犬の姫御前
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――・・**
彩登美は夜中ふと目が覚めた。
りぃりぃと何かの虫の音色が辺りに響くだけの月夜の静寂で、彩登美はごそりと身動ぎをして起き上がる。
獣避けにと焚いていた焚火は消え、炭となった木々が煙も上げず静まり返っている。
かけてあった打掛をりんにかけるとその壁となっている阿吽の背を優しく撫でる。
阿吽は小さく喉を鳴らした。
阿吽の向こう側で、邪見が背中を木に預けて人頭杖を抱きかかえたまま眠りこけている。
静かに、起こさない様に彩登美はその場に立ち上がり、阿吽の鞍に括りつけてある筒袋から長弓を取り出す。
月の光を反射して綺麗に弓先が光って見えるその長弓は、かつて彩登美が弓の師であった籐から貰ったものだった。
一度殺生丸が離れた折、帰ってきた殺生丸が新しい着物とその筒袋を持ち帰って来た。
興味津々で見るりんと邪見を尻目に、懐かしい筒袋を見た彩登美は物凄く感激し、その感情のままに殺生丸に抱き着いて感謝を述べるということをしたが、殺生丸は特に動じることなくお礼を連呼する彩登美に「構わん」と呟いただけであった。
喉を鳴らす阿吽の両方の頭を撫でて、彩登美は弓を持って立ち上がる。
「阿吽、起こしちゃだめよ」
しー、と人差し指を立てて笑った彩登美に、阿吽は大人しく従う。
二つの首が地面にさがって折れ、四つの目に瞼が降りるのを確認した彩登美は、そのまま静かにその場を後にした。
虫の声や遠くで聞こえる遠吠えを聞きながら、彩登美はりん達から少し離れた川縁に辿り着いた。
コポコポと水の音が静かに響く空間には、妖怪も人も誰もいない。
天には大きな月があり、それは少し傾いている。凡そ人が出歩く時間ではないのだろう、ということしか解らなかったが、彩登美はこちらに時間の概念がないことを思い出した。
「向こうで言ったら、今は大体何時かな…深夜の二時?三時かな…」
弓を握り締め、肩にかけた矢筒をおろすと川のすぐそばでしゃがむ。
水面は流れが遅く、底が見えるほど透き通っている。
草の上に腰を下ろして草履を脱ぎ、裾を膝上までたくし上げると、彩登美はその清廉な水の中へ両足を沈めた。
冷たい水が歩き詰めの足に絡み、彩登美はほっと一息つく。
帰りたいと思っていた時代ではなかったが、念願の人達にはちゃんと会えた。
闘牙王は残念だったが、新しい家族にも出会えた。
邸で楽しく暮らしていたのも良かったが、今のこの生活もすべてが新鮮で、彩登美は飽きることはなく、これはこれでと楽しく過ごしている。
しかし旅には危険もつきものであり、現代や邸で暮らしていた時と違い戦うという手段を取らなければいけないこともある。
基本的には殺生丸一人で終わらせてしまうのだが、たまたまいない場合や、敵に囲まれたときなどは邪見は勿論、阿吽や弓を扱える彩登美もその頭数に入る。
彩登美に関しては自分は加護を受けている身であるためある程度は退けられるが、りんはそうもいかない。
そのためりんの守護が今の彩登美の一番重要事項となっていた。
「りんちゃんのためにも、私ももっと頑張らないとなあ…」
矢筒から一本、矢を取り出して暫く眺め、膝に置いてあった弓に番えてキリキリと引く。
撃つつもりはなく本当に形だけで弦を引いた。
「何をしている」
「きゃあ!?」
急に背後からかけられた声に、彩登美は酷く驚いた。
ビン、という情けない音と共に、矢がへろりと川へ落ちる。
バクバクと煩い心臓を抑えながら彩登美が後ろを振り向けば、そこには涼しい顔をした殺生丸が立っている。
「…も、もう、驚いたでしょう。足音とかさせてよ…」
文句を言いながら川底に落ちた矢を拾い、矢羽についた水分を逃すために地面に置く。
殺生丸はその行動が終わるのを見てから、静かに彩登美の横に腰を下ろした。
「随分と足を出しているのだな」
「え?あっ、ごめんなさい」
行く先々の村の人達は割と動き易い様にか着物を緩く着ていたたため、彩登美は肌を出すことをなんとも思わなくなっていた。
実際現代にいたときもミニスカートを履いている女性がいたため、彩登美も自然と膝丈ではあったがスカートを履いていたのだ。
邸にいた時と価値観が変わってしまっていた彩登美は今、殺生丸に指摘されて初めて古風な羞恥を思い出した。
そそくさと水から足を出し、下履きと着物をさっと直す。拭くものがなくて濡れたままの足首は少しひんやりとしているが、別段気持ち悪さはなく、彩登美は草の上に横座りの形を取った。
「弓の練習と言う訳でもなさそうだが」
彩登美の身支度を待ち、殺生丸は静かに言葉を紡ぐ。
昼間はあまり話せない為、久々に殺生丸とゆっくり会話することができた彩登美は、自然と笑顔が溢れる。
「矢羽が付いたものは貴重だから、あまり容易く練習なんてできないよ。それに、今は胸当てもしてないから…」
殺生丸がこの弓を持って来てくれた時、彩登美は頭を下げて胸当てと弓掛など一式を強請った。
胸当ては勿論胸部を保護するものとして、弓掛は現代にいた時に使用してからというもの、指を護るために必要だと考えてのおねだりだった。
殺生丸はその一式に不思議に思いながらも彩登美のためにそれらを誂えた。
弓掛は鹿の皮を鞣して作るのだと教えられた殺生丸は、そも専門である上に彩登美の師でもあった籐の元へ赴いて伝え揃えたということを彩登美は知らない。
「最近は歩くことも慣れたか」
「うん。長時間歩くのも、走るのも、動く標的に矢を当てるのも、自給自足するのも、慣れちゃったな。慣れれば楽しいものだね」
ふわりと笑う彩登美の顔は、本当に嬉しそうなものだ。
殺生丸は面食らった。初めに連れていくとき、旅に慣れない彩登美は音を上げるのではないかと思っていたのだ。
それなのにこの不安定な旅が楽しいと言っているではないか。
殺生丸はフ、と口角を上げて小さく笑う。
しかし口角は次の彩登美の言葉で下がり、不機嫌になる。
「でもねえ、悪い妖怪や人間はまだしも、弟に手を上げるのはやっぱりいただけないかなあ…犬夜叉君は、私の弟でもあるのでしょう?義理だけど…。殺生丸君、私と犬夜叉君の扱いに凄く差があると思うの。殺生丸君は私には手を上げないし、昔手を払われたくらいで言い合うような喧嘩もしなかったから、どうしてだろうって」
彩登美は淡々と、昔話をするような顔で殺生丸に訴える。
殺生丸は沸々と色々な感情が浮かび上がり、そうして等々思っていたことを口に出した。
「…お前を、妹と思ったことはない。これからも、妹ではない」
その言葉は彩登美に冷や水を被せた。
急速に彩登美の顔色が白くなり、表情を落としていく。
「…な、にそれ」
殺生丸の言葉は、今までの彩登美を否定する言葉に聞こえた。
唇がわなわなと震え、彩登美の眉が強く眉間による。
「どういう、ことなの。それって、私の事をずっと、そう思って接していたの」
震えていたのは、唇だけではなかった。
膝の上に乗せる弓の握を痛いくらい握り、フルフルと弓が震えている。
彩登美の頭の中には今までの映像が流れて消え、こけた自分へ手を差し伸べてくれた幼い時の殺生丸の映像で止まった。
勿論、彩登美も心の底から殺生丸の事を兄だとは思っていない。
兄だと思えばこの恋心はどう消化すればいいのか、行き場がなくなってしまう。
けれど殺生丸の気持ちが解らない今、恋心をぶつけて関係が崩れるのであれば、血は繋がっていないにせよ家族と言う関係を大事にしたいと思っていた彩登美にとって、殺生丸の言葉は斬り捨てられたも同然の言葉だった。
「彩登美」
殺生丸の口が、彩登美の名前を呼ぶ。
大きな衝撃で気が動転したのか、彩登美は震える手を殺生丸に伸ばし、その肩口に縋りついた。
額を殺生丸の右肩に押し当て、手は袖を力なく握る。
膝の上にあった弓が、カランと音を立てて地面に滑り落ちる。
「…ふ、う…っ」
彩登美の視界はぼやけ、次第にそれは溢れてポタポタと殺生丸の袖を濡らす。
何も言わず、泣き続ける彩登美に殺生丸は動かない。
「わからない…!私、殺生丸君が解らない…妹じゃないなら、私っ…私は、なんなの…っ」
せめて、妹と言う繋がりがあれば、私は貴方の傍にいられたのに。
彩登美が震えながら嗚咽を交えてたどたどしく言えば、ピクリと殺生丸の右手が動いた。
それを感じ取った彩登美は名残惜し気に額を肩から外す。
しかしその顔は未だに地面を向いたままだ。
「お前は、私の傍にいたいのか」
殺生丸の言葉は、優しく彩登美の中へ沈む。
震える手で握っていた袖を、彩登美はするりと滑らせるように離した。
そうして、小さく頭を動かす。こくりこくりと何度も頷く彩登美に、殺生丸は言いしれない気持ちが腹の底から湧くのを感じた。
殺生丸は白魚のような綺麗な右手を、彩登美の頭に乗せてそのまま滑らせ左耳をなぞる。
「せ、しょうまる…君?」
やっと彩登美が顔を上げる。
目尻と鼻の頭は朱に染まり、睫毛には雫が絡まっている。
幼い時から知っているのに、どうしてだか自分だけが老いた気分を味わった殺生丸は、左耳からさらに下へ手を滑らせ、彩登美の輪郭に添える。
「傍にいれば良い。なぜそれが妹でなければいけないのだ」
「…え…」
殺生丸は輪郭に手を添えた儘、彩登美に涼やかな目を向ける。
その目は昔に湖畔で見たあの眼差しと同じで、彩登美は胸が苦しくなる。
彩登美は意を決したように唇を巻き込んで、息を吸って殺生丸を見つめた。
「殺生丸君…ねえ、殺生丸君、私、はしたない事を言います。ねえ、いいでしょうか。きっと関係が崩れるかもしれない。けれど言わせてほしいの。後悔をしたくないから、もう苦しいから…傍にいさせてほしいから」
ポロポロ涙を落としながら、彩登美は縋る様に殺生丸の手の上に自分の手を重ねた。
「あのね、私、殺生丸君の事が好き。愛しいの。ねえ、私、殺生丸君をお慕いしてます。妹でなく、好いた相手として…お傍にいさせてください」
彩登美が熱っぽい声で伝えたその後、殺生丸は静かに綺麗に笑った。
(その笑顔は、父上にそっくりですね)