犬の姫御前
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――・・**
ぱしゅ、と弦のいい音がした後すぐにダン、と威勢のいい音が響く。
濃い茶色の丸木弓を構え、今し方矢を放ち終えた彩登美がふう、と息を吐きながら弓を下ろした。
放たれた矢は、中心からやや左にずれてはいるが見事に的に命中している。
半歩後ろから「惜しい」と美しい声がした。
すぐにそれに反応して、彩登美は後ろを振り向く。
「
彩登美が嬉しそうに笑えば、籐先生と呼ばれた、黒髪を一本高結いにした妖怪が穏やかに笑顔を返した。
彩登美は11歳になって半年目に、万が一何かあった時のためにと、武芸を嗜む様にしづおから言われた。
渋るかと思った彩登美だったが、意外にも素直に、どちらかと言えば喜んでその提案を受けた。
薙刀と弓、小刀と刀を並べられた中で、好きなものを選べと盈月に言われた彩登美は、一先ず刀を握ってみた。
殺生丸が軽々と扱っていたから自分にもできると思っていたのだが、意外にも刀は重くとても片手では扱えそうになかった。
勿論、慣れて筋肉をつければ簡単に振るえるであろうが「何れ慣れる」という考えが出来なかった彩登美は早々に刀を諦めた。
次に薙刀を握ったが、先程よりは軽いがどうも長くて手に余る。試しに振り下ろしたが、自分が振り回されそうになった。
残るは弓と小刀だったが、盈月によって小刀は却下された。
相手との距離が短すぎては危険だと言われ、例えば人間相手ならまだしも、妖怪相手であれば小刀などで歯向かえば死も同然と言うのだ。
それならまだ生き延びる術のある弓にしろ、と結局最終的には母である盈月の采配により自分の武器が決まった。
そうして今で12歳。
半年とはいえ素質があったのか、それとも籐の教えがいいのか、彩登美の弓の腕は目に見えて上達していた。
「彩登美様は、弓返りの巻きが多いのです。狙いは悪くないのですが、回し過ぎている為に中心から逸れて左へ向くのです」
すたすたと灰鼠の胴着を着た籐が彩登美の横へ着き、弓を構えさせる。
言われた通りに構え直して矢を番える彩登美を見て、半歩離れた籐は「放ってください」と呟く。
その言葉の後、静かに呼吸をし、きりきりと弦を引く。引き絞った数舜後、パシュッと軽やかな音をさせて矢が放たれた。
籐が助言した箇所を確認しつつ、弓返りを意識していつもより半回転落とした。
タンッと気持ちのいい音をさせて矢が的の中心にあたる。
「わ、あ!籐先生!」
「ええ、いいですね。綺麗になりました。この調子でいけば、何れ天下無双の弓士になれるでしょう」
「ふふ、戦には出ませんよ」
可笑しそうに笑いながら、彩登美が弓弭を確認する。
ぎゅ、と触ったあと、弦環の状態も見たが、特に何もなっていなかった。
「…彩登美様。本日は彩登美様の成人の儀です。これで、彩登美様は大人の仲間入りでございます」
「人間では、なんでしょう?母様や、籐先生達妖怪の中ではまだまだひよっこでしょう」
「我等と年を比べるなど、それこそ土俵が違います」
呆れたように言う籐に、彩登美も小さく笑った。
「さて、彩登美様。本日はこれで稽古は仕舞です。もう弓掛も胸当ても取って、綺麗な御召し物に御着替えなさりませんと」
「籐先生、出られるのですか?」
「いいえ。私は師とはいえ部外者故、ご挨拶だけでお暇致します」
「そうですか…」
弓を立てかけ、弓掛や胸当ての紐を引っ張りながら訊ねた答えは、あまり彩登美的に嬉しいものではなかった。
堅苦しいことは嫌いで、自分的にはもっと緩い雰囲気で楽しみたかった、とぼんやりと思う。
「彩登美様」
「はい?」
「此方を、差し上げます。本日はおめでとうございます」
胴着だけになっていた彩登美は、籐から渡された大きな細長い物を受け取る。
梅紫色の布に、焦香の糸で刺繍が入った肌触りの滑らかな筒袋は、きっと絹で出来ているのだろう。
それだけでも高価なものだと解る代物で、彩登美は少しだけ持つのを躊躇った。
「これ」
「大人の仲間入り、ですので。まだまだ背丈は及ばないので扱えないとは思うのですが、持っていて損はないでしょう」
開けるよう促され、素直に紐を解けば中から未弭が覗いた。
ぱ、と顔が明るくなり、彩登美は急いで袋から弓を取り出す。
それは彩登美の身の丈程の大きな弓だった。
見た目は今使っている丸木弓のようだが、外側と内側に竹が巻き付けてある。
矢摺籐の所も少し盛り上がっていて、握りの部分には黒く鞣された鹿革が綺麗に巻かれている。
「わあ、大きい…!籐先生、これ、このような形の弓、初めて見ました」
「今思案中でしてね。彩登美様が悪しきモノと対峙した際を考えて、飛距離や強度などを如何に飛躍させるかを検討した結果、このような形状に。しかし扱い辛い分、慣れてしまえば威力は抜群です」
彩登美の為だけに生み出したのだと聞いた彩登美は、胸に温かいものが広がる。
感極まった彩登美は、ぱっと弓を片手に抱えて、そのまま籐に抱き着いた。
***
筆頭侍女が人間の貴族社会を確認し、成人の儀に必要なものを全て揃えたうえで、厳かに裳着は執り行われた。
終始殺生丸は面倒そうな顔をしていたが、盈月に笑われてからは真顔のまま大人しく東に座って彩登美の儀式を見ていた。
鉄漿や引眉に関しては、盈月の強い要望で執り行われなかったが、代わりに赤い紅を目元と唇にさした。
全てが人間界と同じ様に行われた後、あとは闘牙王の言の元、飲めや歌えやのただの酒宴に早変わりした。
「彩登美」
「母様」
ちょいちょいと手招きをしながら、盈月が遠くで狐妖怪に絡まれていた彩登美を呼びつける。
これ幸いと急いで裳を引き摺りながら盈月に駆けよれば、ぎゅうっと抱き締められる。
「わ、わ。母様?どうされたの?」
「大きくなったな彩登美。私は嬉しいぞ。ついこの前までは膝の上に乗って人形のようであったお前が、女になったのだ」
「ふふ。母様達が私を拾ってくれて、本当に嬉しいです」
もし母様でなければ私は死んでいたかもしれません、と彩登美が言えば、盈月の隣にいた侍女が感慨深げに頷いた。
「彩登美。大人になった彩登美に母と父上から贈り物だ」
抱き締めていた手を離して闘牙王に目配せをすると、闘牙王が掌を打ち鳴らす。
すると体は人で顔は犬の小妖怪が現れ、漆塗りの箱を彩登美の前に持ってきた。
「彩登美、開けてみよ」
盈月に促され、静かにその箱の前に座り直してそっと手を伸ばす。
つるりとした漆の箱の上部を両手で挟み、音も立てずに開けると、中には白銀の色をした髪飾りが入っていた。
「わあ…これ!」
すぐに上蓋を横に置いて、中に入っていた髪飾りを手にとる。
白銀の色をした、羽のような形の髪飾りはよく見た形だ。ぱ、と後ろを振り向けば、盈月が楽しそうに口元を緩めている。
「母様、これ、御揃い?」
「ああ。私と同じものだ」
羽の先には細かい櫛がついて、纏めた髪にそのまま挿して使えるものだ。
ありがとうと言いながら、それを片手に盈月に抱き着けば、盈月も嬉しそうに抱き締め返した。
「彩登美」
ささ、と小妖怪が空になった箱を持って道を開けると、闘牙王が彩登美達の前にしゃがんだ。
そうして、大きな掌を彩登美の頭にぽすりと優しく下ろす。
「父上様?」
「彩登美。これはただの髪飾りではない。人間であるお前を護るために、私と盈月の妖力を吹き込んで作らせたものだ。悪さを考える小妖怪であれば、まず彩登美に近寄りもできぬ。ある程度名の知れた妖怪であれば、賢い判断をしてくれるであろう」
「妖、力…。母様と、父上様の?」
「そうだ。私の預かり知らぬところで可愛い娘がどこぞの馬鹿な小妖怪に襲われては、私はどうすればいいのだ。八つ裂きにしてやるのは簡単だが、それでは腹の虫が治まらぬ」
「母様…割と怖いこと言ってるよ」
若干引きながらも、彩登美がしっかりと髪飾りを持ち直す。
妖力と言うのは彩登美には全く解らないが、父である闘牙王が言うのであれば、きっとこれは自分をしっかりと守ってくれるのだろう。
肌身離さず、持っていようと誓う。
「まあそうならぬように、殺生丸が守ってくれることを期待しているが」
ちらり、と闘牙王が見た先にいた、会話が聞こえていた殺生丸はふいと顔を逸らす。
先程まではじっと彩登美と彩登美の持つ髪飾りを見ていたのに。
「あはは…兄上様の御手を煩わせてはいけませんので、最近弓を習っております。なんとか、身一つは守れるように努力いたします」
公の場と言うこともあり、彩登美は畏まって言葉を紡ぐ。
いつもなら殺生丸君と言っていたのを、兄上様と言っているのは大きな成長だ、と周りの侍女や次官が嬉しい騒めきを起こした。
すると、静かに殺生丸が彩登美に歩み寄ると、そのまま視線を下げ、じっと見つめたかと思えば鼻で笑う。
好いた相手だと認識はしていても、やはり馬鹿にされたと思えば相手が誰であろうと腹が立った彩登美は、強い視線で殺生丸を見上げる。
「…なんでございましょう、兄上様」
「ふん。お前の弓では、蚤一匹も護れぬ」
「なっ…!」
「殺生丸!」
闘牙王に窘められ、殺生丸は踵を返して酒宴を後にした。
残された彩登美は、ムカムカとしながらも今日も結っていなかった殺生丸の後ろ髪に優しさを見て、何とも言えない感情に襲われる。
「すまぬな。どうも気が利かぬ」
「…兄上様が、お優しいのは存じておりますから、平気です」
「…そうか!」
彩登美が殺生丸を庇う様な言葉を口にすれば、闘牙王は嬉しそうに破顔した。
そうしていつの間にか闘牙王の肩にいた蚤妖怪の冥加が「儂はひい様に護られるのではなく、御護致しますのでご心配召されるな!」と叫んでいるのを見て、彩登美の座りの悪い感情が霧散していった。
(髪を触るのが好きだと言ったあれ以来、ずっと下ろしてくれているでしょう)