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side sister
帰り道、夕日が消えて月が昇りかけている狭間の時間。私はさっきまで繋いでいた手をそっと離した。
前にいる騒ぐ声はいつもの先輩達で、それに気付いた瞬間兄の足がピタリと止まってしまったから。
じんわりと手の温もりが空気に消えていく。
それがとても悲しくて、妙に手先が冷たく感じた。
夏の夕暮れで、寒くなんてないはずなのに指先が凍えたように動かない。
「あ」
前方の先輩達の一人が気付いて、私達に大きく手を上げた。
「おーい!お前らも帰りかー?」
大きな声で呼ぶのは、言外に一緒に帰らないかという言葉。その横には、並ぶ五つの顔。
ああ、彼女もそこにいるんだ。気付いた時にはすとんと足元が抜けた気がした。
隣の兄は笑顔を作って「行こう」と私に呼びかける。
そんなの頷くしかなかったから、私は無言で兄に続いて騒がしい先輩達に紛れ込む。
「兵助君、タイミング一緒なら私待ってたのに」
そういう彼女は可愛らしく膨れっ面をして兄に小言を言う。彼女は兄の恋人で、そうして私の一つ上の先輩。兄と同級生だ。綺麗な顔は兄と並んでも見劣りしなくて、校内では美人カップルだとか噂されている。
私の顔は兄とは似ていなくて、綺麗ではない。それでも兄は私を「可愛い」と褒めてくれる。それだけで浮かれる私は単純だ。
「ごめん。五月が委員会だったし、鍵持ってるの五月だったから」
俺だけ先に帰っても、家に入れないから。困った顔で言った兄に、彼女はそれなら仕方がないと笑った。
その顔も綺麗だ。途端に私は泣きたくなる。
「ごめんなさい。私がお兄ちゃんに渡しておけばよかったのに」
そうしなかったのは、兄が一緒に帰れるからと言ってくれたからだった。いつも私より帰りが遅い兄は、鍵を持っていなくて、先に帰る私が家の鍵を開けて兄の帰りを待っている。
「おかえりなさい」「ただいま」
それだけの会話がとても嬉しくて、帰りを待つのも楽しかったけれど、こうやって二人で並んで帰るのもとても楽しくて幸せだった。
手を繋いで歩ける道はいつだって長くない。
「五月ちゃん、委員会って何入ってんの?」
兄の友人の尾浜先輩が棒付き飴を食べながら隣に並んで訊ねてくる。
「美化風紀委員会です」
「ああー…立花先輩のとこか」
げんなりと言った風に竹谷先輩が呟く。不破先輩と鉢屋先輩は納得の表情で頷く。
「久々知家ってみんな顔良いから、五月ちゃんも通称美形委員会に入ってるのも納得だわ」
「褒めて貰って有難うございます…そんな風に言われてたんですか?」
自分の入っていた委員会がそんな通称があっただなんて知らなかった。喜八郎君何か知ってたのかな。私がぼんやりと考えていると、がし、と肩に衝撃が走る。
驚いて見れば、尾浜先輩が肩を組んできていて、ひそひそ声で「実は兵助も、美形委員会に勧誘されてたんだよ。結局断って射撃部に入ったんだけど」と半笑いで耳元で喋る。
少しくすぐったくて身を捩って「そうなんですか」と返すと、尾浜先輩は「うわ」と叫んで肩を外した。
尾浜先輩の右肩を兄の手が掴んでいて、引きはがしたようだった。無表情ながらも長年いるからわかる感覚で、不機嫌さがすぐ感じ取れた。それにまた心の中が幸せになる。
「勘ちゃん近い」
「でーたよ、シスコン」
「そこが兵助君のいいとこなんだよ」
彼女が笑って兄を褒め、尾浜先輩はぶつぶつと茶化しながらも文句を言う。シスコンの一言で片付けられる間柄で良かったと思う反面、心の内はそうじゃないんだ、と考えてしまって妙にモヤモヤする。
ふ、と兄を見ればじっと私を見ていたけど何か小さく口を開きかけて、また閉じた。なんだろう、と思う間もなくすぐに彼女が兄に携帯を見せ、何かを話しだして笑いあう。
「ぁ、」
これ以上、見ていたくない。心が痛くなってしまう。でも大丈夫。家に帰ったらまた二人きりで幸せに過ごせるから。何度も何度も抱き締めてくれるから。大丈夫、これは見なくてもいい。
そう言い聞かせて、先に帰る旨を伝えようと口を開いた瞬間、背後から柔らかな声で名前を呼ばれた。
「五月ー」
よく知るこの声は、同じクラスで同じ委員会の喜八郎君のものだ。咄嗟に口実だ、と思ってしまった自分に嫌気がさす。
足を止めて後ろを振り返れば、珍しく喜八郎君は走ってきていた。あまり得する運動好きじゃないのに、どうしたのだろう。
「喜八郎君、どうしたっ、の…?」
言い終わる前に、ドン、と衝撃を受ける。走ってきた勢いのまま喜八郎君は私に抱き着き、ふーと大きく息を吐いた。一瞬、兄や先輩たちが静かになる。
「一緒に帰れるかなーって思ってたのに先に帰っちゃうんだから酷いよね。みんなも待ってたのに」
「え!」
そんな話聞いていない。驚いて喜八郎君を肩から引きはがして、嘘、約束なんてと口走ろうとしたとき、喜八郎君はその大きく丸い目でじっと私を見た。
ああそうだ。この人、知っていたんだった。
だから、それもあれも口実だ。喜八郎君の優しさだ。
「ご、めんね。お兄ちゃんと会って、そのまま…晩御飯の話してた、から」
「ふーん。別にいいけど。タカ丸さんが嘆いてたよ」
「悪いことしちゃったな。みんなは?」
「おいてきた」
「えっ!!」
相変わらずの能天気発言に私が驚いていると、やっと後ろが話し始める。
「綾部ー、急に女の子に抱き着くのなんてしちゃだめだろ」
「竹谷先輩こんにちは」
「はい、こんにちは。じゃなくて!俺との会話のキャッチボール!!」
嘆く竹谷先輩に、尾浜先輩と鉢屋先輩がドンマイといい笑顔で肩を叩いた。
兄は表情が消えた顔をしている。珍しく「近い」と間に割って入っても来なかったし、今もわりと至近距離でいるのに何も言ってこない。
どうしたのだろう。不思議に思っていると彼女さんが口を開いた。
「仲いいのね、二人とも。お似合いだなぁ」
「…チッ」
その一言に喜八郎君が大きく聞こえるように舌打ちをする。一気に彼女の顔色が急降下した。
「…え?」
喜八郎君は私の事を知っていてくれて、兄の事も解っていて、そうしてこの彼女の事を嫌っている。どういう経緯や理由があったにせよ、私と兄の間に無理矢理割り込んだように見えたのだろう。喜八郎君はとても私に甘いから。だから「お似合い」なんて言葉に腹が立ったのだろう。
彼女の顔色と機嫌が下がっていき困惑が広がった中、動いたのは尾浜先輩だった。
喜八郎君の顔に向けて、指鉄砲の形を取った尾浜先輩が、にん、と笑う。
「先輩に向かって舌打ちとはお行儀悪いなぁ?綾部喜八郎?」
言葉は怖いけど、その顔はへらへらしている。喜八郎君も、尾浜先輩の様子に訝しげに眉を顰めた。
「…どーも、すみませーん。口癖なんで」
「どんな口癖だよ」
笑いながら尾浜先輩が指鉄砲の銃口を喜八郎君の額へ押し付けて小突いた。兄も他の面々も、仕方ないという風に苦笑している。彼女だけは、納得がいっていない顔だ。
私がその立場であったら、勿論納得なんていかないし怒っている。ここで怒鳴らないのは流石だなぁと感心した。
「喜八郎君。ちゃんと先輩に謝らないと…ね?」
「なんで?」
「なんでって…舌打ちなんてされたら気分悪いじゃない。それにほら、ここに滝ちゃんいたら」
名前を出してすぐに駆け足の音と「キハチロー!!」という声が後ろから響いた。噂をすれば、だ。
滝ちゃんは全力で走ってきた風に見えたのに、私たちの前で止まった時には息は上がっていなくてそうして全力で喜八郎君の頭を叩いた。
「た、滝ちゃん!」
「迷惑をかけたのだろう!この雰囲気!申し訳ありませんでした先輩方!」
「いったいなー」
「お前も謝れ馬鹿者!」
保護者の介入に(滝ちゃんは同級生であって保護者ではないのだけれど)彼女は呆気にとられたのか、一瞬目を瞬かせたけどすぐに少し引き攣った笑いを浮かべた。
「…え、ええ。別に、いいわよ」
「ありがとうございます!ほら喜八郎!お前も!」
「……ざーす」
喜八郎君の態度にもう一発、と拳を上げた滝ちゃんの腕をしっかりと止めて私は滝ちゃんを宥める。
「もう殴らないであげて。先輩も許してくれたし、それ以上ボカスカしたら喜八郎君本当に馬鹿になっちゃう」
「ちょっと」
「そうだな。あまり殴っては細胞が死滅するか。これ以上手に負えなくなったら施設に放り込むぞ」
「ちょっと?」
私と滝ちゃんの言葉にむすくれる喜八郎君だけれど、その様子に笑いが込み上げる。さっきまでの気持ち悪い影のある心はもうどこかにいっていた。
振り返って、兄を見る。兄の顔は相変わらず綺麗で、そうして今は妙な顔をしている。
「…お兄ちゃん。私先に帰るね。ご飯作らないと」
「…ああ、うん」
「今日は豆腐ハンバーグだからね。先輩方、失礼致します」
早く帰ってきてね。そう言いたいけれど勿論言えない私は、苦く笑って喜八郎君の手を引いた。
素直に私にひかれて歩く喜八郎君と、先輩方に頭を下げてから私達に追いつく滝ちゃん。
「よかったのか?」
「んー?うん。いいの。喜八郎君、ありがとうね」
「…別に」
僕殴られ損だよ絶対、そうやってぼやく割にはしっかりと私の手を握って離さない。
さっきまでは兄と繋いでいた手。
今は別の男の人と繋いでいる手。
こっちが、本当なんだ。こっちが、正しいんだ。
そうして、兄も、あっちが正しいんだ。
私達は、間違ってるんだ。
滝ちゃんはなんだか急に慌てて、鞄からハンカチを出す。そうして私の頬に押し付けた。
「…な、に?」
「何じゃない。ちゃんと拭け」
「泣かないで。五月が一番大事なものも、大切なものも、ちゃんと僕たち解ってるよ。可笑しいけれど、可笑しくないよ。僕、五月のこと好きだよ」
その二人の言葉に、自分が泣いているのをやっと理解した。視界がぼやけて、ぼろぼろ止まらない。
やめて止まって泣きたくないし、泣く話なんかじゃないのに。そう思っても涙は止まらないし、滝ちゃんのハンカチは重くなっていく。
手はしっかりと握られたままで、熱い。
私、喜八郎君や滝ちゃんを好きになればよかったのに。そうしたら、こんなに苦しくもなかったし、失恋しても少し落ち込むくらいでよかったのに。
「…な、んで…っ絶対、叶わないのに…っ」
グズグズと鼻が鳴る。
一度でいいから、好きって言って欲しかった。私の事を抱き締めてくれるその腕の中で、好きだって聞いてみたかった。叶っちゃいけないから、叶えちゃいけないから。だから、兄は一度だって私に思いを告げることはなかった。態度で示していても、言葉にしなくちゃ本当の所は周囲の人間には解らないから。
けれど、そもそもが間違いの二人。
赤の他人の彼女なんて存在、勝てるわけがない。
身内の、兄妹の恋人なんて淘汰されるにきまってる。
「…や、だ。っやだよ…!」
ぎゅっと握った手に力が込められ、喜八郎君が私を抱き締める。滝ちゃんが頭を撫でてくれる。
「ごめ、っうう、ごめんなさい、ごめんなさいっ…!」
好きになってごめんなさい。
叶えようとしてごめんなさい。
思い出を増やしてごめんなさい。
好きって言わせられなくて、ごめんなさい。
「ごめん…ね、ごめんっ…!」
最後にしなくちゃいけなくて、この気持ちに蓋をしなくちゃいけなくて。私達は兄妹として、別々の道を歩まなくちゃいけなくて。これで、終わらせないといけない。
【さようなら、私の恋心。】
***
side heisuke
帰り道、夕日が消えて月が昇りかけている狭間の時間。繋いでいた手はそっと離された。
前にいる騒ぐ声、それに気付いた俺の足が止まってしまったからだった。
手の温もりが空気に消えていく。それがとても痛くて辛くて、頭の裏が冷える。指先が悴んだように動かなかった。もう一度、その揺れる手を掴み取ってあいつらのとこに駆けていって、アレと別れるんだと宣言出来る勇気があれば。
「あ」
ハチが気付いて、俺達に大きく手を上げた。
「おーい!お前らも帰りかー?」
大きな声で呼ぶのは、言外に一緒に帰らないかという言葉。気付いた時に心の底は苦くなった。
ハチ達の呼びかけを無視するのは気が引けるし、まだ俺達の関係を壊したくないから、今はアレがいるあそこへ行かざるを得ない。俺は無理矢理に笑顔を作って妹へ笑いかける。
「行こう」
妹は戸惑った目をしてから、ゆっくりと静かに頷いた。ごめんな、ダメな兄で。妹の幸せを誰よりも願っているのに、その幸せを俺が壊している。
集団に追いついたとき、アレはするりと俺の横に来た。
「兵助君、タイミング一緒なら私待ってたのに」
膨れっ面をして文句を言う。同級生で別クラスのアレは俺の恋人の位置にいる。別に好きでいるわけじゃない。勘ちゃんの顔を立たせるために仕方がなく付き合った。
その勘ちゃんは全部知っている。俺の気持ちも、妹の気持ちも。その上で、正しい道を歩ませようと俺にアレを宛がった。
アレが美人だと言われていても、俺には何もわからない。だって俺の中では妹が一番美人で、可愛い。
「ごめん。五月が委員会だったし、鍵持ってるの五月だったから」
俺だけ先に帰っても家に入れないから。
そう言うとアレは「そっかぁ」と笑う。
妹が「あの」と小さく呟いた。
「ごめんなさい。私がお兄ちゃんに渡しておけばよかったのに」
その声は僅かに震えている。
委員会がある事は知っていたから昼休みにでも鍵を取りに行けばよかったけどしなかったのは、一緒に帰りたかったから。「渡しに行く」と言った妹に、理由があれば一緒に帰れるからと言ったのは俺だった。
いつも帰りが遅い俺は鍵を持たずに出て、先に帰っている妹が家の中で待っていてくれる。
「おかえりなさい」「ただいま」
その会話がとても嬉しくて、妹が待つ家の帰路も幸せだったが、二人で並んで帰るのもとても幸せだった。
だけど、手を繋いで歩ける道はいつだって長くない。
「五月ちゃん、委員会って何入ってんの?」
そう言って勘ちゃんが棒付き飴を食べながら妹の隣に並んで訊ねる。ちょっと近い。
「美化風紀委員会です」
「ああー…立花先輩のとこか」
げんなり、と言った風にハチが呟く。雷蔵と三郎は納得の表情で頷く。
「久々知家ってみんな顔良いから、五月ちゃんも通称美形委員会に入ってるのも納得だわ」
「お褒めいただきありがとうございます…そんな風に言われてたんですか?」
笑いながら言った三郎に苦笑した後、なんだかぼんやりとした妹を見ていると勘ちゃんが徐に妹の肩を組んでいた。おい。何やってんだよ。擽ったそうに笑う妹が自棄に可愛くて、それを間近で見ている勘ちゃんに異様にムカついた。
なんかさっきからアレが話をしていたけど、生返事で聞いていなかった俺は、勘ちゃんの肩を掴んで引きはがす。思いの外力が入ってしまっていたようで、勘ちゃんが割と本気で「いたい!」と叫ぶ。
「勘ちゃん近い」
「…でーたよ、シスコン」
「そこが兵助君のいいとこなんだよ」
俺の言葉に勘ちゃんがぶつぶつ文句を言う。シスコンの一言で片付けられる間柄で良かったと思う反面、心の内はそうじゃないんだと考えてしまって妙にモヤモヤする。
だって俺は、妹を妹として好きなんじゃなくて。いっそこの場でぶちまけられたら楽なのに。
妹を見ていたら、同じように妹が俺を見てきた。思わず口を開けて、言葉を探すけどいいのがない。「俺、五月が好き。だからコレとは別れるし、今後何があっても離れない」なんて皆の前で宣言したら、この日常は直ぐに壊れてしまうのだろうな。心が痛くなる。
ちょい、と俺の肘をつつく手に気付いてそっちをみれば、アレが携帯を俺に見せて笑っている。アレが浴衣を着て数人の女の子と一緒に写っている。ああ、この端っこの子、ソウコちゃんだ。妹がいつも仲良くさせてもらっているとか言っていたなぁ。
早く帰りたい。二人だけの空間に。これ以上、妹の悲しそうな顔を見ていたくない。はやく家に帰って部屋に入って、妹の好きな映画を流して後ろから抱き締めながら一緒に見よう。
今日は早く帰らないといけないから、家族の用事があるから、どの言い訳を使えば自然なのか色々思案して携帯から眼を離すと、妹の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「五月ー」
どこかゆったりした声は綾部のものだ。全員が足を止めて後ろを振り向く。
綾部は走ってきたそのままの勢いで妹に抱き着いた。妹が少し驚いた顔をするも別段嫌がった素振りはない。
俺の中の何かに罅が入った。
綾部の行動に、俺もみんなも静かになる。だって綾部、お前はそんな風に誰かに駆け寄って抱き着くようなキャラじゃないだろう。なんで相手が妹なんだ。
「一緒に帰れるかなーって思ってたのに先に帰っちゃうんだから酷いよね。滝もみんなも待ってたのに」
「え!」
勘ちゃんがちらりと俺を見る。頭のいい勘ちゃんの事だ。もう俺が無理矢理妹と一緒に帰ろうとしていたことはバレているだろうな。
綾部の言葉に妹が一瞬動きを止めたが、直ぐに言葉を紡ぐ。
「ご、めんね。お兄ちゃんと会って、そのまま…晩御飯の話してた、から」
「ふーん。別にいいけど。タカ丸さんが嘆いてたよ」
「悪いことしちゃったな。みんなは?」
「おいてきた」
「えっ!!」
淡々と、けれど弾むような会話のテンポ。いつも一緒に話しているのがわかる。近すぎる距離間。
同じクラスだから?同級生だから?同じ委員会だから?そんなの、理由になんて。
「綾部ー、急に女の子に抱き着くのなんてしちゃだめだろ」
「竹谷先輩こんにちは」
「はい、こんにちは。じゃなくて!俺との会話のキャッチボール!!」
固まっていた俺を他所にハチが綾部の行動を咎める。
結果綾部に適当に扱われて嘆くハチに、勘ちゃんと三郎がドンマイといい笑顔で肩を叩いた。
それはいいんだ。先輩後輩の仲だし近くても。
けど、でも、妹はダメで。それは俺のエゴで。だって俺は妹になにも「言って」いない。
それに、俺はアレと仮面の恋人をしているわけで。
だから綾部に抱き着かれても楽しそうに会話をする妹に、置いて行かれたと裏切られたのかと思うこの心は間違っている。モヤモヤと考えている最中、携帯を仕舞ったアレが動いた。
「仲いいのね、二人とも。お似合いだなぁ」
「…チッ」
アレの一言に俺は深く傷つき心が軋む。
綾部の舌打ちなんてどうでもよかった。
「…え?」
けれど妹は慌てて、そうしてアレの顔はみるみる醜くなっていく。みんなは綾部に対して「こいつは」という顔をしているだけで別段と怒ってはいない。
だって綾部のこの感じは昔からだ。それを知らないアレは機嫌が悪くなる一方で空気も淀む。
それを霧散させたのが勘ちゃんだった。綾部の顔に向けて指鉄砲の形を取った勘ちゃんが、にん、と笑った。
「先輩に向かって舌打ちとはお行儀悪いなぁ?綾部喜八郎?」
アレの手前、言葉はきつめに言っているがその顔は笑っている。とりあえず叱っておかないとくらいでしか考えてない顔だ。
「どーも、すみませーん。口癖なんで」
「どんな口癖だよ」
笑いながら勘ちゃんが指鉄砲の銃口を綾部の額へ押し付けて小突いた。もうそれでいいだろう。けどアレだけは納得がいっていない顔だ。そこに妹が声を上げた。
「喜八郎君。ちゃんと先輩に謝らないと…ね?」
「なんで?」
「なんでって…舌打ちなんてされたら気分悪いじゃない。それにほら、ここに滝ちゃんいたら」
また一人、よく知る名前が出てくる。すると呼応するように「キハチロー!!」という声が後ろから聞こえた。
走ってきた滝夜叉丸は妹の前で立ち止まり、勢いよく綾部の頭を殴った。慌てたのは妹だ。
「た、滝ちゃん!」
「迷惑をかけたのだろう!この雰囲気!察すればわかる!申し訳ありませんでした先輩方!」
「いったいなー」
「お前も謝れ馬鹿者!」
保護者の介入に(滝夜叉丸は同級生であって保護者ではないのだけれど)アレは呆気にとられたのか、一瞬目を瞬かせたけどすぐに少し引き攣った笑いを浮かべた。
「…え、ええ。別に、いいわよ」
「ありがとうございます!ほら喜八郎!お前も!」
「……ざーす」
綾部のやる気のない態度にもう一発、と拳を上げた滝夜叉丸を妹が必死に宥める。
「もう殴らないであげて。先輩も許してくれたし、それ以上ボカスカしたら喜八郎君本当に馬鹿になっちゃう」
「ちょっと」
「そうだな。あまり殴っては細胞が死滅するか。これ以上手に負えなくなったら施設に放り込むぞ」
「ちょっと?」
妹と滝夜叉丸の言葉にむすくれる綾部。けれどそのやり取りは酷く親し気で違和感なんて感じない。
きっと普段からこんな感じなんだろう。
仲が、いいんだ。妹は楽しそうに笑っている。
さっきまで、アレと俺を見ては眉を寄せていたあの表情はもうない。
「お兄ちゃん。私先に帰るね。ご飯作らないと」
「…ああ、うん」
ひとしきり笑ってから、急に妹が言い出した。
さっきまでどうやって二人で先に帰れるかを考えていた俺は、急速に萎んでいく。
「今日は豆腐ハンバーグだからね。先輩方、失礼致します」
妹は俺が早く帰ってくるように、わざと料理名を言ったように聞こえた。自意識過剰と言われようと今の俺はその言葉に縋りたくなる。
妹はみんなに頭をさげてから、笑って綾部の手を引き去っていく。その後ろを素直に歩く綾部と、同じ様に頭を下げてから滝夜叉丸が妹達を追いかけていった。
それを見送ると俺達もゆっくりと歩き出す。電車組がいるから、全員で駅へ向かう俺達は妹達とは別にすぐに右へ折れた。
「…よかったの?」
勘ちゃんが、静かに聞いてくる。
「……」
黙って頷く俺に、大きな溜息を吐く。
「馬鹿だなぁ。兵助も、五月ちゃんも」
凄くいい顔で、勘ちゃんが笑いながら言う。
「俺なら、親の目も欺きつつ、愛しちゃうけどね。別に逮捕されるわけじゃないし」
そう言い切って、前を歩く三郎に体当たりをしに行った勘ちゃんが俺は眩しくなる。
そうなんだ。勇気があれば、五月を幸せにするのは俺なんだと言い切れる自信があれば、俺だってそうしている。
ふと手に違和感を覚え、下を向けばアレが俺の手を握っていた。雷蔵達と話していたアレは、急に来た勘ちゃんに圧倒されて俺の隣にやってきていた。
するりと俺と手を繋いで、歩こうと促す。
さっきまでは妹と繋いでいた手。
今は別の女の人と繋いでいる手。
こっちが、本当なんだ。こっちが、正しいんだ。
そうして妹も、綾部達といるほうが正しいんだ。
俺達は、間違ってるんだ。
見ていれば解る。同じ男だしそれに俺も五月が好きだから。綾部は五月の事が好きだ。そして多分、妹の秘密も知っている。
だからアレの言葉をあんなに嫌がったんだ。五月を傷つけたから。
「兵助君?早く行こう」
「……ああ」
アレは催促して手を引っ張る。
五月の温もりが上書きされてしまう。心が崩れる。
渡したくない、けど、普通に幸せになってほしい。その言葉がグルグル渦巻く。
俺、なんで妹を、五月を好きになってしまったんだろう。
他の、例えば今の恋人とかを好きになっていたら、そうしたら、こんなに苦しくもなかったし、失恋しても少し落ち込むくらいでよかったのに。
「…絶対、無理なのにな…」
「え?」
呟いた俺の言葉にアレが聞き返す。
一度でいいから、五月に好きって言って欲しかった。俺が抱き締めているその腕の中で、好きだよと言ってほしかった。叶っちゃいけないから、叶えちゃいけないから。だから、五月は一度だって俺に思いを告げることはなかった。態度で示していても、言葉にしなくちゃ本当の所は周囲の人間には解らないから。
けれど、そもそもが間違いの俺達。結ばれてはいけない関係。
「…なんでもない」
繋がれた手を振り払って、目の前にいる四人に体当たりをする。「うわぁ」と各々叫び、笑いあう。
勘ちゃんには一発殴られた。
「もー、いい加減にしてよ。ほら、彼女置いてけぼりじゃん」
「ああ、おーい、行くぞ」
大きな声で呼べば呆気に取られていたアレが動き出して、俺達は駅に向かった。
好きになってごめん。
叶えようとしてごめん。
思い出を増やしてごめん。
好きって言わせられなくて、ごめん。
「ねぇ、兵助」
「んー?」
このへんで最後にしなくちゃいけないのはわかっている。この気持ちに蓋をしなくちゃいけないのもわかっている。俺達は兄妹として、別々の道を歩まなくちゃいけないのも。
「もし、さあ。綾部が無理なら。俺がちゃんともらって幸せにするよ」
「え…」
「兵助の分も。ちゃんと」
これで、終わらせないといけないのも、わかっている。
「…いいよ。俺、もう少し踏ん張るから」
勘ちゃんの目が大きく丸くなる。
そうしてすぐに緩くなりガシガシと頭を強く撫ぜられた。
「よっし!その気持ちが強いんなら、応援しよっかな!」
【さようなら、はまだ言わせない。】
from hanako oku:「さよならの記憶」
了
帰り道、夕日が消えて月が昇りかけている狭間の時間。私はさっきまで繋いでいた手をそっと離した。
前にいる騒ぐ声はいつもの先輩達で、それに気付いた瞬間兄の足がピタリと止まってしまったから。
じんわりと手の温もりが空気に消えていく。
それがとても悲しくて、妙に手先が冷たく感じた。
夏の夕暮れで、寒くなんてないはずなのに指先が凍えたように動かない。
「あ」
前方の先輩達の一人が気付いて、私達に大きく手を上げた。
「おーい!お前らも帰りかー?」
大きな声で呼ぶのは、言外に一緒に帰らないかという言葉。その横には、並ぶ五つの顔。
ああ、彼女もそこにいるんだ。気付いた時にはすとんと足元が抜けた気がした。
隣の兄は笑顔を作って「行こう」と私に呼びかける。
そんなの頷くしかなかったから、私は無言で兄に続いて騒がしい先輩達に紛れ込む。
「兵助君、タイミング一緒なら私待ってたのに」
そういう彼女は可愛らしく膨れっ面をして兄に小言を言う。彼女は兄の恋人で、そうして私の一つ上の先輩。兄と同級生だ。綺麗な顔は兄と並んでも見劣りしなくて、校内では美人カップルだとか噂されている。
私の顔は兄とは似ていなくて、綺麗ではない。それでも兄は私を「可愛い」と褒めてくれる。それだけで浮かれる私は単純だ。
「ごめん。五月が委員会だったし、鍵持ってるの五月だったから」
俺だけ先に帰っても、家に入れないから。困った顔で言った兄に、彼女はそれなら仕方がないと笑った。
その顔も綺麗だ。途端に私は泣きたくなる。
「ごめんなさい。私がお兄ちゃんに渡しておけばよかったのに」
そうしなかったのは、兄が一緒に帰れるからと言ってくれたからだった。いつも私より帰りが遅い兄は、鍵を持っていなくて、先に帰る私が家の鍵を開けて兄の帰りを待っている。
「おかえりなさい」「ただいま」
それだけの会話がとても嬉しくて、帰りを待つのも楽しかったけれど、こうやって二人で並んで帰るのもとても楽しくて幸せだった。
手を繋いで歩ける道はいつだって長くない。
「五月ちゃん、委員会って何入ってんの?」
兄の友人の尾浜先輩が棒付き飴を食べながら隣に並んで訊ねてくる。
「美化風紀委員会です」
「ああー…立花先輩のとこか」
げんなりと言った風に竹谷先輩が呟く。不破先輩と鉢屋先輩は納得の表情で頷く。
「久々知家ってみんな顔良いから、五月ちゃんも通称美形委員会に入ってるのも納得だわ」
「褒めて貰って有難うございます…そんな風に言われてたんですか?」
自分の入っていた委員会がそんな通称があっただなんて知らなかった。喜八郎君何か知ってたのかな。私がぼんやりと考えていると、がし、と肩に衝撃が走る。
驚いて見れば、尾浜先輩が肩を組んできていて、ひそひそ声で「実は兵助も、美形委員会に勧誘されてたんだよ。結局断って射撃部に入ったんだけど」と半笑いで耳元で喋る。
少しくすぐったくて身を捩って「そうなんですか」と返すと、尾浜先輩は「うわ」と叫んで肩を外した。
尾浜先輩の右肩を兄の手が掴んでいて、引きはがしたようだった。無表情ながらも長年いるからわかる感覚で、不機嫌さがすぐ感じ取れた。それにまた心の中が幸せになる。
「勘ちゃん近い」
「でーたよ、シスコン」
「そこが兵助君のいいとこなんだよ」
彼女が笑って兄を褒め、尾浜先輩はぶつぶつと茶化しながらも文句を言う。シスコンの一言で片付けられる間柄で良かったと思う反面、心の内はそうじゃないんだ、と考えてしまって妙にモヤモヤする。
ふ、と兄を見ればじっと私を見ていたけど何か小さく口を開きかけて、また閉じた。なんだろう、と思う間もなくすぐに彼女が兄に携帯を見せ、何かを話しだして笑いあう。
「ぁ、」
これ以上、見ていたくない。心が痛くなってしまう。でも大丈夫。家に帰ったらまた二人きりで幸せに過ごせるから。何度も何度も抱き締めてくれるから。大丈夫、これは見なくてもいい。
そう言い聞かせて、先に帰る旨を伝えようと口を開いた瞬間、背後から柔らかな声で名前を呼ばれた。
「五月ー」
よく知るこの声は、同じクラスで同じ委員会の喜八郎君のものだ。咄嗟に口実だ、と思ってしまった自分に嫌気がさす。
足を止めて後ろを振り返れば、珍しく喜八郎君は走ってきていた。あまり得する運動好きじゃないのに、どうしたのだろう。
「喜八郎君、どうしたっ、の…?」
言い終わる前に、ドン、と衝撃を受ける。走ってきた勢いのまま喜八郎君は私に抱き着き、ふーと大きく息を吐いた。一瞬、兄や先輩たちが静かになる。
「一緒に帰れるかなーって思ってたのに先に帰っちゃうんだから酷いよね。みんなも待ってたのに」
「え!」
そんな話聞いていない。驚いて喜八郎君を肩から引きはがして、嘘、約束なんてと口走ろうとしたとき、喜八郎君はその大きく丸い目でじっと私を見た。
ああそうだ。この人、知っていたんだった。
だから、それもあれも口実だ。喜八郎君の優しさだ。
「ご、めんね。お兄ちゃんと会って、そのまま…晩御飯の話してた、から」
「ふーん。別にいいけど。タカ丸さんが嘆いてたよ」
「悪いことしちゃったな。みんなは?」
「おいてきた」
「えっ!!」
相変わらずの能天気発言に私が驚いていると、やっと後ろが話し始める。
「綾部ー、急に女の子に抱き着くのなんてしちゃだめだろ」
「竹谷先輩こんにちは」
「はい、こんにちは。じゃなくて!俺との会話のキャッチボール!!」
嘆く竹谷先輩に、尾浜先輩と鉢屋先輩がドンマイといい笑顔で肩を叩いた。
兄は表情が消えた顔をしている。珍しく「近い」と間に割って入っても来なかったし、今もわりと至近距離でいるのに何も言ってこない。
どうしたのだろう。不思議に思っていると彼女さんが口を開いた。
「仲いいのね、二人とも。お似合いだなぁ」
「…チッ」
その一言に喜八郎君が大きく聞こえるように舌打ちをする。一気に彼女の顔色が急降下した。
「…え?」
喜八郎君は私の事を知っていてくれて、兄の事も解っていて、そうしてこの彼女の事を嫌っている。どういう経緯や理由があったにせよ、私と兄の間に無理矢理割り込んだように見えたのだろう。喜八郎君はとても私に甘いから。だから「お似合い」なんて言葉に腹が立ったのだろう。
彼女の顔色と機嫌が下がっていき困惑が広がった中、動いたのは尾浜先輩だった。
喜八郎君の顔に向けて、指鉄砲の形を取った尾浜先輩が、にん、と笑う。
「先輩に向かって舌打ちとはお行儀悪いなぁ?綾部喜八郎?」
言葉は怖いけど、その顔はへらへらしている。喜八郎君も、尾浜先輩の様子に訝しげに眉を顰めた。
「…どーも、すみませーん。口癖なんで」
「どんな口癖だよ」
笑いながら尾浜先輩が指鉄砲の銃口を喜八郎君の額へ押し付けて小突いた。兄も他の面々も、仕方ないという風に苦笑している。彼女だけは、納得がいっていない顔だ。
私がその立場であったら、勿論納得なんていかないし怒っている。ここで怒鳴らないのは流石だなぁと感心した。
「喜八郎君。ちゃんと先輩に謝らないと…ね?」
「なんで?」
「なんでって…舌打ちなんてされたら気分悪いじゃない。それにほら、ここに滝ちゃんいたら」
名前を出してすぐに駆け足の音と「キハチロー!!」という声が後ろから響いた。噂をすれば、だ。
滝ちゃんは全力で走ってきた風に見えたのに、私たちの前で止まった時には息は上がっていなくてそうして全力で喜八郎君の頭を叩いた。
「た、滝ちゃん!」
「迷惑をかけたのだろう!この雰囲気!申し訳ありませんでした先輩方!」
「いったいなー」
「お前も謝れ馬鹿者!」
保護者の介入に(滝ちゃんは同級生であって保護者ではないのだけれど)彼女は呆気にとられたのか、一瞬目を瞬かせたけどすぐに少し引き攣った笑いを浮かべた。
「…え、ええ。別に、いいわよ」
「ありがとうございます!ほら喜八郎!お前も!」
「……ざーす」
喜八郎君の態度にもう一発、と拳を上げた滝ちゃんの腕をしっかりと止めて私は滝ちゃんを宥める。
「もう殴らないであげて。先輩も許してくれたし、それ以上ボカスカしたら喜八郎君本当に馬鹿になっちゃう」
「ちょっと」
「そうだな。あまり殴っては細胞が死滅するか。これ以上手に負えなくなったら施設に放り込むぞ」
「ちょっと?」
私と滝ちゃんの言葉にむすくれる喜八郎君だけれど、その様子に笑いが込み上げる。さっきまでの気持ち悪い影のある心はもうどこかにいっていた。
振り返って、兄を見る。兄の顔は相変わらず綺麗で、そうして今は妙な顔をしている。
「…お兄ちゃん。私先に帰るね。ご飯作らないと」
「…ああ、うん」
「今日は豆腐ハンバーグだからね。先輩方、失礼致します」
早く帰ってきてね。そう言いたいけれど勿論言えない私は、苦く笑って喜八郎君の手を引いた。
素直に私にひかれて歩く喜八郎君と、先輩方に頭を下げてから私達に追いつく滝ちゃん。
「よかったのか?」
「んー?うん。いいの。喜八郎君、ありがとうね」
「…別に」
僕殴られ損だよ絶対、そうやってぼやく割にはしっかりと私の手を握って離さない。
さっきまでは兄と繋いでいた手。
今は別の男の人と繋いでいる手。
こっちが、本当なんだ。こっちが、正しいんだ。
そうして、兄も、あっちが正しいんだ。
私達は、間違ってるんだ。
滝ちゃんはなんだか急に慌てて、鞄からハンカチを出す。そうして私の頬に押し付けた。
「…な、に?」
「何じゃない。ちゃんと拭け」
「泣かないで。五月が一番大事なものも、大切なものも、ちゃんと僕たち解ってるよ。可笑しいけれど、可笑しくないよ。僕、五月のこと好きだよ」
その二人の言葉に、自分が泣いているのをやっと理解した。視界がぼやけて、ぼろぼろ止まらない。
やめて止まって泣きたくないし、泣く話なんかじゃないのに。そう思っても涙は止まらないし、滝ちゃんのハンカチは重くなっていく。
手はしっかりと握られたままで、熱い。
私、喜八郎君や滝ちゃんを好きになればよかったのに。そうしたら、こんなに苦しくもなかったし、失恋しても少し落ち込むくらいでよかったのに。
「…な、んで…っ絶対、叶わないのに…っ」
グズグズと鼻が鳴る。
一度でいいから、好きって言って欲しかった。私の事を抱き締めてくれるその腕の中で、好きだって聞いてみたかった。叶っちゃいけないから、叶えちゃいけないから。だから、兄は一度だって私に思いを告げることはなかった。態度で示していても、言葉にしなくちゃ本当の所は周囲の人間には解らないから。
けれど、そもそもが間違いの二人。
赤の他人の彼女なんて存在、勝てるわけがない。
身内の、兄妹の恋人なんて淘汰されるにきまってる。
「…や、だ。っやだよ…!」
ぎゅっと握った手に力が込められ、喜八郎君が私を抱き締める。滝ちゃんが頭を撫でてくれる。
「ごめ、っうう、ごめんなさい、ごめんなさいっ…!」
好きになってごめんなさい。
叶えようとしてごめんなさい。
思い出を増やしてごめんなさい。
好きって言わせられなくて、ごめんなさい。
「ごめん…ね、ごめんっ…!」
最後にしなくちゃいけなくて、この気持ちに蓋をしなくちゃいけなくて。私達は兄妹として、別々の道を歩まなくちゃいけなくて。これで、終わらせないといけない。
【さようなら、私の恋心。】
***
side heisuke
帰り道、夕日が消えて月が昇りかけている狭間の時間。繋いでいた手はそっと離された。
前にいる騒ぐ声、それに気付いた俺の足が止まってしまったからだった。
手の温もりが空気に消えていく。それがとても痛くて辛くて、頭の裏が冷える。指先が悴んだように動かなかった。もう一度、その揺れる手を掴み取ってあいつらのとこに駆けていって、アレと別れるんだと宣言出来る勇気があれば。
「あ」
ハチが気付いて、俺達に大きく手を上げた。
「おーい!お前らも帰りかー?」
大きな声で呼ぶのは、言外に一緒に帰らないかという言葉。気付いた時に心の底は苦くなった。
ハチ達の呼びかけを無視するのは気が引けるし、まだ俺達の関係を壊したくないから、今はアレがいるあそこへ行かざるを得ない。俺は無理矢理に笑顔を作って妹へ笑いかける。
「行こう」
妹は戸惑った目をしてから、ゆっくりと静かに頷いた。ごめんな、ダメな兄で。妹の幸せを誰よりも願っているのに、その幸せを俺が壊している。
集団に追いついたとき、アレはするりと俺の横に来た。
「兵助君、タイミング一緒なら私待ってたのに」
膨れっ面をして文句を言う。同級生で別クラスのアレは俺の恋人の位置にいる。別に好きでいるわけじゃない。勘ちゃんの顔を立たせるために仕方がなく付き合った。
その勘ちゃんは全部知っている。俺の気持ちも、妹の気持ちも。その上で、正しい道を歩ませようと俺にアレを宛がった。
アレが美人だと言われていても、俺には何もわからない。だって俺の中では妹が一番美人で、可愛い。
「ごめん。五月が委員会だったし、鍵持ってるの五月だったから」
俺だけ先に帰っても家に入れないから。
そう言うとアレは「そっかぁ」と笑う。
妹が「あの」と小さく呟いた。
「ごめんなさい。私がお兄ちゃんに渡しておけばよかったのに」
その声は僅かに震えている。
委員会がある事は知っていたから昼休みにでも鍵を取りに行けばよかったけどしなかったのは、一緒に帰りたかったから。「渡しに行く」と言った妹に、理由があれば一緒に帰れるからと言ったのは俺だった。
いつも帰りが遅い俺は鍵を持たずに出て、先に帰っている妹が家の中で待っていてくれる。
「おかえりなさい」「ただいま」
その会話がとても嬉しくて、妹が待つ家の帰路も幸せだったが、二人で並んで帰るのもとても幸せだった。
だけど、手を繋いで歩ける道はいつだって長くない。
「五月ちゃん、委員会って何入ってんの?」
そう言って勘ちゃんが棒付き飴を食べながら妹の隣に並んで訊ねる。ちょっと近い。
「美化風紀委員会です」
「ああー…立花先輩のとこか」
げんなり、と言った風にハチが呟く。雷蔵と三郎は納得の表情で頷く。
「久々知家ってみんな顔良いから、五月ちゃんも通称美形委員会に入ってるのも納得だわ」
「お褒めいただきありがとうございます…そんな風に言われてたんですか?」
笑いながら言った三郎に苦笑した後、なんだかぼんやりとした妹を見ていると勘ちゃんが徐に妹の肩を組んでいた。おい。何やってんだよ。擽ったそうに笑う妹が自棄に可愛くて、それを間近で見ている勘ちゃんに異様にムカついた。
なんかさっきからアレが話をしていたけど、生返事で聞いていなかった俺は、勘ちゃんの肩を掴んで引きはがす。思いの外力が入ってしまっていたようで、勘ちゃんが割と本気で「いたい!」と叫ぶ。
「勘ちゃん近い」
「…でーたよ、シスコン」
「そこが兵助君のいいとこなんだよ」
俺の言葉に勘ちゃんがぶつぶつ文句を言う。シスコンの一言で片付けられる間柄で良かったと思う反面、心の内はそうじゃないんだと考えてしまって妙にモヤモヤする。
だって俺は、妹を妹として好きなんじゃなくて。いっそこの場でぶちまけられたら楽なのに。
妹を見ていたら、同じように妹が俺を見てきた。思わず口を開けて、言葉を探すけどいいのがない。「俺、五月が好き。だからコレとは別れるし、今後何があっても離れない」なんて皆の前で宣言したら、この日常は直ぐに壊れてしまうのだろうな。心が痛くなる。
ちょい、と俺の肘をつつく手に気付いてそっちをみれば、アレが携帯を俺に見せて笑っている。アレが浴衣を着て数人の女の子と一緒に写っている。ああ、この端っこの子、ソウコちゃんだ。妹がいつも仲良くさせてもらっているとか言っていたなぁ。
早く帰りたい。二人だけの空間に。これ以上、妹の悲しそうな顔を見ていたくない。はやく家に帰って部屋に入って、妹の好きな映画を流して後ろから抱き締めながら一緒に見よう。
今日は早く帰らないといけないから、家族の用事があるから、どの言い訳を使えば自然なのか色々思案して携帯から眼を離すと、妹の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「五月ー」
どこかゆったりした声は綾部のものだ。全員が足を止めて後ろを振り向く。
綾部は走ってきたそのままの勢いで妹に抱き着いた。妹が少し驚いた顔をするも別段嫌がった素振りはない。
俺の中の何かに罅が入った。
綾部の行動に、俺もみんなも静かになる。だって綾部、お前はそんな風に誰かに駆け寄って抱き着くようなキャラじゃないだろう。なんで相手が妹なんだ。
「一緒に帰れるかなーって思ってたのに先に帰っちゃうんだから酷いよね。滝もみんなも待ってたのに」
「え!」
勘ちゃんがちらりと俺を見る。頭のいい勘ちゃんの事だ。もう俺が無理矢理妹と一緒に帰ろうとしていたことはバレているだろうな。
綾部の言葉に妹が一瞬動きを止めたが、直ぐに言葉を紡ぐ。
「ご、めんね。お兄ちゃんと会って、そのまま…晩御飯の話してた、から」
「ふーん。別にいいけど。タカ丸さんが嘆いてたよ」
「悪いことしちゃったな。みんなは?」
「おいてきた」
「えっ!!」
淡々と、けれど弾むような会話のテンポ。いつも一緒に話しているのがわかる。近すぎる距離間。
同じクラスだから?同級生だから?同じ委員会だから?そんなの、理由になんて。
「綾部ー、急に女の子に抱き着くのなんてしちゃだめだろ」
「竹谷先輩こんにちは」
「はい、こんにちは。じゃなくて!俺との会話のキャッチボール!!」
固まっていた俺を他所にハチが綾部の行動を咎める。
結果綾部に適当に扱われて嘆くハチに、勘ちゃんと三郎がドンマイといい笑顔で肩を叩いた。
それはいいんだ。先輩後輩の仲だし近くても。
けど、でも、妹はダメで。それは俺のエゴで。だって俺は妹になにも「言って」いない。
それに、俺はアレと仮面の恋人をしているわけで。
だから綾部に抱き着かれても楽しそうに会話をする妹に、置いて行かれたと裏切られたのかと思うこの心は間違っている。モヤモヤと考えている最中、携帯を仕舞ったアレが動いた。
「仲いいのね、二人とも。お似合いだなぁ」
「…チッ」
アレの一言に俺は深く傷つき心が軋む。
綾部の舌打ちなんてどうでもよかった。
「…え?」
けれど妹は慌てて、そうしてアレの顔はみるみる醜くなっていく。みんなは綾部に対して「こいつは」という顔をしているだけで別段と怒ってはいない。
だって綾部のこの感じは昔からだ。それを知らないアレは機嫌が悪くなる一方で空気も淀む。
それを霧散させたのが勘ちゃんだった。綾部の顔に向けて指鉄砲の形を取った勘ちゃんが、にん、と笑った。
「先輩に向かって舌打ちとはお行儀悪いなぁ?綾部喜八郎?」
アレの手前、言葉はきつめに言っているがその顔は笑っている。とりあえず叱っておかないとくらいでしか考えてない顔だ。
「どーも、すみませーん。口癖なんで」
「どんな口癖だよ」
笑いながら勘ちゃんが指鉄砲の銃口を綾部の額へ押し付けて小突いた。もうそれでいいだろう。けどアレだけは納得がいっていない顔だ。そこに妹が声を上げた。
「喜八郎君。ちゃんと先輩に謝らないと…ね?」
「なんで?」
「なんでって…舌打ちなんてされたら気分悪いじゃない。それにほら、ここに滝ちゃんいたら」
また一人、よく知る名前が出てくる。すると呼応するように「キハチロー!!」という声が後ろから聞こえた。
走ってきた滝夜叉丸は妹の前で立ち止まり、勢いよく綾部の頭を殴った。慌てたのは妹だ。
「た、滝ちゃん!」
「迷惑をかけたのだろう!この雰囲気!察すればわかる!申し訳ありませんでした先輩方!」
「いったいなー」
「お前も謝れ馬鹿者!」
保護者の介入に(滝夜叉丸は同級生であって保護者ではないのだけれど)アレは呆気にとられたのか、一瞬目を瞬かせたけどすぐに少し引き攣った笑いを浮かべた。
「…え、ええ。別に、いいわよ」
「ありがとうございます!ほら喜八郎!お前も!」
「……ざーす」
綾部のやる気のない態度にもう一発、と拳を上げた滝夜叉丸を妹が必死に宥める。
「もう殴らないであげて。先輩も許してくれたし、それ以上ボカスカしたら喜八郎君本当に馬鹿になっちゃう」
「ちょっと」
「そうだな。あまり殴っては細胞が死滅するか。これ以上手に負えなくなったら施設に放り込むぞ」
「ちょっと?」
妹と滝夜叉丸の言葉にむすくれる綾部。けれどそのやり取りは酷く親し気で違和感なんて感じない。
きっと普段からこんな感じなんだろう。
仲が、いいんだ。妹は楽しそうに笑っている。
さっきまで、アレと俺を見ては眉を寄せていたあの表情はもうない。
「お兄ちゃん。私先に帰るね。ご飯作らないと」
「…ああ、うん」
ひとしきり笑ってから、急に妹が言い出した。
さっきまでどうやって二人で先に帰れるかを考えていた俺は、急速に萎んでいく。
「今日は豆腐ハンバーグだからね。先輩方、失礼致します」
妹は俺が早く帰ってくるように、わざと料理名を言ったように聞こえた。自意識過剰と言われようと今の俺はその言葉に縋りたくなる。
妹はみんなに頭をさげてから、笑って綾部の手を引き去っていく。その後ろを素直に歩く綾部と、同じ様に頭を下げてから滝夜叉丸が妹達を追いかけていった。
それを見送ると俺達もゆっくりと歩き出す。電車組がいるから、全員で駅へ向かう俺達は妹達とは別にすぐに右へ折れた。
「…よかったの?」
勘ちゃんが、静かに聞いてくる。
「……」
黙って頷く俺に、大きな溜息を吐く。
「馬鹿だなぁ。兵助も、五月ちゃんも」
凄くいい顔で、勘ちゃんが笑いながら言う。
「俺なら、親の目も欺きつつ、愛しちゃうけどね。別に逮捕されるわけじゃないし」
そう言い切って、前を歩く三郎に体当たりをしに行った勘ちゃんが俺は眩しくなる。
そうなんだ。勇気があれば、五月を幸せにするのは俺なんだと言い切れる自信があれば、俺だってそうしている。
ふと手に違和感を覚え、下を向けばアレが俺の手を握っていた。雷蔵達と話していたアレは、急に来た勘ちゃんに圧倒されて俺の隣にやってきていた。
するりと俺と手を繋いで、歩こうと促す。
さっきまでは妹と繋いでいた手。
今は別の女の人と繋いでいる手。
こっちが、本当なんだ。こっちが、正しいんだ。
そうして妹も、綾部達といるほうが正しいんだ。
俺達は、間違ってるんだ。
見ていれば解る。同じ男だしそれに俺も五月が好きだから。綾部は五月の事が好きだ。そして多分、妹の秘密も知っている。
だからアレの言葉をあんなに嫌がったんだ。五月を傷つけたから。
「兵助君?早く行こう」
「……ああ」
アレは催促して手を引っ張る。
五月の温もりが上書きされてしまう。心が崩れる。
渡したくない、けど、普通に幸せになってほしい。その言葉がグルグル渦巻く。
俺、なんで妹を、五月を好きになってしまったんだろう。
他の、例えば今の恋人とかを好きになっていたら、そうしたら、こんなに苦しくもなかったし、失恋しても少し落ち込むくらいでよかったのに。
「…絶対、無理なのにな…」
「え?」
呟いた俺の言葉にアレが聞き返す。
一度でいいから、五月に好きって言って欲しかった。俺が抱き締めているその腕の中で、好きだよと言ってほしかった。叶っちゃいけないから、叶えちゃいけないから。だから、五月は一度だって俺に思いを告げることはなかった。態度で示していても、言葉にしなくちゃ本当の所は周囲の人間には解らないから。
けれど、そもそもが間違いの俺達。結ばれてはいけない関係。
「…なんでもない」
繋がれた手を振り払って、目の前にいる四人に体当たりをする。「うわぁ」と各々叫び、笑いあう。
勘ちゃんには一発殴られた。
「もー、いい加減にしてよ。ほら、彼女置いてけぼりじゃん」
「ああ、おーい、行くぞ」
大きな声で呼べば呆気に取られていたアレが動き出して、俺達は駅に向かった。
好きになってごめん。
叶えようとしてごめん。
思い出を増やしてごめん。
好きって言わせられなくて、ごめん。
「ねぇ、兵助」
「んー?」
このへんで最後にしなくちゃいけないのはわかっている。この気持ちに蓋をしなくちゃいけないのもわかっている。俺達は兄妹として、別々の道を歩まなくちゃいけないのも。
「もし、さあ。綾部が無理なら。俺がちゃんともらって幸せにするよ」
「え…」
「兵助の分も。ちゃんと」
これで、終わらせないといけないのも、わかっている。
「…いいよ。俺、もう少し踏ん張るから」
勘ちゃんの目が大きく丸くなる。
そうしてすぐに緩くなりガシガシと頭を強く撫ぜられた。
「よっし!その気持ちが強いんなら、応援しよっかな!」
【さようなら、はまだ言わせない。】
from hanako oku:「さよならの記憶」
了