犬の姫御前
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――・・**
ここ最近、就寝時に目を瞑った時、彩登美の脳裏にはある風景が浮かぶ。
此処とは違う場所、車だけど此処の車とは違う車が走り、空に向かって伸びた建物。
ママと呼んでいた人、叔父さんと言っていた人、庭の白い犬、近くにある小さな家。
そうして、川。
彩登美はいつもその光景を思い出しては、パッと目を開く。
あれはなんだ、一体どこだ。
母は盈月一人だが、義母であるし妖怪なのだから勿論別の母親がいるのはわかっていた。しかし、顔なんて思い出せない。
あの白霞の風景の中にいるママという人の顔はいつも朧気で、何も思い出せない。
「彩登美ちゃんはいい子ね」そう言って頭を撫でる素振りをすると、そこでいつも川の場面に変わってしまう。
そうしてそれを見ると、彩登美の心に途轍もない寂寥感が襲う。
寂しい、会いたい、撫でて、抱き締めて。
その気持ちだけが浮かんで、消えて、雫が落ちる。
その夢を見ると暫くぼう、と布団の上で座り込んで、それから部屋の隅にある行李箱から幼い頃にねだった盈月の白藤色の肌着を引っ張り出して顔を埋める。
それで幾分か落ち着いてから、それに顔を埋めたまま漸く朝を迎えることができていた。
***
今朝も同じ朝を迎え、朝餉を終えて庭の隅に誂えてある池の畔でそこを泳ぐよくわからない魚妖怪を見つめていた。
手のひら位の大きさの魚妖怪は半透明で、陽の光が当たると背鰭が煌いて水の中で虹色に光る。
水の中のキラキラ。
既視感だ。
彩登美は何故だかソレに無性に触れたいと思いそこに手を伸ばしかけた時、後ろから殺生丸の声がその行動を留めた。
「何をしている」
「……殺生丸君。魚がね、綺麗だなって」
ゆっくりと後ろを向いて、殺生丸の綺麗な顔を見る。
久々に見たなぁと思う。
盈月によって最近は人里を観光している彩登美は、日課のようになっていた稽古終わりの殺生丸訪問が出来損ねていたのだ。
盈月が何を思って自分を人里に連れ出しているのかは、よく理解していた。
一年前、言われていた穢れが無事に来てから直ぐに盈月は彩登美を連れ出した。
しづおと筆頭侍女と、何処かの童を二人連れて、大名貴族の母と姫の市井散歩という名目で人里を回っていた。
人々の生活は楽しく、物を買うのも食べるのも、人と話をするのも楽しかった。
しかしそれをするようになってから、あの瞬間的な白霞の光景を見るようになっていたため、不安感は日に日に募っていった。
魚、と呟いてから殺生丸が彩登美の隣に佇む。
「うん。ほら。此処見て」
しゃがんだままの彩登美が、自分の影の中に入る魚を指さすと、殺生丸も座り込んで中を覗く。
さらり、と昔よりだいぶと伸びた銀の髪先が、風に乗って彩登美の左肩に触る。
自分の指先を見る殺生丸に少しだけ目線をやってから、彩登美は自分の左肩の着物の合わせ目に乗った殺生丸の髪先を見つめる。
綺麗な銀糸は、人々の中では見なかった。
盈月も銀糸だったため、人々からは奇異の目で見られたが「病気のせいで」と言えば「こんなに美人なのに可哀想になあ」と哀れみを受けた。
その光景を見て、なんだかとても居辛くなり心地も悪くなったのを覚えている。
母は病気でもないし、哀れみを受けるような人ではないのに、と憤りの感情を覚えたのも初めてだった。
するりとその銀糸を触り、髪先を摘まんで指でひねって遊ぶ。
絹のように柔らかで、美しい。
「…なんだ」
その行為に、やっと殺生丸から声がかかる。
魚を見ろと言ったのに、自分は何をしているのか。
熱心に髪先を見つめて弄られて、殺生丸はよく解らない顔をする。
「あ、ごめんね。殺生丸君の髪、綺麗だなぁと思って。伸びたね」
「…伸びるのは当たり前だろう。彩登美こそ、伸びたと思うが」
ぴく、と彩登美が反応して、思わず髪先を握りしめてしまう。
くん、と引っ張られて痛かったのか、殺生丸は少しだけ頭を揺らした。
「どうした」
彩登美は殺生丸からいつも「お前」と呼ばれていたため、初めて名前で呼ばれた感動が襲っていた。
しかし、ここでそれに対して過剰に反応すると拗ねて呼ばれなくなってしまう、と思った彩登美は静かに喜ぶことにした。
そういうやりとりを、彩登美は日頃殺生丸と母の盈月とで見ていたのだ。
「んーん。殺生丸君、今日は結ってないのね」
「…ふん」
髪先を触っていても何も言われないため、少しだけ調子に乗って指を進める。
さらさらと手触りのいい髪を撫で梳くようにすると、殺生丸はじっとその行為を見続け、しゃがむのを止めて地面の上に座り込んだ。
「楽しいのか」
「うん?…あ、いやだった?」
楽しいのか、と聞いているのに質問を質問で返した彩登美に、殺生丸は少しだけムッとする。
それを感じ取った彩登美は、苦笑をするとひとつ頷いた。
「楽しいよ。ていうより、気持ちいいから、かな」
「変な奴だ…」
彩登美は、そこでやっと地面に座った意味を理解した。
長く触れている自分を考えて、もう少し触り易い様にと座高を低くしてくれたのかと。
冷徹漢だと言われようとも、殺生丸はそれが解りにくいだけでとても優しい方だ。
あの両親の子なのだから、当たり前だろうとも。
「私ね、殺生丸君」
そこでなんとなく、彩登美は11年目の自分の心の成長を感じた。
きっと私は、この人が好きなのだろうなぁと思った。
こんなに綺麗で、鋭い目が自分だけを見て、射貫くわけではなく受け入れようとする姿勢で見つめられ、言葉を交わしてくれる。
そうして、武芸に励む姿は一心で綺麗で強く、解り辛いが心根は優しい。
惚れるなという方が無理なのでは、とも思う。
義兄妹で、種も違う。
自分の気持ちが叶うことは一生ないのだと、彩登美は少し辛くなるがそれも仕方がないと何とか割り切ろうと奥歯を噛み締めた。
「彩登美」
話しかけた割には中々話し出さない彩登美に痺れを切らしたのか、殺生丸が急かす様に名前を呟く。
余計に彩登美の心は膨らみ、また急速に萎んでいった。
「殺生丸君といるの、私、とっても楽しいの」
ずっと続くと嬉しいなぁ、と髪先から手を離して、やっと池の魚に視線をやって笑う彩登美。
その横顔が、何故かとても空々しく、殺生丸はどうも気が落ち着かなかった。
(笑う顔は好ましく思う)
(しかし、その笑顔は何となく、寒く思う)