犬の姫御前
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
――・・**
「殺生丸君?」
厳かな剣道場に、彩登美の声が響く。
おや、と思ったのは殺生丸に指南をしていた
人間の少女が、大口を開けている扉の端から半身を見せて、こちらを恐る恐る伺う様に見ている。
黒漆翁はにまりと笑んで、こいこいと手招きをした。
彩登美はゆっくりと足を動かして、なるべく音を立てぬように歩いたが、既に奥で剣筋を確かめていた殺生丸は気が削がれて、試作刀を下ろしていた。
「よお来なすったなお
ひひ、と笑いながら黒漆翁は、隣にちょこりと座った彩登美の頭をぼすぼすと叩く。
「御免なさい。邪魔して…あのね、今日は殺生丸君にきちんと用事があったの」
いつもは用事などなくても顔を出し、殺生丸の姿を見て後をついて歩くのだ。
それは彩登美なりに、仲良くしようという心がけだった。
初対面が酷い記憶だが、例え養子でも同じ母を持つ者同士。なんとか仲良くなりたかったのと、同じ年頃の者と話したかったのもある。
彩登美は殺生丸が、実際自分よりもウン十年も年上だということをまだ知らない。
殺生丸はいつも彩登美が来れば剣術も体術稽古も止めてしまい、すたすたとその場を後にするが彩登美もその殺生丸の後を負けじと追い掛ける。
盈月はそれを見ているのが面白くて仕方がなかった。
本当に嫌ならば殺せばよいし、そうまでせずともさっさと変化でもして天に逃げればよいのにそれをしないというのは、どういった心境なのかとニマニマ笑いながら茶を啜るのが日課だった。
しかし今日は彩登美が用事、と言ったためか、珍しく殺生丸が彩登美と黒漆翁の元へ歩み寄ってきた。
「…」
じっと座る彩登美を、何の感情も映していないような金の瞳で見下げる殺生丸。
暗に、早く内容を言えと言っているのだが彩登美にはそれがまだわからない。
黒漆翁はふうと息を吐いて、彩登美に促した。
「どちらからの御用事かいな。お姫さんか?それとも御母堂様か?」
「あ、えっと。
じっと殺生丸の瞳を見ていた彩登美が、ハと我に返って返事を返せば、殺生丸の眉が少しだけ中心に寄った。
「どんな用事だ」
「えっとね。明日、父上様が来るから、殺生丸君も母様のお部屋に来なさいって」
「…父上が…?」
また下らぬ用事だろうと思っていたら、予想外にきちんとした用事で、思わず殺生丸の顔が幼くなる。
彩登美も彩登美で、父上様と言っても自分はまだ会ったこともなく、割と胸中でドキドキしていた。
そんな二人を見て、黒漆翁がまた引き攣ったような笑いかたをする。
「では明日は稽古なしじゃな。久々の御館様だろ。めいっぱい甘えてきな」
「黒漆さん、私まだ父上様には会ったことないのよ」
「なんじゃそうだったか。そんならお姫さんは初めましてだ。なぁに、怖い妖怪でもない。人間には特に優しい妖怪だで、気にせずいつも通りでおるとええわ」
「そ、そっか…」
黒漆翁に言われたことで少し落ち着いたのか、肩を自然と落とした彩登美を見て、殺生丸もなんとなく胸の何かが解けた。
相も変わらず、興味深げに自分を見てくる黒い眼の彩登美を妹とは未だに思えないし、思いたくもない。
周囲が彩登美を「姫」と呼ぶのも、建前上であったと思っていたが、どうも最近はそうでもないらしく、なんとなく殺生丸は居心地の悪さを覚えていた。
これは人間で自分と同じ血を分けた者ではなく、けれど悪意もなく、そこいらの人間と心根が違うことはもう解っていた。
それでも、なんとなくまだ殺生丸は心を許すことが出来なかった。別に彩登美に母の愛情が向けられているからではない。
本当に、最初に突き放したところからきっかけも何もかもが掴めないままなのだ。
殺生丸が顔を上げて天井を見ると、木目が遠い。
サラサラと肩上まで伸びた髪が後ろへ流れた。
「…殺生丸君?」
今日で何度目だろうか、彩登美は立ち尽くしたままの殺生丸に呼びかける。
天井を見上げていた顔がゆっくりと戻り、彩登美にその眼差しが向けられた。
「どうしたの?何かあったの?」
「……何でもない。兎に角、明日一番に向かう。伝えておけ」
「あ、うん!わかった」
殺生丸が素直に話してくれたことに嬉しくなり、彩登美はパアっと笑顔になる。
黒漆翁は横でやり取りを見て満足そうに頷くと、パンと皺がれた手を打ち鳴らす。
急な音に、二人ともが肩を揺らす。
「おし、御二方共驚いたな。若君よ。今日はこれで終わりだ。お姫さん、若君についてくんかい?」
「うん。黒漆さん、またね」
終わりだと告げられてから早々に殺生丸がこの場を後にしようとするのを見て、彩登美も慌てて立ち上がる。
重い着物を引っ張り上げて挨拶もそこそこに殺生丸の後ろに駆け寄った。
「お姫さん、転ぶなよ」
「うん!じゃあね!」
黒漆翁は満足そうに目を細め、長い年月で伸びた髭を撫でつつ二人の幼子の背中を見送ると、徐々に体は透け、カランと音を立てて一本の刀に戻った。
(丸くなったよな。お姫さんを待ってやっておるわ)