犬の姫御前
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――・・**
西の離宮は日が昇ると同時に慌ただしくなった。
庭の手入れ、酒宴の用意、この宮で一番位の高い御方である盈月の着物の合わせ、若君である殺生丸の着物の合わせ、そうして新入りと言えば新入りであるが、侍女付となっている盈月の養子にして愛娘の彩登美の着物の合わせと忙しい。
その彩登美は目が覚めたら直ぐに、傍控えの侍女にちゃかちゃかと支度をさせられた。
まだ半分寝ていた彩登美は布団を剥がされ、汲んできていた井戸水を浸らせた手拭いで顔を拭かれ、手足を拭かれ、髪を拭かれ、と目まぐるしく朝が始まった。
「ひい様。本日は御館様…御尊父様がお見えになられます。御召し物は御母堂様からお伺いをしておりますので、此方になります」
「う、う…冷たい…うん…しづお、髪は母様何か言ってた?」
ぐいぐいと髪を丁寧かつ豪快に拭かれながら、背後にいる侍女のしづおに問えば、しづおは「いえ」と一言発する。
「じゃあ、今日も母様と一緒にして!」
「かしこまりました」
徐々に重くなっていく着物に、彩登美は段々と嫌気がさす。
「ひい様。もう暫しの我慢でございます。我らは妖怪故、人間貴族の習わしに乗っ取らなくても良いのですが、ひい様だけはせめてとの思し召しでございます。はい、この
しづおは淡々と着物を着せていき、最後の締めに汗衫帯をしゅるしゅると滑らかに巻き付けて引っ繰り返し、そのまま締め上げた。
「苦しくは御座いませぬか?」
「…うん。大丈夫よ。ありがとう、しづお」
「いいえ。さて、髪を結いましょう」
彩登美を鏡台に座らせたしづおは、先程濡らしてあった黒髪の水分を懐紙で吸い上げ、胸元から布で覆われた物を出す。
それはいつも彩登美の結い上げに使う道具一式で、しづおが彩登美の侍女になったと同時にしづおの定番道具となったものだった。
桐の櫛で粗方梳いた後、柘植に取り換えて器用に二つに分けると、その根元を龍の髭で縛る。あとは結った二つの髪先を整えるように櫛を通せば盈月と御揃いの髪型の完成だった。
「はい。終わりましたよ」
「わあ、ありがとう!かーわいー」
「それはよう御座いました。さ、早いですが
「うん。あ、母様と一緒に食べてもいい?」
「許可を御取致しますので、あっ!」
しづおが話し終える前に、彩登美はとたたっと勝手に廊下に出て走り去った。
残されたしづおは道具一式を片手に固まっていたが、暫くすると我に返り慌てて後を追いかけたのだった。
***
「ひ、ひい様っ!」
しづおがやっと彩登美に追いついた時は既に日が高くなっていた。
初めは普通に盈月の所に行ったのだと思いそのまま盈月の部屋へ慌てて駆け込んだのだが、そこには何事かと驚いた顔をした盈月付の筆頭侍女しかいなかった。
慌てて事の顛末を話せば、筆頭侍女は首を傾げて「御方様は朝から出られておる」と言うではないか。
これじゃあ彩登美がどこに行ったのか解らない、と思ったが自分が犬妖怪であることを思い出して、その鼻を使って辿ろうとした。
しかし数年でこの屋敷の者たちの事を理解していた彩登美のほうが一枚上手であった。
あちらこちらに彩登美の匂いが分散していてどれが本物かわからない。
一々部屋の隅やら襖の向こうや柱の奥や籠の中に彩登美の髪と爪が欠片ずつ入った袋が置いてあったのだ。
躍起になって探しているうちに、徐々に日が高くなっていたのにさえ気付かなかったしづおは、ここで最後と思い何も考えずに彩登美の匂いだけを頼りに豪華絢爛な襖をスパンと開けたのだった。
「見つけましたよひい様!…あっ、ひぃい!」
「わあ、しづお!見つかった!」
茶目っ気たっぷりに笑う彩登美は、盈月の横でけらけらと笑っていた。
そうしてその盈月の前には殺生丸が座っており、その上座には我が御館様である闘牙王が座っていたのだ。
即座に状況に気付いたしづおは、額を打ち付ける勢いで手を付け平服する。
「も、申し訳ございませぬ!!注意散漫になっていたとはいえっ、お、おお御館様方々の間に無遠慮に入室致しましたこと誠に、誠に申し訳ございませぬ!!」
がたがたと震えながらそのまま顔も上げられずに謝罪するしづおに、彩登美は怖くなる。
しづおは何がそんなに怖いのだろう、震える程なのだろうと考えるが皆目見当もつかなかった。
彩登美がこの間にいたのは随分と先の時間だった。
盈月の部屋へ向かって走っている途中に、義兄である殺生丸にばったりと出会った。
そのまま一緒に盈月の部屋へ行けば、筆頭侍女が柔らかな眼差しで二人を見た後に盈月は朝から出ていると教えてもらった。
彩登美は母に会えると思っていたために途端に悲しそうな顔をしたが、そこで珍しくも殺生丸が「行くぞ」と声を出して彩登美と共に盈月を探し始めたのだ。
初めはいつもの様に殺生丸の後ろを歩いていたが、いつもと違う正装に足元を取られた彩登美が顔面からこけた。
殺生丸が暫くそのままじっと泣くまいと耐えていた彩登美を見ていたが、おもむろに手を差し伸べた。
目の前に差し出された白く綺麗な手に驚いていたが、彩登美はすぐにパっと顔を明るくさせてその手に飛びつき、そのまま盈月に会うまで手を繋いで歩いていた。
盈月と会った途端にするりと解かれた手が少しだけ寂しかったが、彩登美はそれまで全部が楽しくて幸せだった。
御館様と呼ばれる自分の義父にあたる闘牙王との出会いも緊張はしたが、その綺麗な顔が盈月や殺生丸とよく似ていて微塵も怖さは感じず、しかもその顔が破顔して自分を抱き上げた瞬間には全てがまた幸せになったのだ。
そうして家族で談笑をしていたと言うのに、突然しづおが恐怖を引き連れてきたように思った彩登美は、しづおのその態度が何もかも怖かった。
普段大好きなしづおに恐怖を覚えてしまったことにも衝撃を受けた彩登美は、ぴしりと固まってしまったのだ。
それらに気付いたのは闘牙王だった。
すぐにパンと手を叩くと、低頭するしづおに頭を上げるよう指示を出す。
「しかしっ」
「良い。彩登美が怖がってしまっている。それとも、我等はあのような事で無礼なと斬りかかるような輩だと思われているのか」
「い、いいえ決してそのようなことは…!」
闘牙王の言葉に、益々縮こまってしまったしづお。
しかし、先程の言葉の声色から闘牙王が怒っていないということを感じ取ったのか、彩登美がてこてこと歩き出し、平服するしづおの前で立ち止まった。
自分の上の影に気付いたしづおが、少し顔を床から浮かせて、彩登美の表袴を確認する。
「…彩登美?」
盈月が何をしているのだといった風に問うが返事は返さず彩登美はしゃがんだ。と思えばしづおの頭を小さな手で撫でた。
びく、と肩を跳ねさせたしづおが、慌てて顔を上げると彩登美がにんまりと笑んでいる。
「……ひ、ひい様?」
「しづお。泣かないで。しづおはいい子ですからね、泣かなくてもよいのですよ」
「……ぁ」
慰めるように言う彩登美は、恐怖と驚きで半分変化が解けてしまっているしづおの犬の毛並みの顔をやわやわと撫でる。
その文言は、しづおがいつも彩登美を慰める言葉だった。
犬の顔になりかけているしづおの目は、涙で濡れてはいない。けれども、彩登美には泣いているように見えたのだろう。
小さな手で一生懸命に半化けの顔を撫で続ければ、しづおの顔がみるみる人の顔に化けていく。
「ひ、い様…っ」
「もう大丈夫?しづお、ふさふさだったねぇ」
なんだかもう、しづおは色々いっぱいだった。
けらけらと笑う彩登美の向こうで、闘牙王と盈月は満足そうに笑み、殺生丸は妙な顔でしづおを見ている。
すがるように盈月をちらりと見れば「下がれ」と口をパクパクとさせている。
それに気付いたしづおが、もう一度頭を下げて「処々の言動、誠に失礼いたしました」と呟いてから、静かに部屋を去った。
「母様」
「ん?なんだ」
「しづお、可愛いね」
しづおが去ったのと同じく、盈月の隣に戻った彩登美は満足そうに笑って盈月に話しかける。
「しづおが可愛い?」
「彩登美は、あの者の変化は初めて見るのか?」
「はい!みんなが犬妖怪なのは知ってましたけど、変化するのを見るのは初めてです!」
「そうか。あれを可愛いと思うか」
眩しそうに彩登美を見る闘牙王に、盈月は笑いを堪えるのに必死だ。
「はい!とっても!ずっと前に、殺生丸君が…っ…何でもないです…」
話を続けようとしていた彩登美は、正面の殺生丸からの視線に気づいて押し黙った。
「うん、仲が良いようで安心だ。彩登美」
「ぁ…はい」
「これからも、殺生丸を宜しく頼むぞ」
「…はい!!」
元気よく返事をした彩登美に、今度こそ我慢の限界だったのか、闘牙王が前に何も並んでいないのをいいことに勢いをつけてそのまま彩登美を抱きかかえて転がった。
盈月も盈月で押し殺せなかった笑いを噴出して、部屋の中は一気に喧噪に溢れることとなった。
(可愛いなぁ本当に!清廉な心根の人間の、本当に可愛いこと!)
(そうだろう。特に彩登美の可愛さは一等だ)
(……)