犬の姫御前
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彩登美が犬の妖怪である盈月に拾われてから随分と月日が経った。
初めは訝しんでいた邸内の警護の者達も、彩登美一人を見ても頭を下げるようになっていた。
それこそ来たばかりの頃は盈月と一緒にいなければ「飼われ子か」くらいの扱いで相手にされるどころか存在すら殆ど無視のような状況だった。
しかし邸にいるのは元々盈月自らが選んだ者達であり、みな常識と言うものを備えている。
彩登美の屈託ない笑顔と、まだ幼い故に怖いもの知らずで話し掛けてくる彩登美に、無碍にするのもという心情が働いたのか、皆一様に彩登美という存在を個人として見るようになり、そうして盈月の一等可愛がる養子であるということを認識していった。
「これ、ひい様。そこは三番目の…其処です。其処を弾くのです」
「んー…」
室内の中では、台座に乗せてある
この屋敷に来た時から数えで、今年、七つになった。
五つまでは盈月によって甘やかされて育ったが、六つになった折に、侍女から提言があったのだ。
人間の娘は年頃になれば漢学や雅楽を学んでいると。
妖怪の養子だからと言って、妖怪にさせるつもりなど毛頭なかった盈月は、その言葉に是としたのだ。
結果、去年から彩登美は様々な事を学んだ。
「ねえ、
須磨、と呼ばれた綺麗な女は、彩登美の言葉に困った様に笑って、彩登美の前にあった箜篌に指先を当てると水面を弾くかのように軽く叩いた。
途端に箜篌は綺麗に消え、代わりに桐で出来た六尺ほどある美しい木目の箏が一面現れた。
ぱ、と彩登美の顔が華やぐ。
「わあ、ありがとう須磨!」
「はあ…。あまり甘やかすなと筆頭侍女殿に言われているのですが…」
この笑顔には変えられぬよな、と須磨は苦笑いを零す。
須磨は遠い北国の妖怪で、彩登美の雅楽の師であった。
盈月は彩登美を学ばせるためにと、その専門分野の妖怪をあたり、わざわざ各地から呼び寄せていたのだ。
妖怪からすれば千里もなんのそので距離はどうとも思わない上、大妖怪の奥方に目をかけられるとあって利害の一致で喜んで要件を呑んだ。
しかしそんな打算的な考えも最初の内だけで、彩登美に教えていくうちにその純粋な心と向上心、必死に覚えようとするさまにどんどん教える側も火がつき、果てには結果利害などどうでもよくなり「この子にもっと教えたい」と思うようになったというのは盈月も知らない話だった。
「須磨、須磨。今日は何を弾く?」
「ふふ。箜篌の時とは大違いですね。本日は青海波に致しましょう」
「紅葉賀ね。私あの帖好きよ」
「ひい様は桐壺や藤壺、夕顔など、どうも幸薄い女子がお好きですね」
彩登美は揚々と柱を動かして、糸を確かめながらいつの間につけたのか、白く四角い爪で弾いて調弦をしていく。
「うん。あんなに愛されているのに、重圧に負けて早世してしまうのよ」
「…早世するから、お好きなのですか?」
「んーん。違うの。早世するけれど、彼女たちは彼女たちなりに頑張って周囲と戦っていたじゃない。かっこいいなぁって。一人の人に深く愛されて、戦って、亡くなってしまうけれど、精一杯生きている感じじゃない」
私もあんなふうになれたらなあ、だって私は母様達とは違うもの。
そう言ってからとても大きな音を鳴らした彩登美に、須磨はハっとする。
気にも留めず忘れかけていたが、彩登美は人間であり、元々が短命。
自分達と同じ時間軸では生きていけない者だった。
須磨はゆっくりと瞬きをして、どうとも出来ない運命に憤る心を抑える。
「さ、須磨先生。教えて下さいな」
「ええ、ええ…只今」
彩登美に急かされた須磨は、自分の右手の指の腹から硬化させた薄い骨を突き出し、自分の前にあった箜篌を一面の桐箏に変えてポロン、と糸を弾いた。
***
「御方様?」
「いや…
隣室で密かに彩登美達の会話を聞いていた盈月に、筆頭侍女は首を傾げる。
壁に凭れていつも通りだらりと座っていた盈月は、頭の中で彩登美の言葉を繰り返す。
そうだ、可愛い愛娘は私達とは種が違う。
解ってはいるのだが、いざ彩登美の口からその言葉が出るとどうも胸の底が歯痒い。
感情が複雑で、結果ついて出た言葉は「愛い」だった。
「彩登美様が、でしょうか」
「それ以外いるものか。健気な人間よな。産みの母から離れたばかりの時とは変わったものよ」
「御方様の御蔭に御座いましょう」
何ともなしに言った言葉に、盈月は眉を
筆頭侍女は笑い、目を閉じる。その様子は隣の彩登美の声を聴いているようだ。
「御方様が愛情深く御育てあそばされたのですから、彩登美様も必死に御答えになっているのですよ」
「……殺生丸とは幾分と違うようよな」
「ええ、若君様は題目様。皆々が傅くのは当たり前でしょう。しかし彩登美様は違います。人間の娘でしたので、何もかもが違いますから彩登美様も必死になって答えてくださるのです」
そうか、と盈月も同じく瞼を閉じる。
弾むような彩登美の声と、綺麗な音色、時折聞こえる擦爪による絹糸の音。
全てが優しく聞こえるのは、彩登美のおかげなのであろうなぁ、と盈月はやんわり笑んだ。
(我ながら良い拾いものだった)