が探していましたよ」
「そういえばそうでしたね」
「この生徒にはきちんと指導しておきますから」
「……まあ、小梨先生がそう仰るなら」
中塚が教頭に用事を頼まれていたのは本当のようで、嫌味にしか取れないほどに千草を見下して中塚はその場を去ることにした。
千草はこの後も教師に説教されるのかと思うと憂鬱でしかないが、小さな溜め息を吐いてその後の展開を予想するとあまりいい想像は出来なかったようだ。
どうせこの教師も同じことを言うに決まっている、七光り、不良、問題児、言わせておけば千草にとっては責められる言葉しか思い付かない。
しかしこの教師、千草が思っていたこととは違う言葉を放つものだから少しだけ拍子抜けしてしまう。
「小梨郁磨 、瀬奈正悟 の担任だ」
「…………!」
正悟の名前を出すのは千草の感情を一時的に鎮めるのに一番最適な言葉である。
郁磨は授業を欠席することや裏庭に行くことを責める気は一切なく、代わりに正悟との関係性を聞いてくるので千草としては渋々答えていくしかない。
無視してしまっても良かったのだが正悟のことが聞けるタイミングもこの時しかなかったため、千草としても正悟のことを聞いてみたかった。
そう思ったからこそ嫌でもその場に居続けたのだが、正悟についての情報を郁磨が易々と話す訳もなく結局のところ千草の不満は募っていく。
「最近、瀬奈に絡んでいるみたいだな。天ヶ瀬」
「……それが?」
「あの子は教師から認められるほどの優等生だ」
「だから不良のオレは近付くなってことかよ」
「そうじゃない。他の教師が見ても釣り合うようになれ、ということだ」
「…………」
そこまで言われると千草は黙ってしまう。
確かに郁磨の言うことは最もで、千草が正悟の隣に居るためには確実な手段でもあった。
しかしそれは並外れた努力でなければ成し得ないことなのだろうということは、今の千草でも十分に理解出来るからこそ千草は自分の気持ちが収まらず余計に苛立ちが増えるのが嫌で、郁磨に対して八つ当たりにも近い質問をする。
「一つ、いいですか」
「なんだ?」
「何で先輩っていつも一人で寂しそうな顔してるんですか」
千草は苛立ちを収めながらどうにか正悟のことを聞きたくて、目の前に居る郁磨に今の時点で最も気になっていることを尋ねるのだが、正悟の担任とはいえ所詮はそれだけの存在なのだから欲している答えなど返ってこないと千草は発言した後に思う。
とはいえもう言葉にしてしまったのだからその後はどうにでもなれと思い期待してはいなかったその答えを話半分に聞くことにしたのだが、思っていた言葉とは違うものが返ってきたためまたしても拍子抜けしてしまった。
「気になるか?」
「それは、その……」
郁磨は禅からも正悟本人からも千草については聞いている。
しかし郁磨の立場と正悟との関係性を考えたらはっきり言って認めたくないと思っているのだが、禅からは見守るようにと言われており仕方ないので郁磨も出来る限りそれには従うつもりでいた。
だからとはいえ親切に教えてやる義理もないので静かに去ろうとそのまま移動しようかとも思ったのだが、流石に大人げない対応に少しだけ反省をして、去り際に手掛かりになるような正悟をよく知る人物の名を伝えそれ以上のことは何も話さなかった。
「詳しく知りたければ禅に聞け」
「え……」
「知りたいことを教えてくれる訳でもないが、少なくとも俺と話すよりは聞きたいことも聞けるだろう」
「あの、なんで……!」
郁磨は責任を禅へと押し付けることにより少しの苛立ちを解消する。
正直に言えば、郁磨は千草が正悟に接触することに反対であった。
というよりも、正悟に近付く人間を簡単に認めることなど出来ないと思う節があり、一種の過保護と言われるような状態に陥っている。
正悟が小さい頃から愛しみ、禅と同様に心配もしてきた──それを数週間前に現れたどこの誰か分からないような人間に手を出されたくはない。
その思いは郁磨自身分かっているつもりなので大人げないのも分かっているが、それでも認めることは出来ないし、兄弟子の立場で考えたら余計に認めることなどするはずもなく、郁磨はつい余計な一言を千草とすれ違う際に小声でぼそっと呟いてしまう。
「まぁ……俺は認めないがな──」
「今、なんて……」
郁磨の呟いた言葉は千草の耳に入らなかったようで、それ以上は正悟の話をすることもなく自分も目的地へと向かうため千草とは教師らしいことを言って最後の会話とする。
「次の授業は出ろよ」
千草もその言葉を聞いて去り行く郁磨の背中を見送ると、この後の時間をどうするか考えることにした。
中塚と郁磨の二人と話をしているうちに授業も数十分が過ぎてしまい、今から裏庭に行って休憩しようにも向かって着いた頃にはすぐに授業を終える合図の鐘が鳴りそうだったので、場所を変えて中庭にでも移動しようかと思い昇降口に着くと、靴を履き替え外に出る準備をしてから中庭へと向かう。
途中に正悟の居る教室からはそこの通路が良く見える場所があるのだが千草はそれを知らないからか普通に通過していくと、その背中をたまたま正悟が目撃してしまい、教師に分からない程度の溜め息を吐き一言だけ頭の中で千草へ送る言葉を思い浮かべた。
何をやってるんだか──そういう風に思ったのも束の間、授業を真面目に受けている正悟はすぐに頭を切り替え授業の内容を取りこぼさないように黒板へと視線を向ける。
そのまま一つの授業が終わり休憩時間を挟んでから続けて授業が始まるのだが、千草も残りの授業は出ることにして、教室で真面目に授業を受けたかと思いきや本人はその内容を聞き流し時々欠伸を堪えた表情をすることでこのつまらない試練を乗り越えようとしていた。
正悟のことを知りたいと思う一心で授業をなんとか乗り越え、ホームルームでさえ試練のように感じていたが終われば解放され禅の店へと行くことが出来ると思い、つまらない時間を我慢してチャイムが鳴り響くと共にすぐさま教室を飛び出し禅の店へと向かう。
正悟よりも早く着いて少しでも長く正悟のことを聞きたいと、そう願ってのことであった。
その願いを叶えるためにも千草は足を止めることなく店まで辿り着き、決意した表情で呼吸を整え店内へ入ろうとする。
千草の問いに禅が答えるのかどうかも分からないがそれでも千草は諦めない。
もう少しで触れられそうなのに届かないもどかしさを振り払うように千草は前に進もうとしている。
それを禅にも認めてもらいたい。
正悟のことを知りたいと言うのがただの好奇心ではないのだということを知って欲しい──そのための一歩なのだと千草は思い、少し緊張もしていたが自分が決めた夢のためにも勇気を持って今、歩き出す。
そこそこ広い作りになっているこのマンションでは階段に辿り着くまでも時間を要するのだが、防犯上のことを考えると致し方ない部分でもあるので正悟もそれについては諦めているからかそれほど悩むことはなく毎日を過ごしているし、正悟にとってはエレベーターを使うことの方が恐怖でしかないため、それで幾分か気分を帳消しにしている節がある。
自宅に着くと鍵を開け荷物を置きに自室へと戻るのだが、そこで急に力が抜けたように立っているのがつらくなりその場の床に座り込んでベッドへうなだれると同時に溜め息を吐き、そのまましばらく考え事をすることで体力を少しでも回復させようとしていた。
そうしなければ立てない状態にまで陥っているというのは本人が一番理解しているだろうし、頻繁ではないとはいえこういう状態になるのはよくあることなので、日常茶飯事とまでは言わずともいつものことであると思い込まざるを得ない。
「疲れた……」
ぽつりと呟いた正悟はその一言の他に何かを言うことはなかった。
考えることはしても口を動かす気力もなければ体力もなく、ただその場に座り込んで気持ちを切り替えることだけを目的とし、正悟はここ最近で起きた出来事を順に思い出して物思いに耽ることにする。
こうなった原因を遡り考えてみたのだが、どうしても自分が悪かったということしか思いつかない。
始業式の日に自分が近道をするために裏道を通らなければあの不良達とも出会わずに済んだ。
しかしそうなると千草とも出会わなかっただろうと思うと正悟は複雑な気持ちを隠すことが出来ず、千草のことが気になっているからこそ余計に自分のせいにして心に小さな傷を付けていく。
正悟は昔から人のせいにするのが苦手で、そもそも責任転嫁の方法を一切知らないのが自分を追い込む最大の原因と言えるであろう。
小さい頃から人と距離を置いて生きてきた正悟には、誰かのせいにするという意識そのものがない。
人と絡むことがなければ事件も起こらず、誰かのせいにしなければ誰かと揉めることもなく時を過ごしていける。
だからこそ他人の目を気にして生きるしかなく、そうでなければ心の維持が出来ない。
何よりも今抱える自分の能力のせいで、誰かを不幸にするところを見なくても済む──それだけの問題であった。
どこまで自覚があるかは分からないが正悟には確かにそういった気質がある。
今日も
能力を使った後は確実に反動が出ると言っても過言ではなく、一つの能力は常に正悟の身体を蝕むように現出しており、もう一つの能力は制御出来るものではあるが正悟の身体には負担が大きすぎる。
とはいえ今日はそれほど能力を使った訳でもないのに酷く疲れた気分であるのは、おそらく精神的な意味合いでの疲弊であろう。
千草を助けた時には感じなかったその感覚も禅と帰る頃には限界を感じていたのだが、ここまで来て倒れては禅に心配と負担を与えてしまうことに繋がると考え、正悟は意地でも倒れる訳にはいかず平常心を維持することに必死になっていた。
そしてその反動が今やってきた──つまりはそういうことである。
本来であればこのまま寝てしまいたいところではあるが、流石に明日の鍛錬と通学にかかる時間を考えるとこのまま寝てしまうのは後が大変だということで、正悟は手早く寝支度を整え就寝することにしたのだが、いざ布団に潜り瞼を閉じる際に何故か突然千草の顔が思い出され、今日見せられた微笑みを思い出してしまう。
正悟はその顔を思い出してこう思う──変なやつ、と。
次の日になり正悟はいつも通りの身支度を終わらせると通学路から外れ、人の少ないところを歩いて学校へと向かった。
そこからはつまらない授業につまらない休み時間、そしてつまらない昼食が待っている──そう思っていたがその日の昼食はそうでなく、正悟にとっては喜ばしくもない
今ではもうすっかりと聞き慣れてしまった声が頭上から降ってくるものの、正悟はそちらを見ることもせずひたすらに自分のペースを貫くことにした。
「せーんぱい!」
「…………」
「あの、無視するのやめてくれる?」
「……なに」
「一緒に飯食おうと思って」
「あのさ、前にも言ったけど学校であんまり絡んでくるな」
「昼休みくらいいいじゃん」
「はぁ……勝手にしろ」
昨日からの疲弊もあったのだろうが千草のしつこさは嫌というほど味わっていたので、正悟はそれらの障害を乗り越えてまで追い返すのが面倒になり止めてしまう。
千草には何故か逆らえないという気持ちがどこかにあり、“嫌”という感覚がそこまである訳ではないのが大きく、どちらかというと千草の声が心地良いと思ってしまっている正悟は実際のところ戸惑っているのが現状だった。
それ以外でも気になる点は他にもある。
それが自分自身の能力に対する受け方についてだ。
千草には何かあると正悟は思い考察していた最中に、春特有の心地よく柔らかな風が吹くと正悟を通過して千草に向かっていくのだが、その際に何と表現したらいいのか本人達にも分からない
形容し難いその香りは強いて一言で例えるならば
それにそのようなことを聞いて付け込まれてしまうのも困るので、正悟は一つ質問をするのではなく別の方法で気になっている点を確かめてみることにする。
食べ終わった弁当の蓋を閉め膝の上から退かすと、地面に手を添え身体を支えて千草に近付くことにした。
「──天ヶ瀬」
「えっと……なに?」
「…………」
その体勢で千草の顔を覗き込んだ瞬間、二人の距離は急激に近付き千草からしたらキスでもされるのかと思うほど正悟が見つめてくるのだから驚いても仕方がないことではあるが、それとは別に近付かれたことにより正悟の香りが心地良いと感じてしまい、千草は複雑な心境となってどう接したらいいか分からない状態で時間が過ぎていく。
正悟はそういったことに興味がないのでこの状況で思うことも特になく、そのままの状態で一分ほど経過したのだが千草はそうではない。
憧れの先輩である正悟の姿を見て改めて思う。
華奢な体に柔らかそうな髪、それに隠れていても綺麗な顔立ちをしていることや澄んだ瞳と潤んだ唇──。
欲情する人間が居てもおかしくはないのでは、と思ってしまうほど正悟は魅力的であった。
こんな不用意に他人へ近付いて大丈夫なのかと千草は心配になってしまうが、正悟はそこを確かめたかったからわざとこういう姿勢を保っている。
確かめて思う──正直な話、千草に関して言えば
本来であればこれほど慕ってくる人間が
だが千草はそれに反応することなくこうして平常心を保っているように見えるというのが正悟にとっては不思議なことで今でも信じられずにいる。
その考えを持った辺りで千草の方がこの無言の空気に耐え切れなくなったのか、痺れを切らして正悟に声をかけてきたことで考えることに集中していた正悟は我に返り考えるのを止めて返事をすることにした。
「あの……」
「……変なやつ」
「…………え」
思いもしない言葉に千草は正直困惑してしまう。
そう思ってしまっても千草は何も悪くない。
それどころか困惑させた正悟の方に苦情を言ってもおかしくはないが、千草としては嫌な訳ではなく本当に驚いたというだけなので苦情を言うなんてことは考えもせず、憧れの先輩と一緒に居られることの方が何よりの幸せであり満たされている瞬間でもあった。
ただ幸せな時間を過ごしていると思うのは千草だけで、正悟はそう思える状態ではなく今は睡魔が襲ってきていて、余裕がなくなっている。
正直に言って千草が横に居なければ予鈴までうたた寝でもしたい気分であったのだが、まだ完全に千草を信じている訳でもないのに何かあったらどうすればいいのかと迷っていると本格的に眠くなってきてしまう。
睡魔に負けるのは嫌だと思いつつも残念ながら時間が足りない。
だが千草を
「ごめん……少し寝る。予鈴の前に起こして──」
「え、先輩!?」
その言葉を最後に正悟は千草の肩を借りて眠りに落ちる。
千草はそれによって小さな驚きと小さな幸せが同時にやってくることになり、少しだけ戸惑いが生まれはしたものの嫌がることなどなくその場に留まり続けた。
風が吹く度に正悟の香りが鼻先を掠めて千草は心地良さを覚えはしたがそれだけの話であり、正悟が気にしていることをしようだなんて思うことはなく、ただひたすらに正悟のことを支え続けているだけなので何か問題が起こるということはなかった。
心地良い風と香りがする中で千草は色々なことを考えそして思う。
初めて出会った時のこと、助けてもらった時のこと、他にも細かい正悟の仕草や表情──そういったことを思い出していくうちに時間が経過し正悟の身体が動くのを感じた。
てっきり起きたのかと思ったのだがどうやら肩に寄りかかっていた状態から崩れ落ちたようで、千草は瞬間的に正悟の身体を支えて自分の足に乗せると膝枕の状態にして正悟をゆっくりと寝かしてやる。
その後も正悟は起きることなく眠り続け、その身体や表情を見ていることで千草は一つの心境の変化に気付いたのだが、それをはっきりと認識したのは次の言葉をぽつりと呟いた時のことだ。
「先輩、スキ──」
そこまで口にしてしまい千草はハッとする。
いくら憧れている先輩と言っても出会って数日、それも相手は男でどう考えても受け入れてもらえる訳もないし自分でもすぐには受け入れられない思いもあった。
恋に落ちるのは時間も性別も関係ないとはいえ、それでも千草はその複雑な思いを受け入れられるか、正悟に打ち明けることは出来るのか、短い時間で悩みながら心の整理をしていく。
だが流石に気持ちの切り替えが早い千草でも簡単に答えの出せる問題ではなく、しばらくは今の関係を続けこの思いは自分の中で決まってから付き合い方を考えよう、そう考えると千草はふと時間のことが気になるようになった。
正悟が寝始めてから大分時間が経過した気がして、予鈴の前となるとそろそろなのではと思い、千草はポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると予鈴の三分前という丁度良いタイミングだったので正悟を起こすため肩を軽く叩き声をかける。
「先輩、起きて。そろそろ時間だから」
「ん……天ヶ瀬……?」
「おはよう」
正悟は薄っすらと瞼を開けてそれを何回か繰り返すうちに目を覚ます。
目が覚めたと同時に本人としては何故千草が目の前に居るのか、正確には何故千草が視界に入っているのか瞬間分からなかった。
肩に寄りかかって寝ていたのだから本来であれば風景がまず最初に飛び込んで来るはずだったのに、崩れ落ちたことによって千草が覗き込む形になったその状況を正悟が理解出来た時には凄く気恥しいという感情になることは容易に想像出来ることである。
寝顔を見られた挙げ句に、千草の微笑んだ表情が急に目に映るとなれば恥ずかしくもなるだろう。
それならば気まずくもなって飛び起きたくなるのも当然と言えば当然なのだが、あまりにも勢いが強すぎて千草の額へとぶつかりそうになる。
そこをすんでのところで千草が避けたことによって頭を強打することもなく済んだ。
「ん……ごめんっ!」
「そんなに慌てなくても……」
飛び起きた正悟はしばらく千草と顔を合わせることが出来ないでいた。
千草と自分の距離が近付いて心の氷が徐々に解けていくのを感じ始めた正悟は千草に甘え始めてしまっている自分を戒め、いつも通り自分を偽るために表情を落ち着けなければならないが、いざ意識的にそれをやろうとしても先程の千草の微笑みが忘れられないでいる。
そんな正悟を横目に微笑んでいた千草が表情を変えて話しかけると、正悟はその言葉で我を取り戻したかのように現実へと一気に引き戻された。
「あのさ、先輩……やっぱり、疲れてる?」
「なんで?」
「昨日のことで──」
千草がそう言葉を呟いた時、タイミングが良いのか悪いのか分からない予鈴が鳴り響く。
正悟は授業が始まると思いその場を離れようとするので千草は心配になりつつも会話が途切れたことに不満を覚え、授業があるということに少しだけ苛立ちを感じてしまう。
それを正悟が感じ取ったのか去り際に千草へと声をかけて移動することにした。
「大丈夫だから」
呟くように正悟は千草へ言葉を放ちその場を離れると、残るのは正悟の香りと優しく流れる風だけでそれもしばらくしたら消えてしまう。
千草は自分が心配しているのは無駄なのだろうかとそう思うほど正悟の反応が冷たく感じてしまい、納得出来ずにその場に居続けそれでも納得出来ずに居ると次は本鈴が鳴り、そのまま屋上に居ても良かったのだが、そうするとどうしても正悟のことを思い出して複雑な気持ちになるため、
千草にとっては授業に遅刻したところで困ることはなく、それよりも正悟の反応が気になっている状態で授業に出ても身が入る訳もない。
どうせそんな状態で遅刻するならば授業など受けても受けなくても一緒かと思い、行き先を教室から裏庭へと変えるとそこに向かうために昇降口を目指すことにした。
屋上からどこかへ行くとしても校舎の作り上どうしても職員室へと続く廊下付近の階段を使うしかないので、千草が何気なくその階段へと近付いた時、一人の教師に声をかけられる羽目になる。
確かにそこは教師とすれ違うことが多い場所ではあるが今は授業中だ。
誰にも会わないだろうと踏んでそこを歩いていたのだが、タイミングが悪くその教師に捕まり説教じみたことを言われ続け千草が抱いていた苛立ちは大きく膨らんでいく。
「そこの生徒、授業はとうに始まっている。さっさと教室に戻りなさい」
「……あ?」
「まったく、これだから不良は……理事長の孫だからといえ授業をサボっていい理由にはならない。大人しく授業でも受けていろ」
「チッ……偉そうに」
千草は小さく舌打ちをしてその教師に対して小声で不満を言うと、それが教師の耳に入ったのかあからさまに教師の機嫌が悪くなる。
だがそんなのに構っている気分でもないので千草は無視して裏庭に向かうことにした。
しかしそれを教師が許す訳もなく、より一層言葉を荒らげ千草に対して説教をしてくるものだから腹立たしさが頂点に達したのかその教師を睨みつけ今にも手を出そうとしたその時、教師の後ろから声をかけてきたもう一人の教師が現れる。
「中塚先生、どうされました」
「小梨先生……いえ、この生徒が授業を受けないと言うので少し話をしていただけですよ」
資料とクラス名簿を持って歩いていたその教師はたまたま千草と言い争っているところを目撃したのか、事件に発展する前に止めようと話に割り込んで二人の視線を同時に受けるとそれに対応していく。
正直に言えばこの二人の教師に関して千草は何の情報も持っていない。
新入生というのもあるし、親の七光りとしてしか扱わない教師を覚える必要もないので、担任の名前でさえまだ覚えていないような状況である。
だからという訳ではないがいきなり知らない教師に声をかけられても
とはいえ自分がしてはいけないことをしているのも分かっているからこそ、余計に反発したくもなってしまいこうして揉め事になってしまった。
千草は二人の教師から説教されるのか──そう思っていた矢先、後から現れた
「困りますよね、親の七光りは……そもそもなんでこんな素行が悪いのか──」
「中塚先生、先程教頭先生が探していましたよ」
「そういえばそうでしたね」
「この生徒にはきちんと指導しておきますから」
「……まあ、小梨先生がそう仰るなら」
中塚が教頭に用事を頼まれていたのは本当のようで、嫌味にしか取れないほどに千草を見下して中塚はその場を去ることにした。
千草はこの後も教師に説教されるのかと思うと憂鬱でしかないが、小さな溜め息を吐いてその後の展開を予想するとあまりいい想像は出来なかったようだ。
どうせこの教師も同じことを言うに決まっている、七光り、不良、問題児、言わせておけば千草にとっては責められる言葉しか思い付かない。
しかしこの教師、千草が思っていたこととは違う言葉を放つものだから少しだけ拍子抜けしてしまう。
「
「…………!」
正悟の名前を出すのは千草の感情を一時的に鎮めるのに一番最適な言葉である。
郁磨は授業を欠席することや裏庭に行くことを責める気は一切なく、代わりに正悟との関係性を聞いてくるので千草としては渋々答えていくしかない。
無視してしまっても良かったのだが正悟のことが聞けるタイミングもこの時しかなかったため、千草としても正悟のことを聞いてみたかった。
そう思ったからこそ嫌でもその場に居続けたのだが、正悟についての情報を郁磨が易々と話す訳もなく結局のところ千草の不満は募っていく。
「最近、瀬奈に絡んでいるみたいだな。天ヶ瀬」
「……それが?」
「あの子は教師から認められるほどの優等生だ」
「だから不良のオレは近付くなってことかよ」
「そうじゃない。他の教師が見ても釣り合うようになれ、ということだ」
「…………」
そこまで言われると千草は黙ってしまう。
確かに郁磨の言うことは最もで、千草が正悟の隣に居るためには確実な手段でもあった。
しかしそれは並外れた努力でなければ成し得ないことなのだろうということは、今の千草でも十分に理解出来るからこそ千草は自分の気持ちが収まらず余計に苛立ちが増えるのが嫌で、郁磨に対して八つ当たりにも近い質問をする。
「一つ、いいですか」
「なんだ?」
「何で先輩っていつも一人で寂しそうな顔してるんですか」
千草は苛立ちを収めながらどうにか正悟のことを聞きたくて、目の前に居る郁磨に今の時点で最も気になっていることを尋ねるのだが、正悟の担任とはいえ所詮はそれだけの存在なのだから欲している答えなど返ってこないと千草は発言した後に思う。
とはいえもう言葉にしてしまったのだからその後はどうにでもなれと思い期待してはいなかったその答えを話半分に聞くことにしたのだが、思っていた言葉とは違うものが返ってきたためまたしても拍子抜けしてしまった。
「気になるか?」
「それは、その……」
郁磨は禅からも正悟本人からも千草については聞いている。
しかし郁磨の立場と正悟との関係性を考えたらはっきり言って認めたくないと思っているのだが、禅からは見守るようにと言われており仕方ないので郁磨も出来る限りそれには従うつもりでいた。
だからとはいえ親切に教えてやる義理もないので静かに去ろうとそのまま移動しようかとも思ったのだが、流石に大人げない対応に少しだけ反省をして、去り際に手掛かりになるような正悟をよく知る人物の名を伝えそれ以上のことは何も話さなかった。
「詳しく知りたければ禅に聞け」
「え……」
「知りたいことを教えてくれる訳でもないが、少なくとも俺と話すよりは聞きたいことも聞けるだろう」
「あの、なんで……!」
郁磨は責任を禅へと押し付けることにより少しの苛立ちを解消する。
正直に言えば、郁磨は千草が正悟に接触することに反対であった。
というよりも、正悟に近付く人間を簡単に認めることなど出来ないと思う節があり、一種の過保護と言われるような状態に陥っている。
正悟が小さい頃から愛しみ、禅と同様に心配もしてきた──それを数週間前に現れたどこの誰か分からないような人間に手を出されたくはない。
その思いは郁磨自身分かっているつもりなので大人げないのも分かっているが、それでも認めることは出来ないし、兄弟子の立場で考えたら余計に認めることなどするはずもなく、郁磨はつい余計な一言を千草とすれ違う際に小声でぼそっと呟いてしまう。
「まぁ……俺は認めないがな──」
「今、なんて……」
郁磨の呟いた言葉は千草の耳に入らなかったようで、それ以上は正悟の話をすることもなく自分も目的地へと向かうため千草とは教師らしいことを言って最後の会話とする。
「次の授業は出ろよ」
千草もその言葉を聞いて去り行く郁磨の背中を見送ると、この後の時間をどうするか考えることにした。
中塚と郁磨の二人と話をしているうちに授業も数十分が過ぎてしまい、今から裏庭に行って休憩しようにも向かって着いた頃にはすぐに授業を終える合図の鐘が鳴りそうだったので、場所を変えて中庭にでも移動しようかと思い昇降口に着くと、靴を履き替え外に出る準備をしてから中庭へと向かう。
途中に正悟の居る教室からはそこの通路が良く見える場所があるのだが千草はそれを知らないからか普通に通過していくと、その背中をたまたま正悟が目撃してしまい、教師に分からない程度の溜め息を吐き一言だけ頭の中で千草へ送る言葉を思い浮かべた。
何をやってるんだか──そういう風に思ったのも束の間、授業を真面目に受けている正悟はすぐに頭を切り替え授業の内容を取りこぼさないように黒板へと視線を向ける。
そのまま一つの授業が終わり休憩時間を挟んでから続けて授業が始まるのだが、千草も残りの授業は出ることにして、教室で真面目に授業を受けたかと思いきや本人はその内容を聞き流し時々欠伸を堪えた表情をすることでこのつまらない試練を乗り越えようとしていた。
正悟のことを知りたいと思う一心で授業をなんとか乗り越え、ホームルームでさえ試練のように感じていたが終われば解放され禅の店へと行くことが出来ると思い、つまらない時間を我慢してチャイムが鳴り響くと共にすぐさま教室を飛び出し禅の店へと向かう。
正悟よりも早く着いて少しでも長く正悟のことを聞きたいと、そう願ってのことであった。
その願いを叶えるためにも千草は足を止めることなく店まで辿り着き、決意した表情で呼吸を整え店内へ入ろうとする。
千草の問いに禅が答えるのかどうかも分からないがそれでも千草は諦めない。
もう少しで触れられそうなのに届かないもどかしさを振り払うように千草は前に進もうとしている。
それを禅にも認めてもらいたい。
正悟のことを知りたいと言うのがただの好奇心ではないのだということを知って欲しい──そのための一歩なのだと千草は思い、少し緊張もしていたが自分が決めた夢のためにも勇気を持って今、歩き出す。